上 下
27 / 63
第一章 青き誓い

6、王子と赤薔薇姫(3)

しおりを挟む
 泉の聖水にて身を清められたグラスタンは、程なくして懐かしの自室に通された。
 ここならば安全だと思えたが、身体はまだ震えていた。恐怖か、嵐か、そのどちらもか。
 不安な気持ごと毛布にくるまったその時、扉が叩かれた。
 息をひそめ、身体をこわばらせていると、可憐な声があった。

「もし、もし」

 子どもだ。この幼いソプラノに、どれだけ安心したことだろう。

「何か?」

「起きていらっしゃった! マルティータと申します。お着替えをお持ちしました」

 扉越しにも微笑みが伝わるような愛らしい声につられて、グラスタンは思わず許可した。
 彼女は着替えを運んだと思いきや小さな手で大きなマッチ箱を使って蝋燭に明かりを灯してはそそくさと出て行き、次は甘い香りのする温かい飲み物を持って現れた。
 蝋燭の灯りに輝く赤髪、揺れる影、少し裾の短いスカートにぱたぱたと子どもらしい足音で一生懸命働く姿が危なっかしくて、目が離せない。

「では、失礼いたします――」

「待って」

 それでなのか、思わず引き留めてしまっていた。

「君は、大丈夫なのか」

「えっと、何がでしょう?」

 自分でも何を言っているのか訳がわからない。とにかく、彼女と話したかった。

「こんな夜遅くに働いて……眠る間もなく……その……」

 マルティータは大きな銀色の瞳をまんまるにしたあと、にっこりしてくれた。

「はい、とっても眠たいです。ですので、明日はお寝坊しようと思います」

「ふっ……」

 今度は、グラスタンが笑う番だった。侍女が堂々と寝坊を宣言するとは自由にもほどがある。

「アハハハ!」

 笑ったのはいつぶりだろう。覚えていないほど昔に思える。
 ケルツェル城では英雄の、世継ぎの、そして微笑みの仮面を強いられてきた。
 腹を抱えて笑う王子に、マルティータが真剣に戸惑っている。
 くちびるを尖らせて困惑する顔もまた可愛らしい。

「神子姫様もお許しくださいましたけれど」

「叔母様が?」

「はい、そうなんです。きっと神子姫様もお昼ごろまでぐっすりされますよ」

「それはいい。では、ともに夜更かしといこう」

「眠たくなられましたら、お休みくださいね、殿下。お布団をかけて差し上げますから」

 その夜、若い二人はそれぞれに毛布にくるまりながら話した。
 人見知りの自負があるグラスタンだったが、この娘とは肩肘張らずに会話を楽しめた。
 これこそが、公女マルティータ・サンデルとの出会いだった。当時十四歳であった。
しおりを挟む

処理中です...