上 下
26 / 77
第一楽章 手紙を書く女-Allegro con brio-

1-2 探偵と契約(7)

しおりを挟む
 探偵より七つ年上のモルフェシア大公ジャスティンは、出会ってから今まで、パーシィを気の置けない友人として歓迎してくれた。今日もお茶に招いてくれた。念のため遅くなるかもしれないとナズレに言いつけておいてよかった。
 胸をなでおろしたパーシィの鼻を、バターの香りが擽る。今日振舞われるのはクリームティーだな。唾液の滲んだ口内を薫り高い紅茶で潤す。
 深緑色の壁紙が安心感を誘う大公の客間で、二人の男は四角いテーブルを囲んだ。
 その中央に薄桃色のスイートピーが可憐に咲いているので、華が無いという言葉は紅茶と共に飲み下した。
 給仕が差しだした銀の皿の上に、焼きたてのスコーンが乗っていた。パーシィは短く礼を言って手に取り、バターの香りに誘われるままかじりついた。スコーンのさくさくした歯触りを楽しんでいると、顎肘をついた年嵩の友からの視線が頬に刺さった。
 探偵が三つのまばたきで尋ねると、彼は大きなため息一つで答えた。埒が明かないので、パーシィは紅茶で口の中をすすいで、改めて問うた。

「聞こうか?」

「いや。いや、じゃないな。あの愛人がどうにも、荒らしてくれてね」

 きっかけをつかんだ大公は、カップの柄をつまんだまま一向に持ち上げない。

「君もあの火つけ女に心を乱されているのか?」

「大いにね」

「女性の趣味が悪いな」

「そう、父上に言ってくれると助かる」

 ジャスティンはティーカップに口をつけると、先ほどと同じ色のため息をついた。
 彼が背にしている窓の向こう、午後の生きた景色を満たす穏やかな陽気とは正反対だ。

「会うたび、会議のたび、ああだ。なぜ、あの愛人はあそこまでフォルトゥーネ様に執着するんだろう。いずれマナストーンのことを引き合いに出されると思うと夜もおちおち眠れないのさ」

 他人事のように自嘲する友人に、探偵は至極冷静だった。

「そうなる前に辞めさせればいい。いまや君が議長であり、この国そのものだ」

「〈隠者〉本人が立てた代理人だぞ。そうもいくまい」

 歯切れの悪さがピークに達している。これではパーシィも本題を切りだすに出せない。

「そのお父上のほうは? それほど体調が優れないのか?」

「お陰さまでピンピンしているよ。左の方がね。車椅子は欠かせないが。マナストーンに……フォルトゥーネ様に生かされているだけさ」

 ある単語に、青年の身体が思わず反応した。
 十年前だろうか。パーシィがモルフェシアに来たばかりのとき、先代の大公――ジャスティンの父親チャリオットは、進行した死の病のため左腕と左足のほとんど半身と己の命とを天秤にかけていた。死の淵で彼が選んだのは、未来。それは身体の半分を機械化するという選択だった。
しおりを挟む

処理中です...