勘違いの恋 思い込みの愛

凛子

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勘違いの恋 思い込みの愛

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 午前七時。パン屋の朝は早い。店内は香ばしい香りが漂い、焼きたてのパンが次々と棚に並べられていく。

 村上むらかみ梨花りかがこの店の販売スタッフとして働き始めてから二ヶ月が経とうとしていた。
 町の小さなパン屋だったが、店主が材料に拘り丁寧に焼き上げるパンはとても人気があった。元々ここのパンが大好きだった梨花は、週三、四回ペースで訪れていた為、店主やスタッフとも顔見知りだった。
 そして縁があって、ここで働けることになった。

 二ヶ月前のある日、目当てのパンを購入し店を出た梨花は、前回来た時にはなかった貼り紙に気付いた。
 近付いて見ると、販売スタッフ募集の貼り紙だった。

「あれ? もしかして梨花ちゃん、パートに出ようって考えてる?」

 貼り紙を眺める梨花に、店の前を掃除していた店主が声を掛けた。

「ええ。でも……家事との両立が出来るか不安なんで、短時間で考えてるんですけどね」

 梨花は少しはにかみながら答えた。

「それだったらうちおいでよ。梨花ちゃんなら即採用だよ。時間も日数も梨花ちゃんの負担にならない程度から始めればいいよ」

「えぇっ!? ほんとですか? ここで働けたら幸せ過ぎますー!」

 降って湧いたような話に、思わず目が潤む。

「そんな梨花ちゃんだからだよ。うちのパンを愛してくれてる梨花ちゃんみたいな子に来て貰えたら、こっちも幸せだよ」

 店主はにこやかにそう言った。

「あの……今日一日お時間頂けますか? 主人と相談して、明日お返事しにきます」

「わかったよ。待ってるね」

 梨花は胸を弾ませ自宅へと急いだ。


 帰宅すると真っ先に、夫の晴也せいやに相談した。

「家事との両立が出来るんならね」

 晴也の返事はそっけなかったが、晴也がそう言うであろうことは想定内だった。
 晴也の言いたいことはわかっていた。「わざわざパートに出なくてもいいだろう」ということだろう。実際、何不自由なく生活は送れていた。

 ライターの晴也と結婚して三年、初めのうちこそ「いつも一緒にいられる」と、在宅勤務が多い夫の仕事を喜ばしく思っていた梨花だが、一年が過ぎた頃には苦痛を感じるようになっていた。
 仕事を辞めて専業主婦となり、家事も卒なくこなしていた梨花が、晴也から小言を言われるようなことはなかったのだが、常に監視されているようで、気が休まらなかった。
 友人と時々ランチに出掛けるのが、梨花の唯一の楽しみとなっていた。
 自宅にいるのが息苦しくなっていた梨花は、パートに出ようと考えていたところだったのだ。
 今までは何でも晴也の言う通りにしてきたが、今回ばかりは梨花の意思は固く、「じゃあやってみれば」と晴也がしぶしぶ承諾する形となった。
 勿論、梨花は家事も完璧にやってのけるつもりでいた。


「いらっしゃいませ~」

 七時からの二時間は、サラリーマンや学生などで、一番込み合う時間帯だった。
 ひっきりなしに客がレジに並び、梨花は手を休めることなくレジ打ちと袋詰めに没頭する。

 パン屋の販売スタッフにとって一番の難関は、全てのパンの名前と値段を覚えることだったが、この店の常連客だった梨花は、難なく突破した。そして人懐っこい性格であった為、客からすぐに顔を覚えてもらえ、あっという間に店に馴染んだ。

 客が疎らになりほっとひと息ついた十時頃に、ある男性がやって来る。

「おはよう」

 爽やかな笑顔で挨拶する彼に負けない笑顔で、梨花も元気に挨拶する。

「おはようございます!」

 視線をすぐにトレーの中のパンに向け、素早くレジ打ちする。
 彼はいつもパンを二つと、カフェオレを購入する。

「五百三十円です」

 彼が財布から小銭を取り出し釣り銭皿に置く。

「丁度お預かりします。ありがとうございました」

 梨花が満面の笑みで挨拶すると、彼は笑顔で「行ってきます」と返事する。

 会社員ではないのだろうか。スーツ姿ではなく、流行に合ったものをお洒落にアレンジして着こなしていて、アパレル店員もしくは美容師というような雰囲気を醸し出していた。
 梨花は密かにこの時間を楽しみにしていた。


 週四日の短時間のパートとはいえ、外に出て働くことが、梨花にとっては良い息抜きになっていた。
 二ヶ月が経ち生活のリズムも掴め、心配していた家事との両立も出来ていた。

 二ヶ月前までの梨花は、晴也が全てだった。
 一日の会話が晴也とのみの日もざらだった。それ以外と言っても、買い物に出掛けた時レジスタッフに「ありがとうございます」と言うくらいのものだ。
 働き始めてからフットワークも軽くなり、以前よりも家事がスムーズにこなせるようになった気がしていたし、このところ晴也との会話が増えたようにも感じていた。

 晴也と交際中は、年に数回二人で旅行を楽しんでいた。結婚してからも最初の一年程は旅行やデートにも出掛けていたが、それ以降はぱったり途絶えた。それに合わせて、夜の営みも殆どなくなった。
 まだ新婚といわれる時期なのに――晴也は変わってしまった。

 しかし最近になって会話が増えたことで、晴也との関係回復の兆しが見えていた。


「行ってくるね」

 梨花が声を掛けると、パジャマ姿の晴也がコーヒーを啜りながら「うん」とひとこと。
 テンションの低さは仕方がない。まだ朝の六時半なのだから。

 のんびり自転車を走らせること十五分――店に到着した梨花はエプロンを着け、レジに立った。
 焼きたてパンの香りに包まれて、幸せな気持ちに浸っているうちに、客がどんどん増え始め、またレジ打ちと袋詰めに没頭の時間が始まる。そしてその波が去った頃に、また彼がやってくる。

「おはよう」

「おはようございまーす!」

 いつもと変わらず――いや、特別な笑顔で、接客する。

「五百四十円です」

 彼はポケットから千円札を出し梨花に手渡した。

「千円お預かりします。――四百六十円のお返しです」

 梨花が釣り銭皿に置く前に、彼が手を出した。急いでいるのだろうか。
 梨花は彼の手の平に、そっと釣りをのせる。
 彼の手が少し触れ、胸が高鳴った。

「行ってきます」

 いつものように彼がにっこり微笑む。

「あ……ありがとうございました」

 梨花は頬がみるみる紅潮するのを感じていた。

 ――気付かれたかも。


「ただいま」

 梨花が帰宅すると、晴也がソファーで横になっていた。

「あれ? どうしたの?」

 梨花が聞くと、「何かしんどい……」と晴也が言った。
 言われてみると顔が赤いような気がして、晴也の頬に触れる。

「あー! 熱あるじゃん」

 二、三日前から、風邪の症状があったのは知っていた。

「朝は食べた?」

「コーヒーだけ」

「何か食べれそう?」

「お粥が食べたい。卵がはいったやつ」

 こんな晴也の様子を見るのは久しぶりだ、と梨花は驚いていた。食べたい物のリクエストも珍しかった。
 だが元々はこういう人だった。いつの頃からか、あまり感情を表に出さないようになった。

「今から作るから、ちょっと待っててね」

「うん」

 やけに素直で可愛いと思った。


 翌朝、晴也の熱はまだ下がっていなかったが、子供ならまだしも、夫の熱を理由に仕事を休むのもどうかと思い、梨花は出勤の準備をしていた。

「行ってくるね」

 まだベッドの中の晴也に声を掛けると、晴也は子供のように不満そうな表情を見せた。
 梨花は後ろ髪を引かれる思いで玄関を出た。

 鍵を閉めたその瞬間、梨花の意識が向かう先は、晴也から別の人へと移っていた。

 梨花は彼の来店を心待ちにしていた。
 そしてまたいつもの時間に彼が現れる。

「おはよう」

 今日も爽やかな笑顔を梨花に向ける。
 トレーにはパンが二つとカフェオレ。
 そして今日もポケットから千円札を出した。

「四百九十円のお返……」

 言い終える前に彼の手の平が梨花の視界に入った。梨花は緊張で震える手に気付かれないように素早く釣りを彼の手の平にのせると、彼は梨花の指をぎゅっと握った。そして言った。

「行ってきます」

 頬が火照り、身体まで熱くなった。

「い、いってらっしゃい」

 手を握ったのか、釣りを握っただけなのか……。
 梨花はぼんやり彼の後ろ姿を見送った。

 彼は梨花の密かな想いに気付いているのだろうか。気付いていて、からかっているのだろうか。

 仕事の帰り道、突然目の前を車が横切り、梨花は冷や汗をかいた。
 赤信号に気付かないくらい、梨花の心は浮わついていた。


「ただいま」

 言ってから、はっとした。晴也の体調はどうなのだろうか、と。
 浮かれていたことに、良心の呵責を覚えた。

「晴也? 大丈夫?」

 ソファーで横になっていた晴也に声を掛ける。

「うん。だいぶ良くなった。明日は梨花休み?」

「え? あ……休みだ」

 言われて気付いた。そして思い浮かべたのは、彼の笑顔だった。

 ――明日は会えないんだ。

 翌日、晴也の風邪はすっかり良くなっていた。
 のんびりできて嬉しいはずの休日だが、梨花は朝からそわそわしていた。そして彼のことばかり考えていた。
 普段なら仕事部屋に籠る晴也が、何故かその日はリビングのソファーで一日過ごしていた。


 その夜、数ヶ月ぶりに晴也と身体を重ねた。
 ソファーで寛いでいるうちに、そういう雰囲気になり、どちらからともなく唇を合わせ、そのまま流れるように事に及んだ。
 結婚してから少しずつ変わってしまった晴也だが、決して晴也のことが嫌いになった訳ではない梨花が、拒む理由はなかった。
 病みあがりだというのに、一体どうしたのだろう、と梨花は不思議に思っていた。

 翌朝、珍しく玄関まで見送りに来た晴也に抱きしめられ、唇を重ねる。

「気を付けて」

「うん、行ってきます」

 ドアが閉まると、梨花は小さく息を吐いた。
 高鳴る鼓動は誰のせいだろう。

 レジに立ち、朝のラッシュもものともせず、梨花は彼の来店を待ち焦がれていた。

「おはよう」

 ――来た!

 いつもはレジ前で挨拶する彼が、今日はドアを開けるなり梨花に視線を向けて言った。

「おはようございます!」

 すかさず梨花も笑顔で返した。
 今日は珍しく時間をかけてパンを選ぶ彼の姿を、梨花はカウンターの中からじっと見つめていた。やがて彼が梨花の待つレジの前に立った。
 彼のトレーには十個程のパンとカフェオレが二本、そしていちごミルクが一本のっていた。

「あのさぁ、俺――」

 突然話し掛けられたかと思うと、彼は思いがけないことを口にした。

「明日、引っ越すんだ」

「え? 引っ越し? 明日?」

 心臓が激しく動悸する。

「うん。二人目生まれるから、今のところ手狭になってさぁ」

 ――え、待って、待って待って。

 一度にたくさんの情報が耳に飛び込んできたせいで、梨花の頭は処理しきれなかった。
 引っ越しすること、結婚していたこと、子供がいたこと。
 梨花は動揺が隠しきれなかった。

「えー!! 何で今まで言ってくれなかったんですか!?」

 飼い犬に手を噛まれたような気分だった。
 勿論彼には何の罪もない。
 梨花が勝手に勘違いしていただけなのだから……。

すがちゃん、引っ越しちゃうの?」

 近くで聞いていた店主が聞き返した。

 ――菅……さん。今頃知った彼の名前。

「寂しいなぁ……たまには顔出してよね」

 店主が言うと、「勿論ですよ」と菅は柔らかい笑顔で返した。
 そして店主自らパンを袋に詰めると、「餞別だよ」と代金を受け取らず菅に袋を持たせた。

 管は丁寧に礼を言い、梨花には「またね」と言って去っていった。


「梨花? 何かあった?」

 晴也に聞かれて、はっとした。

「――え? 何で?」

「元気ないから」

「そう? そんなことないよ」

 そう言うしかなかった。
 失恋……? そんなことを言える訳がない。

「いつも見てるからわかるよ。仕事で何かあった?」

「あ……うん。ちょっとミスしちゃってね」

 わざと困ったような表情を見せ、梨花は誤魔化した。

「そうか。まぁミスなんて誰にでもあることだし、あんま気にすんなよ」

 晴也がそんなことを言うのは珍しかった。余程暗い表情をしていたのだろうか。
 憂鬱な気持ちを抱えたまま、梨花は夕食作りにとりかかった。


「梨花」と呼ばれ視線を向けると、「こっちきて座って」と晴也が手招きした。
 料理の手を止め、梨花はソファーに座る晴也の横に腰かけた。

「何?」

「お前さぁ、何でいつも俺に気を遣ってんの?」

 突然核心を突かれ、梨花は言葉に詰まった。確かに晴也の顔色を窺うのが癖になっていた。それは、晴也が感情を表に出さないようになったからだ。

「俺、お前に気を遣わせるようなことした覚えもないし、脅したり貶したり文句を言ったこともないはずだよ?」

「……うん」

 勿論そんなことは、今まで一度もなかった。

「結婚前には一緒に行ってた旅行も全然行きたがらなくなったし、俺に触れてもこなくなっただろ。俺、これ以上お前に嫌われたくない一心で、余計なこと言わないように、余計なことしないように気を付けてきたんだけど……」

 ――え? えぇっ!? 違う違う! それは違う!!

「余計なこと言わないように気をつけてたら、会話はどんどん減っていくし、余計なことしないように部屋に籠って仕事してたら、すげぇ寂しくなるし……」

 矢継ぎ早に言葉を投げ掛ける晴也に気圧され、梨花は言葉が出なかった。

「パートに出るって言われて、すげぇ困ったよ」

「え? 困った?」

「外に出て色んなもん見たら、お前が俺から完全に離れてしまうような気がしたんだ。『家事と両立できるんなら』って言ったら諦めるかと思ってたら、お前食い下がってくるし……」

 晴也の口からは全く見当外れの言葉ばかりが飛び出し、梨花の頭は混乱した。

「お前パート始めてからすげぇ楽しそうだし、俺にも優しくなったし、どっかで浮気してんじゃないかって疑って、何度かこっそり店まで行ったんだ」

「えーっ!? やだ、やめてよ!」

「……ごめん。でも、仕事だって言って出掛けた日は、ちゃんと店の前にお前の自転車が停まってて、店の中にはお前もいて、安心したんだ」

「当たり前じゃない! で? 要するに晴也は何が言いたいの? 私にパートを辞めろって言ってる?」

「そんなことが言いたいんじゃないよ」

「じゃあ何?」

「だから……。俺は、お前が好きだけど」

「――え?」

「お前もまだ俺のこと好きでいてくれてる?」

 言いたいことも聞きたいことも山ほどあったけれど、今はただ黙って頷いた。

「専業主婦になって、俺の為に頑張って家事をしてくれる梨花を見ながら仕事するのが好きだったんだ」
 
「え……?」

 ――監視されていると思い込んでいた視線は、それだったの?

「でも、仕事を頑張る梨花も好きだよ。……まあ要するに……梨花が好きってこと」

 梨花は伝えるべき言葉を探していた。

「梨花には何の不満もないよ。でも、敢えて言うなら……」

「ん?」

「もう少しだけ俺の相手をしてほしい」

「やだぁ、何――」

 梨花の目から大粒の涙がこぼれた。





【完】
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