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二、潮風に吹かれて

3,青以外の場所(3)

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 到着の喜びに歩みが早まる。
 テュミルを置いて道を先んずると、緑と茶色ばかりだった景色に青が増えてきた。
 そして風はあの何とも言えない香りごとグレイを撫でてゆく。
 疲れに火照った体を冷やしてくれるようだ。
 入り江を船着き場が縁取るさまは、なんとも絵になるものだ。
 進むほどに景色がみるみる開けてゆく解放感に任せて、グレイは足を動かした。
 港町スキュラと書かれた立て札を目にして、グレイはたまらずその場に座り込んだ。
 腰元の長剣や背負っていたトランクもそれぞれに悲鳴を上げて大地に座った。

「着いた……!」

 投げ出した足が棒きれのようになって、感覚がない。
 気管が熱くざらついている。
 けれど、胸いっぱいに吸い込む空気の清々しさだけは、身体全体にしみわたるようだった。
 達成感と潮風に満たされながら休んでいると、砂を踏む足音が近づいてきて、すぐ傍で止まった。
 グレイは両手を後ろについて見上げる。

「あーあ。やっぱり座ってた。これから階段を下りてスキュラの市街に入るのに。途中転んでも知らないわよ」

「転ばない。侮るなよ」

 テュミルはちらと乾いた視線をよこしたと思いきや、グレイの隣で足首を回して、屈伸をしはじめた。

「うん。それぐらい……」

 平気だ、とグレイは言い切れなかった。
 座っているだけなのに腰から下のすべてが熱を持っていて、筋肉がびくびくと痙攣している。
 再び立てば、膝が笑うどころではないだろう。
 上体を支える両腕は平気だったが、その大本である背中は別だった。
 一枚岩のように固く感じられる。
 グレイも少女に倣って体をほぐすため肩を回した。
 しかし皮鎧のベルトに阻まれて、思うようにうまくいかない。

「スキュラは坂の街なのよ」

「知っている」

「でも、来たことはないんじゃない?」

「……一回ぐらいはあるぞ」

「お母様と一緒に、でしょ?」

「悪いかよ」

 グレイは話しながらブーツの靴紐を少し緩める。
 じわりと血が通う感じがしたけれど、すぐにテュミルに止められた。
 酷使した筋肉にどっと血液が流れてむくみを増長させかねないからだという。
 少年は言われたとおりにした。
 風は相変わらず乱暴に吹き付けて額の汗を乾かしてくれる。
 そのうちフードまで脱がされて、グレイの髪を頭皮ごとかき乱している。
 まるで戯れに撫でまわされているような気分になる。
 このとてつもなく大きくてやさしい手のひらは、少年たちだけでなく木々や草花に吹き付けていた。
 青葉が遠くへ攫われてゆく青い香りが夏の名残そのもののようだ。
 この雄大なものが、まだ見ぬ水平線の彼方からやってくるのだと思うと、少年はわくわくした。

「ここにくると、ああ、あたし、旅に出るんだ、って、いつも新鮮な気分にさせられるわ」

 テュミルの声も、心なしか明るくほぐれている。

「ね、スキュラの意味、知ってる? 古い言葉で『青以外の場所』って意味なの。空と海の青以外の場所、それがこの街」

「へぇ……」

 グレイは感心とともに少女を見上げた。
 その横顔は、想像通り、期待に満ち溢れた微笑みで彩られていた。
 遥か彼方、水平線を見つめるアメジストの瞳は、これまでにいくつもグレイの知らないものを見てきたのだろう。
 引き結ばれたくちびるにはこれまで歩んできた道のりで得てきた、確かな自信が見て取れる。
 青空を切り取る白い輪郭は、鼻梁同様にくっきりとしている。
 まるでカメオから抜け出したような優美ささえあった。
 いや、とグレイは考え直した。貴婦人にしてはじゃじゃ馬がすぎる。

「きゃ……!」

 グレイがぼうっと見つめていると、ひと際強い風が二人に吹き付けた。
 風は旅人のマントを攫おうとしたが失敗し、フードを脱がすにとどまった。
 テュミルの髪が露わになる。
 風に梳かれる白銀の髪は、煌めきながら空に溶けている。
 そう思った瞬間、グレイは何かを思い出しそうな気配を感じた。
 空に透ける髪。
 逆巻く風が落ち着くと、二人は顔を見合わせて笑った。

「やだ! 頭ぐしゃぐしゃ! 鳥の巣みたいになってる!」

「お前だって、額が出てる!」
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