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それからの日々

一年目

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「荷物はこれで全部で良かったの?」

 壁際にゆっくりと鞄を置き、ソフィアは尋ねる。

 アリーシェリナの為に用意された部屋に来るまでの間、ソフィアはしきりに「本当にこれだけ?」「意外と軽いのね」と荷物の少なさを気にしていた。その度に肯定してはいたけれど、他愛ないやりとりもこれで終わりだと思うと何となく寂しい。

「衣服なら修道服の支給がありますから」
「確かに、お腹が大きくなっても修道服は良いと思うけど……ご主人と街にデートに行ったりとかするつもりはないの?」
「ご主人?」
「さっき一緒にいた男性……まさか兄妹ってことはないだろうし、ええと、あの……ご主人でしょう?」

 思わず首を傾げたアリーシェリナに、ソフィアはさらに訝しそうな顔をする。
 ゲオルグについて言っているのだと思い至り、けれど自分の口からは恋仲にある相手だとは言いにくい。
 恋をしたのは、リヒトだけだ。そしてお腹の子の父親も、誰にも言えなくてもリヒトである事実から変わりがあるわけでもない。周りにはゲオルグが恋人だと通せても、自分の口で伝えるのは偽りを真実に変えてしまうようで怖かった。

「あ……ごめんなさい、立ち入ったことを聞き出そうとして。他意があったわけじゃないの」

 修道院に入る女性にはそれぞれの理由がある。明るく振る舞っているソフィアにしても同様なのだろう。
 素直に謝罪され、アリーシェリナはかぶりを振った。

「私こそ気を遣わせてしまってごめんなさい。夫婦の儀式を済ませたわけではないし……許されざる恋をしてしまった結果、だから」
「そう、そうよね」

 嘘の中にほんの少し真実を混ぜる。
 子供の父親について話す時はリヒトを思い浮かべながら話せばいいのだ。そう割り切ると気持ちもいくぶんか楽になった。
 ソフィアも深く追及はせず、それよりも、と違う話を切り出す。

「ただ、修道院の暮らしって見た通り地味なものだから、街に行くくらいしか楽しみがなくって。リナも育児用品とか見たくない? たまには一緒に街に行きましょうよ」

 全く自慢できたことではないけれど、アリーシェリナには友人が一人もいない。
 子供の頃のとある時期に限ると、たった一人いた。もっとも、その友人にはほどなくして自覚のない恋心を抱いてしまったから純粋な意味での友人とは言えない。
 アリーシェリナの友情も愛情もリヒトにしか向けられてはいなかった。今さらながら、彼がどれだけ自分の心を占めているのか実感する。

 でも、ソフィアが友人になってくれると言う。
 それはあまりにも狭くて小さなアリーシェリナの世界をわずかでも広くしてくれるのかもしれない。
 子供を身籠ったことで自らも新しく生まれ変わるのだ。

「じゃあ今度、街を案内してもらってもいいかしら」
「もちろん!」

 遠慮がちに頼めばソフィアは快く了承し、夕食時に迎えに来ると告げて部屋を後にした。

 一人になって、部屋の様子をゆっくりと見渡す。
 広さは自室の半分くらいだろうか。奥がカーテンで仕切られているのは、おそらくは寝室代わりのスペースだからに違いない。地方領主とは言え、その屋敷と比べるものではないだろうけれど、アリーシェリナと子供が過ごす分には十分な広さだ。生成り色の壁紙は柔らかな色合いで、落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 まずは壁の一面を占める窓へと歩み寄った。
 厚手の白いカーテンは開けられて窓の両側でまとめられており、レースのカーテン越しに穏やかな午後の日差しが入って来る。

(子供が産まれたら、気持ち良いお昼寝ができるようにここにベビーベッドを置きましょう)

 まだ見ぬ未来の幸せな光景を思い描けば、自然と口元に笑みが浮かんだ。

 他は女性の部屋らしくドレッサーと、書き物用の文机と椅子。どちらもこじんまりとしたものではあるけれど、蔓バラの意匠が刻まれて可愛らしい。
 そして窓とは違う壁にクローゼットが埋め込まれ、ある程度の快適さは保証されているようだ。
 カーテンで仕切られた向こうには思った通りベッドが置かれており、ヘッドボードや足にはやはり蔓バラが刻まれていた。

 家具は全てオフホワイトで統一され、厳格な修道院と言うよりは女性を対象にした宿泊施設のようでもある。あるいは本当に、以前はその目的で使われていた建物なのかもしれない。

(リヒト様……私絶対に、一人でもあなたの子供を元気に産んで育てるから)

 アリーシェリナは首にかけた懐中時計を服の上からそっと握りしめた。
 必要最低限の荷物しか持って来なかった。だけど、この懐中時計だけは手放せなかった。
 リヒトを忘れる為にも父に預けて、何かの折りにリヒトに返却してもらうべきだったのかもしれない。でも実行には移せなかった。

 子供が大きくなったら父親の形見として渡してあげよう。

(どうか私たちの子供を守ってあげて)

 手の中の懐中時計に祈りを込めた。



 質素ではあるけれど貧しくはない修道院での日々は、アリーシェリナには初めての経験ばかりだった。

 朝は早めに起きて、アリーシェリナも含めて七人いる修道女全員で院内の掃除をしてから礼拝堂で精霊に祈りを捧げる。
 このノリグリット領に加護を与えているのは土の精霊ノームだ。
 穏やかな黄色を基調とした礼拝堂は風と水の精霊を祀るウィンドルフ領のそれとは大きく異なり、見知らぬ土地に来たのだと改めて実感させた。

 食事は朝昼晩と住み込みの女性料理人の作ってくれたものを、決まった時間にダイニングで食べる。
 土地柄か魚が食卓に並ぶことはあまりないらしい。代わりに野菜や果物はふんだんに使われ、妊娠初期でさらに食が進まないアリーシェリナにも問題なく食べられるものが多かった。

 午前中は小さな畑で農作業をして、午後は日によって変わる奉仕活動に充てられる。
 そうして環境の変化に少しずつ慣れて行くとソフィアはもちろん、他の修道女たちとも打ち解けられるようになって来た。

「マルケス通りの角のケーキ屋さんがおいしいのよ」
「私はその一本手前にある焼き菓子屋さんのクッキーが好きだわ」

 次の日曜日にソフィアと街へ行く予定だと話すと口々におすすめの店を教えてくれる。遠回しなお土産要求の意味合いもあるから真面目に聞かなくても良いのだとソフィアが釘を刺す。他の修道女たちはいたずらがばれた子供のように笑い、アリーシェリナの顔にもつられて笑みが浮かんだ。

 そして日曜日、護衛の為に同行すると言って譲らないゲオルグも一緒に街へと向かった。

「リナ、私やっぱりお邪魔だったかしら……」

 ゲオルグの姿にソフィアは申し訳なさそうな顔をする。
 けれど初日にも言われたように、ゲオルグと二人だけで見知らぬ土地を散策するのはデートのようであったから、本音を言えばアリーシェリナとしては逆にありがたい。それに二人でいたって話すこともなく、気まずい思いをするだけなのも見えていた。

 離れた土地に来てまで役割を果たしてくれているゲオルグには申し訳ないと思う。
 でも他の条件を提示して、受け入れられなかったのだから仕方ない。アリーシェリナには自分と、お腹にいる子供以外について考えられるほどの余裕もなかった。

「案内して欲しいって言ったのは私だからソフィアは気にしないで。彼も、承知しているから」
「うん、じゃあリナの体調の許す限り、色んなお店を教えるわね」

 修道院が貧しくはない理由として修道女たちはお金を自由に使える。
 湯水のように気軽に使えるのかと言えば、もちろんそういうわけではない。けれどシスター・リンダに使い道や目的を言えば少なくない金額が渡される。表向きは領地への奉仕活動の報酬という名目だ。
 おそらくは皆も良家の子女で、家からの寄付金なり支度金なりが修道院に渡されているのだろう。アリーシェリナもまた、遠慮なく申し出ても構わないとシスター・リンダに言われていた。

 修道女たちが言っていた店にも寄り、小袋に入ったクッキーなどをさりげなく買うソフィアはとても面倒見が良いのだろう。だから友人たちも、そんな彼女の性格を見越してお土産をねだったのかもしれない。

「ソフィア嬢、危ない」

 最後に育児用品を扱う店を見るだけ見て帰ろうという時、ちょっとした事件が起きた。ゲオルグが声をかけるも間に合わず、ソフィアの背後から人が勢いよくぶつかったのだ。
 突然のことによろめくソフィアの身体を素早く支え、ゲオルグはその顔を覗き込む。

「大丈夫ですか、ソフィアさん」
「え、ええ……ゲオルグさんが支えて下さったおかげです」
「いえ。礼には及びません」
「転んだり怪我をしたりしなくて本当に良かったわ」
「せっかくお買い物に来たのに心配をかけてごめんね、リナ。それに、あの……。ごめんなさい」

 ソフィアは気まずそうな視線をアリーシェリナに向けて謝罪する。
 謝られる心当たりなんてない。首を振って答えるとソフィアは何故か目を逸らし、自らを支えたままのゲオルグの腕をそっと掴んだ。

(あ……そういう、ことかしら……?)

 不可抗力とは言え友人の恋人の腕の中にいる。
 本来なら怒るべきなのかもしれない。
 もしソフィアを抱き留めたのがゲオルグではなくてリヒトだったなら、友人を助ける為の行動でも心を揺らしてしまっているだろう。だから今だってアリーシェリナはそうであるべきなのだ。

 でも、言葉が出て来ない。
 リヒトだったならソフィアに嫉妬していた。
 ゲオルグだったから何も思わない。

 醜い感情が、どの方向に対して醜いのか、自分でも分からなくなっている。

「気にしないでソフィア」
「ありがとう、リナ」
 
 ようやくゲオルグから離れてアリーシェリナを見つめるソフィアに対し、後ろめたい思いを悟られずに上手く笑みを返せているのか自信がなかった。




「すっかりお腹も大きくなって来たわねえ」

 今日は大広間のテーブルで、修道院の運営資金の一端となるハンカチへの刺繍を刺している。お喋りは常にしているけれど休憩時間の賑やかさは作業中の比ではなく、メアリがアリーシェリナのお腹を見てしみじみと言った。
 メアリは妊娠中に夫を病で亡くし、この修道院にやって来たと言う。その子供も今や元気に育って五歳となり、経験者としてアリーシェリナにたくさんのことを教えてくれた。

「名前は考えてあるの?」
「そうよね、そろそろ考えておかないといけないわよね」

 ソフィアの疑問に修道女たちが話しに乗って来る。
 アリーシェリナはもちろん、と頷いた。

 名前は色々と迷って、男児ならリベリト、女児ならリアナにしようと思っている。

「でも、みんなにはまだ秘密です」

 いたずらっぽく笑うと修道女たちは不服そうな反応をした。それをメアリが年長者らしく宥めて場を収める。それも、馴染みの光景になりつつあった。

 だって言えるはずもない。
 リベリトとリアナ、どちらにしたって"表向きの恋人ゲオルグ"の名の文字は一つたりとも入っていないのだから。

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