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二、潮風に吹かれて

3,青以外の場所(6)

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 言い争いは、長くは続かなかった。
 勢いがよかったのは最初のうちだけで、次第に鎮火していった。
 二人とも、四時間以上かけて四レウカの道のりを踏破しており、体力もわずかだった。
 結局勝敗はつかず、腹の虫が大声で鳴いて幕が閉じた。
 バターとチーズの溶け込んだミルクのこっくりした匂いと、パンを温めなおす香ばしい匂いに負けたともいえる。
 遅い昼食にありつくため、グレイとテュミル、そしてルヴァはカウンターから丸テーブルに移った。
 そのほうが話をしやすいから、という店主の提案だった。
 彼は三人の客に料理をふるまうと、自分のマグカップを持って席に着いた。そして真っ先に名乗ってくれた。

「私はケイシィ・ドーガス。お好きに呼んでもらって構いませんよ。この店〈カフェ・ポルト〉の店主(マスター)なので、そう呼ぶ人が多いですが」

「よろしく、ドーガス。俺はグレイ」

 ドーガスが笑うと、黒くうねるおくれ毛が揺れた。二人は机越しに握手を交わす。

「グレイくんとルヴァくんは、さっき会ったんでしたっけ」

「ああ。ここまで案内してもらった」

 この数日で、何度自己紹介をしただろう。グレイはぼんやり考えた。王宮じゃ、俺が誰かを知っているのは当たり前だったもんな。

 ルヴァが手を挙げた。

「マスター! 次! 次、僕のこと!」

「はいはい」

 グレイは自分の番が終わったので、遠慮なく白いスープ皿にスプーンを入れた。
 暖かいそれは少し塩辛くて、胡椒が効いていた。
 生臭くなくて少年は驚いた。
 もう一口。
 魚を口の中に入れると噛まずともほろりとほぐれるほど柔らかかった。
 疲れ切った体が求めるまま、少年はサーモンスープに舌鼓を打った。

「ルヴァくん、こちらはテュミルちゃん。私の弟子で、今はトレジャーハンターをやっています。ミルちゃん、この子はルヴァ。武装商船〈黒龍丸スヴェル・ドレークン〉の乗組員で――」

「お姉さんと同じ、〈古の民ワニア〉です!」

「ワニアって、ヴァニアスの原住民で、魔法使いの一族の?」

 グレイが口を挟むとルヴァは誇らしげにうなずいた。
 水色の髪と一緒に赤いバンダナが揺れる。
 言われてみれば、ワニアを特徴づける水色の髪と瞳を持っている。
 本でのみ知りえた存在で、本物に出会えるのは初めてだ。
 グレイの鼻が知得に鳴る。
 ドーガスとテュミルが何か――おそらく料理かそこらだろう――の師弟関係ならば、先ほどの抱擁も許せるような気がした。
 許せる?
 あいつの人間関係なんて、俺には関係ないはずだろう。
 己の心情の変化に戸惑うグレイの目の前で、ルヴァが意気揚々としている。

「僕、嬉しくて! その、仲間に会うのなんて、久しぶりで――!」

「ストップ」

 テュミルがルヴァに向かって手のひらを突き出す。

「喜んでるところ悪いんだけど、あたし、ワニアじゃないのよ」

 ごめん、と吐き捨てると、少女はスープを口にした。小さく、美味しい、と呟く彼女を、グレイは黙視できなかった。

「ミル、それは冷たすぎるんじゃないか?」

「だって、それ以外に言いようがないんだもの」

 テュミルは苦言を呈されてもぐらつかない。
 ルヴァも諦めず口を開いた。

「でも、ワニアの髪色は水色でも濃淡があって――!」

「よく見なさい、ルヴァ。髪はそうでも、瞳が違うでしょ。あたしのは、紫なの」

 スプーンを置いた指で、テュミルが自身の瞳を指し示した。
 ワニアの少年はそれをまじまじ見つめると、ため息をついた。
 不本意そうだが、彼なりに納得したようだ。
 少女も息をつく。
 こちらは安堵の色を宿していた。
 彼女は指の先を摘み、二の腕まで覆っている皮手袋を脱いだ。
 それをたたんでテーブルの端に置くと、おもむろにパンの籠へ手を伸ばした。

「ていうかあんた、髪、そのままにしてるの、危ないんじゃない?」

「どういうこと、ですか?」

 ルヴァと一緒に、グレイも頭を擡げた。

「マスター、何も言ってないの?」

 テュミルに睨まれたドーガスは微苦笑を浮かべた。

「ルヴァ君はもう大きいので、大丈夫かと思ったんですが――」

「甘いわ。あいつらは〈白銀の乙女スターライト・ガールなら誰だって攫うのよ。自衛するに越したことはないわよ」

 テュミルはぴしゃりと跳ねのけると、ちぎったパンを口の中へ放り込んだ。
 あいつら?
〈白銀の乙女〉?
 未知の情報に、グレイは困惑を禁じ得ない。

「……そんな無法者がいるのか?」

 思わず食べる手を止めたグレイに、ルヴァがおずおずと教えてくれる。

「グレイさん、知らないんですか? ここ数年、人攫いが横行していて、行方不明になる人が多いんです」

「そんな……!」

「千年前の〈神隠し〉と同じだっていう噂もあって。呪いだって言う人もいるんです。なので、最近はみんな家から出たがらないです。ね、マスター」

「ええ。夜は魔物が出ますしね。物騒になったものです」

 ルヴァは、カフェの壁一面に張られた紙へと首を回した。
 注視すると、それはすべて尋ね人について書かれているのがわかった。
 グレイの背筋が冷えた。
 それと同時に怒気が腹を燃やす。
 それは非人道的行為に対する義憤であり、王国内に起きている異常事態を知らずにいた自分に対しての憤懣だった。
 感情を抑えるため、拳を強く握る。

「……この件に関して、国からの支援はあったのか?」

 グレイが低く問うたが、三人はそれぞれに視線を逸らしただけだった。
 沈黙は時により肯定にも否定にもなる。
 だが今は、後者であると彼はよくわかっていた。
〈傀儡の少年王〉は本物の大馬鹿者だ!
 グレイは、たまらず叫びだしてしまいそうだった。
 その代わりに、怒り、そしてやるせなさと申し訳なさを込めて、握っていた拳で太腿を殴った。
 そうしたところで事態が変わるわけではなくとも、そうせずにはいられなかった。
 その拳の上に、真っ白い手が乗せられた。
 しっとりと柔らかいそれは、テュミルのものだった。
 彼女は首を横に振った。

「馬鹿ね。あんたが全部の責任を感じなくたっていいのよ。全部あいつが悪いんだから」

 なだめるように覗き込んでくれる少女のアメジストの瞳は静かに凪いでいた。
 確かにあいつ――エフゲニー・リンデンが母たちを殺めなければ、今の荒んだ国家はありえなかった。
 しかし、己の命を顧みなければどうだったろう?
 彼女の言うとおりだと思いたかった。
 強く双眸をしばたたかせると、いつの間にかいからせていた肩をため息とともに落とした。
 少年の様子が落ち着くと、テュミルの手は離れていった。
 グレイは少し反省しながら、ぬくもりを名残惜しむ。

「テュミルさんの言うとおりですよ、グレイさん。今の国王陛下って、子どもの時に即位をしたから社会のことを知らないんです。僕たちの暮らしなんて興味ないんですよ、きっと」

 ルヴァの同意は、少しずれていた。
 当たり前だ。
 彼はグレイの正体を知らないのだから。
 テュミルが木のスプーンを空になった皿の中に入れると、からりと乾いた音がした。
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