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第三楽章 春の嵐-Scherzo-

3-3 遊覧船

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 蒸気都市ケルムの上空に突如現れた謎の城で、世間はもちきりになった。たった一晩でだ。
 青空の中で、一点の染みのようにぽっかりと浮かぶ孤島の上では、碧に包まれた古城が鎮座している。ちょうどセントラルエリアの真上にあるようだ。木々に浸食された白い建物は遠目に見てもフォベトラ城よりも古めかしい佇まいに見える。
 黙ってそこにあるだけの城に向かって人々は恐れ戦き、あるいはかの女神の住まいが現れたとして頭を深々と下げるばかりだ。
 グウェンドソン邸の右隣に住まうシムディ氏が、生垣越しにこう言った。

「気持ちのいい朝だね、お嬢さん。よく見ておおき。我々はこの時代に生まれて幸運だよ。フォルトゥーネ様のお住まいを見られる日が来るなんて。ああ、夢にも思わなんだよ」

 セシルはずっと知らなかったが、彼は敬虔なフォリア教徒なのだそうだ。
 帽子を脱いで現れた真っ白になった髪の下に、うっすらと肌色が見える。
 セシルは老人が恭しく紹介するものだから、こっそり感服してしまった。

「あなた。フレディたちは来られないって。昨日の今日なのに、モルフェシア行きの飛空艇の予約は半年先までいっぱいみたいよ。列車もないんですって。あら、セシルに相手をしてもらっていたのね。ごきげんよう」

 そう言いながら現れた老女――シムディ夫人にセシルはにっこりする。
 セシルはこの朗らかな隣人が大好きだった。別に、よくお菓子をもらうからではない。

「こんにちは、小母様。飛空艇って、息子さん? 残念だね」

「そうなのよ」

 老女も年季の入った暖かい笑顔を返す。

「仕方がないわ。昨日までは逆だったのにね。夏休みとなれば、みーんな海と空の青を見たがってコルシェンに行ってたのが、フォルトゥーネ様のお城が本当にあったんだものねえ。もう、こんなところで立ち話なんて、疲れるわ。あなたって人は、気が利かないんだから。セシル、ご一緒にお茶でもいかが? 取れたてのキュウリがあるのよ」

***

 一方で前代未聞と各新聞社が一面で囃し立てている。ケルム市内で多発する災害はすっかり上書きされてしまい、数行の事実だけが記載される始末だ。
 見出しによれば、ケルム市の上空をぐるりと一周する遊覧船に乗ろうと、人々が殺到しているらしい。これまでもこうした観光船はあったが、利用者はもっぱら旅行客に限られていた。

「幻の天空城ヘオフォニアをより近くで見たいという人間がチケットを握りしめ、天上を目指しているらしい。だが共通して、ある高度まで達すると飛空艇のエンジンが止まるそうだ」

「ふうん」

 探偵が書斎で新聞をいくつも読み比べている。だがどこも似たような一面が続くものだから、いったいどこの新聞社のを読んでいるのか、セシルにはわかりかねた。

「島ごと飛んでるお城でしょ。マナが吸われてたりして。それで急にマナが無くなって飛空艇ごと落ちなきゃいいけど」

 モルフェシア大公国内で製造されている蒸気機関システムには、動力源もしくは補助動力として微量のマナストーンが仕込まれているというから、少し心配になる。
 魔女の末裔セシルのように、蒸気機関もマナの変動で調子を崩しかねない。

「それはないな。今のところ」

 めくる度にぱりぱりと音を立てる生成り色の紙を畳む探偵に、助手は紙袋を突きだした。
 その拍子に腕に長い髪が引っかかり、垂れ落ちた。

「シムディ夫人にもらったキュウリのサンドイッチ、いる?」

「喜んで頂こう」

 パーシィはさっそく紙袋に手を入れ、中身にありついている。

「今日は自分からワンピースを着たんだな」

 どことなく嬉しそうに目を細められて、セシルは思い切りしかめっ面を見せつけた。

「仕方なくだよ。だって、こんなに人が出歩いてるんじゃ、誰に見つかるかわかったもんじゃない」

 言葉にまで角を立てて憤慨するセシルに、パーシィは軽く眉を上げた。

「いい心がけだ」

「オレを〈記憶の君〉の代わりにしてるなら、悪趣味だぞ」

「そうか。言われてみれば」

 パーシィは感心に目を丸めた。

「自覚、無かったのかよ」

「たったいま、気付かせてもらった。そのケリー・マクミランも彼女に着てもらいたかったんだな、僕は。なるほど」

 と、言いながら考察する探偵に反省の色がなさすぎて、セシルは呆れはててしまった。
 どうしてこの人は変な所で考えなしなんだろう。
 一喜一憂する自分だけが空回りしているようで、一方的に疲れさせられているような。
 女装を似合うと言われ歓迎されても、肝心の己がよしとしていないのだ。
 少年は水色のギンガムチェックの裾を翻した。

「……着替えてくる――」

「まあ、待ちたまえミレディ」

「調査だろ。女装は嫌、動きにくいし――」

 セシルは言葉通りに、嫌々振り返った。この期に及んで馬鹿にされるのも腹立たしい。

「せっかくおめかしをしてくれたんだ。ランチがてら、デートと洒落こまないか?」

 探偵は、ジャケットの内ポケットから二枚の紙きれを取り出した。

***

 セシルは駆けながら、なんとかして時計を見た。あと十分で正午になる。
 ここ観光用のドメルディ空港は、人でごった返していた。
 数隻しかない飛空艇に収容できるか怪しく思えるほどの頭数で、ロビーが人間の頭で埋め尽くされている。前回、セシルたちが利用したのは国際便が行き交うナシオナル空港で、飛空艇が数十隻格納できる大規模なものだった。
 早めのランチの後なのに、とセシルは手を引かれながら思った。

「ちょ、ちょっと、パーシィ! スカートが人に引っかかる!」

「頑張って走りたまえ!」

 二人は人垣を縫いながら、エントランスホールを走っていた。
 正午にチェックインが開始されるかと思っていたのだが、それは勘違いだったのだ。

「搭乗後、すぐに飛ぶものだからな」

「うーっ!」

 五分ほど走っているが、パーシィは息を荒げない。
 右手に持つステッキを誰にもぶつけず左手にセシルの手を取りするすると人波を超えてゆく。
 対する少年は〈手紙を書く女〉事件以来走るのは、久しぶりだ。細い喉がぜえぜえと鳴る。
 それに、頭の上で上下する帽子と足にまとわりつくスカートにも苛々する。
 いくら着なれてい用途も、邪魔なのは変わらぬ真実だった。

「遊覧船ラ・プリマヴェラ号、二名様ね。よい旅を!」

 ゲート職員にチケットを切ってもらい、やっと歩くことが許された。
 頬を紅潮させ、肩で息をする二人が搭乗した途端、タラップがすぐに外された。
 どこかで一息ついていれば、きっと乗れなかっただろう。セシルの背中に汗が流れていった。
 遊覧船は、国と国を結ぶ定期便と違って、さほど高いところを飛ばない。だから、甲板の上に人を乗せたまま、ゆっくりと浮上していった。
 集まった人々の身なりはどれも小奇麗で、収入の高さを示唆するようだ。
 女性たちはセシルと同様、帽子をリボンで頭にしっかりと固定している。
 リボンがほどけたら大惨事だな、とセシルが思ったのも束の間。髪の毛がばさばさと逆さに持ち上げられ、かき乱された。いつもの三倍差してきたヘアピンが攣れて痛い。かつらが飛んでしまえば、自分だけでなくパーシィの顔に、盛大に泥を塗ることになる。
 人の心配してる暇なんか無い! セシルは帽子ごとしっかりと頭を押さえた。
 ドックのガラスのトンネルをくぐりぬけ、飛空艇はどんどんと高度を増してゆく。
 それに合わせて、セシルの興奮も高まっていった。
 手すりを握る手指から、頭、背中、つま先まで、ちりちりと言い知れぬしびれが駆け抜ける。
 ぞくぞくするってやつだ!

「すごい! ね、パーシィ!」

 セシルが歓声を上げる。
 飛空艇に乗るのは、コルシェン以来だった。少年以外の甲板の人々も揃って口を開いている。
 だが、何を言っているのかは風に覆い隠され解らない。

「……!」

 青年はセシルに口だけで答えた。己の耳を指差している。
 どうやら、聞こえない、と言ったようだ。
 隣人の声が聞こえないほど、発進のエンジン音は大騒音だった。
 厚い靴底からびりびりと全身に振動が伝わってくる。
 木材と鉄板が主原料の飛空艇がさながら大きなスピーカーとして、騒音を拡張しているのだ。
 しばらくして、茶色い景色が蒼みを帯びてきた。さらにもう少しするとその音がにわかに軽くなった。セシルの両耳をきいんと押さえつけていた何かが弾けたとき、備え付けのスピーカーからアナウンスがあった。

「本日はラ・プリマヴェラ号にご搭乗いただき誠にありがとうございます。当機は無事、気流に乗りました。ゆったりと空の旅をお楽しみください」

 少年は豪風に玩ばれる髪とスカートを御しながら手すりに上体を預けてケルムを見下ろした。
 乾いた大地の真ん中にファタル湖を色鮮やかな街が包み込んでいる。湖の水面がまるでボウルに張った水のようにきらきらと照り返す。紛れもなくファタル湖がケルムと言う花を潤わせ、咲かせている。その中でひときわ青々としているエリアがあった。北時計塔の南西、ファタル湖の北西に広がった緑の絨毯に、セシルは思わず微笑んだ。

「あ、エルジェだ」

 セシルはぼんやりとアカデミーを見下ろした。広大な敷地面積と複数の建物を抱える立派な研究施設でも、空から見下ろせば一枚のカードぐらいにしか見えない。けれどもそこに数え切れない青春と学びの日々があることをセシルは知っていた。ふと、別れた学友のことを思う。
 みんな、今頃何してるのかな。エマは別荘とか、なんとか言ってたっけ。
 学生の夏休みと言えば旅行だ、と言ったのは誰だったろう。セシルは視線をケルム外壁の外に移した。
 モルフェシアという国は、首都ケルムの外には道以外何も無いといわれている。山並みを南に越えたデルズ海岸には村がいくつかあるらしい。畑を作るにも、土地が痩せすぎていて草原地帯にしかならないそうだ。国内を転々とする遊牧民以外の人間は、全てケルムに集約されていることから、ケルムとモルフェシアはほとんど同義語として使われていたりもする。
 その数少ない道の上を、黒い箱のようなものが連なり、白い息を吐きながら流れてゆく。

「あっ! 機関車!」

「珍しいかい?」

 少し離れていた探偵が、キャメルのインヴァネスコートをはためかせてやってきた。
 棗色のステッキとハットが彼の甘やかな金髪を引き立てている。今日は黒い革手袋だ。

「モルフェシアと言えば飛空艇だなって思ってたから。鉄道があるのは聞いてたけど、機関車を見るのは初めて!」

 萌黄色の牧草地帯が絨毯のように広がっている彼方に、探偵は指をさした。

「ご覧。これがモルフェン盆地だ。くるむように切り立つのがヒンデル山脈。かつてはそこにトンネルをいくつも掘ったが、今では飛び越えることを選んだらしい」

「ふうん、そうなんだ」

 彼の言うとおり、見晴らせる世界には地平線はほとんどなく、大地と空の境目は必ず山並によってぎざぎざに描かれていた。

「いくつも山を掘り続けるのってできないもんな」

「それもそうだが、国境沿いに工夫《こうふ》が拠点とできるような町が無いんだ。小規模の村があるだけだから、ケルム生まれの人間はそうそう足を向けない」

 遠くに視線を投げるパーシィの金髪が、陽の下でさらさらと小川のように煌めいている。
 セシルは、思わず息を飲んだ。
 庇から鼻梁、くちびる、顎の先を通って喉元へのでこぼことしたシルエットが美しい。
 横たわるヒンデル山脈のように、空との境をつくるそれはこの上なく整っている。
 遠景を望む彼の瞳が空を映していて青いのか、それとも元々なのか一瞬解らなくなった。
 そうこうしているうちに、ヒンデル山脈の表情がにわかに変わっていた。
 ラ・プリマヴェラ号が方向をゆるりと変えているのだ。再びアナウンスが聴こえる。

「皆様、見えてまいりました浮島こそが我々の女神フォルトゥーネ様のお住まい、天空城ヘオフォニアにございます!」

 その場に止まれと続く注意のアナウンスを、興奮に包まれた観衆がそれを聴くわけがない。
 みな天空の城をひと目見ようと、こぞって舳先に集まった。
 セシルのいる位置からでは、帆に邪魔されて全く見えない。

「……落ちなきゃいいけど」

 興奮に高まった人々の声に隠れる程度で、セシルがぽつりと呟いた、その時だった。

「大丈夫ですわ」

「うわあ!」

 突然後ろからぎゅっと体を拘束された。柔らかで温かいものが背中に押し付けられる。
 驚いて振り向こうとしたができない。と、花の揺れるような少女の笑い声が耳を支配した。

「セシル! まさかとは思いましたが本当にセシルでしたのね! 夏休みなのにお会いできて嬉しいですわ!」

 ぱっと細い腕が外れたので、セシルはようやく体を返せた。
 甘いキャラメル色の瞳とかち合う。ヒントはこれだけで十分だった。

「エマ! どうしてここに?」

 きょとんと微笑むクラスメイトの少女は、制服を脱いでよそ行きの出で立ちだ。薄桃色のフリルがふんだんにあしらわれたブラウスとスカートは揃いの品で、その上からラベンダー色を基調とした格子模様のツイードのコートを纏っている。紅色の巻髪を包み込むようにレースのボンネットを被る姿は、まるで歩く人形のようだ。目がビー玉みたいにぱっちりしてて、睫毛も長いし、可愛いし。人形ではない証拠に、少女のぷっくりとしたくちびるが動いた。

「どうしてって、我が社のツアーですもの。うちの船は絶対に落ちるはずがありませんわ! ご安心なさいませ」

「いや、人が落ちそうって話……あれ? 我が社?」

「ええ」

 話がかみ合わないあまりに少女をしげしげと見つめていると、彼の後ろから助け船が現れた。

「君はもしかして、プリマヴェラ家の――」

 パーシィだ。

「エマニュエラ。お友だちかね?」

 少女の後方からも、男が姿を見せた。四角い顔に髭を生やした中年の男性だ。年相応の中肉中背で、アイボリー色のまっさらなコートが体にしっかりと沿っている。しっかりとはまっている純黒のシルクハットの下に、紅い髪が収まっている。
 名を呼ばれた少女が、嬉しそうに紳士の腕を取った。

「お父様! そうですの。セシルですわ。セシル、こちらわたくしの父ガストンです」

 セシルは反射的にちょこんと膝を折った。アカデミーの一項目である、淑女としての訓練の成果が出ているのがなんとも呪わしい。だが、このときばかりは助けられた。

「はじめまして」

「ガストンだ。やあ、君がセシル嬢か! 話は聞いているよ。いつも娘と仲良くしてくれてありがとう。エマが迷惑をかけていないか?」

 そう言うと彼は、紳士が誰しもそうするように手袋を脱いでセシルの手を取った。
 だが、初対面の生娘とみてか、手の甲を口元ぎりぎりに近付けるだけにとどめてくれた。
 モルフェシア大公ジャスティンからの熱烈なくちづけを思い出して覚悟していたセシルは、思わぬ優しさに心底ほっとした。

「いえ。ワタシがエマにお世話になって。仲良くしてもらってます」

「そうかね。ずうっと仲良くしてくれていて構わないよ!」

 ガストンが大袈裟に首を回す。

「しかしこんな愛らしい娘さんが付き添いも無しに――」

「プリマヴェラ卿」

 すると、セシルの背後から堂々とした声があった。パーシィの大きな背中が前に出る。

「いや君は! いやいや、あなた様は!」

 しっかりとシルクハットを握り脱いでみせた彼にプリマヴェラ氏の瞳が釘付けになり、段々と見開かれていく。

「そのお声は……やはり、パルシファル殿! いやはや、ケルムにいらっしゃるとは聞いておりましたが! まさか我が社の飛空艇にご搭乗くださるなかお会いできますとは、光栄の極みですぞ!」

 パルシファル? セシルは心の中で反芻した。
 パーシィは愛称ってこと? 少年の中で疑問が頭をもたげる。

「こちらこそお久しぶりです、プリマヴェラ卿」

 固い握手と頬笑みを交わしている二人の紳士は、どうやら旧知の仲のようだ。
 珍しく、パーシィの物言いが隅から隅まで丁寧だ。セシルは思った。
 そんな父の脇腹を娘が口を尖らせてつついた。少女のほっぺたがマシュマロのように膨らむ。

「それを言うなら光栄の『至り』ですわよ」

「ハハハ、失敬! パルシファル殿、こちらが娘のエマニュエラに存じます」

「お初にお目にかかります」

 とセシルと比べものにならないほど上品に膝を折ったエマへパーシィが紳士の挨拶を贈った。
 かく言うセシルは面食らってばかりである。
 プリマヴェラ氏がおっとりしたエマからは想像も出来ないほど明るく豪傑、根っからの商人という風情であれば、パーシィは本物の貴族のような気品を漂わせている。

「それにしても、大盛況ですね。僕は早めにチケットを取っておいたのですが、よもやこんなことになるとは思いませんでした」

 ヘオフォニアが現れてからチケットを取ったんじゃないのか。
 あっ。セシルは疑問を上書きした。そういえばなんか言ってたっけ。
 調査は優雅に飛空艇で、とか。

「さすがパルシファル殿、先見の目がおありで!」

「先見の『明』ですわ」

 父の言い間違いを娘が訂正するプリマヴェラ親子のやり取りは、お決まりのようだ。

「ここでは僕はただのパーシィです、プリマヴェラ卿」

 そうですか、そうですな、と二つ返事で彼は納得したが、セシルはそうもいかない。
 ただのパーシィ。じゃあ、どこでならパルシファルと名乗るんだろう?
 この美青年はパートナーと言いつつ、まだ秘密を隠しているらしい。二枚舌にも程がある。
 セシルが一人で悶々としているうちに、目の前で話が弾んでいる。
 話題はもちろん、すぐ近くとも思える空に浮かぶ天空城ヘオフォニアのことだ。

「この有様では、ごゆっくりとご覧になれないでしょう、パーシィ殿?」

 プリマヴェラ氏が歩み出て、パーシィの背に腕をそっと回す。
 探偵が気品たっぷりに顔を傾ける。肯定だ。

「この人だかりですからね。大人しく並びますよ」

 だが、プリマヴェラ氏は手袋をはめなおした肉厚の手のひらを振った。

「いやいや。こんな遠くからじゃ、ねえ。望遠鏡なしにまじまじと、じっくりと見られたらとは思いませんか?」

 エマがその拍子にぴょこんとセシルの隣に躍り出て手を取ってくれた。

「きっと商談ですわね」

 少年は甘い囁きと柔らかい指の感触にどぎまぎしながら繋いだ。
 そう、エマはオレを女の子だって思ってるんだから、女の子のするようにしてるんだ。
 それだけだよ。
 紳士たちと少し距離が出来て、会話の内容は聞き取れない。エマを引くようにして追いつく。
 パーシィの目元がほんの少し動いた。半年、彼と暮らしてきたセシルには見てとれた。
 エマの父が言わずして伝えたいことが何かを、彼はすぐに察したのだ。
 氏があえて遠まわしに発言した理由まで了解したかもしれない。

「しかし、近づくと原因不明の力により浮力が落ちるとの噂を耳にしました」

「そりゃあ、そうだ。エンジンが止められてしまう」

 プリマヴェラ氏は軽く笑い飛ばしたと思いきや、朗らかな表情を一瞬にして引き締めた。

「だが、蒸気機関を組み入れた飛空艇ならばどこまでだって行けましょう。濃密なマナに干渉されずにね」

 男の声は、小さかった。だが、くっきりと聴こえた。
 セシルの背筋が一瞬にして凍りつく。
 左手を温めてくれているエマの手を、一瞬忘れてしまいそうだった。それは確信に近かった。
 彼は、小さなマナストーンが起爆剤になっているエンジン構造を知っているようだ。
 じゃあ、エマも?
 少年がおそるおそる少女の方を見ると、彼女は悠々と視線を受け止め、にっこりと頬を持ち上げた。少し顎を引き、ぱちくりと蠱惑的にまばたくと、口を引き上げる。
 これがいわゆる、訳知り顔ってやつだ。
 もしかして、オレが魔女で、男だってことも知っていたりする?
 変にどきどきしてきて、手に嫌な汗が滲む。それが申し訳なくて、手を離した。

「お父様は、最新最速、最高の小型飛空艇を開発中でしたのよ。先日、コルシェンの別荘にはそれで行きましたの」

 エマがつらつらと、まるで普通の事のように説明してくれる。
 すると父親がくるりと振り返って両腕を広げた。

「そう! 我が社の最新機ならば、天空の城でさえ足元にできるという寸法です!」

「お父様っ」

「実験は?」

 エマとパーシィの食いつきが早い。

「それはこれから。燃料がいささか心配でしてな。途中までマナの力で浮上し、そっちのエンジンが止まる前に蒸気エンジンを起動させるという仕組みにしてはいるんです。理論では行けるはずでしょう」

 そう言って、プリマヴェラ氏はウインクした。

「どうです、一台? 高速艇レスターテを!」

 パーシィは迷いなく手袋を脱いで、右手を出した。
 あっという間の商談成立だ。値段さえ聞いていない。
 夢追い人とはかくやと思う傍で、遊覧船はゆっくりと高度を下げていた。
 噂の、探偵と魔少年が望む天空城は、澄んだ空の中でどんどんと小さくなっていった。

***

「セシル。僕はプリマヴェラ卿と契約してくるから、先に帰ってくれないか」

 遊覧船ラ・プリマヴェラ号から降りると、パーシィはそう言った。

「なんで? すぐ終わるでしょ?」

 セシルが首を傾げると、探偵は一呼吸置いてから口を開いた。

「重要な契約を交わすから、時間がかかると思うんだ。独りだから、まだ日が高いうちに帰路につくべきだ、セシル」

「一緒にいるよ」

「いや。難しい話をする予定だから……」

 いまいち納得できない。一時間足らずのクルーズで、まだ太陽は頭のてっぺんで輝いている。
 反駁しようと顔を擡げると、少し離れたところから赤毛の少女が手を振ってくれていた。
 つられて、ゆらりと右手を持ち上げるが、それだけだった。
 彼女は父親と一緒に、ドメルディ空港のプリマヴェラ社オフィスに入っていった。
 セシルは食い下がる。 なぜだろう、拭えない不安が霞みのようにつきまとい、晴れない。
 雲ひとつない快晴で、まさに完璧な夏の日なのに。

「でも、夕食は外じゃ?」

「それなら心配は無い。戻ればわかる。乗合バスのチケットは買えるか?」

 なんだか今日に限って突き放されているような気がする。セシルは思い切り噛みついた。

「買える。赤の十六番。二〇クローネぐらい持ってる。でもそうじゃない。また秘密? どうしてそうやって最初から最後まではっきり教えてくれないのさ! オレはパーシィの相棒じゃないのかよ!」

 空港の人々の視線が、二人に集まった気がした。
 頬だけでなく、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように、無遠慮に。
 だが、青年も負けない。

「いいや。物わかりが悪いのはいま、君のほうだ、セシル。僕はきちんと、契約をするから、帰ってほしいと――」

「わかった。帰る」

 セシルは遮って、ぐるりと踵を返した。
 こうなったら、一刻も早くこの場から――パーシィの目の前から去りたくて仕方なくなった。
 ずんずんと、できる限り大股でスカートをさばく。
 貴婦人たちがレースに包まれた手を驚きで口に添えるのも無視した。
 それだけでは飽き足らず、だんだんと加速し、走る。
 子ども、その母親、若い二人連れ、老いた男たち。あらゆる人を追い越して、逃げた。
 逃げた? セシルはからからに乾いてひりつく喉でせき込んだ。オレは悪くない!
 子どもみたいに拗ねてるんだぞ。現状を冷静に俯瞰できる己もいたが、気分は真逆だった。
 独りで帰れと言われただけなのに、どうしてか、カッとなってしまった。
 二人で事を成そうとしているところに思い切り水を差されたような気がして、心外だった。
 どうして欲しいと言葉で言えただけ、まだましに思える。それくらい急に、頭にきた。

「馬鹿だ。パーシィは馬鹿だッ……!」

 こんなとき、こんな風に燃える感情でいっぱいになったとき、どうしてきたんだろう。
 風景に緑は少ない。そもそも彩りが単調なのだ。建物の天上は高く、床も壁も扉もあらゆるものが直線に支配されている。そこを行き交う人間は、誰しもが他人で、すれ違いざまに声をかけることなどあり得ない。突然、知らない場所に放り出されたような気分になる。
 セシルは、ケルムと全てが正反対のダ・マスケの村が恋しくなった。
 向かい風が埃ごと目に叩きつけられて、悲しくもないのに涙が滲む。
 目を擦ると、だんだんと足の幅も収まりついにはとぼとぼと歩くだけになって立ち止まった。
 そこは大きな硝子の前だった。映り込んだのは、頬笑みを浮かべる亜麻色の髪の乙女。
 彼女は、こちらへ届きもしないのに腕を伸ばした。
 泣かないの。

「リア……!」

 思わず腕を伸ばして、少女の美しい頬に触れた。
 中指がひんやりとした平らなものに接して初めて、セシルはそれが幻影だと気付いた。

「会いたいよ、リア」

 生理的な現象はやがて、心の雫となって頬を濡らした。

***

 ドメルディ空港のチケット売り場から、バス停まではすぐだった。
 だが、空港の立地がケルム市の郊外、南端とあって、施設を出るとひと気はまばらだった。
 打ちつけた平らなコンクリートは真新しくて、積極的に日差しを照り返している。
 今日の客は特に、ブルジョワが多いからだろう。セシルは思った。天空城の急な出現に高騰した遊覧船のチケットを、大枚をはたいて買いたたける人々ばかりが乗っていたに違いない。そうならば、みな自家用車で帰路につくはずだ。
 対するセシルは、一般市民よろしく、大人しくバス停の前で細長い乗合バスを待つ身だった。
 小さな推理が正解をかすめた気がして、少年は同じくらい小さな満足に息をついた。
 けれどもむしゃくしゃする感じは収まらない。
 先ほどと変わった点と言えば、リアに対する気持ちが高まったぐらいだった。
 そもそも、彼女の存在はセシルにとって大きい。だから、再認識したともいえた。
 そうやって系統立てて考えると、先ほどのパーシィの言動もなんだか許してやってもいい気がしてくるから、不思議なものだった。

「きっと、ヘオフォニアに行くのに飛空艇を買うんだよな。しかも、最新の。オレじゃ逆立ちしても買えないような値段なんだろうなぁ……」

 かといって、わざわざ戻ってまで謝ることは絶対にしたくなかった。

「うちに帰ってきたらで、いいよな。でも、帰ったらわかるってなんだろう?」

 刹那、セシルは背後にちりちりとした気配を感じた。飛び退るようにして振り向く。
 そこには、顔なじみの少年が立っていた。

「……メルヴィン?」

 彼は黒い髪を紳士のするように撫でつけていて、成長途中の少年の体にぴったりとした藍色のスーツで装っていた。その肩には少々時代錯誤なビロードのマントを羽織ってもいる。落ち着いた色合いで気品に満ちたその身なりは、一国の王子のように豪奢だ。
 彼は一人ではない。少し歩いたところに黒塗りの車を控えさせ、同じお仕着せを着た男たちが揃ってこちらを見ている。堅苦しさと言えばこうであると教科書にしてもいいくらいの厳重な体制だ。
 セシルにとって、居心地の悪さは最高だった。
 しかも、先程の素の大きな独り言を聞かれていたかもしれないと思うと、冷や汗が手のひらに滲む。とっさに、声を柔らかく高めに調律する。

「じ、実家に帰ってたんじゃないの?」

 風が柔らかにセシルの髪をそよがせるので、それを耳にかけなおした。

「セシル。よかった。すれ違わなくて」

 黒髪の少年は、穏やかな笑顔を綻ばせた。
 暖かい声音は心からそう思っているように聴こえる。

「君を迎えに来たんだ。途中、怪しい人には会わなかったかい?」

「怪しい人?」

 エマには会ったけど、とセシルが正直に答えると、メルヴィンは魔少年の両手を取った。

「ああ。怖い思いはしなかったんだね。よかった」

 彼の手は想像よりも冷たくて、セシルは思わず後退ってしまった。
 だが、しっかりと握られた。
 メルヴィンはセシルに一歩進み出て、鼻と鼻が触れ合いそうな距離で見つめてきた。

「待って。君は悪い人に狙われている」

 友人がそう言ったのは、確かに聴こえた。意味もわかった。
 だが、すぐの理解には結び付かない。
 近すぎる少年の顔と、セリフの内容に対する戸惑いが大きすぎたのだ。

「狙われてるって?」

 返す言葉も見つからず、鸚鵡返しにするほか出来ない。
 無意識に及び腰になった魔少年に、メルヴィンは重ねて言った。

「セシル。僕と来てくれ。君を守りたいんだ」
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