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二、潮風に吹かれて
7,魔獣と薔薇(4)
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テュミルとグレイは船尾楼甲板へ向けて、簡易食堂でだらだらと飲み食いをする乗組員たちの隙間を縫った。
彼らのほとんどが机を枕にしたり、カードの賭けに夢中で、夜に連れ立って歩く男女へ野次を飛ばせるような理性を持ってはいなかった。
甲板を目指し階段を登りきると、冷たい風が容赦なく吹き付けてきた。
全身をまともに押されて、少女がよろめく。
「おっと」
息をのんだテュミルを、後ろにいたグレイが受け止めた。
マント越しに感じた大きな暖かい手のひらは、少女を押し返すとすぐに離れていった。
目が暗闇に慣れると、強風を喜ぶ帆の遥か彼方に星々が瞬いているのが見えた。
少女が見上げた星空は、明るい闇だった。
天上から世界を見下ろす闇の中で、黄色い月がだんだんと太ってきている。
卵の黄身みたい。
少女はくすりとした。
持ってきたランタンの明かりが無粋に感じられるほどの、夜の快晴だった。
疲れた首を元に戻すと、隣に人の気配を感じた。
グレイだ。
彼は体のすべてを風にもみくちゃにされているのを気にせず、夜空に浸っていた。
盗み見た横顔の上で、青い瞳がもう一つの星のようにキラキラと輝いている。
深く繰り返される瞬きは涙の流れ星が落ちてきそうなほどで、口元は見るからに嬉しそうな半開きだ。
テュミルには、彼の黒髪が闇に溶けているように見えた。
天を仰ぐその姿は、心ごと天に向かっているようでもある。
鼓動が少女の耳を支配する。
放っておいたら本当に空の人になってしまうような気がして、少女は腕を伸ばした。
指先が彼のシャツに引っかかる。ほっとしたのに、少女の心臓はまだ力強く跳ねていた。
「寒いから、早く行きましょ」
煌々とした明かりを漏らす船尾楼は、さながらランプのようだ。
船長たちが暖をとっている部屋、その横の階段を夜にふさわしい静けさで上ると、船尾楼のちょうど真上、フォアマストを背にして、二人は腰を下ろした。
二人とも、示し合わせたようにそろって自分のマントを体にきつく巻き付けた。
「……で、話って何よ?」
吹き付ける風に逆らうと、自然に声が大きく、きつくなってしまう。
テュミルは少し反省した。
あたし、いつもこうだわ。
もっといい言い方があるはずだろうに。
そう思うと深いため息が出てくる。
熱くなった頭を風が冷やしてくれるのが、ありがたい。
「そんな、とげとげしくしなくたっていいだろ?」
「ただのきっかけよ」
テュミルの言葉に嘘はなかった。
グレイから言い出してくれないかしら。
そう、心のどこかで望んでいた。
少女はこの旅路が彼のもの――少年王グラジルアスが己の国と尊厳とを取り戻すものであることを、よくわかっていた。
そこに、少女の矜持を持ち込むのはお門違いであるとも。
黒々としたマントの下で、グレイの両肩がふっと下がった。
冷たい沈黙に少年のため息が落ちたのだ。
それは風にかき消されて聞こえなかった。
彼は伏し目がちな顔をテュミルに向けた。
「双子のことなんだけどさ……」
テュミルは身構え、注意深くグレイを見つめた。
黒く長い睫毛の舌で、青い瞳が泳いでいる。
しかし、少女を見はしない。
「……あいつらには魔獣の一面があって、不安要素が多いのはわかってる。奴隷商人が見つからない以上、あいつらはふたりぼっちだ。ロフケシアで里親を探すような時間もないだろう。その上で、この先、あいつらを連れていくことって、できないだろうか――?」
「はっきり言いなさいよ」
少女は言ってしまってからすぐに付け加えた。
「……聞こえないのよ、風が強くて」
テュミルがどきどきしながら言葉を待っていると、まともに青い視線を食らった。
「双子を、俺の養子にしたい」
彼の瞳が星空とランタンに負けない輝きを放つ。
テュミルの唇がまごつき震え、しまいには頬が持ち上がっていた。
それが気恥ずかしくて、闇が味方するのを忘れたテュミルはぎこちない微笑みを手のひらの中に隠した。
グレイからは苦笑か憂苦に見えたかもしれない。
「それが、あんたの考えってわけね」
「ああ」
少年の声が心なしか緩んでいた。
それほどに思い詰めていたようだ。
「セルゲイが、何の気なしに『新しい家族だ』って言って連れてくるのを見てたからかな。幼馴染のラインだって拾われっ子だ。あいつは、俺の弟みたいなものだ。下手すればリシュナやセレスよりもずっと一緒にいる。血の繋がりだけが家族の形じゃないはずだって、俺は思う」
テュミルにとって、グレイは世間知らずの王子のままだった。
考えなしに幼い仲間を増やそうとするなんて、これから死地を走る男のすることだろうか。
そう考えるからこそ、口酸っぱくもなる。
「簡単に言うけど、あんた、親になることを甘く見てる。この数日やってきた世話を、この先ずっとずっと続けていかなきゃいけないのよ。しかもあんたは国王なの。お妃のいない国王が養子を――ましてや奴隷の、しかも魔獣の子をとるなんて、国民からすれば大事件だわ。王位継承権にだって関わることなのよ」
「侮るなよ。俺だっていろいろと考えた。父親が二人いたっていいと思わないか?」
グレイは座りなおしてテュミルに向き直った。
彼が言うに、グレイを慕う双子をそのまま保護し、ヴァニアス王国へ連れて帰る。
ケルツェル城に戻る前にセルゲイのマナーハウス〈インキ・マリ〉に立ち寄り双子を預け、書類上ではアルバトロス家に名を連ねるということだった。
「表向きなんて、俺やあいつらに関係ない。今後、俺たちが関わり合える環境さえ用意できればいい。どうだ。これなら問題ないだろ?」
グレイの策に、彼の真の政治的手腕が見えたような気がして、テュミルは素直に感心した。
自分の主張で頑なに貫くわけじゃないのね。
グレイは、たどり着く結論が同じだとしても、より自分に有利な形で交渉を進めてきた。
彼らのほとんどが机を枕にしたり、カードの賭けに夢中で、夜に連れ立って歩く男女へ野次を飛ばせるような理性を持ってはいなかった。
甲板を目指し階段を登りきると、冷たい風が容赦なく吹き付けてきた。
全身をまともに押されて、少女がよろめく。
「おっと」
息をのんだテュミルを、後ろにいたグレイが受け止めた。
マント越しに感じた大きな暖かい手のひらは、少女を押し返すとすぐに離れていった。
目が暗闇に慣れると、強風を喜ぶ帆の遥か彼方に星々が瞬いているのが見えた。
少女が見上げた星空は、明るい闇だった。
天上から世界を見下ろす闇の中で、黄色い月がだんだんと太ってきている。
卵の黄身みたい。
少女はくすりとした。
持ってきたランタンの明かりが無粋に感じられるほどの、夜の快晴だった。
疲れた首を元に戻すと、隣に人の気配を感じた。
グレイだ。
彼は体のすべてを風にもみくちゃにされているのを気にせず、夜空に浸っていた。
盗み見た横顔の上で、青い瞳がもう一つの星のようにキラキラと輝いている。
深く繰り返される瞬きは涙の流れ星が落ちてきそうなほどで、口元は見るからに嬉しそうな半開きだ。
テュミルには、彼の黒髪が闇に溶けているように見えた。
天を仰ぐその姿は、心ごと天に向かっているようでもある。
鼓動が少女の耳を支配する。
放っておいたら本当に空の人になってしまうような気がして、少女は腕を伸ばした。
指先が彼のシャツに引っかかる。ほっとしたのに、少女の心臓はまだ力強く跳ねていた。
「寒いから、早く行きましょ」
煌々とした明かりを漏らす船尾楼は、さながらランプのようだ。
船長たちが暖をとっている部屋、その横の階段を夜にふさわしい静けさで上ると、船尾楼のちょうど真上、フォアマストを背にして、二人は腰を下ろした。
二人とも、示し合わせたようにそろって自分のマントを体にきつく巻き付けた。
「……で、話って何よ?」
吹き付ける風に逆らうと、自然に声が大きく、きつくなってしまう。
テュミルは少し反省した。
あたし、いつもこうだわ。
もっといい言い方があるはずだろうに。
そう思うと深いため息が出てくる。
熱くなった頭を風が冷やしてくれるのが、ありがたい。
「そんな、とげとげしくしなくたっていいだろ?」
「ただのきっかけよ」
テュミルの言葉に嘘はなかった。
グレイから言い出してくれないかしら。
そう、心のどこかで望んでいた。
少女はこの旅路が彼のもの――少年王グラジルアスが己の国と尊厳とを取り戻すものであることを、よくわかっていた。
そこに、少女の矜持を持ち込むのはお門違いであるとも。
黒々としたマントの下で、グレイの両肩がふっと下がった。
冷たい沈黙に少年のため息が落ちたのだ。
それは風にかき消されて聞こえなかった。
彼は伏し目がちな顔をテュミルに向けた。
「双子のことなんだけどさ……」
テュミルは身構え、注意深くグレイを見つめた。
黒く長い睫毛の舌で、青い瞳が泳いでいる。
しかし、少女を見はしない。
「……あいつらには魔獣の一面があって、不安要素が多いのはわかってる。奴隷商人が見つからない以上、あいつらはふたりぼっちだ。ロフケシアで里親を探すような時間もないだろう。その上で、この先、あいつらを連れていくことって、できないだろうか――?」
「はっきり言いなさいよ」
少女は言ってしまってからすぐに付け加えた。
「……聞こえないのよ、風が強くて」
テュミルがどきどきしながら言葉を待っていると、まともに青い視線を食らった。
「双子を、俺の養子にしたい」
彼の瞳が星空とランタンに負けない輝きを放つ。
テュミルの唇がまごつき震え、しまいには頬が持ち上がっていた。
それが気恥ずかしくて、闇が味方するのを忘れたテュミルはぎこちない微笑みを手のひらの中に隠した。
グレイからは苦笑か憂苦に見えたかもしれない。
「それが、あんたの考えってわけね」
「ああ」
少年の声が心なしか緩んでいた。
それほどに思い詰めていたようだ。
「セルゲイが、何の気なしに『新しい家族だ』って言って連れてくるのを見てたからかな。幼馴染のラインだって拾われっ子だ。あいつは、俺の弟みたいなものだ。下手すればリシュナやセレスよりもずっと一緒にいる。血の繋がりだけが家族の形じゃないはずだって、俺は思う」
テュミルにとって、グレイは世間知らずの王子のままだった。
考えなしに幼い仲間を増やそうとするなんて、これから死地を走る男のすることだろうか。
そう考えるからこそ、口酸っぱくもなる。
「簡単に言うけど、あんた、親になることを甘く見てる。この数日やってきた世話を、この先ずっとずっと続けていかなきゃいけないのよ。しかもあんたは国王なの。お妃のいない国王が養子を――ましてや奴隷の、しかも魔獣の子をとるなんて、国民からすれば大事件だわ。王位継承権にだって関わることなのよ」
「侮るなよ。俺だっていろいろと考えた。父親が二人いたっていいと思わないか?」
グレイは座りなおしてテュミルに向き直った。
彼が言うに、グレイを慕う双子をそのまま保護し、ヴァニアス王国へ連れて帰る。
ケルツェル城に戻る前にセルゲイのマナーハウス〈インキ・マリ〉に立ち寄り双子を預け、書類上ではアルバトロス家に名を連ねるということだった。
「表向きなんて、俺やあいつらに関係ない。今後、俺たちが関わり合える環境さえ用意できればいい。どうだ。これなら問題ないだろ?」
グレイの策に、彼の真の政治的手腕が見えたような気がして、テュミルは素直に感心した。
自分の主張で頑なに貫くわけじゃないのね。
グレイは、たどり着く結論が同じだとしても、より自分に有利な形で交渉を進めてきた。
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