野良魔道士は百合ハーレムの夢を見る

むぅ

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5.妹編

3.魔導士であり強者を名乗る者の宿命

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さんさんと輝く太陽。ローブをはためかせるは乾いた風。

ヒロインたちの期待をその背に受け、悠々と登り立つは闘技場の大舞台。そして正面に見据える、闘士服を身に纏ったティエラちゃん。

拳に布を巻き、舞台映えする真紅のマンダリンドレスを纏ったティエラちゃんは、まさしく闘技場の華。

なんだかんだ言って見栄えが大事な職業拳闘士には、それぞれに似合った服を貸して貰えると聞いていたけれど、ティエラちゃんの服を選んだ人は良い仕事をした。嗚呼、スリットからチラリと覗く太ももが眩しい。


「ふっ……愛しあう者同士が戦うなんて、運命は残酷だね……」
「あ、うん。そうだな?」
「ふっ……強そうに見せるまでもなく強いのが私だからね。でも、その……ティエラちゃんの闘士服、とっても似合ってて……すっごくキレイだよ!」
「えーと、その、ありがとう?」


けれども悲しいことに、今のティエラちゃんは予選突破をかけて戦う対戦相手。私が守るべきヒロインであるティエラちゃんと戦うだなんて、運命はなんて残酷なんだと歯噛みする。

きっと本当は、ティエラちゃんだって戦いたくないはず。感情の抜け落ちたような、しかしほのかに生優しい視線を向けるティエラちゃんは、まるで悲劇のヒロインだ。

しかしこれが大会。普段らぶらぶだからこそ、戦うことで生まれるドラマがある。戦った後は、夕焼けを背景に友情を深め合うんだ。


「ふっ……まぁ私はあまりにも最強だからね。ティエラちゃんは怪我しないように、優しくチョチョイとひとひねりしてあげるよ」
「一言一句違うことなくこっちの台詞なんだが……というか、さっきから気になってたんだが、その最初の「ふっ……」って絶対言わなきゃいけないのか?」
「ふっ……実はそうなんだよ。強者には発言前の溜めが必須だって、『役立たずだと言われて追い出された俺が秘められた隠しチートスキルを極めて地上最強の帝国を築き上げるまで(グースビック・ギュール著)』に書いてあったんだ」
「……まぁアレだ。軽く頭を揺らして終わりにしてやるか。手元が狂うかもだから、あんまり暴れんなよ?」
「ふっ……余裕しゃくしゃくなティエラちゃんも、これを見れば敗北を察するに違いない!」


そう言って私が懐から取り出すのは、私お手製の小さな振り子。先端に付いている綺麗な石が淡い光を放つ、ちょっとお洒落な特別製。

もちろん、こんな場所で取り出すからにはただの振り子であるはずがない。この振り子は私が対セレスちゃんのために創り出した新たなる武器。超究極最強魔導士である私が手がけた超究極のマジックアイテムなのだ。


「この振り子を魔力を込めながらゆらゆらすると、この綺麗な石を中心に『マインドコントロール』の魔法が放たれるんだよ! これを受けると、効果が切れるまで目の前にいる人の言いなりになっちゃうんだ!」
「はぁ? おいおいその手の魔法はこの大会じゃ反則なん……石を中心に?」
「魔法障壁とか何かで抵抗しようとしても無駄だよ! 超究極最強魔導士である私が込めた魔法である以上、この『マインドコントロール』の力場はありとあらゆる魔法防御を突破するのは当然!」
「防御する手があるわけでもない、と……」


私の説明を聞き、全てを察したように無言になるティエラちゃん。

そう、この振り子から放たれる洗脳魔法は防御不可能。その突破力たるや、普段私が身に付けている究極ローブの防御魔法陣を突き破り、中に包まれたのんびり屋さんのランドキャットに命令して、華麗なる後方伸身二回宙返りをさせることができてしまうほど。

これを使えばティエラちゃんが如何な実力者だとしても、怪我させることなく戦いを終わらせることができてしまう。こういう用途に合わせた引き出しの多さこそが超究極最高魔導士たる所以だ。


「これで文字通り手も足も出ない、完全な敗北ってヤツを教えてやるんだ……さぁ、ありとあらゆるイタズラを受ける事を覚悟すると良い! ゆーら、ゆーら……」




――――――――――――――――――――――――――――――――




「……なぁ、案の定ミーシャが動かなくなったんだけど。大丈夫か? これ」


自慢げに取り出した振り子を揺らし始めた途端に無表情で棒立ちになるミーシャを見て、成程奴隷になるわけだ、という納得と共に溜息を吐く。

手元の振り子から放たれる「マインドコントロール」の魔法。その発信源から誰が一番近いかを考えれば、あまりにも当然の結果だ。

試しにほっぺたをつついてみてもなんの反応もなく、飛び跳ねろ、口を開けろと言った命令にも無表情のまま従う。こうなってしまえば場外に出て行けと命令すればそれで終わるし、それが嫌なら抱き上げて場外に降ろしてやっても良い。

それ以前に命令されなければ行動不能のようだし、そもそも精神に作用する魔導具の使用はルールで禁止されている。これは確かに手も足も出ない、完全な敗北と呼ぶに相応しい有様だ。


「うーん……いつも通りと言えばいつも通りだし、多分大丈夫なんじゃないかしら。とりあえず、その振り子は危なそうだから没収しといて」
「これがいつも通りなのか……とりあえずミーシャ、その振り子を渡してくれるか?」
「うん……」
「お、ちゃんと渡してくれたな。じゃあ、場外行こうか」
「うん……」
「あ、ちゃんと階段から降りるんだぞ。ここの舞台、結構高さあるから」
「うん……」


そうして諭すように命令をすれば、ミーシャは言うとおりに振り子を手渡し、舞台からテクテク歩き去って行く。

しかもそのまま観客席のミスティに「おやすみなさい、ミーシャおねーちゃん」と一言声をかけられると、そのまま寝息を立て始めた。コイツ何しに来たんだ。

ここまで「口ほどにもない」という表現が適切な人間がこの世に存在するのかと呆れ半分、諦め半分で眺めていると、不意にイリーから声をかけられる。


「ティエラちゃん、良い事を教えてあげる。ミスティちゃんをあの子に預けたのは、あなたよ」
「……アタシが信じたのは、ほら、人柄だから……」


心が折れそうな一言だった。

ここまで的確に人の心を抉る言葉をアタシは知らない。そして、こんな風に人を傷付けられる人間も。

言葉の刃に刺し貫かれ、がっくりと肩を落とす。これが都会の常識だというのなら、それこそずっと野生に生きていた方がマシだった。

けれども捨て置くわけにはいかない事情がどこからともなく生えてきてしまった現状、ここで逃げ出すわけにはいかない。ミスティを守れるのは、もう私だけなのだ。


「と、とにかく! 注文の片方は片付けたんだ。文句は無いだろ!」
「片方しか、でしょ? それにこんなの、幼児でもできるくらい簡単なお願いだったと思うのだけれども、それでも胸を張れる?」
「うぐ……やっぱお前嫌いだ……」


そんなアタシをからかうように、イリーは厭らしい笑みを浮かべながら毒を吐く。

殴り飛ばしたい笑顔だが、しかし殴れない。見せつけるようにミスティの頭を撫でているのは、アタシに対する脅しだということはとうに理解できている。

本当に性格が悪い。ミスティが嫌そうにしていないことから、扱いが悪くないというのは本当らしいが――脅迫の道具として使うことに関しては躊躇いが無いらしい。それはそれ、これはこれ、ということだろうか

こういう悪女が近くに居るから、ミスティが危うい思想に染まっていくんだ。どうにかしてこんな奴らと縁を切らせないと、大切な妹分がグレてしまう。


「あらあら、嫌いだなんて悲しいわ。私たち、ミスティちゃんのお姉さん同士なのよ?」
「ミスティを撫でながら言うな。怖いんだよ」
「何もしていないのに、理不尽ねぇ。お気に入りの奴隷を可愛がっているだけじゃない」
「だからそれが怖いんだよ! なんかこう、何かをやりかねないオーラが漂ってるんだよお前!」


ただ今に限って言えば、そんなミスティの将来の心配よりも、今まさにミスティが危険な目に合いかねないのが怖い。こうして姉妹のように触れ合っている姿からは想像も付かないが、今この場でミスティの生殺与奪を握っているのはイリーなのだ。


――奴隷という身分は本来、世間一般で思われているほど悪い扱いはされていない。



勿論、社会からの落伍者であることについては間違いではないし、犯罪奴隷ともなれば人間扱いされていないことも確かだ。

だが帝国としては奴隷が徒党を組んで反乱することを非常に警戒しており、その対策として帝国の法律でその権利が手厚く保護されているのだ。徒党を組まれる前に手を差し伸べることで帝国に対する帰属意識を植え付けるだとか、奴隷を介して主人の戸籍と実体の照らし合わせを行うためだとか、あーだこーだと父さんが生前蘊蓄を垂れ流していたが、その辺りの詳しい話は興味が無くて聞き流していたから覚えてはいない。

とにかく、奴隷は国から守られている。なにやら奴隷になった経緯に犯罪臭のするミスティやミーシャがちゃんと大切にされていて、それが周囲に受け入れられているのは、そういった背景があるからだ。なお、目の前でニッコニコと胡散臭い笑みを浮かべているイリーが、そういった法律を全て無視しそうな気配がすることはいったん脇に置いておく。

しかし国からの手厚い保護も、奴隷としての禁忌に触れてしまえば容易く消えてしまう。奴隷を管理するために手厚い保護をしてやっているのだから、管理から外れた奴隷に対して厳しくなるのは当然の話だ。


そして今、ミーシャとミスティはその禁忌に片足を突っ込んでいる。


ミーシャとジュゼは主人の命令に逆らい筋肉杯に参加しようとし、そんな2人の世話を命じられているミスティはそれを止められなかった。ミスティはまだしも、ミーシャはもう問答無用で懲罰を受けてもおかしくない失態だ。

そんな失態を「無かったこと」にできる手がある。そう満面の笑みで語るイリーに、背筋が沸き立つほどの悪寒を覚えたのは言うまでも無い。そしてそれは実際、碌でもないものだった。


「もう、だから何度も言っているじゃない。その怖いオーラってやつも、ミーシャちゃんとジュゼちゃんに傷1つつけないで予選落ちさせることができれば、きれいさっぱり消えてなくなるって」
「それが難しいって言ってるんじゃねえかよ……ミーシャの方はともかく、あっちはかなりやるだろ」


もう煽っているとしか思えない笑みを浮かべるイリーを前に、もう1人の大会挑戦者を見ながら愚痴をこぼす。

2人の問題児に怪我をさせることなく、かつ本人に納得させた上で大会から遠ざける。それが、ミスティを盾にイリーが要求してきた事だ。

まぁ要するに、実害が無ければ2人が筋肉杯に出場したことに目を瞑ってやると言う話だ。しかしこの要求、考えれば考えるほど厄介極まる。

本人に納得させる、というのは単純だ。これは単純な話で、この2人は優勝以外狙っていないのだから、それが無理だと理解させればいい。要するに、予選落ちさせれば良いということだ。主人の目を盗んで大会にやってきた2人に次のチャンスは無いと考えれば、現状最も簡単な大会から遠ざける手段だろう。


だがもう一方――怪我をさせないように、となると途端に話が面倒臭くなる。


ミーシャはさておき、視線の先にいる緑の変質者を一目見たときから思っていた。あの女はかなりの手練れだ。

言動についてはなんとも言い難い残念さだが、体捌きや意識の配り方に目を向けると、ビックリするほど隙が見当たらないのだ。

具体的に言えば、アタシに背を向けているときでさえ、ジュゼはアタシから目を逸らしていなかった。

勿論物理的な意味ではない。視界に入れているときと同様に、一挙手一投足を把握されていたのだ。気配を察知されていたと言い換えても良い。

そこに敵意や警戒心があったわけでは無いが、仮に背後を襲いかかったとしても奇襲にはならなかっただろう。こういった立ち振る舞いをする者は総じて一筋縄ではいかず、戦うとなれば大抵は死力を尽くして戦うこととなる。

勝てない、とは言わない。しかしそんな警戒に値する実力者を相手にして、怪我をさせないよう手加減をするのは非常に難しいことだ。

雑魚を相手にするときのように適当に頭を揺らして気絶させる、なんて真似はまずできない。そんなことをすれば当然のように対処されてしまい、場合によってはそのままカウンターで終わる。つまり、見え透いた弱点を狙うことはできない。

そうなると正面切っての力比べ、技比べの世界になってくるわけだが、そんなことをしたら普通は双方傷だらけになる。お互いに手の内が分かっていない状態から試合が始まるわけだから、後の布石のつもりで放った一撃がクリーンヒットすることだって稀にある。

そもそも人間だか魔物だかよく分からん生き物だ。人間の急所を突いたところでピンピンしているかもしれないし、逆に人間ならどうって事無い場所を殴ったら致命傷になることだってあり得る。弱点が分からなければ、最低限の一撃を打ち込むことだって難しい。


「嘘やろ……ミーシャにゃんが負けてもうた……っ!」
「ジュゼおねーちゃんまさか、ミーシャおねーちゃんが勝つとでも思ってたの?」
「え、いや、だって、あの魔力量と技量ならゴリ押しでどうとでもなるって思うやん普通?!」
「ジュゼおねーちゃんはそろそろ、ミーシャおねーちゃんに幻想を抱くのはやめたほうがいいと思うの」


確信を持って弱点だと言えるところがあるとすれば、あの緑女は社会的に受け入れられがたい性癖の持ち主であるということと、致命的に人を見る目が無いということくらい。それも、殴り合いなら意味の無い弱点だ。


「先に言っておくけれど、人を見る目の無さはティエラちゃんがどうこう言える話ではないと思うわ」
「うっさい! 心を読むな!」


こんなのを怪我させずに倒すなんて、それこそさっきのミーシャのような自滅が無い限り不可能だ。

頭を捻って打開策を考えるアタシを、元凶たるイリーはニヤニヤ腹の立つ笑みを浮かべながら他人事のように煽ってくる。

ミーシャとジュゼに怪我をさせたくないと言っていた本人のはずなのだが、今となってはアタシをいじめて楽しんでいるだけのようにも見える。裏の意図があるのかもしれないが、それはそれとしてこの状況を楽しんでいる節がある。


「やりゃ良いんだろ、やりゃ! 怪我させないようにこのロリコングリーンを倒せば良いんだろ!」
「そうそう、分かっているじゃない。潔く諦めるのは一種の美徳よ」


うんうん唸って悩んだ末の結論が「頑張る」にしかならないというのも悲しいところだ。

幸いにして相手は実力者。寸止めでもしてやれば敗北を認めてくれるだろう。話を聞く限り大会参加の理由も格好付けるためのようだし、意地汚く敗北を認めないことも、まぁ、無いと信じたい。

もし万が一、敗北を認めずに暴れ出したら――目に見える怪我さえしなければ誤魔化せるだろうし、内臓破壊系の技をしこたまブチ込んで黙らせよう。


「ミーシャにゃんの仇はウチが取ったる……ミスティはん、見ててな! ウチが毎日ひーひー言わされるだけの観葉植物やあらへんっちゅーこと、その目に焼き付けたる!」
「ん。ティエラおねーちゃん、がんばって」
「おう、がんばったる! ……え、応援するのウチやないん……?」
「当然なの」


まぁ、考えようと考えまいと、なるようにしかならない。なんとかなることを信じて覚悟を決めたアタシは、ミスティの声援を受けながら再度闘技場の舞台へと登った。




――――――――――――――――――――――――――――




「こ、これはちゃうねん……ルールが、ルールがアカンのや……」


なんとかなってしまった。

目の前で植木鉢ごと仰向けに倒れ、さめざめと涙を流すジュゼを見下しながら途方に暮れる。

良い感じに体が温まってきて、それこそイリーとの約束なんて無視して全力でぶちかましたいと思った矢先の、この状況だ。

面倒くさい命令を完遂できた達成感とか、開放感とか、そういった感情よりもまず先に困惑が脳裏を埋め尽くす。


「ティエラおねーちゃん、かっこよかったの。ひゅばばっ、ってなってて、すごかったの」
「え、あ、うん。……こんな締まらない決着で、ミスティ的には満足なのか?」
「ん。ジュゼおねーちゃんらしいから、これでいいの」
「そ、そうなのか……」


可愛い妹分からの惜しみない賞賛の声も、どういう訳か素直に喜ぶことができない。胸の内に湧き上がるのはジュゼに対する同情と、憐憫の情ばかり。

魔導士ってこんなのばかりなのだろうか。そして魔導士としての勉強をしているというミスティの将来はどうなってしまうのか。

悩みは尽きず、頭を抱える。そんなアタシを眺めるミスティはいつになく興奮した様子で、無表情の割に感情豊かに思えた。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




――あるかも分からないジュゼの名誉のために語っておこう。最初の十数秒は、本当に戦いらしい戦いになっていた。


試合開始の宣言と同時に植木鉢から生える蔦を鞭のようにしならせ、四方八方から重い打撃を打ち込んでくるジュゼ。時に鞭のように、時に槍のように迫り来るその攻撃は、一撃一撃が急所を狙う鋭いもので、ミーシャと違って気の抜けるような相手ではない。

しかしジュゼの攻撃は捻くれたところが一切見当たらない素直なもの。動きは速いし数は多いし、動きは正確無比。癖は強いし見たことのない厄介な動きであることは確かだが、しかしどうにも洗練されているとは言い難い。

駆け引きではなく身体能力の高さで相手を押し潰す、駆け引きの不必要な強者の戦い方だ。それこそ魔境のヌシのような、強力な魔物の戦い方に近しいものを感じる。

けれども、野生の獣が生来持っていた戦闘手段の域を超えていない。目にも止まらぬ速度でツタを振るうジュゼの戦い方を、アタシはそう評した。

あまりに高い基本性能を見せつけてくる割に、格闘の技術や立ち振る舞いに未熟な点が目立つ。というよりも、もっと図体の大きい魔物を相手取ったときにこそ、正しく機能する戦い方に見えるのだ。――まぁ、人里に溶け込める姿ではないと考えれば、どうしてこのような戦い方が身についたかなんて容易に想像できることだが。

そこまで理解してしまえば、ジュゼの猛攻を捌くのは簡単なことだった。

時に手刀で受け流し、時に拳で弾き。振るわれるツタとツタの隙間を身を縮めてすり抜けたり。恐らくは不慣れであろう小兵の戦い方に、ジュゼはやはりと言うべきか対応しきることができず、少しずつ間合いを詰まっていく。


「話には聞いてけど、想像以上にやるやん。これなら野生の世界だろうと生きていけるで」
「あー、やっぱり? なんだか最近、俗世を離れて野生の世界に身を投じた方が良いかもしれないと思ってたところなんだ」


そして拳を交えてなんとなく理解したが、このジュゼとかいう謎生物は、性癖以外はかなり真っ当な人柄の持ち主だ。

ねじ曲がった性格は、戦い方にそっくりそのまま現れる。相手の隙を突いてやろうだとか、いたぶってやろうだとか、そういうのは面と向かい合えば意外なほど分かってしまうものだ。

けれどもジュゼのこの戦いに対する姿勢からは、そのような捻くれた感情は一切感じなかった。

そもそも初対面から今に至るまで、性癖のカミングアウトが酷かっただけで、ジュゼ自身から敵意のようなものは向けられていなかったというのもある。そう考えると、比較対象が邪悪すぎると言うことを踏まえても、そこまで悪い奴ではないのかもと思い始めたくらいだ。

さらに言えばジュゼの攻撃は確かに急所を狙う鋭いものだが、それでもアタシを殺すつもりで放っているものではなかったし、ジュゼの攻撃を捌き続けているときに向けられた感情は怒りや苛立ちのような感情ではなく、敬意や感心といった好意的なものだった。

ミスティを主人と仰いでいる以上、ミスティと関係の深いアタシに大怪我をさせるような真似はしたくないという事情はあるのだろうが、それを抜きにしてもそこまで好戦的な性格ではないとみた。

それでも自分が負けるなんて微塵も考えていなさそうな辺りは、ちょっとアタシを舐めすぎだろうと腹が立ちもしたが、そこは殴って分からせてやれば良いと思えば、そこまで悪い気はしなかった。

要するにアタシもジュゼも、求めていたものは試合としての勝利であり、闘争としての勝利ではなかったということ。ある意味では競技として理想的な状況で、筋肉杯にあるまじき理性的な戦いとも言える。


「認めたる。ただの殴り合いじゃあティエラはんには勝てへん。――せやからここからは、1人の魔導士として戦わせてもらうで!」


しかしその筋肉杯という馬鹿野郎の祭典にあるまじき理性的な戦いこそが、大会予選開始直後から常に正気を失い続けていた審判の目を覚まさせてしまった。

魔導士として戦うという宣言通り、花弁を広げ、風に舞う綿毛のようにふわりと宙に浮くジュゼを見た瞬間に、今まで死んだ魚のような目で試合を見続けていたはずの審判が警笛を鳴らしたのだ。


「ジュゼ・オーギュスタス選手! 飛行魔法と遠距離攻撃の併用につき反則点1!」
「えっ? ……えっ?」


その瞬間まで誰もが忘れていた。筋肉杯とて大会は大会。戦う2人の間で定められた不文律ではなく、別の誰かが決めたルールに則って戦うものであるということを。

そう、私も気付いていなかった。相手が飛び上がったのなら、ジャンプしてツタを踏み台代わりに駆け上がって殴ればいいだけとしか思っていなかった。

しかし誰も守っていないルールには、そういった事態に関する文言が確かにあった。飛行魔法と遠距離攻撃の組み合わせは勝つも負けるも一方的になりがちで「祭りに必要なエンターテイィメント性に欠ける」といった理由で禁止になっていた。

そして改めて考えてみれば、ツタで攻撃するという行為は、それがジュゼにとってどのような解釈であれ、確かに人間から見て遠距離攻撃に準ずるものだろう。それを宙に舞いながら行うというのは、確かに有象無象であれば一方的に打ちのめされて試合が終わる。

故にこれは反則行為であると、少なくとも審判はそう判断したのだ。誰も気にしていなかったが、審判は最初からずっとアタシ達を見ていたのだ。

次に反則をすれば失格だと告げた審判は、何事も無かったかのように定位置の舞台脇に戻っていった。


「……仕切り直そう。あんまり考えるな」
「あ、うん、せやな」


良い感じに暖まってきた場の空気に水を差された気持ちになりながらも、再度構えを取り直す。

対するジュゼも、今度こそしっかりと地に植木鉢を着けながら、構えるようにツタを揺らす。


「――ここからは、1人の魔導士として戦わせてもらうで!」
「あ、そこからなのか」


そうしてジュゼは、冷え切った空気を無かったことにでもしたいのか、先ほどと全く同じ啖呵を切ってその手を天に向ける。

虚空を掴むように握り締めたジュゼの手は、しかし先ほどまでそこに存在しなかったはずのそれを掴み取る。

それは一見して、一輪の花のように見えた。

しかし茎の部分が花にしては太く、むしろ花弁を鍔に見立てた剣の柄と言った方が良いのだろう。事実、ジュゼが握り締めたその花を胸の前に掲げると同時、その花弁の中心から柱が立つようにして、光の刃が生えてきた。


「これは光合成の悲願をを果たしたウチが得た新たなる力。魔力を使って太陽の光を束ね、全てを焼きつくす光の刃とする魔剣! ミーシャにゃんの炎になんとなく対抗心を抱いて作りあげた、手作りの最終兵器や! これなら――」
「ジュゼ・オーギュスタス選手! 魔力を用いて駆動する兵器類の使用につき、反則点2!」
「はにゃッ?! な、なして?!」


なんとなくそんな気はしていた。審判に魔剣を取り上げられ、しょんぼりと肩を落とすジュゼを前にしてそう思う。

ルールと、そして場の雰囲気を読めばなんとなく理解できる話なのだが、この大会において武器の性能差による勝利は基本的に認められていない。

そもそも、脳みそに筋肉が詰まった庶民が馬鹿騒ぎをするための大会だ。そんな大会で、例えば貴族のボンボンとかが金で手に入れた魔導具の力で殴り込んでそのまま大会を勝ち進んでいくなんて、興醒めに過ぎる。

勿論アタシみたいな強者であれば、武器に頼り切った自称戦士なんて適当に蹴散らせるが、参加者の大多数を占める普通の脳筋どもはそうではない。それ故にある程度以上複雑な武器は、使用そのものが禁止されているのだ。


「っつーか格闘戦で負けてるって自覚してるのに、どうしてわざわざ魔法まで使って格闘戦の補強をするんだ? 魔導士として戦ってない気がするんだが……」
「ウチの持ってる技の中で、1番見てくれが綺麗なんが、さっきのやったんや……」
「……そっか。ミスティ、見てるもんな……」
「うん……」


完全に意気消沈、泣き出すまであとちょっと、といった具合のジュゼを前に、声をかけようとするも言葉が思い浮かばない。

最低に近い初対面の印象も、殴り合ってみればそれなりに人柄が分かるもの。アタシの中でジュゼに抱く印象はもう既に、イリーのような邪悪の象徴ではなく、ミーシャのような残念ないきものに近しい物になっている。

憶測だが、ジュゼは幼女を食い物にするような暴力的犯罪ロリコンではなく、好きになってしまった相手が幼女だった結果論的ロリコンという奴なのだろう。仮に前者だとしても、そういった悪事を実行して完遂できるとは、とてもじゃないが思えない。

そんな結果論的ロリコンのポンコツ娘が、好きな子に良いところを見せようとしてこの様なのだと考えると――いくらミスティに悪影響を与えている不埒者とは言え、いくらなんでも不憫に過ぎる。


「その……なんだ? 綺麗な魔法じゃなくて派手な魔法なら、審判もあまり文句は言わないんじゃないか? 派手好きの馬鹿共が集まる大会だしな、これ」
「ティエラはん……?」
「いやほら、アタシだって不完全燃焼だし……なんかアンタの本気が凄そうなのは理解したけれど、アタシだったらなんとかなるから、な?」


だからだろうか。絶対に勝たせてはいけない相手だというのにこんな、焚きつけるようなことを言ってしまうのは。

なんというか、良くも悪くも放っておけない相手なのだ。放っておくと泣き出してしまいそうな辺り、姉貴面したい自分が胸の内からむくむくと湧いて出てきてしまう。

きっとアタシはダメ人間に弱いタイプだ。そんな確信を密かに抱きつつ、余裕綽々といった表情でジュゼに先手を譲る。

それを見たジュゼはやる気を取り戻したのか、軽く瞼を擦り、


「ティエラはん……! わかった、ウチ、やったる!」
「おー! 来い!」



感極まったようにアタシを見つめながら背筋を伸ばし、ジュゼがその背に浮かばせたのは、巨大な魔法陣。

原理は知るよしもないが、空中に投影されたその魔法陣は明らかに大魔法のそれ。魔法の理論なんて微塵も知らないというのに、肌を振るわせるほどの魔力のうねりに身震いすら覚える。

成程魔導士として戦うとは良く言った物だ。あの魔法陣から放たれる魔法がどのようなものであったとしても、恐らくは舞台上に逃げ場は無いだろう。


「これはウチが地下迷宮に張り巡らせて、そのまま放置してきたツタをこの場に持ってくる転移魔法陣や! ここから放たれるのは、数万を超えるツタによる質量攻撃! 当然あんまり加減はできんけど、ティエラはんくらいの実力ならどうとでもする気がする!」
「あー……確かに死にはしない気がするわ。試合に勝てる気はしないけれど」


さてこれから何が起こるかと身構えてみれば、ジュゼの懇切丁寧な説明が先に入る。

いくらアタシの実力を理解していようと、不意打ちだと運悪く死にかねないから先に説明しておこうという気遣いだろう。

確かに、何が起こるか分からない先ほどまでならともかく、何が起こるかをおぼろげにでも理解した今であれば、確実に対処ができる。重さによる攻撃だというのなら、見て避けてしまえばそれで済むということだから。

しかしどう考えても、避けようとすると確実に場外にはなる。

それを狙った攻撃なのだろう。まさに殺すためではなく、試合に勝つための一手。

これに対処しようと思うのであれば、一体どれほどの代物が飛んでくるかも分からないこの質量攻撃とやらを、真正面から殴り飛ばして処理しなければならない。

回避か、衝突か。決断を迫られる中、不可避の大魔法が放たれんとするその刹那、またもアタシらの耳に警笛の音が届く。


「ジュゼ・オーギュスタス選手。確認しますが、その魔法は私を巻き込まずに放つことができるものですか?」
「…………………………………」


音源に目を向ければ、そこには諦観の色に染まりきった表情を浮かべる審判の姿。その身体は恐怖に震え、その目元からはじんわり涙が浮かんでいるようにも見える。

誰もが忘れ去っていたが、審判はずっと舞台脇に立っていたのだ。ツタによる大質量の攻撃を避けられる道理の無い、舞台脇に。


「ジュゼ・オーギュスタス選手、反則点3! 失格!」


そして無情にも、アタシが知る限り誰も気にしていなかった「審判に攻撃したら反則」というルールが、今まさに適応される。

まだ攻撃はしていなかった。未遂だった。しかし止めなければ審判は亡き者にされていたかもしれない。そして亡き者にされたまま、誰も気付かないまま試合が続行されていたかもしれない。少なくとも、アタシは気付かなかっただろう。

そう考えれば、審判の判断に異を唱えることのできる者はおるまい。

かくしてジュゼはアタシにかすり傷すら負わすこと無く、そして自身が傷を負うことも無く、ある意味平和的に予選敗退という結果を残したのだ――




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




「も、もう1回……もう1回だけチャンスを! ちゃんとルールを読み直せば、ウチは予選突破くらい余裕のはずなんや!」
「だーめ。もうジュゼおねーちゃんは負けちゃったんだから、いい子でおしおき待ちしてて?」
「お、お願いや……ウチ、格好良いとこ見せたいんや……おしおきは……堪忍してや……」
「じゃあ、ちょっとだけ格好良かったから、ちょっとだけ優しいおしおきにしてあげるの。これでいい?」


そうして完成したのが、目の前で泣きの一回をねだるジュゼという惨状。

ほんの少し前まで舞台の上で格闘家として良い勝負をしていたはずの相手が、ペットとして幼女におしおきされる事に怯える姿を見せられているというのは、一種の嫌がらせのようにすら思える。

哀愁、憐憫、やるせなさ。アタシの内でとぐろを巻くこの感情を、なんと言ったら良いのかアタシはわからない。


「ティ、ティエラはん……アンタからも何か言ってはってくれや……」
「……ゴメンな。アタシ、何に対してなんて言ったら良いのかわからないんだ。この状況」


敗者を労う状況でもなければ、再戦を希望できる立場でもない。何かを言いたいが、何を言っても傷を抉るだけになりそうで困る。

少なくとも「ジュゼって残念なやつだよな」なんて率直な感想だけは口にしてはならない。「大会に出る前にルールを読め」とも言えない。

アタシにだって良心はある。言えば相手が泣くと分かっている言葉を、あえて口にすることなどアタシにはできない。


「それでも頼む! これもミスティはんのためなんや!」
「そう言われても……ジュゼが格好付けるのが、どうミスティのためになるってんだよ」
「格好付けるっちゅーか、ミスティはんがウチの諫言に一切耳を貸してくれへん現状がアカンのや! このままじゃミスティはんの行く末は暗黒街の女帝しかあらへん! そんなん、ティエラはんやって嫌やろ!?」


そんなジュゼに不穏な未来を予言され、少し想像してみる。

アタシが1度解放奴隷になってしまえば、きっとすぐにでも姉さんを探す旅に出てしまうだろう。そこにミスティが着いてこないというのであれば、どんなに急いだとしてもその後の再会は年を跨ぐに違いない。

つまりそれまでの間ずっと、ミスティはあの悪女イリーの教育を受け続ける事になる。

アタシでは想像もできないような難しい学問を修め、様々な魔法の理論を学び、そして、アタシの知らない世界のアブノーマルな常識とノウハウを叩き込まれる。

その結果、アタシが再会することになるものは何か。――きっとそれは、アタシ如きの手には負えない何かだろう。


「それに、ミスティはんはティエラはんにめちゃくちゃ懐いとる。今回ミスティはんがウチらが大会に行くって話に乗ってきたのだって、アンタに会いたかったからや」
「え、そうなのか? 嬉しいような、恥ずかしいような……」
「でもそれ以上に危険や。考えてもみぃ、もしこのままの方向性で成長したミスティはんを、解放奴隷になったティエラはんが引き取ろうものなら――多分、純粋な好意でじっくりねっとり「恩返し」されてまうで? ――もう既に、ミスティはんの手練手管はアカン領域まで育っとる。生娘に耐えられるとは思えへん」
「……あ、あれ? 言ってることの理解が追いつかないのに、急に寒気が……」


そんな手の終えない何かに「恩返し」をされる――ならず者のお礼参りみたいな意味ではないはずなのに、その意味を理解しきる前からずっと、背筋の震えが止まらない。

きっとこれは、これ以上考えてはいけない何かだ。無意識にかぶりを振って、その恐ろしい想像を振り払う。


「せやろ? せやろ?! せやから、今ここでウチがミスティはんを諫めることができるようになるくらい、尊敬できるところを見せてやらにゃならんのや!」
「当初の想定よりもずっと、大会参加の理由が真っ当で真面目だ……」


そんなアタシを見て、今なら押せるとでも考えたのだろうか。ジュゼの語気が強くなり、アタシの顔を覗き込むようにぐぐいっと迫ってくる。

よほど危機感を覚えているのだろう。アタシを見つめるジュゼの瞳は真剣で、そしてちょっぴり泣きそうになっている。

だが、アタシには恐ろしくて想像することもできなかったミスティの「恩返し」。その元となるものを受け止めるのがジュゼだというのなら、この必死さも納得というものだ。


「……でも諦めろジュゼ。お前の目論見は、もう完全に失敗しているんだ……アタシは、イリーに今後のミスティを任せることにするよ……」
「そ、そんにゃぁ……」


けれどももう、アタシには何もできない。

いくら認めがたい形とは言え敗北を受け入れず対戦相手にまで泣きつき、格好付けるべき相手のミスティには慰めるように頭を撫でられている。

ここからミスティからの心証を逆転させようなど、よほどの天才でなければ不可能だろう。そして悲しいことに、アタシはその手の天才ではないのだ。

そもそもそれ以前に、アタシはイリーの指示に従う他無い。脅迫されていることもそうだが、しかしそれ以前の問題としてイリーの機嫌を損なうわけにはいかないのだ。

なにぶんミーシャは論外として、ジュゼは立場が弱すぎる。この2人ではその意思はどうあれ、ミスティに何かあっても守り切ることはできないだろう。信用できる人柄と信頼できる手腕の持ち主は、必ずしも一致しないと言うことだ。

そして腹立たしいことに、言いくるめや交渉事において、イリーは間違いなく上手。さらに悲しいことに、アタシの伝手にこれより口の回る性悪は存在しない。

結果、ミスティの後ろ盾になれるとすれば、アタシが頼りにできるのは消去法でこの場にイリーしか居ないのだ。であれば、どんな性悪であろうと頭を下げ、機嫌を取る他ない。ミスティの今後を考えるなら、間違ってもここでジュゼの側に寄り添ってはいけないのだ。


「あらあら、嫌われちゃったかもと思っていたけれども、きちんと順当な結論を出してくれたのね。不安にならない?」
「正直に言って不安しか無いけれど、それでも能力面を考慮するなら、こうなっちまうんだよ……」
「それもそうね。でも安心してティエラちゃん。確かに私の教えていることは、世間一般に知られるよりも深い技術や知識だけれども、別に間違ったことを教えているわけじゃないし、勉強や修行を無理強いしているわけでもなければ、虐待をしているわけでもない。
 私はミスティちゃんに、たとえ世界がどんなに残酷であろうと、笑って過ごせるくらいの強さを身に付けてもらいたい、ただそれだけなの」
「……きっと、嘘は言っていないんだろうな」


たった1つ幸いなことがあるとすれば、問題のイリーとミスティの関係が良好に見えることだろうか。

向けられる愛情の形には多大な不安が付きまとうが、それでもイリーが悪意を持ってミスティに接することは無いだろう。それならきっと、ミスティならうまくやっていける。いかに悪事を覚えたとて、アタシの保護下で飢え死にするよりかは、遙かにマシなはず。

力ではどうしようもない。交渉なんてもとから不可能な話。ミスティを取り戻すことなんてできないし、万が一取り返せたとしても、今より良い暮らしをさせてやるなんて口が裂けても言えない。

だったらもう、より良い主人に託すしか無い――そこまで考えて、はたと気付く。


アタシからミスティにしてやれることが、もう何も残っていない。

本当に、何も無いのだ。形ある物は何も渡せず、形ないものですら今の主人が与えるものに劣る。よりよい保護者の顔を立てることもできず、できることはイリーにミスティのことを頼むくらい。それも、口先だけでなんの保証も無い、ただの懇願だ。

もしこのままアタシがミスティに何も告げず闘技場を去り、姉さんを見つけたその地に根を下ろしたとしても、きっとミスティの人生にはなんの影響も無いだろう。それほどまでに、今、アタシの存在はミスティに良い影響をなんら与えていないではないか。

もう、姉貴分としてのアタシの役目は終わりだ。言外にそう告げられたような気がして、言葉にできない動揺が胸の内を揺さぶる。


「あら、ミスティちゃんが寝取られちゃってたことようやく気付いて、悲しい気分になっちゃったかしら?」
「……うっせ」
「あの子も愛されているわね。それが知れたことが、最大の収穫ってところかしら。……さ、そろそろ帰りましょうか。今日の夜は長いから、早めに帰って休みましょう」


イリーは最後にそう言い残すと、ミスティの手を引き闘技場を後にしようとする。

なんだかんだ言って、時はもう夕暮れ。子供連れで歩くには、そろそろ刻限と言ったところ。先ほどまで落ち込んでいたジュゼもまた、渋々といった様子で眠り続けるミーシャを担ぎ上げ、帰り支度を整えている。

アタシにとっても、そろそろ酔っ払った大会参加者が増えてきて、呼び出される頃合い。もう、別れの時間だ。


「じゃーね、ティエラおねーちゃん。また来るの」
「……ああ、また、来てくれよな」


別に、永遠の別れって訳ではない。けれども、それでも、アタシとミスティを繋ぎ止めるものが無いことに気付いてしまった今、この時が来てしまったことが酷くさみしい。

ミスティと一緒に居たい気持ちは多々あれど引き留めるだけの理由も無く、振り向きざまに手を振るミスティに手を振り返すことしかできない。

辛うじて絞り出せたその言葉を最後に、アタシは闘技場を去るミスティらの背を見送った。



――――――――――――――――――――――――――――――



――今日は、なんだか疲れた。

大会予選初日という大一番を終え、これ以上無いほどくたびれた夜。

食事も喉を通らず、適当に水を飲んで喉を湿らせるだけで夕食を済ませた後、アタシは誰と喋ることもなくベッドに潜り込んでいた。

色々なこと、と纏めて言うにはあまりに多くのことがあった1日だった。けれども心に残っているのは、ミスティとの再会の記憶だけ。

ひどく、さみしい。

今までずっと、なんの根拠も無しにミスティはアタシの元に帰ってくるものだと思っていた。ミーシャが壮絶にやらかしたことを知った後でさえ、その確信が揺らぐことは無いはずだった。

けれどもたった一言。ミスティが別れ際に放った一言で、その自信は崩れ去ってしまった。もう、ミスティにとってアタシの側はいつか帰ってくる場所ではなく、手空きの時間に来る場所になっていた。

もう、ミスティがアタシの側で過ごすことは無い。懐いていると言っても、それはきっと、アタシが期待していた距離よりも、もっとずっと遠い。

今、無性に姉さんが恋しい。家族のぬくもりが、ほしい。

早く姉さんに会いたい。手を握ってもらって、がんばりましたねって褒めてもらって、抱き締めてもらいたい。

けれども、ふと思う。

もし、どれだけ探しても姉さんに出会えなかったら。もし、姉さんもアタシの側から離れてしまったのなら。

もし、姉さんの手が、他の誰かの手を握り締めて離さなかったら――


――そのときアタシは、一体誰の手を握ればいいのだろう?


視界が暗くなるほどの絶望感を覚えたアタシは、かぶりを振ってその思考を振り切る。

そんなことは無い。きっと大丈夫。きっと姉さんとは再会できるし、姉さんだって再会を喜んでくれる。

だから、今は休もう。アタシはそう結論づけて、怯えたように跳ねる心臓を抑えながら瞳を閉じた。
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