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三、知恵と勇気の王国

2,叡智を体現する男(3)

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 目前の青年は、グレイの顔色がさっと変わったのを気にも留めず、滑らかに語りだした。

「僕の目は誤魔化せない。隠しても、もう遅い。諦めたまえ。そのトランクと鎧に焼き込まれた紋章は王家のものだろう。所有物に家の紋章を入れられるのは貴族以上の身分だ。しかし王家の紋章――〈ヴァニアスの薔薇ダブル・ローズ〉を平民でも身に付けられる場合がある。シュタヒェル騎士団の騎士がそうだ。彼らは国王のものだから。それを踏まえれば、君がシュタヒェル騎士団の者であるという可能性が濃厚なのだ。けれども……」

 グレイの目の前で、まるで書物のように情報があふれだす。
 眼鏡の男は、まるで授業をするように指を振った。

「ここでひとつ、おかしな点がある。騎士団員の鎧に焼き鏝が当てられるのはけだし当然として、トランクにも印をつけるだろうか? 見たところ、二、三度はぞんざいな扱いをした傷があるようだが、それでも形を保ち続けている。上等なトランクだ。持ち手だけでなく肩掛けまでついて、ほとんど特注だろう。では、一介の騎士がその収入で特注のトランクを購入することができるか? いや、できまい。ソーン城の寮住まいでたまった鬱憤を晴らすのにある程度の散財が定期的にあるのは容易に考えられるし、あの好色家であるアルバトロス卿から声を掛けられればそれこそ断ることはできないだろうから……」

 しかも、ほんの少しのヒントと観察だけでほとんど正解を言い当ててしまいそうな勢いがある。
 少年は危機感に似た焦りを覚えていた。
 的確な情報を瞬時に引き出す、その分析力は類を見ない。
 こいつ、只者じゃないな。

「君はどうやら僕より若いらしい。僕は二三歳だから、それよりも若く、しっかりとした体躯……大体十八歳くらいだろうか? ヴァニアス王家に連なる十八歳の男子となると、現国王しか該当しない。だが、王政復古から一度も外出したことのない少年が筋骨たくましく育つかというと、それは甚だ疑わしいものだ。いや、公務をこなす合間に鍛練を積むのはかなり強い精神力が必要とされる。ん? しかし、そうか、独裁者の器ならばそれも可能なのか? それにしてはペンよりも剣を持ちなれた手をしている。長剣はおろしたてだね? 鞘のメッキが剥げていない」

 グレイの全身が視線で撫でられる。
 えぐられるような気分さえする。
 男は少年の素性を抉り当てようとしていた。
 手のひらにじっとりと、嫌な汗が握られる。
 二人の男の間を沈黙が支配する。
 ウミネコのけたたましさが遠のいてさえ感じる。
 これが、蛇に睨まれた蛙というものか。
 気圧されたグレイの背筋はすっかり凍ってしまっていた。
 ここで、正体がばれてしまう訳にはいかない。
 グレイが空気を食んでいると、男は何かに気づいた。

「すまない、長くなった。要するに、僕は君が何者であるかを尋ねたいんだ。君の名は?」

 確かに、グレイは男の推論を止めたかった。
 けれども男の口から滝のように流れ出す言葉を耳に入れるので精いっぱいで、その用意はほとんどなかった。

「グレイ」

「家名は?」

 男が小さく首を傾げる。
 それこそ、用意をしていなかった。
 情報処理に追いつかない頭を必死で動かす。
 身近な人間の家名を総ざらいしてみるものの、グレイが思い当たる家名のほとんどが爵位持ちだった。
 あまり考える時間はない。
 神にすがるような気持ちで、とっさにひとつを選んだ。

「……シール。グレイ・シールだ」

 彼はふむとひとつ息を吐いただけだったので、グレイはここぞとばかりに反撃に出た。

「初対面の相手にしゃべらせてばかりいないで、お前こそ名乗ったらどうだ――?」

 それと同時に、グレイの元へ二人の子どもが駆け寄ってきた。

「ぐーさま、たせ!」

「またせー!」

 晴れて養子となったシロとクロが、意味の通らない言葉を重ねてグレイに抱き着く。
 少年同様、眼鏡の男もあっけにとられていた。
 グレイがじゃれつかれていると、聞き知った少女の声がウミネコの隙間から聞こえた。

「グレイ、お待たせ!」

 テュミルとドーガスが、〈黒龍丸スヴェル・ドレークン〉を背にゆったりやってきた。
 剣士は相変わらずにこやかだったが、トレジャーハンターのほうは眼鏡の男を見るなり怪訝そうに目を細めた。
 グレイの目の前にたどり着くころには、彼女の瞳は険しい色をしていた。

「なんであんたがこんなところにいるのよ、エイノ?」

 少女が差し出した手を、男が握った。

「やあ。〈白銀の乙女スターライト・ガール〉。ご挨拶だな。いや、テュミル君らしいか」

 テュミルが見ず知らずの男と握手をしたものだから、グレイは驚いた。
 彼女の肩書を思えば、外国に知人がいてもおかしくはない。
 しかし、知り合いだとしても、こんな偶然がありえるのか?
 当惑する少年の前で、手は離したものの、友交が温められている。

「だって、あんたみたいな本の虫が港にいるのは不思議だもの」

「僕もそう思う。三日も港のカフェで待ちぼうけを食らうとは思いもしなかった。お陰で肌が日に焼けてひりひりする」

「確かに赤いわ」

 親しそうにくすくす笑う二人に、グレイは疎外感を感じずにはいられない。
 少年の思いが読まれたのか、エイノという男がちらりと彼を盗み見た。
 一瞬、瞳が合ったがどことなく気まずくてすぐに逸らした。

「ところで、いつの間に所帯を持ったんだい? 夫を捕まえたのは百歩譲ってよいとして。ヴィーサウデンを出てからすぐに妊娠したとしても、そんなに大きな子どもは――」

「飛躍しすぎ! グレイはただのお荷物で、双子は行きしなに奴隷だったのを保護したのよ」

「グレイ君もシールと名乗ったぞ。ああ、そうか、君たち、孤児院の昔馴染みか?」

「……そんなところかしらね」

 そこまで話してやっと、テュミルはグレイを見た。
 じっとりとねめつけられたので、嬉しくはない。
 しかし。
 少年の心には小さな苛立ちとは別に、引っかかるものがあった。
 ウミネコに興味を持った双子が港を駆けだすと、グレイはぽつりと尋ねた。

「お前、エイノっていうのか……?」

「初対面の相手にお前とは不躾な。だが、ああ、いかにも」

 エイノはきょとんとした。
 しかし、その落ち着いた表情は変わらなかった。
 知的で洞察力に長けた、秀才の男。そのイメージにヒントを得て、グレイは慌てて懐から手紙を取り出した。
 アルバトロスの書いた宛名を参照する。
 青の瞳が、驚きで見開かれる。

「エイノユハニ・ヘンリク・クルーセル!」

 類まれな知識と頭脳を持つとされる男が、想像以上に若かったため、グレイはまじまじと彼を見つめてしまった。
 さっき、二三って言ってたよな。
 知らなかった、とドーガスがグレイのかわりにテュミルを責めてくれている傍で、エイノは少年の手元に注視していた。

「失礼」

 彼はさっとグレイから手紙を奪うとぞんざいに開封し、書面を一瞥した。
 少年が読み終える速度に感心していると、おもむろに自身の荷物から白い紙きれをとりだした。
 手紙だ。
 エイノは二通の手紙を空中でぴったりと隣り合わせると、一つ頷いてグレイに向き直った。

「断る」

 グレイも上から手を伸ばして、エイノから手紙を奪い返す。
 そこには見慣れた文字で、国王グラジルアスの顧問への勧誘が書かれていた。
 しかも、エイノ自らが使いの者を試してから決断せよとの記述もある。

「待ってくれ! 俺、まだ何も試されていないじゃないか!」

「試さずとも、わかる。君のような不躾な騎士を選んだ時点でな。そもそも、独裁者の肩を持つつもりもない。それに、こう見えて僕はとても忙しい。わざわざ来てくれてありがとう。復路につくまで、のんびりと観光していくといい」

「エイノ! まだ話すらしていないだろ! ミルからも何か言ってくれよ!」

 グレイが背を向けたエイノの肩に手をかける。
 それと同時に、駆ける足音が近づいてきた。

「すみません! 遅くなりました!」

 青草のようなアルトは、〈黒龍丸スヴェル・ドレークン〉が誇るちび船長ルヴァのものだった。
 彼は自分のショルダーバッグを上下に揺れぬよう両手で抱えてベンチのところまでやってくると、冷えた雰囲気にいち早く気付いた。
 頬に汗が伝う。

「……あれ。何かありましたか?」

「えっと――」

 グレイが経緯を説明するより先に、エイノがルヴァに詰め寄った。
 彼は少年が結びきっている水色の長い髪を一筋掬って、青空にかざした。
 いきなりだった。
 俺のことを不躾だといっていた口はどれだよ。
 グレイが呆けて見つめたエイノの横顔は、驚きに満ちていた。
 頬が紅潮している。

「空に透ける髪! 君、純血フレイントだろう、ワニアの!」

「えっ? えっ?」

 ルヴァが突然のことに当惑しているのにもかまわず、エイノは興奮冷めやらぬ様子で畳みかけている。

「君、本は読めるか? ヴァン語とロフィック語ならどっちが得意だ?」

「読めますけど。喋るならどっちも、ちょっとずつ。でもヴァン語のほうが得意かな――」

「では、この文字は読めるか?」

 しどろもどろになりながら答えるルヴァに、エイノはいつの間にやら取り出した紙きれを突き付けていた。
 少年が音読し頷くと、エイノは思い切り天を仰いだ。

「そうか、フォルン語も!」

 稀代の天才と謳われる男の目じりに、一粒何かが光ったように見えた。
 だが、それは一瞬の幻だったようだ。グレイに向き直りぐいと顎を引いたエイノの瞳は、海原のように輝いていた。

「気が変わった。グレイ君、王立図書館に招待しよう。そこのワニア君と一緒にね」
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