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凛子

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 週末の会社帰り、麻莉亜は一人居酒屋で至福の時間を過ごしていた。
 二杯目のジョッキがちょうど空になった時だった。
「すみません、今満席でして……」
「あー、そうなんだ。金曜だしね」
 聞き覚えのある声が耳に入り、出入口に目をやると、池上部長の姿が見えた。咄嗟に「部長」と呼び掛けるが、客の賑やかな声にかき消された。
「池上部長!」
 今度は名指しで呼んでみる。
「あっ!」
 扉を閉めかけた部長が手を止め、目を丸くしている。
「部長、お一人ですか?」
「ああ」
「もし良ければ、ここ、どうぞ」
 麻莉亜は自分の向かいの席を指し示した。
「え、いいのかい?」
 部長が驚いたような、それでいて少し嬉しそうな表情で尋ねる。
「ええ、どうぞ」
 嫌なわけがない。部長と二人きりで話せる絶好のチャンスなのだから。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」
 麻莉亜は部長とビールの入ったジョッキを合わせた。
「部長、さっき休憩室で岡部さんと長い間話し込んでたみたいですけど、何かトラブルでもありましたか?」
 帰り際、二人が深刻な表情で話しているのを見かけたのだ。
「いやいや、違うよ。部下に指示を出すだけが俺の仕事じゃないからね。部下の話をしっかりと聞くのも上司の勤めだよ」
「そう、ですよね」
 もっともだ。やはりわかっていないわけじゃなかったのか、と麻莉亜は部長の控えめな笑顔を眺めながら一人納得していた。いくらなんでも、菓子好きが認められて部長にまで昇進となるはずがない。
「もちろん君をパッケージデザインの担当に選んだのも、単に若いという理由だけじゃなかったんだよ」
「え、そうなんですか?」
「君は食べ歩きが趣味だと言ってただろ? あとは、ファッションにも興味があって、よくウィンドウショッピングをするって」
「はい」
 よく覚えているな、と麻莉亜は感心していた。
「日頃からよく街に出ている君は、色んなデザインに触れる機会が多いだろうと思ってね。デザインを考える上でそれが一番大事なことだと思うんだ。頭の中だけでデザインセンスを磨くっていうのはなかなか大変なことだと思うから」
 さすがだ、と思った。
「これでも一応部長だしね。部下のことは理解出来てるつもりなんだけど……どうかな?」
 自分の知らないところで、部長の陰の努力があったことを初めて知った。
「部下を育てるというより、部下が育つ環境を作るほうが大事だと思うんだ。あとは部下のメンタルケアも。その為にも、部下の話を聞くのは大事なことなんだよ」
「じゃあ部長、私の話も聞いてもらえますか?」
 少し酔いがまわっていたせいか、麻莉亜はそんな言葉を口にした。
「ああ、もちろんだよ。俺でよければ力になりたい」
 上司として百点の返しをする部長が優しい笑みを浮かべている。
「実は私、三年付き合った恋人と半年前に別れたんです」
「え、ああ、いやあ……。その手の話は一番の苦手分野だな」
 今度は苦笑いを見せ、焦りを隠すようにずり落ちた眼鏡を直した。
「婚約指輪まで貰ってたんです」
 そんな部長に構わず、麻莉亜は続ける。
「えっ……? 婚約、してたんだ」
 部長の声がわずかに上擦った。
「はい」
「それなのに何故」
 順風満帆と思っていた交際に、まさかの落とし穴があったのだ。それは不意に出現した大きな落とし穴だった。原因は、喧嘩でも暴力でも浮気でもなく、借金が発覚したことだった。
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