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第四章 幸せを探して

四 鸚鵡は青空にはばたく(4)

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 落ち着いて。
 アルフレッドにも同じことを言われたっけ、とリュリの心にじんわりと彼の声が広がる。
 城を出て、すぐにでも彼の大きな屋敷に、彼に会いに行こう。
 刹那、美しい貴婦人と並ぶ彼の姿が脳裏をよぎる。貴婦人は、リュリを苦しめたあの翠のドレスを難なく着こなし、そっと彼の腕を引く。彼もそれを笑顔で受ける。アルフレッドは、リュリに不機嫌そうな一瞥をくれると、無情にも背を向けた。
 そんな嫌な想像をしてしまい、陰鬱な気分になって、リュリは頭を垂れた。乳母の部屋に響いていた、カタカタという紡ぎ車の廻る音が止んだ。その代わりに衣擦れの音が続き、食器のぶつかる涼しげな音が聞こえてきた。女王の乳母はリュリに、大きなマグカップを差し出す。
 リュリは、嗅ぎ慣れたお茶の香りにはっとし、受け取った。
 手のひらでそれを包むと、じんわりとした暖かさが伝わる。
「リュリ……あなたのお話し、聴かせてほしいわ……」
 そう言うと乳母はリュリの隣に椅子を引き寄せて、机の上に両の肘をつきながら、持っているマグカップに唇をあてがった。瞳の色は、水色がかったグレーだったが、その形にやはり見覚えがある、とリュリは思った。婦人につられて飲むと、のど越しに、ほんの少しぴりっとした味を感じる。
「生姜だ……」
「そう……。夏が来ても、体は冷えるから……」
 リュリはこくりと頷き、お茶をすする。
 城から突き出ている塔に、風が切られて轟々という音がする。
 二人はどちらともなく話し出すのを窺いながら、沈黙を破らずにいた。
 未だ緊張が解けきらぬリュリは、話す代わりにごくごくとお茶を飲んでいた。そのため、マグカップの底が見え始めるのに、そう時間はかからなかった。
 ごくりと最後の一口を飲み干してしまうと、リュリはカップを机に置き、代わりに竪琴を手にした。
「お願いがあるの。あなたがもし、紡ぎ手なら……。ファイナ、この竪琴を直してほしいの」
 少女の両腕と翠の瞳が真っ直ぐに乳母に向かって伸びる。彼女は差し出された竪琴を受け取ると、愛おしげにその枠を撫でた。彼女の伏せられた睫毛の長さに、リュリの視線が吸い寄せられる。
 ファイナは懐かしむように呟いた。
「また、これに糸を張る日が来るだなんて……」
「また?」
 小首を傾げるリュリに、乳母はにこやかだ。
「ええ、そうよ。それに丁度、面白い糸をよっていたところなのよ」
 ほら、と言ってリュリに差し出された糸巻には、淡く桃色がかった金色の糸が巻いてあった。
魔法めいて艶めくその色に、リュリは気付く。
「これ、ロゼちゃんの髪! 本当に、シファナ姫と同じことをしちゃったんだ……」
 夕陽の落ちる空の彼方、昼と夜の境にできる幻想的な色をそのまま受け継いだような、豪奢な色をして、女王が歩く度にたなびいた、足首まで伸びた美しい髪。大切にしてきたであろうそれを断ち切ってしまうほど、彼女の失意が深かったことに、リュリは改めて気付かされた。
「リュリ、糸をちょうだいな」
 少女はこくりと頷き、乳母に乞われるがまま糸巻を差し出した。
 乳母は慣れた手つきで糸に珠を通し、糸を穴にくぐらせると、ペグに巻き付けていった。
 作業を見守るリュリに、ファイナが問いかけた。
「リュリ、その本を読んだのね?」
 リュリは再び頷く。
 それを傍目に受け、ファイナは続ける。
「……あの終わり方に、あなたはどんな感想を持ったのか、聞かせてくれないかしら?」
 終わりという言葉に反応し、リュリは顔を上げた。乳母の言葉は、結末を知る者ではないと出てこない言葉だ。彼女はせきを切るように話し出した。
「実は、最後のページが無くて! どんな終わりか、わからないの。お話を知ってるの?」
 リュリの銀色の髪が窓からの日差しの中で光に溶けるのを、ファイナは眩しそうに見やった。
「知ってるも何も、それは私が書いたお話だから」
「そ、そうなの?」
 身を乗り出してくるリュリが、作業をする手元を陰らせたので、乳母はそっと体の向きを変えた。そして、少しおどけて言って見せた。
「なんだったら、今ここで、あなたの気に入る結末をつくってもいいのよ?」
 ファイナの、少女を喜ばせようとした言葉に、リュリは真面目そうな表情をつくった。それは喜んでいるとは言い難いものだった。
「……私の好きな終わり方じゃなくていいよ。あなたの、ファイナの望んだ結末が見たいの。だから……」
 そのとき、申し訳なさそうに話すリュリの後頭部に、ぴしりという衝撃が走った。
「ひゃっ!」
「大丈夫、リュリ!」
 患部を抑えながらうずくまるリュリの横に、丸くまとめられた麻縄が落ちる。すると、壁を擦る音が聞こえてきた。音が消えると同時に、窓辺から一つの影が部屋に侵入してきた。
「もう! どうしてわたし、いつも痛い思いをしなきゃいけないの?」
 リュリはすっくと立ち上がると、今までの理不尽な思いを言葉にして、影にぶつけた。
 原因のほとんどはリュリの鈍くささなのであるが、彼女はそうは思っていなかった。
 逆光で顔の見えない人影は、彼女の言葉を気にもとめず、リュリをひと思いに抱きしめた。
「ファイナ! やっと迎えに来られた……!」
「えっ? ちょっとまって!」
 突然の抱擁に慌てるリュリの肩を掴むと、人影は彼女の顔を覗き込んだ。
 そのおかげで、影の正体は男性だとわかった。年月が刻んだ皺で少しくたびれた雰囲気はあるが、精悍さは失われていない。無精ひげが日焼けした肌に白く目立っていた。
「綺麗だよ……! 昔と変わんねえ……! さすが俺のファイナだ!」
 ほれぼれとしながらリュリの顔を眺める男性と、何故か涙を浮かべ口元を押さえるファイナ本人を、リュリは忙しなく見比べた。
 癖の強い白い髪に、翠の瞳の男性。
 穏やかなアーモンド形の瞳に、細い鼻、そして抜けるような白い肌を持つ女性。
 リュリの頭の中で疑問が確信に変わってゆく。彼女はバラバラになっていたかけらが定位置にはまるのを感じ、ファイナを真っ直ぐに指さした。
「違うよ! ファイナ……、えーっと、お母さん、はあっち! 私はリュリ!」
 声を荒げる目の前の少女に倣って、男性は乳母の方を見やった。
 彼も目の前の女性と少女に深い血の繋がりを見出したようだった。
「ん? リュリ? ……ってことは……お前……」
 ファイナもリュリの言葉を受け、溜めていた涙をあふれさせた。
「リュリ、あなた……!」
 二人の視線を全身に集めたリュリは、自信が無さそうにはにかんだ。
「まちがってたらごめんなさい、だけど……。そう、だよね? ファイナは、お母さんで……あなたがアラム、お父さん、なんだよね?」
 勢いで言ってしまったことが、もし間違いだったらどうしよう。
 そう考え始めたリュリは羞恥で顔を上げられなくなってしまった。
 それを見て、二人はそっと言葉をかけた。
「何一つ、母親らしいことをしてやれていないわたしを、まだ母と呼んでくれるのなら……」
「家族を守れない、かっこ悪い親父で良いんなら……」
 未だにもじもじとしている少女を前に、男女は視線を交わした。男性はそっとファイナの腰に腕を回し抱き寄せた。女は彼の傍らでそっと涙をこぼしていた。しかし、その表情は喜びに満ちていた。母親は両腕を差し伸べ、娘に胸を開いた。
「おいで、リューリカ。私たちの、娘……」
 リュリは、日差しに包まれた両親の間に飛び込んでいった。
 彼女の頭を撫でる手のひらは武骨で大きく、彼女の体を包む両腕はしなやかで暖かかった。 言い知れぬ懐かしさを覚えたリュリに、何かが込み上げてくる。嗚咽と共に感情があふれる。
「やっぱり、お兄ちゃんは嘘つきだよ! お父さんもお母さんも生きてた……。だからこうやって会えたもん」
「シュウか! あいつに会ったのか、リューリカ?」
「うん」
 リュリはアラムの詰問に、涙を拭いながら頷く。
 ファイナは夫の語気が強すぎるのを視線で牽制し、穏やかな声音で娘に問うた。
「あの子のこと、知っているのね?」

「リューリカと結婚ねえ……。どこの馬の骨だ? 顔を見せにも来ないで……お父さんは認めないぞ!」
「お父さん、お兄ちゃんだよ……」
 これまでの経緯を娘から聞いた両親は、その手を繋ぎながらも別々の反応を見せていた。
 リュリはそれを見て多いに戸惑う。
「わたし……やっぱり、母親失格だわ……。あの子の顔すらわからなかったなんて……」
「仕方ないよ、だってお母さんの前では仮面を取らなかったんだし……」
 激高するアラムをなだめたと思ったら、落ち込むファイナ。そしてその母を励ますリュリ。と、彼女は父親が握りしめている紙片に気付いた。
「お父さん、それ、ぐしゃってしても、いいの?」
 リュリが指さすと、彼は慌ててファイナと繋いだ手を離し、紙片を広げた。
「……これが、たったひとつの道標だったんだ」
 アラムが妻に向けてその口の端をくいっと持ち上げると、彼女は何度目かその整った容貌に滴を零した。その紙片には、流麗な蔦模様で飾られたヴィスタの文字があった。

『親愛なる女王陛下、我が娘へ――ファイナ・オルロフスカヤ』
 リュリがその紙片の裏に、細かな文字を見つけている間、ファイナは再び夫の胸に寄り添っていた。言葉も出てこない妻を、夫が愛おしそうに抱きしめる。
「君の謎かけが優れていたことと、俺の推理が正しかったことに感謝してる。リューリカ、親父の名推理、聴いてくれねえか? それから、さっき会った――」
「ああっ!」
 リュリが提案に二つ返事をしようとしたとき、教会の鐘が鳴った。十一回目で鳴りやんだそれで、リュリは現在の時刻がわかった。
 驚くべき偶然で家族は再び顔を合わせることが出来た。しかし、今、リュリには目的があったのだ。それは、兄に見つかる前に遂行しなくてはならない。焦りが喉から弾ける。
「お母さん、お父さん、わたし、行かなきゃ! あのね、わたし、好きな人がいるの! でも、その人にも好きな人が居て、でも、わたしはその人が好きで、あと、お兄ちゃんはわたし以外に意地悪だし、そもそも、お兄ちゃんとわたしが結婚とか変だし……!」
 好きな人、という言葉に、再び全身の毛を逆立てようとするアラムを、ファイナが制する。
「いってらっしゃい、リューリカ」
 母の笑顔に、リュリは緊張にいからせていた肩をほっと降ろす。
 何かを言いたそうな夫のくちびるにそっと手のひらを宛がって、ファイナは続ける。
 その手には先程の紙片があった。母は娘へ、それを手渡すことはしなかった。
「待っているわ。物語の終焉と共に」
 リュリは母の手仕事に感嘆する時間も惜しんで、竪琴を受け取るなり、駆けだした。
 階段を照らすように開け放たれた窓から差し込む陽光に、新しくはられた絃が反射して、薄暗い影にきらりと魔法の虹を写す。
 息せき切ってホールに駆け下りたリュリの瞳に、まだらな金髪の房が飛び込む。
 それはまるで馬の尻尾のように躍動し、リュリの降りてきた塔と反対へ去っていった。
 双子の塔、彼女が住まっていた場所だ。
 駆け昇っていった青年は、少女が焦がれ続けた貴族の男だった。
「……アル、くん……? どうして……?」
 リュリの足は、自然と彼を追い始めた。
 心の速さに、全身が従っていた。
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