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プロローグ

二度の裏切りの果てに

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「あの子供は? 誰かの子の面倒を君が見ているの?」

 陽当たりの良い窓際に置かれたベビーベッドに一瞥をくわえてから、リヒトはその涼やかな目をアリーシェリナに向けた。

 ほんの少し緑色の混じった明るい青色の目に見つめられるのが大好きだった。
 雲一つない澄み切った初夏の空を思わせる色が優しく細められ、おいで、と広げられた両手の中に飛び込むのが大好きだった。

(あの子は私とあなたの子供なの)

 そう伝えられたらどんなに良いだろう。
 短い間だけだったけれど確かに愛し合い、その結果身籠った子だと伝えられるのなら、どれだけ幸せだろう。

(ねえ、見て。口元は少しあなたに似ている気がするの。とても可愛いでしょう? あなたを見ても泣かないと思うから、抱っこしてあげて)

 でも、その日が来たら言いたいと思っていた言葉を全て呑み込み、アリーシェリナは視線を背ける。
 もう少しもリヒトへの関心も愛情も残ってはいない。
 自ら心を切り裂いて心にもない嘘の置き場を作り、真実であるかのように態度で示す。泣きそうになるのを唇を固く引き結んで我慢し、未だ癒えずにいるのに自分でさらに傷つけた心の傷が塞がるのをじっと待った。

 リヒトはこの国の王太子で、そしてアリーシェリナは――今はもう侯爵家の令嬢ではない。神に身を捧げる道を選んだ、ただの修道女だ。以前は近くに感じられていた住む世界も完全に遠い場所になって、もはや繋がりを望むことすら許されなかった。

 父親の顔を知らなくても元気に生まれて来てくれた我が子には何の罪もない。
 だけどアリーシェリナは許されざる恋に溺れ、無知な自分を知ってもなお罪を犯し続けた。
 そんな愚かな行動のつけは自身ではなく、我が子が背負わされている。いずれ大きくなれば父親が誰なのか知りたくなるだろう。生きているのなら会いたいと思うだろう。でも、どちらもしてあげられない。その事実はいつでもアリーシェリナの心をさいなんで重く沈ませた。

「答えないの、アリィ? だったら――君と、あの騎士との間の子供だっていう噂は事実なのかな」

 瞳に剣呑な色を宿らせ、リヒトはアリーシェリナの顎をつまんだ。
 強引に上を向かせて視線を合わせる。
 それでもアリーシェリナは懸命に抗って俯いた。

 この修道院に身を置かせてもらうことになり、表向きはそういう設定・・・・・・で通すことを了承したのはアリーシェリナだ。
 子供の本当の父親が誰なのか。決して知られてはいけなかったから、嘘をつくことを受け入れた。そうして秘密と裏切りを抱えたまま、我が子と二人で生きて行けばいいと思ったのだ。

「でも君は以前、彼は恋人じゃないって僕に言った」
「あの頃とは、私の想いも変わって……」
「だから僕への想いを捨てて、彼と恋人になった?」

 修道院の中での嘘がリヒトの耳にも入り、さらには事実だと受け止められているのを知ってこんなにも胸が痛んでいる。
 彼には知られることすらないと思っていた。
 王太子である彼に王都から離れた場所にある修道院で流れる噂が届くなんて、思うはずがない。

 知られた今となっては、どうにもできないことだ。
 アリーシェリナは嘘をつき通す為に言葉を紡ぐしかなかった。

「それが、本当だとして……。私は、もう……慎ましく、幸せに暮らして、いるの。今さら……っ」
「今さら? あの屋敷を後にした君を、僕はずっと探していたよ。今さらなんかじゃない。二年間ずっと、君のことだけを考えて探していたんだ」

 額を唇が掠め、その感触に泣きたくなる。
 でも何もかもが、今さらだ。

 過去の幸せな記憶を全て断ち切るよう、アリーシェリナは顔を上げた。

「一週間後、私は夫婦の儀式を行うのです。だから……全部、今さら、なんです」

 諦めて欲しくて嘘をつく。
 いや、厳密に言えば嘘じゃない。
 受け入れてはいないけれど、子供の父親だとリヒトが思っている人物から求婚自体はされていた。

「つまり……結婚して永遠に他の男のものになるということ?」

 アリーシェリナは小さく頷く。

 リヒトの肩が震えた。完全に怒らせたのだろう。これからどんな憎悪の感情をぶつけられるのか、アリーシェリナは自業自得だと分かってはいても身をすくませた。
 目をきつく閉じて身構えていても、その時は一向に訪れない。おそるおそる目を開き、そして驚きに見開いた。

「嘘だね」

 意地の悪い笑みを浮かべるリヒトは一言で切り捨てる。
 初めて見る表情だ。
 目が笑っていないことにアリーシェリナの心は竦み、胸の前で右手を握りしめた。

「う、嘘……なんかじゃ」

 懸命に声を絞り出す。
 それでもリヒトの表情は変わらなかった。

「いや、嘘だよ。でなければシスターたちは婚姻を控えた清らかな身である君を、夫の同席もなしに他の男と二人きりで引き合わせたことになる」
「それは、今は街に出ているから」
「不在ならなおさらに会わせないものじゃないかな」

 リヒトの言うことはもっともだ。
 不貞など、この修道院の中でなくとも許される行為ではない。
 だからこそベビーベッドで眠る子供が自分の子であると、リヒトにも分かって欲しかった。知られてはいけないのに知って欲しい。身勝手な想いがアリーシェリナの中で渦巻いた。

「あくまでも、他の男と結婚するって言い張るんだね」

 アリーシェリナは再び目を背けるように頷く。

「く……は、はは……。そう、そうなんだ」

 リヒトはたまらずにといった様子で笑い声をあげた。
 アリーシェリナの肩を抱き、耳に、鼻先に、頬に口づけ、最後にほんの一瞬だけ唇を重ねる。

「それなら今、君の全てを僕が奪い尽くしてしまえば……まだ全然、間に合うね」

 そしてアリーシェリナが身動ぎする前に耳元に囁いた。

「アリィは二度も僕を裏切ったんだ。だからもう優しくはしない」

 穏やかではない言葉とは裏腹にリヒトはそっと、アリーシェリナを腕の中に閉じ込める。
 壊れ物に触れるような優しさだ。
 縋りつきたくなって、けれどそれは許されない行為だと腕に力をくわえた。

 ほんの少し身体を離せばリヒトが耳をむ。

「アリィ、抵抗したら本当に優しくできなくなってしまうよ」
「そ、んなのって、ひどい」
「ひどくないよ。おとなしく受け入れてくれたらそれでいい。とても簡単なことじゃないかな」

 そして聞き分けのない子供に言い含めるように諭した。

(だめ。受け入れては、だめなの)

 甘やかな毒の入ったグラスを差し出されているような感覚に陥りながら、アリーシェリナはいやいやと首を振った。
 だからと言ってリヒトも引き下がってはくれない。

「ねえアリィ。ベッドの場所を教えて? 君だって床の上に引き倒されたくはないだろう?」

 耳に唇を押し当てて言葉を紡ぐ。

 吐息と、耳馴染みの良い低い声に心を揺さぶられ、アリーシェリナの奥深くにかすかな熱が宿った。
 もうずっと前に消したはずの炎が、その種火までは消せずにくすぶっていて、リヒトの手でいともとやすく燃え盛って行く。
 甘美な炎に煽られるまま身を委ねたい衝動が湧き上がって来る。
 熱を冷まそうと理性を必死にかき集めた。
 なのに熱情の宿る風が嵐のように吹き荒れて翻弄する。

「や……。おねが……、もう、私に……関わらないで……」
「"抱いて欲しい"って言いたげな可愛い声で言われても聞いてあげないよ」
「そんなの、言って、思ってない……っ」
「思ってるし、言ってるよ。本当に嫌なら、好色な王太子に手籠てごめにされそうだって大きな声をあげて助けを求めたらいい」

 二人きりになれたのは彼が人払いをした為だ。
 そして、若き王太子が子持ちの修道女に手を出すはずがないという安心感もあった。アリーシェリナ本人ですら過去の裏切りへの怒りをぶつけられこそすれ、身体を求められるなど想像してもなかったのだから。

 助けを呼べば彼が恥をかく。
 あるいは王太子を誘惑する悪女だとアリーシェリナが謗られるかもしれない。

(でもそうじゃ、なくて。私……)

 嫌じゃないから助けを呼べない。

 もっと違う再会だったならきっと、抗ってなかった。

「アリィ、ここでもいいの? 久し振りだからってずいぶん情熱的だね」
「だめ……っ」
「だめなら、どこでならいいのか教えて?」

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