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嵐の中の初恋

止められない恋心

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 翌日もまた、朝食後のフリッツ医師の診察が終わるのを待って客間に向かう。ノックへの返事を待ってからドアを開ければ、リヒトも身を起こしてヘッドボードに背中を持たせかけていた。

「おはようございます、リヒト様」
「おはよう、アリィ」

 朝の挨拶をしながらベッドの脇の椅子に腰を下ろす。

 何気ない日常のやりとりを、リヒトとできる。
 それだけでアリーシェリナの心は温かく幸せな気持ちで満たされ、胸がいっぱいになった。

「今日のお身体の具合はいかがですか?」
「悪くないよ。ウィンドルフ侯爵は良くしてくれているし、フリッツ医師も経過は良好だって言ってた」
「良かったです」

 でも、身体のどこにも異常がないのなら退屈で仕方ないだろう。
 ふとサイドボードに目を向けると、昨日はなかったはずのハードカバーの本が三冊積み上げられていることに気がついた。確か全て、ウィンドルフ領の歴史や文化をまとめたものだという記憶がある。

「この本……」
「せっかくだからウィンドルフ領のことを詳しく知っておこうと思って、侯爵に頼んで図書室から持って来てもらったんだ」
「そうだったんですね」

 リヒトは手を伸ばしていちばん上の本を手にするとパラパラとページをめくった。
 読みかけの部分に辿り着いたのか手を止めてアリーシェリナに視線を向ける。

「ウィンドルフ領は二つの精霊の加護を受けている、数少ない土地なんだね」
「土地に流れる魔力の波長が合うとかで、水の精霊ウンディーネ様と風の精霊シルフ様の影響がとても強いのだそうです」
「それで精霊同士の魔力がぶつかり合って嵐も多いって聞いた」
「だけど豊かな水源に恵まれていますから、良質な魚もたくさん獲れるんですよ」
「昨日の夕食に出た魚は確かにすごくおいしかった」
「ふふ。ありがとうございます」

 アリーシェリナは笑みを浮かべた。

 リヒトは昨日、些細なことでもアリーシェリナに褒められると嬉しいと言っていたけれど、アリーシェリナも同じだ。
 生まれ育った大好きな領地をリヒトに褒められるのは嬉しい。

(そういえば、以前)

 子供の頃の記憶が鮮やかに蘇る。
 良く晴れ日に何度か、バスケットに昼食を詰めてもらって湖に行った。リヒトと二人きりではなく父や兄も一緒ではあったけれど、ウィンドルフ領では数少ない娯楽ということもあり楽しい思い出だ。

「八年前にリヒト様がいらした時、近くの湖に魚釣りや水遊びに行ったりもしたんです」
「魚釣りや水遊び? 君も一緒に?」
「私はその、釣りに使う餌は怖くて触れられませんでしたけど……」

 さすがに年頃の少女が好ましく思うには厳しい小さな虫の姿も思い出し、ふるりと身を震わせた。
 アリーシェリナの仕草にリヒトが柔らかく目を細める。その様子も、あの頃と同じだ。

「僕は平気そうだった?」
「はい。最初は父が餌をくくりつけていましたが、途中からはリヒト様ご自身がされていました」

 懐かしい思い出は昨日のことのように次々と浮かぶ。
 リヒトは虫を見て驚いた顔をしたけれど、すぐに自分で餌をつけると言い出していた。
 そんな些細なことでもアリーシェリナの目にはとても頼もしく映っていたのだ。

「君に格好悪い姿を見せてはいなかったようで良かった」
「格好悪いだなんて……物怖じもせずに勇敢で、とても格好良かったです」

 自然と口をついた言葉に気がつき、頬が熱を帯びる。リヒトはそれには触れずに言葉を紡いだ。

「今度、フリッツ先生にベッドを出る許可をもらえたら二人で湖に行こうか。釣りをして、また君に格好良いところを見せたい」
「だったら私、餌をつけることは今もできないですけど、お昼のバゲットをご用意します」

 料理は少しだけ、できるようになった。
 夕食に振る舞えるようなものは立派なものは作れないけれど、手軽につまめるようなものなら作れる。やはりウィンドルフ領では娯楽が少ないからだ。

「楽しみだね。それだけに一週間がすごく長く感じる」
「私も、そう思います」

 その日はたくさんの話をして、滞在時間は十分をゆうに超えた。
 主に話したのはもちろん子供の頃の思い出だ。
 図書室で一緒に図鑑を眺めたこと。
 庭を散歩したこと。

 嵐の夜に一緒に眠ったこと、結婚の口約束をしたことは話せなかったけれど、時折何かを考えるようなそぶりをするリヒトは、失った記憶に引っかかりを覚えているようにも見えた。

 そしてその日を境に、アリーシェリナが客間にいる時間は日を追うごとに増えて行った。



 一週間が経ち、リヒトはフリッツ医師の当初の見立て通りにベッドから出ることが許された。
 とは言え庭の散歩のような軽い外出以外は禁止されたままだ。湖に行く約束はまだ果たせそうにない。それでも魔力の暴走も起こさずにいたら近いうちに許可を出すとフリッツ医師は言っていた。

「リヒト様が乗っていらした馬も、厩舎に繋いであるとのことです」

 落馬した衝撃で、という父の言葉が気になっていたけれど、リヒトは馬で移動していたらしい。
 動けるようになったリヒトを厩舎に案内すると、父の所有物ではない見事な毛並みの白馬が至って元気そうな様子で牧草を食べていた。
 食事を終えたらしい白馬は顔を上げ、リヒトを見るなり後ろ足で器用に立った。
 尻尾が風にそよぐ麦の穂のように穏やかに揺れている。リヒトが自分の主だと理解しているようだ。

「だったら僕は馬車でもなく、従者もつけずに一人で行動していたってことかな」
「おそらくは」

 リヒトが近寄ると足を下ろし、柵の向こうから鼻を突き出す。
 撫でて欲しいのだろう。リヒトはゆっくりと手を伸ばしてその鼻先に触れた。途端に強く押しつけるような動きに苦笑を浮かべ、白馬の望むまま手全体を使って大きく撫でる。

「何か思い出されました?」
「いや……。すまない」
「そんな、謝らないで下さい」

 アリーシェリナは慌てて首を振った。
 記憶が戻らなくてもどかしい想いをしているのはリヒトだ。その彼が謝らなければいけないことなど何もない。

「でも僕は急いでどこかに行こうとしていた。――そんな気がする」
「急いでいた?」
「うん。ああ、そうだな。僕は一刻も早く、迎えに行きたかったんだ」

 心臓がどきりとした。

 アリーシェリナを迎えに来ようとしていたなら嬉しい。
 決して、そんなことはないのだけれど。


 夕食後、アリーシェリナは父の書斎に呼ばれた。
 その理由は自分でも察している。
 間違いなくリヒトのことだ。

「いくら昔馴染みであってもリヒト殿下はいずれこの国を背負うお方だ。子供の頃と同じように接してくれるからと恩情を受けたところで、つらい思いをするのは自分だ。――分かっているね、アリーシェリナ」

 ここ最近のアリーシェリナの振る舞いについて、ゲオルグから報告を受けたのだろう。
 父は珍しく厳しい顔でアリーシェリナにそう告げた。

 そんなに浮ついて見えただろうか。
 ――確認するまでもない。
 アリーシェリナは再び手元に戻って来た初めての恋に、とても浮ついていた。

「リヒト殿下の回復の度合いと嵐の予測とを照らし合わせて相談したところ、王城からの使者は二週間後においでになられる。リヒト殿下にも先程そうお伝えした」
「二週間後――」

 呟く声が震える。
 いつまでもリヒトがウィンドルフ領にいてくれるわけではない。
 そんなことは分かっている。ただ、予想よりも早い期限に胸が軋んだ。

 一緒に湖に行こうと約束した。
 その約束は叶うだろう。
 その約束、だけなら。

「記憶が戻られるまでではないのですね」
「いつ回復なさるのか、確証もないことで王太子殿下をお預かりするには我が家には荷が重すぎるのだ」
「八年前はリヒト様を半年もお預かりしていたのに」

 思わず不満のこもった声がこぼれた。
 アリーシェリナは自らの言葉にはっとして口をつぐんだ。父は表情の読めない顔をしている。貴族の娘だという自覚がないと失望されたかもしれない。

「あの時とは殿下を取り巻かれる状況が違いすぎているのだよ、アリーシェリナ。もう自由な立ち振る舞いが許される子供時代ではない」

 残念がるような父の声にアリーシェリナは俯いて謝罪を述べる。
 父はアリーシェリナを咎めたいわけじゃない。
 むしろその逆で、身分差故に結ばれない恋をするのではないかと心配してくれている。一人で傷ついて泣くのではないかと憂いてくれていた。

 だけど、もう手遅れなのだ。
 八年も前に好きになっている。
 八年間も胸の奥にしまい込んでいただけの淡い初恋は色褪せることなく、再会を機に今もまたアリーシェリナの中で眩いほどにきらめいていた。

(――ごめんなさい、お父様)

 実らずに悲しい想いをすると分かっていても、アリーシェリナはこの想いを捨てられなかった。

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