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二話
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電車が揺れ始めると、美紀は違和感を覚えた。
毎朝うんざりするすし詰め状態の車内が、今日はさほど気にならないことに気付き不意に顔を上げると、つり革を持つ男性の肘に頭をぶつけ、“すみません”の会釈をする。
いつも以上の混み具合だ。
ならばこの不思議な感覚は何だろう、と考えた。空腹と心が満たされたことからくるゆとりの為だろうか。こんな気分で出勤できるなら、あの店に毎日通ってみたいとさえ思えた程だ。
電車が停車してドアが開き、勢いよく押し出される――と、ふわりと甘い香りがした。そして、満面笑みの女性が美紀に駆け寄る。
「おはようございまぁす」
甘ったるい声で美紀に挨拶するのは、会社の三つ後輩の池上瑠璃子だ。
「おはよう。瑠璃子ちゃんこの時間珍しいね」
「そうなんです。いつもはギリギリなんですけど、今日は美紀さんとお話したくて、一本早い電車に乗ったんです」
「え? どうしたの?」
「昨日、美紀さんが教えてくださったお店に行ってきたんですけど、すっごくお洒落だし、お料理もおいしくってほんと最高でしたぁ!」
体をくねらせ話す度に、揺れる巻き髪から甘い香りが漂い、美紀の鼻腔を蕩かす。
「彼氏と? あ、今はいないって言ってたっけ?」と美紀が尋ねると、「そうなると嬉しいんですけどね……」と瑠璃子は頬を赤らめた。
――可愛い……めちゃくちゃ可愛い!
そんな顔をされたら男性なら堪らないだろう、などと考えながら、美紀は瑠璃子に見とれていた。
甘い声とあどけない表情には似つかわしくないスタイル。カーディガンを羽織ってはいるものの、胸元の大きく開いたワンピースからこぼれ落ちそうな胸は、同性の自分でさえも目の遣り場に困ってしまうほどなのだ。
会社に到着するまでにすれ違った数人の男性達が皆、瑠璃子のそれにちらちらと目を遣る様子を、美紀はまじまじと見つめていた。
当の本人は知ってか知らでか、気にもしていない様子。どちらにしても、それは瑠璃子にとってはどうでもいいことなのだ。瑠璃子が媚びない性格だと、美紀は知っていた。恐らくそれが、瑠璃子が異性からも同性からも好かれる理由なのだろう。
「じゃあ私、お手洗いに寄ってからロッカー行きますね」
甘い香りを振りまきながら、瑠璃子は小走りで去っていった。
「おはよう」
少し掠れたその声の主に、今度は美紀が満面の笑みを送った。
スタイリッシュなスーツに身を包み、長身で目鼻立ちの整った爽やかな男性――竹野内大希だ。
二十七歳の美紀より四つ年上の大希は、美紀と同じ課の上司だ。そして付き合って三年になる美紀の彼氏であり、先月プロポーズを受けた婚約者なのだ。
「おはよう、大希」
美紀がそう言って大希の腕に手を絡めた途端――
「こらこら、会社ではダメだって!」
大希は素早く身を躱し、少し照れた様子で辺りをキョロキョロと見回してから、誰もいないと分かると、人差し指でツンと美紀の額をつついた。
社内恋愛が特に禁止されている訳ではなかったが、大希は人前でベタベタするのをあまり好まない。しかし美紀は、それを知っていてわざとそうしてみたのだ。
このところ大希の仕事が忙しく、休日出勤と残業続きでしばらくデートもできていない。プロポーズを受けた先月から一度もだ。
美紀は口を尖らせ少し拗ねた様子を見せた。
「ごめんな。時間作るからもうちょっと待ってて」
些細な抵抗をしたものの、申し訳なさそうに眉をひそめる大希を見て、困らせてしまったことを後悔した。おそらく大希も、時間が作れなくてもどかしさを感じているはずなのだから。
美紀は尖らせた唇を緩め、小さく頷き笑顔を見せた。会えないといっても本当に会えないわけではなく、会社では顔を合わせているし、美紀のデスクからは大希の姿がよく見える。それが社内恋愛の良いところでもある、と美紀は思っていた。
毎朝うんざりするすし詰め状態の車内が、今日はさほど気にならないことに気付き不意に顔を上げると、つり革を持つ男性の肘に頭をぶつけ、“すみません”の会釈をする。
いつも以上の混み具合だ。
ならばこの不思議な感覚は何だろう、と考えた。空腹と心が満たされたことからくるゆとりの為だろうか。こんな気分で出勤できるなら、あの店に毎日通ってみたいとさえ思えた程だ。
電車が停車してドアが開き、勢いよく押し出される――と、ふわりと甘い香りがした。そして、満面笑みの女性が美紀に駆け寄る。
「おはようございまぁす」
甘ったるい声で美紀に挨拶するのは、会社の三つ後輩の池上瑠璃子だ。
「おはよう。瑠璃子ちゃんこの時間珍しいね」
「そうなんです。いつもはギリギリなんですけど、今日は美紀さんとお話したくて、一本早い電車に乗ったんです」
「え? どうしたの?」
「昨日、美紀さんが教えてくださったお店に行ってきたんですけど、すっごくお洒落だし、お料理もおいしくってほんと最高でしたぁ!」
体をくねらせ話す度に、揺れる巻き髪から甘い香りが漂い、美紀の鼻腔を蕩かす。
「彼氏と? あ、今はいないって言ってたっけ?」と美紀が尋ねると、「そうなると嬉しいんですけどね……」と瑠璃子は頬を赤らめた。
――可愛い……めちゃくちゃ可愛い!
そんな顔をされたら男性なら堪らないだろう、などと考えながら、美紀は瑠璃子に見とれていた。
甘い声とあどけない表情には似つかわしくないスタイル。カーディガンを羽織ってはいるものの、胸元の大きく開いたワンピースからこぼれ落ちそうな胸は、同性の自分でさえも目の遣り場に困ってしまうほどなのだ。
会社に到着するまでにすれ違った数人の男性達が皆、瑠璃子のそれにちらちらと目を遣る様子を、美紀はまじまじと見つめていた。
当の本人は知ってか知らでか、気にもしていない様子。どちらにしても、それは瑠璃子にとってはどうでもいいことなのだ。瑠璃子が媚びない性格だと、美紀は知っていた。恐らくそれが、瑠璃子が異性からも同性からも好かれる理由なのだろう。
「じゃあ私、お手洗いに寄ってからロッカー行きますね」
甘い香りを振りまきながら、瑠璃子は小走りで去っていった。
「おはよう」
少し掠れたその声の主に、今度は美紀が満面の笑みを送った。
スタイリッシュなスーツに身を包み、長身で目鼻立ちの整った爽やかな男性――竹野内大希だ。
二十七歳の美紀より四つ年上の大希は、美紀と同じ課の上司だ。そして付き合って三年になる美紀の彼氏であり、先月プロポーズを受けた婚約者なのだ。
「おはよう、大希」
美紀がそう言って大希の腕に手を絡めた途端――
「こらこら、会社ではダメだって!」
大希は素早く身を躱し、少し照れた様子で辺りをキョロキョロと見回してから、誰もいないと分かると、人差し指でツンと美紀の額をつついた。
社内恋愛が特に禁止されている訳ではなかったが、大希は人前でベタベタするのをあまり好まない。しかし美紀は、それを知っていてわざとそうしてみたのだ。
このところ大希の仕事が忙しく、休日出勤と残業続きでしばらくデートもできていない。プロポーズを受けた先月から一度もだ。
美紀は口を尖らせ少し拗ねた様子を見せた。
「ごめんな。時間作るからもうちょっと待ってて」
些細な抵抗をしたものの、申し訳なさそうに眉をひそめる大希を見て、困らせてしまったことを後悔した。おそらく大希も、時間が作れなくてもどかしさを感じているはずなのだから。
美紀は尖らせた唇を緩め、小さく頷き笑顔を見せた。会えないといっても本当に会えないわけではなく、会社では顔を合わせているし、美紀のデスクからは大希の姿がよく見える。それが社内恋愛の良いところでもある、と美紀は思っていた。
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