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嵐の中の初恋
予期せぬ再会
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何度も時計に視線を向けては時刻を確認する。
父は一時間ほど待つようにと言っていた。
南の客間のベッドメイキングを済ませ、雨に打たれて冷え切っているであろう彼の身体を湯で温め、屋敷の離れに居を構える医師に容体を診てもらう。それらにかかる時間が一時間程度だと判断したのだろう。
「旦那様が仰った時間までまだ多少の猶予がありますが、行かれるのですか?」
待ちきれなくて十分前に応接室を出ようとすると背後からゲオルグが声をかける。
アリーシェリナは振り向くこともなく頷いた。
「客間に着く頃にはちょうど良い時間になっていると思います。それに――良い人か悪い人か私には分かりませんが、お客様の様子も気になりますし」
早く客間に行きたい。
逸る気持ちを抑えて話したつもりが、思ったよりも早口だった。アリーシェリナは一度深呼吸し、ゲオルグに向き直る。
「お父様にお話を聞きに行くだけですから、ゲオルグさんは今日の護衛はここまでにして、後はお好きに過ごして下さっても問題ありません」
「せっかくお気遣いいただきましたが、旦那様と交わした契約の時間内では屋敷の中であろうとお嬢様をお護りするのが私に与えられた役割です」
父とゲオルグがどんな契約を交わしたのかアリーシェリナには分からない。
ただ分かることは雇い主の父に忠実な騎士のゲオルグは、十時から十八時の間はアリーシェリナを護ってくれているということだけだ。
本当は、意識を失った状態で運び込まれた青年が幼い記憶の中にある少年と同一人物であるのなら、一人で顔を見に行きたかった。
でも彼もまたアリーシェリナを覚えてくれているとは限らなかったし、ゲオルグが主である父との契約を重んじるのをないがしろにはできない。何より、今はわずかな時間でも惜しかった。
ゲオルグと共に父のいる客間へと向かい、ドアをノックする。
「お父様、アリーシェリナです」
ドアを開けたのは医師の妻であり看護師として支える女性だった。
夫婦揃ってもう何十年もウィンドルフ家に仕え、両親の話によるとアリーシェリナを取り上げてくれたのも彼女だという。
ちょうど退室するところだったらしい。アリーシェリナを見ると優しい笑みを浮かべた。
「まあ、アリーシェリナお嬢様。すっかりお顔の色も良くなって、お元気そうで安心しました」
「フリッツ先生とマギーさんのおかげです」
「とんでもございません。偏にお嬢様ご自身のお力ですよ」
八年前に少年と別れた頃から二か月ほど前までずっと、アリーシェリナはあまり体調が良くなかった。
フリッツ医師いわく、病気や怪我でどこかを悪くしたわけではない。未だに原因は不明だけれどアリーシェリナの魔力が著しくバランスを崩し、それによって体調に悪影響が出ているとのことだった。
静養の為に領地から一歩も出ることなく、侯爵家の令嬢でありながら十八歳になった今でも社交界へのデビューを果たしていない。
本来なら社交界デビューを果たすはずの十五歳当時は特に体調が思わしくなく、完全にタイミングを逃してしまった。
かつて一緒に過ごした少年に再会できる可能性が全くないことだけが気がかりではあったけれど、華やかな話ばかりを聞く社交界に今さら興味もない。父もデビューを促すようなことはしなかったし、このままずっと領地で過ごすつもりでいた。
「――あら」
アリーシェリナの意識がベッドに向けられていることに気がつき、マギーと呼ばれた女性は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめんなさいね、呼び止めたりして。中へどうぞ、お嬢様。診察も、できる限りの治療も終わりましたし、私共はこれで失礼致しますね」
「ありがとうございます」
「何かあればまたすぐに呼ぶよう、ちゃんと侯爵にはお伝えしてありますので」
「はい。フリッツ先生、マギーさん、お疲れ様でした」
会釈をして立ち去る医師夫妻を見送るとゲオルグは門番さながらにドアの脇に控え、アリーシェリナは一人でベッドに歩み寄った。父に示された椅子に腰を下ろし、ベッドに横たえられた人物を見やる。
紙のように白い顔色は血の通っている気配を全く感じさせず、目も固く閉ざされてはいるものの、緩慢な速度でシーツが上下していた。
呼吸していることに大きく安堵し、アリーシェリナはその顔を改めて見つめる。
記憶の中の姿よりも遥かに大人になってはいるけれど、間違いない。
アリーシェリナが初恋を抱き続けている少年――リヒトだ。
「お父様……。こちらの方は幼い頃にウィンドルフ領で過ごされていた方ですよね」
真っ先に青年の素性を尋ねると、父は誤魔化すこともなく頷いた。
「うむ。そしてリヒト・オーベルハイン・フォン・エレメンディウス王太子殿下にあらせられる」
「王太子殿下……」
彼はやっぱり王族の一員だったのだ。
だから父も彼の要望を聞かざるを得なくて、たった一度の再会ですら叶わずにいた。
そして、大人になったら結婚しようという口約束も叶うことはない。
アリーシェリナとて子供ではないのだ。
八年間、手紙の一通も来ないことで薄々と悟ってはいた。
リヒトにとってアリーシェリナは、何らかの事情で一時的に身を置くことになった侯爵家の娘でしかなかったのだ。
勢いで結婚の口約束をしたけれど成長するにつれ我に返った。
それだけの、ことだ。
リヒトだけが悪いわけじゃない。
アリーシェリナだって父に聞けば良かったのだ。そうして手紙を出して繋がりを持ち続けるなり、王太子だと知って諦めるなりしたら良かった。
でも淡い初恋が跡形もなく壊れてしまうのが怖くて、何もできなかった。
「長時間雨風に打たれたらしく、体力をかなり消耗しておられる。フリッツ医師の見立てでは目覚められるのは早くても明日の朝以降だそうだ」
アリーシェリナは再びリヒトに視線を戻した。
今は眠ることがいちばんなのだろう。アリーシェリナにできることは何もない。
「――明日もまた、殿下のご様子を見に来ても良いでしょうか」
思いきって尋ねれば父は何か言いたげな表情をしたけれど、すぐに頷いてくれた。
「八年振りに殿下にお会いして懐かしさもあるのなら、好きにしなさい」
「ありがとうございます」
翌日、昼食を済ませたアリーシェリナはゲオルグを伴って客間に向かった。
ゲオルグを付き合わせるのは申し訳なく思うも、本人が契約内だと言い張る以上はどうしようもない。だから何も言わず、付き添ってくれるままに任せた。
リヒトが目を覚ました時に事情を説明する為なのか、すでに父の姿もあった。
「昨日と比べて顔色も良くなっておられる。夕刻前には目を覚まされるかもしれない」
父の言葉を受けてリヒトの顔をのぞき込めば、確かに血色が戻って来ているように見えた。呼吸も、よりしっかりとしている気がする。
無事に回復しつつあることにアリーシェリナは胸を撫で下ろすと同時に、少しだけ緑色の混じった明るい青色の目がまた自分の姿を映してくれるのかと思うと胸を高鳴らせた。
それっきり、穏やかな眠りを邪魔しないように無言で様子を窺う。
いつ訪れるとも分からない目覚めを待つ時間は全く苦にならなかった。
ただ楽しみなような不安なような、相反する気持ちを抱えながらその時を待つ。
そして三時を過ぎた頃、とうとうその瞬間を迎えた。
長い睫毛が揺らぎ、ごく小さな声があがった。
思わず固唾を呑んで見つめる前で、ゆっくりと瞼が上がって行く。
「お目覚めになられましたか、殿下」
「殿下……?」
父の声にも安堵が色濃く滲んでいる。
リヒトは最後の言葉を小さく反芻すると身を起こそうとして肘をついた。けれど痛みが走ったのか右手でこめかみを押さえて眉根を寄せる。慌てて父がリヒトを支え、再びベッドに横たえた。
「急に動かれてはなりません」
リヒトはこめかみに手を当てたまま中空に視線を彷徨わせる。
一瞬だけ目が合ったような気がしたけれど何の反応もしなかった。アリーシェリナはただ、ことの成り行きを見守るしかできない。
「医師の診断によれば目立った外傷はございませんが、落馬の衝撃で強く頭を打たれた可能性が高いとの話です。しばらくは安静にする必要があり、当家で殿下をお預かりすると書状をお送りしてあります」
説明を受けてもどこかぼんやりとした表情のリヒトに気がつき、父は一旦口を閉ざした。
リヒトの目が父を、アリーシェリナを順に捉える。今度は確実に目が合った。けれどその表情に何ら感情の揺らぎは起こらない。大きく息を吐き、不安の混じった声がこぼれた。
「君たちは……誰だ? いや、それ以前に……僕は誰なんだ……?」
父は一時間ほど待つようにと言っていた。
南の客間のベッドメイキングを済ませ、雨に打たれて冷え切っているであろう彼の身体を湯で温め、屋敷の離れに居を構える医師に容体を診てもらう。それらにかかる時間が一時間程度だと判断したのだろう。
「旦那様が仰った時間までまだ多少の猶予がありますが、行かれるのですか?」
待ちきれなくて十分前に応接室を出ようとすると背後からゲオルグが声をかける。
アリーシェリナは振り向くこともなく頷いた。
「客間に着く頃にはちょうど良い時間になっていると思います。それに――良い人か悪い人か私には分かりませんが、お客様の様子も気になりますし」
早く客間に行きたい。
逸る気持ちを抑えて話したつもりが、思ったよりも早口だった。アリーシェリナは一度深呼吸し、ゲオルグに向き直る。
「お父様にお話を聞きに行くだけですから、ゲオルグさんは今日の護衛はここまでにして、後はお好きに過ごして下さっても問題ありません」
「せっかくお気遣いいただきましたが、旦那様と交わした契約の時間内では屋敷の中であろうとお嬢様をお護りするのが私に与えられた役割です」
父とゲオルグがどんな契約を交わしたのかアリーシェリナには分からない。
ただ分かることは雇い主の父に忠実な騎士のゲオルグは、十時から十八時の間はアリーシェリナを護ってくれているということだけだ。
本当は、意識を失った状態で運び込まれた青年が幼い記憶の中にある少年と同一人物であるのなら、一人で顔を見に行きたかった。
でも彼もまたアリーシェリナを覚えてくれているとは限らなかったし、ゲオルグが主である父との契約を重んじるのをないがしろにはできない。何より、今はわずかな時間でも惜しかった。
ゲオルグと共に父のいる客間へと向かい、ドアをノックする。
「お父様、アリーシェリナです」
ドアを開けたのは医師の妻であり看護師として支える女性だった。
夫婦揃ってもう何十年もウィンドルフ家に仕え、両親の話によるとアリーシェリナを取り上げてくれたのも彼女だという。
ちょうど退室するところだったらしい。アリーシェリナを見ると優しい笑みを浮かべた。
「まあ、アリーシェリナお嬢様。すっかりお顔の色も良くなって、お元気そうで安心しました」
「フリッツ先生とマギーさんのおかげです」
「とんでもございません。偏にお嬢様ご自身のお力ですよ」
八年前に少年と別れた頃から二か月ほど前までずっと、アリーシェリナはあまり体調が良くなかった。
フリッツ医師いわく、病気や怪我でどこかを悪くしたわけではない。未だに原因は不明だけれどアリーシェリナの魔力が著しくバランスを崩し、それによって体調に悪影響が出ているとのことだった。
静養の為に領地から一歩も出ることなく、侯爵家の令嬢でありながら十八歳になった今でも社交界へのデビューを果たしていない。
本来なら社交界デビューを果たすはずの十五歳当時は特に体調が思わしくなく、完全にタイミングを逃してしまった。
かつて一緒に過ごした少年に再会できる可能性が全くないことだけが気がかりではあったけれど、華やかな話ばかりを聞く社交界に今さら興味もない。父もデビューを促すようなことはしなかったし、このままずっと領地で過ごすつもりでいた。
「――あら」
アリーシェリナの意識がベッドに向けられていることに気がつき、マギーと呼ばれた女性は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめんなさいね、呼び止めたりして。中へどうぞ、お嬢様。診察も、できる限りの治療も終わりましたし、私共はこれで失礼致しますね」
「ありがとうございます」
「何かあればまたすぐに呼ぶよう、ちゃんと侯爵にはお伝えしてありますので」
「はい。フリッツ先生、マギーさん、お疲れ様でした」
会釈をして立ち去る医師夫妻を見送るとゲオルグは門番さながらにドアの脇に控え、アリーシェリナは一人でベッドに歩み寄った。父に示された椅子に腰を下ろし、ベッドに横たえられた人物を見やる。
紙のように白い顔色は血の通っている気配を全く感じさせず、目も固く閉ざされてはいるものの、緩慢な速度でシーツが上下していた。
呼吸していることに大きく安堵し、アリーシェリナはその顔を改めて見つめる。
記憶の中の姿よりも遥かに大人になってはいるけれど、間違いない。
アリーシェリナが初恋を抱き続けている少年――リヒトだ。
「お父様……。こちらの方は幼い頃にウィンドルフ領で過ごされていた方ですよね」
真っ先に青年の素性を尋ねると、父は誤魔化すこともなく頷いた。
「うむ。そしてリヒト・オーベルハイン・フォン・エレメンディウス王太子殿下にあらせられる」
「王太子殿下……」
彼はやっぱり王族の一員だったのだ。
だから父も彼の要望を聞かざるを得なくて、たった一度の再会ですら叶わずにいた。
そして、大人になったら結婚しようという口約束も叶うことはない。
アリーシェリナとて子供ではないのだ。
八年間、手紙の一通も来ないことで薄々と悟ってはいた。
リヒトにとってアリーシェリナは、何らかの事情で一時的に身を置くことになった侯爵家の娘でしかなかったのだ。
勢いで結婚の口約束をしたけれど成長するにつれ我に返った。
それだけの、ことだ。
リヒトだけが悪いわけじゃない。
アリーシェリナだって父に聞けば良かったのだ。そうして手紙を出して繋がりを持ち続けるなり、王太子だと知って諦めるなりしたら良かった。
でも淡い初恋が跡形もなく壊れてしまうのが怖くて、何もできなかった。
「長時間雨風に打たれたらしく、体力をかなり消耗しておられる。フリッツ医師の見立てでは目覚められるのは早くても明日の朝以降だそうだ」
アリーシェリナは再びリヒトに視線を戻した。
今は眠ることがいちばんなのだろう。アリーシェリナにできることは何もない。
「――明日もまた、殿下のご様子を見に来ても良いでしょうか」
思いきって尋ねれば父は何か言いたげな表情をしたけれど、すぐに頷いてくれた。
「八年振りに殿下にお会いして懐かしさもあるのなら、好きにしなさい」
「ありがとうございます」
翌日、昼食を済ませたアリーシェリナはゲオルグを伴って客間に向かった。
ゲオルグを付き合わせるのは申し訳なく思うも、本人が契約内だと言い張る以上はどうしようもない。だから何も言わず、付き添ってくれるままに任せた。
リヒトが目を覚ました時に事情を説明する為なのか、すでに父の姿もあった。
「昨日と比べて顔色も良くなっておられる。夕刻前には目を覚まされるかもしれない」
父の言葉を受けてリヒトの顔をのぞき込めば、確かに血色が戻って来ているように見えた。呼吸も、よりしっかりとしている気がする。
無事に回復しつつあることにアリーシェリナは胸を撫で下ろすと同時に、少しだけ緑色の混じった明るい青色の目がまた自分の姿を映してくれるのかと思うと胸を高鳴らせた。
それっきり、穏やかな眠りを邪魔しないように無言で様子を窺う。
いつ訪れるとも分からない目覚めを待つ時間は全く苦にならなかった。
ただ楽しみなような不安なような、相反する気持ちを抱えながらその時を待つ。
そして三時を過ぎた頃、とうとうその瞬間を迎えた。
長い睫毛が揺らぎ、ごく小さな声があがった。
思わず固唾を呑んで見つめる前で、ゆっくりと瞼が上がって行く。
「お目覚めになられましたか、殿下」
「殿下……?」
父の声にも安堵が色濃く滲んでいる。
リヒトは最後の言葉を小さく反芻すると身を起こそうとして肘をついた。けれど痛みが走ったのか右手でこめかみを押さえて眉根を寄せる。慌てて父がリヒトを支え、再びベッドに横たえた。
「急に動かれてはなりません」
リヒトはこめかみに手を当てたまま中空に視線を彷徨わせる。
一瞬だけ目が合ったような気がしたけれど何の反応もしなかった。アリーシェリナはただ、ことの成り行きを見守るしかできない。
「医師の診断によれば目立った外傷はございませんが、落馬の衝撃で強く頭を打たれた可能性が高いとの話です。しばらくは安静にする必要があり、当家で殿下をお預かりすると書状をお送りしてあります」
説明を受けてもどこかぼんやりとした表情のリヒトに気がつき、父は一旦口を閉ざした。
リヒトの目が父を、アリーシェリナを順に捉える。今度は確実に目が合った。けれどその表情に何ら感情の揺らぎは起こらない。大きく息を吐き、不安の混じった声がこぼれた。
「君たちは……誰だ? いや、それ以前に……僕は誰なんだ……?」
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