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第一章 青き誓い

5、従騎士、ふたり(12)

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 ピュハルタの時計塔の鐘が二回鳴ったのを合図に、セルゲイはフェネトと別れ、急ぎベルイエン離宮に戻った。
 離宮の城門でこっそり飴を口に入れている神聖騎士たちに手短に挨拶をして早足で進む。
 すると、柱の陰からぬっと現れた白い影に行く手を塞がれた。

「セルゲイ・アルバトロス卿でお間違いありませんか」

 驚きに思わず身構えたが、小柄な少女だと気づくなり肩から力が抜けた。

「お待ち申し上げておりました」

 ふわりと甘く、それでいて芯のあるソプラノは、そよ風に薔薇が揺れるようだ。
 楚々と微笑む侍女の可憐さは薄いヴェールにも隠せていない。戯れる花びらのように渦巻く赤髪をまじまじと見つめるとほどなくして銀色の瞳をぱちくりさせる少女の名前を思い出せた。

「マルティータ様」

 セルゲイはすかさず若き貴婦人の白い手を取り、その指先に敬愛のくちづけを贈った。

「はい」

 彼女はにっこりして、膝をちょんと折って礼をしてくれた。
 挨拶の応酬を流れるように済ませた二人は、どちらともなく歩み出した。

「憶えに預かり光栄です」

「〈サンデルの赤薔薇(タ・ロゼ・ダラク)〉を知らない男なんかいませんよ」

 この幼い淑女こそ、サンデル公爵の娘マルティータ姫で、主君グレイズの婚約者だった。
 彼女はこの春に成人を迎えたばかりの十六歳で、本来ならばセルゲイのような見習い騎士が出会えるはずも無い高い身分の貴婦人である。実際、セルゲイも話すのは初めてで、これまでに数回、神子姫と共に行く彼女を遠巻きに見かけただけだ。彼女は修業のために、サンデル家の治める北方の〈湖水地方(ヴェデン・ヴァリ)〉からルンタ連峰を越えて神子姫の侍女として奉公に出ている。
 そう、グレイズがぼそぼそ話してくれたのを聞いた。彼と婚約してからは彼女が成人を迎えるのをずっと待ちわびていた、とも。

「ささ、こちらへ。ミゼリア・ミュデリア様がお待ちかねですわ」

 そういえば、先に離宮へ着いたはずのグレイズの姿が見当たらない。
 てっきり、この可憐な恋人とともにいるのだと思っていたのだが。

「えっと、グレイズ……殿下にはお会いに?」

「は、はい!」

 少女の頬が、髪と同じ薔薇色にさっと染まった。

「お疲れのようでしたから、今はお庭でお休みいただいていますの」

 嬉しそうにはにかむマルティータは、従騎士に構わず頬に手を当て照れている。

「まさか、挙式の前日にお忍びで来てくださるなんて夢にも思いませんでしたわ。ありがとうございます、セルゲイ様」

 可愛いという言葉で人を作り上げたらこうであろうという可憐な姫君に満面の笑みで感謝されて、従騎士は人目もはばからず笑顔をとろけさせた。

「いやあ、でも俺が連れ出したんじゃありませんよ。殿下が連れていけって言うから――」

「まあっ。あの方がご命令を?」

「ええ」

「では、愛称も道すがら?」

「そんなところです」

 静けさに満ちた離宮なので、自然と声がひそまる。けれど、グレイズの話をする二人の調子は不思議と明るくなるものだから、楽しそうな会話の残滓が廊下に残っていった。
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