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第一楽章 手紙を書く女-Allegro con brio-

1-3 古の歌(5)

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 帰宅した少年は、パトロンの不在に心底ほっとした。依頼人が来ないので女装をせずに済むからだ。朝、あれだけ不機嫌を見せつけた手前どんな顔をして会ったらいいのかもわからない。ううん。こっちが本音。執事が言うには、パーシィは晩餐までには帰ってくるそうだ。
 試す時間はあるな。セシルは心の中で拳を握った。

「ちょっと歌の練習してくる!」

「あら。お部屋でも、服を畳みながらでもできますよ」

「外がいいの!」

 メイドのフィリナに脱ぎ散らかした服を任せてセシルはネルの部屋着のままグウェンドソン邸が誇る広い庭園を目指して部屋を飛び出した。薄いスリッパで階段を叩きながら下る。
 アンダーステアーズから厨房へ行き、裏口から抜けるのがもっとも近道だ。
 四人の使用人たちが仕事と生活をする地階は事実上半地下にあるが、頭上の採光窓から風や光を取り込めるので湿っぽくはない。むしろ温かい人の営みを感じられる場所でお気に入りですらある。セシルが嗅ぎ慣れた溶けたバターとタマネギの炒められた匂いや採れたてのハーブたちの青臭さが闊歩しているところなど、たった三か月の付き合いなのにもはや懐かしささえ感じる。空腹に突き刺さる香りに導かれるようにして階上よりも狭い通路――人がすれ違うのがやっとの通路を行くと、広い厨房に出た。

「あれ、セシル様。今日はおめかししなくていいんすか?」

「ニールさん」

 口調と同じ軽い笑顔を浮かべる料理人ニールが、セシルへの茶々と前菜のムースを冷蔵庫に入れた。厨房の王である彼はいつもここにいて美味しいものの仕込みと調理に余念がない。

「パーシィがいないからいいの」

「なるほど。出てったらそこの戸口の鍵はばっちり閉めとくんで、安心していいっすよ」

「ホントにやったら怒るから」

 セシルは歯を見せて威嚇してから、厨房の裏口から頭だけを出し、あたりを窺った。
 緑の世界――温室と庭に雇われ庭師の背中を見つけると、しばらくそのままで待った。
 彼が去ったのを見届けると、少年は軽いステップで躍り出て小さな噴水へ駆けた。
 庭師が水を止めて帰ったので水面は凪いでいて、今は風にそうっと撫でられてはくすぐったがっているだけだ。
 あらゆる仕事と文化を求めて国内外の人間が押し寄せ、同様にひしめきあう集合住宅で生活するのが当たり前のケルムの中にあって、庭を持つのは並大抵のことではない。
 ここでもパトロンの青年に感謝した。直接言う気にはなれないけれど。
 お金があってもデリカシーがないんじゃ、どっこいどっこいだよ。
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