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嵐の中の初恋
残された時間はこぼれ落ちない
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「ねえリヒト様、このグノーメドラ領はウィンドルフ領とは対照的に地の精霊ノーム様と炎の精霊サラマンダー様の影響が強くて、ほとんど雨が降らないんですって」
図書室でリヒトと並んで座るアリーシェリナは、テーブルに広げた地図を指さして声を弾ませた。
王都を挟んで遥か南の端に位置するグノーメドラ領は、アリーシェリナが子供の頃からずっと興味を抱き続けている土地だ。影響を与える精霊が違うだけで、こんなにも風土や文化が大きく変わる。八年前のリヒトとも、こうして同じように地図を見ながら話をしていた。
王城から迎えが来ることを、リヒトは何も言わない。だからアリーシェリナも何も言わなかった。
リヒトがベッドから出られるようになるまでの一週間は、とても長く感じられた。
だけど王都に帰るまでの二週間は、これから過ごすのに瞬きよりも短く思うに違いない。
「とても強い日差しを遮る為に背の高くて青々とした葉の茂る樹を植えているそうなの。他には水分の補給が手軽にできるように、甘い果汁をたくさん含んだ実が生る樹も多いみたい」
そうして別の本を新しく開き、お気に入りのページを開いて見せる。何度も繰り返し見たせいで完全に折り癖のついたページは手で押さえずとも、勝手にめくれてしまうことはなかった。
「アリィも、こういうことがしてみたいの?」
リヒトは本に視線を移し、ページの三分の二を占める大きな挿絵と、ほんの数行の説明文に目を通してからアリーシェリナを見つめた。
アリーシェリナは未だ見飽きることのないイラストを眺めながら小さく頷き返す。
同じ国内にありながらグノーメドラ領はとても遠い。だから行ってみたいと思ったこともなかった。それでも本に書かれている内容に心惹かれていて、誰にも話したことのないささやかな憧れを初めて人に打ち明けた。
「そうなんだ」
リヒトは開け放たれたままのドアをちらりと見やった。
もちろん今日もゲオルグが控えている。そんなに大きな声で話してはいないけれど、聞こえてはいるであろう距離だった。
リヒトの指が本の上に乗せられた。しなやかな指に視線が吸い寄せられる。そしてゆっくりと、文字を描いた。
『いつか、二人で行こうか』
驚きに声を出しそうになって慌てて噤む。
それからアリーシェリナもまた、指で文字を書いて伝えた。
『二人で?』
『うん。二人で』
秘密のやりとりに胸の高鳴りを抑えられない。
ゲオルグの視線が突き刺さって感じるのは後ろめたいからだろうか。不審な動きだと訝しがられないように最後の言葉と決めて伝える。
『行きたい』
アリーシェリナの意図を察したのかリヒトももう文字は書かずに頷いた。
本に書かれた、グノーメドラ領に住む人々にとっては日常かもしれないけれど、遠く離れた地のアリーシェリナには日常じゃない情景。
大きな葉をつけた木々の間に渡したハンモックで昼寝をして、上部を切り取った果実の中に詰まった果汁をストローで飲む。夢で見ることしかできない昼下がりをリヒトと過ごす。
リヒトが王都に戻れば、今度こそもう二度と会えない。
約束を交わしても叶わないと分かっている。
でも、一緒に行こうと誘ってくれた。
子供じみたささやかな憧れを聞いても笑わなかった。
それだけで十分だ。本当に嬉しかった。
だからこそ、このページを開くのはこれで最後にしよう。
見る度に、今日の約束を思い出して悲しくなるから。
「リヒト様、こっちよ!」
馬車を降りると、アリーシェリナはリヒトの手を取って駆け出した。
目の前に広がる湖は嵐の到来などまるで感じさせないほど穏やかな様子で湖面をきらめかせ、その上を優しい風が時折凪いで行く。
嵐が精霊たちの荒々しい一面の象徴であるのなら、湖は慈愛に満ちた一面の象徴だった。
「子供のようにはしゃぐお嬢様を見るのも久し振りね」
「そうだなあ」
湖に来たのは全部で五人、アリーシェリナとリヒト、護衛のゲオルグにくわえ、フリッツとマギーだ。
フリッツ夫妻が同行しているのはリヒトに万が一の事態があった時に対応する為で、マギーが申し出なければ屋敷の外に出る許可はフリッツから出ていなかった。
力仕事は馬車の御者に手伝ってもらいながら侍女たちが湖畔に敷物を広げ、テーブルと人数分の椅子を並べて行く。日よけのパラソルを立て、アリーシェリナも準備を手伝った昼食の入ったバスケットをテーブルに置いた。
「魚釣りはしなくてもいいの?」
「あ……。湖がとても綺麗だから、リヒト様にも早く見て欲しくて……」
「水が澄んでいて、確かにすごく綺麗だね」
「でしょう?」
図書室と同様に湖でも、八年前にしたやりとりをなぞる。
湖を早く見せたい気持ちもあった。
けれどそれ以上に残り少ない時間の中で一秒でも早く、一つでも多く、アリーシェリナと過ごした記憶を取り戻して欲しかったのだ。
(リヒト様の記憶が戻った時、記憶を失っていた時のことは忘れてしまうのかもしれないけれど)
フリッツ医師はどちらに転ぶか分からないと言っていた。
そのまま覚えているかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。人によって全く異なるから断言はできないと。
だけどアリーシェリナの中では絶対に、消えない。
「一緒に少し散策しようか。フリッツ先生、遠くには行かないからいいかな」
「子供ではない殿下にかける言葉ではありませんが、我々の目の届く範囲内でしたら構いませんよ。釣りに使う船の準備にもまだ時間はかかるようですし」
「分かった」
リヒトはフリッツ医師の承諾を得るとアリーシェリナに向けて右手を差し伸べた。
「アリィ、行こう」
「――はい」
自らの手をそっと重ねれば、記憶の中にあるそれよりもずっと大きな手に包み込まれる。
だけど、繋いだ手の温かさは変わっていない。
思わず指に力をくわえて繋がりを深めると、さらに強い力で握りしめられた。
「八年前に湖に来た時も、こうして君と手を繋いで歩いた?」
「はい」
「――だからなのかな」
「だから?」
後ろにつかず離れずの距離でゲオルグがいる。
図書室とは違って何かに文字を書いてのやりとりはできなかった。明確な言葉での意思の疎通なんて以ての外だ。もどかしさを感じながらも質問を返すと、リヒトは柔らかく笑った。
「懐かしくて、手放したくなくなる」
もうこれ以上、指に力は込められない。
泣きたいくらい嬉しい気持ちをどう伝えたら良いのか分からなくなっていると指同士が絡んだ。
思わず息を呑んでリヒトを見上げる。小さな嵐のような強い風が吹いた。目を開けていられなくて閉じたその時、耳元でリヒトの声が聞こえたのは気のせいだろうか。
「アリィ大丈夫? 目にゴミが入ったりしてない?」
「大丈夫です」
心配してくれるリヒトに答え、ゲオルグを振り返る。
先程の突風を彼も受けたらしく乱れた髪を撫でつけていた。視線が合うと、自分も大丈夫だと言わんばかりに軽く頷く。ほんの一瞬の間に行われたリヒトの行動を見てはいなかったようだった。
見られてはいなかったことに安堵すると同時に頬が熱を帯びて行く。
リヒトの唇が髪に触れ、甘やかな声が囁いた。
『好きだよ、アリィ』
リヒトの声が何度もこだまする。
その声がどこかにこぼれ落ちてしまわないよう、さらに指を強く絡めた。失った時の方が、ずっと、ずっと心が痛む。
手を、放したくない。
以前はなかった記憶を持ってパラソルの元に戻る。
昼食を摂り、湖近辺に居を構える船長が来たのを見計らってウィンドルフ家の所有する船で湖の深いところまで行って釣りを楽しんだ。
帰り道、西の空が厚い雲に覆われはじめ、嵐の到来を告げていた。
図書室でリヒトと並んで座るアリーシェリナは、テーブルに広げた地図を指さして声を弾ませた。
王都を挟んで遥か南の端に位置するグノーメドラ領は、アリーシェリナが子供の頃からずっと興味を抱き続けている土地だ。影響を与える精霊が違うだけで、こんなにも風土や文化が大きく変わる。八年前のリヒトとも、こうして同じように地図を見ながら話をしていた。
王城から迎えが来ることを、リヒトは何も言わない。だからアリーシェリナも何も言わなかった。
リヒトがベッドから出られるようになるまでの一週間は、とても長く感じられた。
だけど王都に帰るまでの二週間は、これから過ごすのに瞬きよりも短く思うに違いない。
「とても強い日差しを遮る為に背の高くて青々とした葉の茂る樹を植えているそうなの。他には水分の補給が手軽にできるように、甘い果汁をたくさん含んだ実が生る樹も多いみたい」
そうして別の本を新しく開き、お気に入りのページを開いて見せる。何度も繰り返し見たせいで完全に折り癖のついたページは手で押さえずとも、勝手にめくれてしまうことはなかった。
「アリィも、こういうことがしてみたいの?」
リヒトは本に視線を移し、ページの三分の二を占める大きな挿絵と、ほんの数行の説明文に目を通してからアリーシェリナを見つめた。
アリーシェリナは未だ見飽きることのないイラストを眺めながら小さく頷き返す。
同じ国内にありながらグノーメドラ領はとても遠い。だから行ってみたいと思ったこともなかった。それでも本に書かれている内容に心惹かれていて、誰にも話したことのないささやかな憧れを初めて人に打ち明けた。
「そうなんだ」
リヒトは開け放たれたままのドアをちらりと見やった。
もちろん今日もゲオルグが控えている。そんなに大きな声で話してはいないけれど、聞こえてはいるであろう距離だった。
リヒトの指が本の上に乗せられた。しなやかな指に視線が吸い寄せられる。そしてゆっくりと、文字を描いた。
『いつか、二人で行こうか』
驚きに声を出しそうになって慌てて噤む。
それからアリーシェリナもまた、指で文字を書いて伝えた。
『二人で?』
『うん。二人で』
秘密のやりとりに胸の高鳴りを抑えられない。
ゲオルグの視線が突き刺さって感じるのは後ろめたいからだろうか。不審な動きだと訝しがられないように最後の言葉と決めて伝える。
『行きたい』
アリーシェリナの意図を察したのかリヒトももう文字は書かずに頷いた。
本に書かれた、グノーメドラ領に住む人々にとっては日常かもしれないけれど、遠く離れた地のアリーシェリナには日常じゃない情景。
大きな葉をつけた木々の間に渡したハンモックで昼寝をして、上部を切り取った果実の中に詰まった果汁をストローで飲む。夢で見ることしかできない昼下がりをリヒトと過ごす。
リヒトが王都に戻れば、今度こそもう二度と会えない。
約束を交わしても叶わないと分かっている。
でも、一緒に行こうと誘ってくれた。
子供じみたささやかな憧れを聞いても笑わなかった。
それだけで十分だ。本当に嬉しかった。
だからこそ、このページを開くのはこれで最後にしよう。
見る度に、今日の約束を思い出して悲しくなるから。
「リヒト様、こっちよ!」
馬車を降りると、アリーシェリナはリヒトの手を取って駆け出した。
目の前に広がる湖は嵐の到来などまるで感じさせないほど穏やかな様子で湖面をきらめかせ、その上を優しい風が時折凪いで行く。
嵐が精霊たちの荒々しい一面の象徴であるのなら、湖は慈愛に満ちた一面の象徴だった。
「子供のようにはしゃぐお嬢様を見るのも久し振りね」
「そうだなあ」
湖に来たのは全部で五人、アリーシェリナとリヒト、護衛のゲオルグにくわえ、フリッツとマギーだ。
フリッツ夫妻が同行しているのはリヒトに万が一の事態があった時に対応する為で、マギーが申し出なければ屋敷の外に出る許可はフリッツから出ていなかった。
力仕事は馬車の御者に手伝ってもらいながら侍女たちが湖畔に敷物を広げ、テーブルと人数分の椅子を並べて行く。日よけのパラソルを立て、アリーシェリナも準備を手伝った昼食の入ったバスケットをテーブルに置いた。
「魚釣りはしなくてもいいの?」
「あ……。湖がとても綺麗だから、リヒト様にも早く見て欲しくて……」
「水が澄んでいて、確かにすごく綺麗だね」
「でしょう?」
図書室と同様に湖でも、八年前にしたやりとりをなぞる。
湖を早く見せたい気持ちもあった。
けれどそれ以上に残り少ない時間の中で一秒でも早く、一つでも多く、アリーシェリナと過ごした記憶を取り戻して欲しかったのだ。
(リヒト様の記憶が戻った時、記憶を失っていた時のことは忘れてしまうのかもしれないけれど)
フリッツ医師はどちらに転ぶか分からないと言っていた。
そのまま覚えているかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。人によって全く異なるから断言はできないと。
だけどアリーシェリナの中では絶対に、消えない。
「一緒に少し散策しようか。フリッツ先生、遠くには行かないからいいかな」
「子供ではない殿下にかける言葉ではありませんが、我々の目の届く範囲内でしたら構いませんよ。釣りに使う船の準備にもまだ時間はかかるようですし」
「分かった」
リヒトはフリッツ医師の承諾を得るとアリーシェリナに向けて右手を差し伸べた。
「アリィ、行こう」
「――はい」
自らの手をそっと重ねれば、記憶の中にあるそれよりもずっと大きな手に包み込まれる。
だけど、繋いだ手の温かさは変わっていない。
思わず指に力をくわえて繋がりを深めると、さらに強い力で握りしめられた。
「八年前に湖に来た時も、こうして君と手を繋いで歩いた?」
「はい」
「――だからなのかな」
「だから?」
後ろにつかず離れずの距離でゲオルグがいる。
図書室とは違って何かに文字を書いてのやりとりはできなかった。明確な言葉での意思の疎通なんて以ての外だ。もどかしさを感じながらも質問を返すと、リヒトは柔らかく笑った。
「懐かしくて、手放したくなくなる」
もうこれ以上、指に力は込められない。
泣きたいくらい嬉しい気持ちをどう伝えたら良いのか分からなくなっていると指同士が絡んだ。
思わず息を呑んでリヒトを見上げる。小さな嵐のような強い風が吹いた。目を開けていられなくて閉じたその時、耳元でリヒトの声が聞こえたのは気のせいだろうか。
「アリィ大丈夫? 目にゴミが入ったりしてない?」
「大丈夫です」
心配してくれるリヒトに答え、ゲオルグを振り返る。
先程の突風を彼も受けたらしく乱れた髪を撫でつけていた。視線が合うと、自分も大丈夫だと言わんばかりに軽く頷く。ほんの一瞬の間に行われたリヒトの行動を見てはいなかったようだった。
見られてはいなかったことに安堵すると同時に頬が熱を帯びて行く。
リヒトの唇が髪に触れ、甘やかな声が囁いた。
『好きだよ、アリィ』
リヒトの声が何度もこだまする。
その声がどこかにこぼれ落ちてしまわないよう、さらに指を強く絡めた。失った時の方が、ずっと、ずっと心が痛む。
手を、放したくない。
以前はなかった記憶を持ってパラソルの元に戻る。
昼食を摂り、湖近辺に居を構える船長が来たのを見計らってウィンドルフ家の所有する船で湖の深いところまで行って釣りを楽しんだ。
帰り道、西の空が厚い雲に覆われはじめ、嵐の到来を告げていた。
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