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王家
穢れを持った王太子
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「殿下の抱えられる"穢れ"を浄化する為に向かわれる地はウィンドルフ領に決定致しました」
書類を手にした宰相に淡々と報告されても、リヒトには何の感慨も湧かなかった。ふうん、と了承の意を短く伝えれば、もっと別の反応が欲しかったのか、事務的に伝えただけの宰相は眉を寄せる。
「それだけでございますか」
「他に何を僕に言えと? ウィンドルフ領には行きたくない、他の領地が良いと言ったところで決定は覆らないのだろうし」
「たとえば、ウィンドルフ領に関する質問だとかございますでしょう」
「宰相殿が手にされているその書類に目を通せば分かるだろうから、僕からの質問も特にないよ」
リヒトの反応は大人びていると言えば聞こえが良い。
だが、まだ十歳の身であると思えば、いずれ王太子を経て国王になる身とは言え些か年相応の子供っぽさに欠ける。
どちらが本当にリヒトの為になるのか未だ判断がつけられず、宰相は手に持つ数枚の紙をリヒトに差し出した。
「ありがとう」
「殿下……現状を受け入れることと諦めることは似て非なるものかと私は存じます」
「僕が諦めている、と?」
紙を受け取り、リヒトは早速、内容へと視線を落とす。
まだ十歳であることを鑑みられてはいるのか、書かれている情報自体はそんなに多くはない。
ウィンドルフ領の位置、気候や風土、ウィンドルフ侯爵家の家族構成などだ。
これらを質問していたら宰相から一体どのような返事があったのか。それは少しだけ気になったが家庭教師の授業とさほど変わりはないような気もした。
「失礼ながら私の目にはそう見える時もございます」
「諦めさせたのは大人たちだとは思わないんだ?」
「その自覚が多少なりともあるからこそ、かもしれません」
「ふうん」
リヒトが何の感慨もなく答えて書類をテーブルの上に置けば、宰相こそが諦めの顔で「――それでは、私はこれで」と頭を下げて部屋を出て行った。
一人になれば自然と溜め息がこぼれる。
ソファーの肘置きに頭を乗せて寝転がった。
頭の下で指を組み、高い天井いっぱいに微細な筆致で描き込まれた連作の絵画を無言で眺める。
(僕だって、好きで王家に産まれたわけじゃない)
だが穢れを持つリヒトはいずれ国王となる存在だという。
穢れなどと、不穏な言葉で呼ばれる要素を秘めているにも拘わらず、だ。――否、穢れを持つから国王の資格があるのだと周りの大人たちは誰しもが言った。全く分からない理論だが、この国の王家に限ってはそういうものらしい。
成長し、王太子になれば彼らのいうことを理解できる日が来るのだろうか。仮に王になったとして、そんな日が来るとはとても思えないが。
考えるのにも飽きて目を閉じる。
こうした行動が諦めだというのならそうなのかもしれない。
漠然と、そう思った。
ウィンドルフ領は嵐が多い時期だと書類には記されていたが、一日中嵐に見舞われているわけでもないらしい。さすがに昼間は晴れている日もそれなりにあり、リヒトの移動も晴れが予測される日に行われた。
ただし領地へと足を踏み入れれば、かすかに魔力を帯びた風が馬車を叩き壊さん勢いで吹いている。少なくとも王都ではこのような風は吹かず、風の精霊の力が強い領土であることは確かなようだ。
雨風で崩れることのないよう、飾りけのない実直な屋敷に到着すれば、人の良さげな侯爵夫妻が出迎えてくれた。
夫人の斜め後ろにはリヒトと同年代と思しき少女が不安そうに立っている。
淡い青の光を纏った白銀の髪と、上質なエメラルドさながらに深く澄んだ緑の瞳。青は水の精霊、緑は風の精霊を象徴すると言われる色だ。二精霊の恩恵を受ける領主の娘らしい取り合わせだと思った。
「は、初めまして。わたくしはアリーシェリナ・ウィンドルフと申します」
ウィンドルフ侯爵の娘だと紹介された少女は、きめ細やかな白い頬を恥じらいで赤く染めながらも精一杯気取った仕草で淑女の礼をした。
「わたくしも未熟ながらできる限りのおもてなしを致しますから、どうぞごゆっくりなさって下さいませ」
「僕にゆっくりくつろいで過ごして欲しいと思うなら、そんな気取った言葉じゃなくて普段の君の様子で接して欲しい」
王城を離れてもなお、王族扱いされるのか。
思わず不満が口をついていた。
アリーシェリナだけでなくウィンドルフ侯爵夫妻も驚きに目を見開いている。だがアリーシェリナも畏まった言動は得意ではないらしい。すぐに年齢相応に柔らかく微笑んだ。
「それなら、あの……私と仲良くしてね」
「うん」
初めて他人から向けられた屈託のない笑みに、心がざわめく。
大人はもちろん、その子供たちですらリヒトに取り入ろうと必死だった。王城では、王太子に対してはそういうものだと思っていた。
リヒトの機嫌を損ねたら不利益を被る。
だからリヒトが何を言おうが絶対視され、同年代の子供たちにありのまま接して欲しいと言えば皆がこぞって倣っただろう。だからこそリヒトも不用意なことは言わなかった。"特別"を作りたくはなかったから。
重たげな黒いものが揺らぎ、会ったばかりのアリーシェリナを絡め取ろうとその身をゆっくりと伸ばす。醜い触手に似たそれこそが"穢れ"の正体なのだと本能的に悟った。
(初対面の相手に、何を……)
必死に手を強く握り込んで堪える。
知られたら怖がらせてしまう。嫌われてしまう。
王として国を統べる為の強大な魔力故に生じる歪み、穢れとはいわゆる執着だと宰相に聞いた。建国時に時の王が精霊の加護を得る為に、精霊の偉大さを決して忘れぬ為に支払った代償だ。
その結果、歴代の王は執着を抱くものを手中に留めておく為に国を治め、故に過分な執着は国を滅ぼしかねないものとして忌避される。
それを彼女に感じたというのか。
いや、そうと結論づけるにはさすがにまだ早すぎるだろう。言葉は悪いが品定めをしただけの可能性もある。
「しばらくの間よろしく、アリーシェリナ嬢」
誰に対してもそうするように作り笑いを浮かべると何故か心が軋んだ。
リヒトは穢れを浄化する為にウィンドルフへやって来た。
しかし具体的に何をどうするわけでもなく、朝食後にウィンドルフ侯爵に付き添われて二精霊を祀った礼拝所で祈りを捧げれば後は基本的に自由な時間が確保されている。
その為、時間が空けばアリーシェリナの元を訪れた。彼女は自室でのんびり過ごしているか図書室で本を読んでいることが多く、リヒトが来ても嫌な顔一つしない。それどころか嬉しそうに笑みを浮かべる。
一人で退屈なのか、リヒトを好ましく思ってくれているのか。今はまだ異性とは言え、初めて同年代の友人ができた喜びだと明確に伝わるのが面白くない。
アリーシェリナは毎日、屋敷のあちこちを案内してくれた。
図書室に、侯爵たち大人がビリヤードやダーツを楽しむ遊戯室、夕焼けに染まる領地を見渡せるバルコニー。今日は温室へ行く為に、背の低い垣根の連なる庭を二人で歩いている。
「普通のお花は嵐で吹き飛ばされてしまうから、観賞用のお花は温室で育てているの」
そう言って先を歩くアリーシェリナは温室のドアを重たげに開いた。途中から手伝ってやると嬉しそうに表情を綻ばせ、こっちよ、と妖精が舞い誘うような軽やかな動きで中へと入って行く。
「アリィ、手を繋ごう」
「う、うん」
「ではお手をどうぞ、可愛いレディ」
アリーシェリナは小さな手をリヒトの差し出す手におずおずと重ねた。優しく握りしめれば躊躇いがちに握り返してくれる。
「王城の広いお庭にはお花がたくさん咲いているって本で見たわ。きっと、とても綺麗な風景なのね」
「うん、でも……アリィと見るこの温室の景色の方が綺麗だと思う」
「ありがとう」
はにかみながら礼を言うアリーシェリナは、単なる社交辞令だと思っているようだ。
でもそうじゃない。
リヒトは王城の庭を毎日見てはいるが、そこにどんな花が咲いていたかなんて何も覚えてない。色すらもぼやけた記憶しかなかった。
それがアリーシェリナがいるだけで、温室の花だけでなく目に映るもの全てが色彩に溢れている。
何よりもアリーシェリナ自身が眩い光に包まれていた。
淡い青を纏って艶めく白銀の髪や、曇りなく澄み切ったエメラルドのような瞳、甘やかな桃色の唇。真っ白な肌の彩りは決して派手なものではないが、彼女の笑顔そのままに柔らかくて美しい。
一方で、リヒトの中では醜い"穢れ"が浄化されることなく育って行く。
富や名声、権力に向ける者もいれば、特定の人物に向ける者もいる。現国王である父は数少ない後者だという。そしてリヒトもおそらくはそうだ。
リヒトは日毎、アリーシェリナに夢中になって行く。
この子が欲しい。他には何もいらない。
(僕の"穢れ"が浄化されるまで一緒に過ごせる。それなら――このまま浄化されずにいたら?)
嵐に怯えるアリーシェリナと一緒に眠る為に、王族であることを利用する。
今まであれほど王族と、それに連なる自らを嫌悪していた癖に、いざ欲しいものができればその力を与えられたものとして当然のように揮う。
身勝手な感情に呆れながらも、他に手段がないのだから仕方ない。アリーシェリナを手に入れられない綺麗ごとなら、いくら並べたって意味はないのだ。
アリーシェリナは同じベッドで眠るのは家族だけだと言った。そしてリヒトと家族に、お嫁さんになってもいいと言ってくれた。子供の戯言だと甘く見ており、余計な王家の軋轢を望まぬウィンドルフ侯爵の同意も得た以上、アリーシェリナはもう永遠にリヒトだけのものだ。
腕の中から伝わる温もりと鼓動が何よりも満たし、癒やしてくれる。
だがある日、心地良い温もりがひどく熱くて目を覚ました。
「アリィ? どうしたのアリィ」
医師ですら原因不明だというアリーシェリナの熱は一日経っても下がる様子がなく、万が一の事態を考えてリヒトは王城へ戻ることになった。
「アリィを放って戻りたくない。ウィンドルフ侯爵、どうか僕にアリィの看病をさせて欲しい」
「大変申し訳ございません。殿下の御心遣いはアリーシェリナの父親として、とても恐れ多くもありがたく存じます。しかし、お戻りになられますよう、陛下直々の命が下されております」
ウィンドルフ侯爵に直接願い出た嘆願も、王の命令を盾にすげなく却下された。
王の命に従うなと言えるだけの力はリヒトにはない。せめてもの妥協案として帰るまでは手元に置くことを認めさせるのが精一杯だった。だがそれも、本当の意味で妥協したのはリヒトではなくウィンドルフ侯爵なのだろう。
嵐が収まり、城からの使者が来る頃には熱も下がっていたが、目を覚ます気配は依然としてない。
帰る時は侯爵を説得して一緒に連れ帰り、王城の庭を見せてあげるつもりだった。
それが別れの挨拶すら交わせず一人、馬車に乗り込んだ。
書類を手にした宰相に淡々と報告されても、リヒトには何の感慨も湧かなかった。ふうん、と了承の意を短く伝えれば、もっと別の反応が欲しかったのか、事務的に伝えただけの宰相は眉を寄せる。
「それだけでございますか」
「他に何を僕に言えと? ウィンドルフ領には行きたくない、他の領地が良いと言ったところで決定は覆らないのだろうし」
「たとえば、ウィンドルフ領に関する質問だとかございますでしょう」
「宰相殿が手にされているその書類に目を通せば分かるだろうから、僕からの質問も特にないよ」
リヒトの反応は大人びていると言えば聞こえが良い。
だが、まだ十歳の身であると思えば、いずれ王太子を経て国王になる身とは言え些か年相応の子供っぽさに欠ける。
どちらが本当にリヒトの為になるのか未だ判断がつけられず、宰相は手に持つ数枚の紙をリヒトに差し出した。
「ありがとう」
「殿下……現状を受け入れることと諦めることは似て非なるものかと私は存じます」
「僕が諦めている、と?」
紙を受け取り、リヒトは早速、内容へと視線を落とす。
まだ十歳であることを鑑みられてはいるのか、書かれている情報自体はそんなに多くはない。
ウィンドルフ領の位置、気候や風土、ウィンドルフ侯爵家の家族構成などだ。
これらを質問していたら宰相から一体どのような返事があったのか。それは少しだけ気になったが家庭教師の授業とさほど変わりはないような気もした。
「失礼ながら私の目にはそう見える時もございます」
「諦めさせたのは大人たちだとは思わないんだ?」
「その自覚が多少なりともあるからこそ、かもしれません」
「ふうん」
リヒトが何の感慨もなく答えて書類をテーブルの上に置けば、宰相こそが諦めの顔で「――それでは、私はこれで」と頭を下げて部屋を出て行った。
一人になれば自然と溜め息がこぼれる。
ソファーの肘置きに頭を乗せて寝転がった。
頭の下で指を組み、高い天井いっぱいに微細な筆致で描き込まれた連作の絵画を無言で眺める。
(僕だって、好きで王家に産まれたわけじゃない)
だが穢れを持つリヒトはいずれ国王となる存在だという。
穢れなどと、不穏な言葉で呼ばれる要素を秘めているにも拘わらず、だ。――否、穢れを持つから国王の資格があるのだと周りの大人たちは誰しもが言った。全く分からない理論だが、この国の王家に限ってはそういうものらしい。
成長し、王太子になれば彼らのいうことを理解できる日が来るのだろうか。仮に王になったとして、そんな日が来るとはとても思えないが。
考えるのにも飽きて目を閉じる。
こうした行動が諦めだというのならそうなのかもしれない。
漠然と、そう思った。
ウィンドルフ領は嵐が多い時期だと書類には記されていたが、一日中嵐に見舞われているわけでもないらしい。さすがに昼間は晴れている日もそれなりにあり、リヒトの移動も晴れが予測される日に行われた。
ただし領地へと足を踏み入れれば、かすかに魔力を帯びた風が馬車を叩き壊さん勢いで吹いている。少なくとも王都ではこのような風は吹かず、風の精霊の力が強い領土であることは確かなようだ。
雨風で崩れることのないよう、飾りけのない実直な屋敷に到着すれば、人の良さげな侯爵夫妻が出迎えてくれた。
夫人の斜め後ろにはリヒトと同年代と思しき少女が不安そうに立っている。
淡い青の光を纏った白銀の髪と、上質なエメラルドさながらに深く澄んだ緑の瞳。青は水の精霊、緑は風の精霊を象徴すると言われる色だ。二精霊の恩恵を受ける領主の娘らしい取り合わせだと思った。
「は、初めまして。わたくしはアリーシェリナ・ウィンドルフと申します」
ウィンドルフ侯爵の娘だと紹介された少女は、きめ細やかな白い頬を恥じらいで赤く染めながらも精一杯気取った仕草で淑女の礼をした。
「わたくしも未熟ながらできる限りのおもてなしを致しますから、どうぞごゆっくりなさって下さいませ」
「僕にゆっくりくつろいで過ごして欲しいと思うなら、そんな気取った言葉じゃなくて普段の君の様子で接して欲しい」
王城を離れてもなお、王族扱いされるのか。
思わず不満が口をついていた。
アリーシェリナだけでなくウィンドルフ侯爵夫妻も驚きに目を見開いている。だがアリーシェリナも畏まった言動は得意ではないらしい。すぐに年齢相応に柔らかく微笑んだ。
「それなら、あの……私と仲良くしてね」
「うん」
初めて他人から向けられた屈託のない笑みに、心がざわめく。
大人はもちろん、その子供たちですらリヒトに取り入ろうと必死だった。王城では、王太子に対してはそういうものだと思っていた。
リヒトの機嫌を損ねたら不利益を被る。
だからリヒトが何を言おうが絶対視され、同年代の子供たちにありのまま接して欲しいと言えば皆がこぞって倣っただろう。だからこそリヒトも不用意なことは言わなかった。"特別"を作りたくはなかったから。
重たげな黒いものが揺らぎ、会ったばかりのアリーシェリナを絡め取ろうとその身をゆっくりと伸ばす。醜い触手に似たそれこそが"穢れ"の正体なのだと本能的に悟った。
(初対面の相手に、何を……)
必死に手を強く握り込んで堪える。
知られたら怖がらせてしまう。嫌われてしまう。
王として国を統べる為の強大な魔力故に生じる歪み、穢れとはいわゆる執着だと宰相に聞いた。建国時に時の王が精霊の加護を得る為に、精霊の偉大さを決して忘れぬ為に支払った代償だ。
その結果、歴代の王は執着を抱くものを手中に留めておく為に国を治め、故に過分な執着は国を滅ぼしかねないものとして忌避される。
それを彼女に感じたというのか。
いや、そうと結論づけるにはさすがにまだ早すぎるだろう。言葉は悪いが品定めをしただけの可能性もある。
「しばらくの間よろしく、アリーシェリナ嬢」
誰に対してもそうするように作り笑いを浮かべると何故か心が軋んだ。
リヒトは穢れを浄化する為にウィンドルフへやって来た。
しかし具体的に何をどうするわけでもなく、朝食後にウィンドルフ侯爵に付き添われて二精霊を祀った礼拝所で祈りを捧げれば後は基本的に自由な時間が確保されている。
その為、時間が空けばアリーシェリナの元を訪れた。彼女は自室でのんびり過ごしているか図書室で本を読んでいることが多く、リヒトが来ても嫌な顔一つしない。それどころか嬉しそうに笑みを浮かべる。
一人で退屈なのか、リヒトを好ましく思ってくれているのか。今はまだ異性とは言え、初めて同年代の友人ができた喜びだと明確に伝わるのが面白くない。
アリーシェリナは毎日、屋敷のあちこちを案内してくれた。
図書室に、侯爵たち大人がビリヤードやダーツを楽しむ遊戯室、夕焼けに染まる領地を見渡せるバルコニー。今日は温室へ行く為に、背の低い垣根の連なる庭を二人で歩いている。
「普通のお花は嵐で吹き飛ばされてしまうから、観賞用のお花は温室で育てているの」
そう言って先を歩くアリーシェリナは温室のドアを重たげに開いた。途中から手伝ってやると嬉しそうに表情を綻ばせ、こっちよ、と妖精が舞い誘うような軽やかな動きで中へと入って行く。
「アリィ、手を繋ごう」
「う、うん」
「ではお手をどうぞ、可愛いレディ」
アリーシェリナは小さな手をリヒトの差し出す手におずおずと重ねた。優しく握りしめれば躊躇いがちに握り返してくれる。
「王城の広いお庭にはお花がたくさん咲いているって本で見たわ。きっと、とても綺麗な風景なのね」
「うん、でも……アリィと見るこの温室の景色の方が綺麗だと思う」
「ありがとう」
はにかみながら礼を言うアリーシェリナは、単なる社交辞令だと思っているようだ。
でもそうじゃない。
リヒトは王城の庭を毎日見てはいるが、そこにどんな花が咲いていたかなんて何も覚えてない。色すらもぼやけた記憶しかなかった。
それがアリーシェリナがいるだけで、温室の花だけでなく目に映るもの全てが色彩に溢れている。
何よりもアリーシェリナ自身が眩い光に包まれていた。
淡い青を纏って艶めく白銀の髪や、曇りなく澄み切ったエメラルドのような瞳、甘やかな桃色の唇。真っ白な肌の彩りは決して派手なものではないが、彼女の笑顔そのままに柔らかくて美しい。
一方で、リヒトの中では醜い"穢れ"が浄化されることなく育って行く。
富や名声、権力に向ける者もいれば、特定の人物に向ける者もいる。現国王である父は数少ない後者だという。そしてリヒトもおそらくはそうだ。
リヒトは日毎、アリーシェリナに夢中になって行く。
この子が欲しい。他には何もいらない。
(僕の"穢れ"が浄化されるまで一緒に過ごせる。それなら――このまま浄化されずにいたら?)
嵐に怯えるアリーシェリナと一緒に眠る為に、王族であることを利用する。
今まであれほど王族と、それに連なる自らを嫌悪していた癖に、いざ欲しいものができればその力を与えられたものとして当然のように揮う。
身勝手な感情に呆れながらも、他に手段がないのだから仕方ない。アリーシェリナを手に入れられない綺麗ごとなら、いくら並べたって意味はないのだ。
アリーシェリナは同じベッドで眠るのは家族だけだと言った。そしてリヒトと家族に、お嫁さんになってもいいと言ってくれた。子供の戯言だと甘く見ており、余計な王家の軋轢を望まぬウィンドルフ侯爵の同意も得た以上、アリーシェリナはもう永遠にリヒトだけのものだ。
腕の中から伝わる温もりと鼓動が何よりも満たし、癒やしてくれる。
だがある日、心地良い温もりがひどく熱くて目を覚ました。
「アリィ? どうしたのアリィ」
医師ですら原因不明だというアリーシェリナの熱は一日経っても下がる様子がなく、万が一の事態を考えてリヒトは王城へ戻ることになった。
「アリィを放って戻りたくない。ウィンドルフ侯爵、どうか僕にアリィの看病をさせて欲しい」
「大変申し訳ございません。殿下の御心遣いはアリーシェリナの父親として、とても恐れ多くもありがたく存じます。しかし、お戻りになられますよう、陛下直々の命が下されております」
ウィンドルフ侯爵に直接願い出た嘆願も、王の命令を盾にすげなく却下された。
王の命に従うなと言えるだけの力はリヒトにはない。せめてもの妥協案として帰るまでは手元に置くことを認めさせるのが精一杯だった。だがそれも、本当の意味で妥協したのはリヒトではなくウィンドルフ侯爵なのだろう。
嵐が収まり、城からの使者が来る頃には熱も下がっていたが、目を覚ます気配は依然としてない。
帰る時は侯爵を説得して一緒に連れ帰り、王城の庭を見せてあげるつもりだった。
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