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嵐の中の初恋

失われた思い出と失われない想い

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 朝食後、フリッツ医師の診察が終わったのを確認して三十分ほど経ってから、アリーシェリナは客間に足を運んだ。

 ゲオルグは今日も、護衛の責を果たすべく行動を共にしている。
 今でも想いが消えていない初恋の少年を前に浮つく自分を見られるのは気恥ずかしい。けれど、さすがに何の事情も知らないゲオルグがそれをからかうことはなかった。ただ屋敷に珍しく客人を迎えただけで、それまでの生活から何も変わってはいないのだ。そう割り切ることに決めた。

(起きていらっしゃるかしら……)

 リヒトにとっては見知らぬ場所で目覚め、体力を落とした状態で見知らぬ相手二人と顔を合わせるのはとても迷惑かもしれない。ましてや記憶も失っていると判明してしまった。
 昨日、目覚めたリヒトが自分の素性すら分からないそぶりを見せ、フリッツ医師が駆けつけて来た。
 そんな状況で自己本位な行動に出るのは躊躇ためらいもあったけれど、リヒトに会いたい気持ちが勝ってしまった。

「リヒト様。お身体の具合はいかがですか?」

 ノックをしても返事はない。
 まだ体力が回復してなくて眠っているのだろうか。
 静かにドアを開けて部屋の様子を窺うと、リヒトはヘッドボードに深く背中を預けた状態で、ドアが開く気配に気がついたのかアリーシェリナに視線を向けた。

「君は、この屋敷の……」
「勝手にドアを開けたりしてごめんなさい。私はウィンドルフ侯爵家長女、アリーシェリナと申します」

 アリーシェリナの名前を聞いても、リヒトの感情に揺らぎは見えない。
 記憶を失ったせいなのか、元々すでに忘れ去られた存在なのか。どちらなのか分からないけれど、今のリヒトの中に自分が存在していないことは寂しい。

「すまない。君が呼んだ"リヒト"が僕の名前なんだろうけれど、実感がどうにも持てなくて返事ができなかったんだ」

 アリーシェリナの記憶の中にいる十歳のリヒトは声変わりをしていなかった。
 目の前にいるリヒトは声色が低くなっていても、アリーシェリナを優しく包み込んでくれるような耳心地の良さはそのままだ。
 リヒトは大人になった。
 でも何も、変わっていない。

「中に入って……お傍に行ってもよろしいですか?」
「うん」

 リヒトの了承を得て、部屋に入る。そして昨日と同じくゲオルグはドアの脇に残り、アリーシェリナは一人でベッドの近くに置かれた椅子に腰を下ろした。

「僕の様子を見て来るようにって、ウィンドルフ侯爵に頼まれた?」
「いいえ」

 アリーシェリナは首を振った。
 父は執務の合間に来るつもりなのか、今のところは来ていないようだ。てっきりフリッツ医師の診察に立ち会っていると思っていた。

「ウィンドルフ侯爵は夕刻近くに来るって聞いているよ」
 
 心を見透かされたかのような言葉に頬が熱を帯びて行く。
 頼まれてもいないのに来た。それはつまり、アリーシェリナ自身が来たいと思ったからやって来た、そういうことだ。
 大人になったリヒトと再会して彼の中に自分がいなくても、アリーシェリナの恋心も変わりはしない。

「ゆっくりお休みになられているところに朝からお邪魔したりして、ごめんなさい」

 昨日の今日ではフリッツ医師もベッドを出ることを許可してはいないようでも、リヒトは元気そうだ。
 失くしてしまった記憶や今後について、他にも考えたいことはたくさんあるに違いない。

「いや、大丈夫だよアリーシェリナ嬢……アリィ」

 部屋を出ようとしたアリーシェリナは動きを止めた。
 かつて、彼にだけ何度も呼ばれた愛称を耳にして胸が高鳴った。頬も、先程までとは比べ物にならないほど熱くなっているのが分かる。
 思わずリヒトを見つめると彼もアリーシェリナを真っすぐに見つめていた。その瞳に強い光が一瞬だけきらめいて見えたのは、気のせいだろうか。

「アリィ……僕は以前、君と会ったことがある?」

 問いかけられて咄嗟に頷き返す。

 強引で、優しくて、いつの間にか心を絡め取られていた。
 今も、そうだ。

「半年ほどの短い間ですが……リヒト様は八年前、この屋敷で過ごされていました」
「何故?」
「ごめんなさい、詳しい事情は私では分かりません」

 あの頃も、今でも、リヒトは"高貴なお方から預かっている"存在だということしか知らない。
 リヒトが王族に連なる人物だと父から昨日聞いてはいる。でも、この家に預けられた理由は依然として謎のままだ。アリーシェリナは知らなくていいことだと父は判断したから言わない。そういうことだと思っている。

「そうか。自分で思い出すか、ウィンドルフ侯爵に聞くしかないんだね」
「お役に立てずに申し訳ありません」
「いや。ありがとう」

 そこでリヒトは「あ」の形に開いた口を一度閉ざした。
 ドアの脇を一瞥し、アリーシェリナに視線を戻す。

「君は子供の頃の僕を知っているみたいだし、毎日十分くらいでも構わないからその頃の話を聞かせてもらえないかな」
「私が毎日お伺いしては、ご迷惑ではありませんか?」
「むしろ一週間はベッドから出るなってきつく言われてるし、君が来てくれるなら嬉しいよ」

 リヒトは記憶を取り戻す手がかりが欲しいから提案しているだけだ。
 分かっていても、胸が激しく高鳴って収まらない。
 アリーシェリナは嬉しくて震えそうな声を懸命に振り絞った。

「では明日も、できるだけこれくらいの時間にお伺い致します」
「うん、それと――僕は君のことを"アリィ"って呼んでた?」

 頷けば、やっぱり、とリヒトは納得がいったように首を縦にした。

「君をアリィって呼ぶ度に、すごく懐かしい感覚がする。だからまた、そう呼んでもいい?」
「は、はい。リヒト様の記憶を取り戻すお役に立つのなら」
「逆に君は僕を何て呼んでいたのか教えてくれる?」
「あ……それ、は……」

 弾むような気持が一転して沈み、アリーシェリナは口を噤む。
 名前を呼びたかったのに最後まで呼べなかった。
 なのに今、リヒトの記憶がないのを良いことに断りもなく呼んでいる。もしかしたら、名前で呼んで欲しくはなかったのかもしれないのに。

「ずっと、呼べなかったんです」
「僕のことが嫌いだから呼びたくなかった?」
「違います!」

 勢いよく否定して、自分の声の大きさに我に返る。それから両手の指を組んで視線を彷徨さまよわせた。

「――お名前を口にするのが、とても恥ずかしくて……」
「名前を口にするだけでも恥ずかしいって、あまり好意を持たれていたとは思えないけれど」

 アリーシェリナはひたすらかぶりを振った。

 このままだと全ての想いを口に出してしまいそうだ。
 でもすでに、態度と反応とでうっすらと伝わっている気もする。
 もう、何も言えない。
 困っていると、リヒトも追及しすぎたと思ったのか話を切り上げるよう言った。

「嫌われていたわけじゃないなら、今度は君が呼びたいように呼んでみて」
「はい。――リヒト様」
「リヒトって、愛称で呼べない名前なのは残念だね」
「確かに愛称ではお呼びできませんが、とても素敵な名前だと思います」

 彼の凛とした佇まいとよく似合っている。
 名前を知っていて良かった。
 そうでなければ、彼に似合わない名前で呼ぶことになっていたのかもしれなかったから。

 リヒトはアリーシェリナを見つめ、それから右手で目元を覆って深く息を吐いた。

(どうなさったのかしら)

 何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。
 あるいは体調が思わしくないのに身を起こしていたことで疲弊してしまったのかもしれない。
 指の隙間から見える目尻がほんのりと赤くなっているのが見えた。

「熱が出たのならフリッツ医師を呼んで来ますから」
「いや、待ってアリィ」

 立ち上がりかけたアリーシェリナの手首をリヒトが逆の手で掴んだ。
 温かいけれど、熱いというほどでもない。そうしてリヒトは再び大きく息を吐いて笑みを浮かべた。

「君に褒められると僕は、些細なことでも嬉しくなるみたいだ」

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