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好きな人が幸せならそれでいいと、そう思っていました。

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 ふと、窓の外を見上げた。黒い空に、輝く星が美しく光る。月は細い三日月。それでも、暗い夜に綺麗に浮かんでいた。かすかに注ぎ込む月の光が、オリビアの長い黒髪を美しく照らす。


 オリビアは一つだけ息を吐くと、目の前の扉をノックする。入室を許可する声に扉を開けた。


「オリー?こんな時間にどうしたんだい?」


 オリビアの登場に、コンラードは書類を見ている手を止めて、立ち上がった。オリビアと親子であることを感じさせる端正な顔立ちに漆黒の髪。そんな彼にオリビアは深く頭を下げた。


「遅くに申し訳ありません。お父様に折り入ってお話がありまして」


「…それは、いい話かな、それとも悪い話…かな?」


「悪い話でもあり、…いい話でもありますわ」


「そうか。…立ち話する必要はないね。さあ、こちらへおいで」


 コンラードは部屋の中央にあるソファに腰掛け、自分の隣を軽く叩いた。オリビアは軽く頷くとコンラードの隣に座る。いつも仕事で忙しい父とこんな風にゆっくり話すのは久しぶりだった。どうせならもっと違う話をしたかった。そう思ったが、小さく首を横に振る。


「それで話とは何かな?」


「…ジム、…いえ、ジェイムズ様との婚約を破棄したいと考えております」


「…」


「ただし、私たちの婚約は我がカールソン公爵家とルーデンス侯爵家の問題でもあります。それに、この婚約はカールソン家が申し込んだもの。突然の婚約破棄は許されるものではありません。そこで…」


 コンラードは秩序立てて組み立てられたオリビアの申し出を静かに聞いていた。オリビアのコンラードを見つめる目に迷いはなく、だからこそため息をつくこともできない。


「…確かにその方法なら不義理にはならないだろう。でもそれはあくまで家と家との話。…オリーはそれでいいのかい?」


 コンラードの言葉にオリビアは一瞬戸惑うように息を止めた。けれどすぐに笑顔で頷く。


「もちろんですわ、お父様。…お父様にはご迷惑をかけてしまいますが」


「そんなことはどうでもいい。…よく考えた結果なんだね?」


「ええ。何度も、何度も考えました。…これが一番幸せな方法ですわ」


「そうか」


「はい」


「私は…余計なことをしてしまったのかな」


 コンラードの言葉にオリビアは静かに、けれど、しっかりと首を横に振った。


「そんなことは決してありません。お父様のおかげで幸せな、…いいえ、幸せ過ぎる2年間を過ごすことができましたわ。だから今度は、彼が幸せになる番です」


「……オリーも今年で17歳か」


「え?…はい」


 突然のコンラードの言葉にオリビアは戸惑いながらも頷いた。


「ずっと子どもだと思っていたよ。私が手を貸してあげなければならないと、そう思っていたが、…いつの間にか大人になってしまったね」


「お父様…」


「でもね、オリー、君はいつだって私のかわいい娘だ」


「はい」


「だから、急いで大人にならなくたっていいんだよ」


「…」


「オリーの望むようにしよう。準備が整ったら先方に謝罪に行くよ」


「申し訳ありません」


「ねぇ、オリー、一つだけ覚えていて欲しいことがあるんだ」


「なんでしょうか?」


「どんなことがあったって、私は、いや、私たち家族は皆、君の味方だからね」


「……はい」


 本当は感謝の言葉を言いたかったのに、口から出てこなかった。枯れたと思っていたはずの涙が頬を伝う。コンラードは両手を広げてオリビアを抱きしめた。声を殺す必要などない、そう伝えたくて、オリビアの美しい髪を撫でる。その優しい手つきに、オリビアは声を出して泣いた。


◆◆◆

「婚約破棄ってどういうこと?」


 礼を欠いた大声でジェイムズがカールソン家の屋敷に入ってきたのはほんの数分前だった。ジェイムズの訪れを知っていたように待っていたオリビアは、彼をひとまず客室に案内する。勧めたソファに座らず、ジェイムズは苛立ちを隠さず、オリビアに詰め寄った。


「言葉のとおりですわ」


「どうして!」


 怒りにまかせて振り回したジェイムズの右腕が空を切った。端正な顔立ちを歪め、怒りをあらわにするジェイムズは、この国の騎士であり、細身ではあるがその体つきはいい。身長も高い彼の威圧感のある怒声に、けれどオリビアは落ち着きを保ったまま答えた。


「どうして、と言われましてもそうなったから、としかお答えできませんわ。あ、でも、安心してください。カールソン家とルーデンス家との婚約はなくなりませんわ」


「そんなこと聞いていない!」


 知っていた。ジェイムズがこんな風に怒ることを。あまりにも想像どおりでオリビアは場違いにも笑いそうになる。


「オリーが学校を卒業する来年、結婚するって、そう決まっていたはずだろう?」


「ええ。でも、予定が変わったのです。それに、家と家との約束はそんなこと、ではありませんわ。とても大切なことです。特に、ルーデンス家の懐事情を鑑みれば、この婚約は、必要不可欠なはず。…必要でしょう?カールソン家からの持参金が」


「…」


「そう、そう。聞いてくださいまし。私に妹ができたんですの。0歳ではなく、15歳のかわいい義妹ですがね」


「…俺は、そんなこと聞いてない」


 声のトーンが落ちたのは、持参金という言葉が持つ負のイメージからだろか。けれど決して視線を外さないところがジェイムズらしいなとオリビアは思う。


 オリビアは両頬を持ち上げた。


「聞いてもらわないと困りますわ。だって、私の義妹は、あなたの新しい婚約者になるんですもの」


「…!」


 オリビアの言葉にジェイムズは目を丸くする。怒りの行き場を探すように、握っていた拳に力を入れた。


「俺にはオリーがどうしてこんなことをするのかわからない。心変わりしたなら先に俺に言うべきだろう」


「…」


「これは、君が望んだことなんだから」


 知っている可能性の方が高いとは思っていた。けれど、直接言われたことがないから知らないかもしれないとも思っていた。「これ」は、婚約破棄を差しているのではない。ジェイムズが言う「これ」は、オリビアとジェイムズの婚約自体を指していた。


 公爵家としての歴史も、財も、政治的発言力も全てにおいて勝るカールソン家と先代の事業の失敗のため、負債を抱えるルーデンス家。その長女と長男の婚約は、カールソン家からの申し出で決まったことだった。


 家の格が釣り合うからでも、互いの財のためでもなく、オリビアがジェイムズに恋に落ちたからという理由でコンラードが気を利かせて結んだ婚約だった。ジェイムズはそれを知っていた。つまり、オリビアの恋心を知っている。


「…」


「嫌いになったのならそう言えばいい。こんな回りくどいことをしなくても」


「……嫌いになんて、なって、…おりませんわ」


 嫌いになれたならその方がよかった。3か月前、父親のコンラードの胸の中で思う存分泣いたはずなのに、こぼれそうになる涙にオリビアは慌てて少しだけ上を向く。


「俺の何がいけなかった?」


 オリビアは首を横に振る。ジェイムズは婚約者として完璧だった。夜会の前には黄色のドレスを贈り、誕生日には綺麗なガーベラの花束をくれた。デートでよく行くカフェのチーズケーキはおいしくて、幸せだった。


 ただ、そこに愛がなかっただけ。


「そんな過去の話より、これからの話をしませんか。私の義妹のことです。名は、エライザ。近くのパン屋で働いていた子ですわ」


「…!?」


「とてもかわいらしい子なんですよ、物腰も柔らかで。それから頭がとてもいいのです。カールソン家には弟もおりますが、彼女の能力と境遇を思えば、養子にしたいという父の気持ちもよくわかります。すでに家庭教師を付けてマナーや教養を学ばせているところですわ。本当に優秀で自慢の義妹です」


「…」


「あなたに会わせる日もそう遠くないと思いますわ」


「エライザ…パン屋…」


「ええ。10歳の頃に流行病で両親を亡くしてから、一人で頑張ってきたということですわ。もしかしてご存じですか?」


「知っているも何も、幼馴染みだ。俺の」


「あら、それは素敵な偶然。じゃあ、私が教えなくてもエリのことはよくご存じですわね」


 ジェイムズがエライザのことを知っていることをオリビアは知っていた。


 ジェイムズは知っているだろう。エライザの好きな色も、好きな花も好きな食べ物も。


「オリー、君は何を考えている?」


 どこか睨むような視線に、オリビアは笑って見せた。


「私の幸せですわ」


 オリビアだって知っている。エライザ好きなのは黄色で、好きは花はガーベラだ。チーズケーキが一番好きな食べ物だってことも知っている。


 贈り物はいつだって、オリビアが好きな物ではなかった。オリビアの好きな色は青で、好きな花はビオラで、ショートケーキが好きだから。ジェイムズに好きな物を聞かれたことすらなかった。


 ジェイムズにとって、「女性」はエライザのことで、彼女の好きな物が「女性」の好きな物だったのだろう。


「…」


 ジェイムズに好きな人がいると知ったのは婚約をしてからだった。そうでなければオリビアに優しいコンラードであっても、ジェイムズを婚約者にしなかっただろう。けれど何の因果か、オリビアとジェイムズは婚約者となった。


 それならば、自分のことを好きになってもらいたかった。ジェイムズがエライザを好きでも、婚約をして、一緒の時間を過ごしていれば、自分を好きになってくれるのではないかとオリビアは期待していた。ジェイムズはオリビアと会って嫌な顔をすることはなく、いつだって優しかったから。


 けれど、オリビアは知っている。誰よりもジェイムズのことを見てきたから。


 ジェイムズが落ち込んだとき行くのはオリビアのところではなく、エライザが働いているパン屋だった。念願の騎士になれたことも、等級が上がったことも、嬉しいことがあったとき、一番に報告するのもエライザだった。


 彼が好きなのはいつも彼女で、贈り物もかける言葉も本来は彼女に贈るはずだった物。それを彼女に重ね合わせたオリビアにしているに過ぎかった。


 2年間一緒にいて心が変わらないのなら、きっとこの先も変わらない。


「この2年間は何だったんだ」


 かすかに聞こえる声でジェイムズが呟いた。


 それはこちらの台詞だ、とはオリビアは思わない。格上の爵位に持参金、断れない申し出はしたのはオリビアの父、コンラードだから。


 オリビアの部屋の窓から空き地が見えるのだ。そこにいつも朝早く赴く一人の青年がいた。雨の日も雪の日も変わらず模擬刀を振る彼をオリビアは遠くから見ていた。


 誰よりも一生懸命で、真面目な彼に次第に惹かれていったのだ。そんなオリビアの気持ちにいち早く気づいたのがコンラードだった。


 オリビアはどこか内気で、自分より周りを優先してしまうところがあった。欲しいものを欲しいと言うことなく、家や領民のために行動していた。ルーデンス家との婚約の取り決めは、そんなオリビアの幸せを願った父としての行動だった。


 格上の公爵家からの申し出に、持参金、そして、もしかしたら庶民であるエライザとはどちらにしても結婚できないことを嘆いての婚約の同意だったのかもしれない。それでもジェイムズは婚約に同意し、オリビアの婚約者として責務を果たしてくれた。


 週には一度は顔を出し、オリビアと一緒に過ごした。屋内で本を読んだり、刺繍をしたりするのが好きだったオリビアを外に連れ出したのもジェイムズだった。ジェイムズと婚約したこの2年間にオリビアは多くのことを知った。


 自分の目で見る一面の花畑が本に描かれるそれより何倍も綺麗なこと。湖に水を飲みにくる動物たちの姿がかわいらしいこと。


 夜会ではパートナーとともにダンスをするのが貴族のたしなみである。けれどオリビアはダンスが苦手だった。そんなオリビアのために、ジェイムズは仕事で疲れているにもかかわらず、何日もダンスの練習に付き合ってくれた。だからこそ、オリビアのダンスの腕は以前とは比べられないほど上達した。


 この2年間を一生覚えていようと思うほど、オリビアは幸せだった。そしてジェイムズはいつも優しかった。いつも笑っていた。


 だから思ったのだ。彼には泣く場所が必要だと。嘆いたり、愚痴を言ったり、弱みを見せられる人が傍にいるべきだと。


「私は…欲深くなってしまったのです」


 足りなくなってしまった。好きな人が傍にいる、それだけでは。


「だから婚約は解消しましょう、ジェイムズ様」


「もう…ジムとは呼んでくれないんだね」


「婚約者ではありませんからね」


「…」


「ねぇ、最後にひとつ、聞いてもいい?」


「ええ、どうぞ?」


「オリーはそれで本当に幸せなの?」


「もちろん。幸せですわ」


 オリビアは自分にできる一番の笑顔をジェイムズに見せる。それは本当の気持ちだった。強がりと言われればそうかもしれないけれど。でもオリビアは心から思うのだ。


 好きな人が幸せであることが一番幸せだと。


「……そう。…君はこれからどうするの?」


「お伝えし忘れておりましたわ。私、婚約者候補となりましたの。皇太子殿下の」


◆◆◆

 ルース国では皇太子が18歳を迎えると7人の婚約者候補を立て、半年間の選定期間を設け婚約者を決めることが古くからの習わしとなっている。7人のうち選ばれた一人と1年の歳月を経て結婚するのだ。


 婚約者候補を選ぶ権限は王の宰相5名に与えられる。婚約者候補の選定に制限はない。だからこそ書類上では、平民から選ぶことも可能だ。けれど、基本的には争いの火種を生まないためにも良家の令嬢が選ばれるのが常だ。


 皇太子にすでに想い人がいる場合、宰相に頼んで推薦してもらうということもないわけではないが、そこは王家の人間。自分の感情だけで行動することが愚かなことだとわかっている。


 半年の選定期間で行われることは第一に皇太子との交流だ。まず、週の初めから最後まで各曜日の一日が候補者には与えられる。そしてその与えられた曜日の2時間を皇太子と過ごすことができるのだ。


 王宮に赴くもよし、皇太子を外に連れ出すもよし。常識の範囲内の節度を守れば、その2時間の決定権は候補者にあり、皇太子はそれに従う。一週間のうち一日、それもたったの2時間。それでも、その時間は皇太子の時間を自分の物とできる。


 一週間は7日間だ。それでは、皇太子と会う時間以外は自由かといえばそうではない。それぞれの候補者に家庭教師がつき、王妃教育を受ける。この国の歴史や諸外国との外交、すでに身についているであろう一般教養やマナーも貴族の令嬢として求められてきた数倍の精度を要求される。身を守るための護身術も合わせて学ぶ。誰が選ばれてもいいように半年間の間、隙間なく教育されるのだ。


 だからこそ、婚約者候補には価値がある。皇太子の婚約者に選ばれずとも、数段上のマナーや教養を身につけた彼女たちは引く手数多だ。この国の動かしていく上で大切な人材の一人となり得る。


「お父様は私に甘いわね」


 婚約者候補としての初めての顔合わせに向かう道中。馬車の小さな窓から風に揺れる花々を見ながら、オリビアは誰にも聞こえない声でそう呟いた。


 オリビアの父、コンラードは若い頃、騎士団の団長を務め武功をあげていた。本来なら、騎士団として活躍するか、指導役となっているだろう。けれど権力に興味のないコンラードは早期退職という形で現場を退き、爵位にしては小さな領地を守っている。


 コンラードは温厚な性格だが、鋭い観察力と時折見せる冷酷な判断力があった。肉体、精神ともに強く、騎士として国のために尽力して欲しいと王家からの熱烈なアプローチを受けていた。それを断り、妻や子どもたちと穏やかに暮らすことを選んだコンラードは、本来なら娘を皇太子の婚約者候補とすることはなかったであろう。


 けれど、オリビアはジェイムズとの婚約破棄を望んだ。どんな理由がそこにあろうと婚約破棄は貴族社会で噂となる。そしてオリビアは悪役になろうとするだろう。それがわかっているコンラードだからこそ、オリビアを婚約者候補として推薦できるよう全力を注いだのだ。


 オリビアの婚約破棄の噂は、王妃候補者という噂にすぐに書き換えられるだろう。そして、半年間、候補とはいえどその身は皇太子の物。根拠のない噂話など許される訳がなく、また他の男性からアプローチを受けることもない。


 熾烈な婚約者候補者の戦いに身を投じなければその半年間は静かなものになるはずだ。皇太子との時間に使う2時間以外は、基本的には王妃教育に時間を使うこととなる。もちろん、学校も休学だ。学友に会えないことは寂しいが婚約破棄のことを説明せずに済む。


 そして、静かだが忙しい半年。その半年間はきっと、ジェイムズとエライザのことを考える時間も仲睦まじい姿を見る時間もないはずだ。


 コンラードはジェイムズの気持ちを知らない。オリビアが婚約破棄を希望した動機も聞かれなかった。けれど、オリビアがエライザを養子として迎え、ジェイムズの婚約者とすると提案したことですべてを悟ったであろう。


 だからこそ、心を落ち着け彼らと向き合う時間をくれたのだろうなとオリビアは思う。そして、半年後には箔がついて貴族社会に戻ってこられるのだ。


 オリビアは候補者7人中上から4番目の爵位の高さだ。前に3人いるならその2人の戦いになるだろう。これはいわば逃げの時間。


 権力に興味がないはずのコンラードが用意した時間だった。その代償としてコンラードは騎士団の指南役として現場復帰を果たすことになった。本来なら望んでいないその役職に、オリビアは頭を下げた。


 そんな彼女にコンラードは「気にする必要はない」と笑った。「私はお前の父なのだから」そう微笑む優しさが嬉しくて、オリビアはまた泣いた。


◇◇◇

 馬車から降りると一つの部屋に案内された。そこにはすでに6人の女性たちが与えられた席に座っていた。きらびやかなドレスを身に纏う者もいれば、落ち着いたドレスを綺麗に着こなす者もいる。どちらにも言えるのは、期待に満ちた目で背筋を伸ばし座っているということだろうか。


 みんな蝶よ、花よと育てられてきたのだろう、肌は透き通るほど白く、美しい。世界で一番自分が綺麗だと疑わない自信があるようで、その目はきらきらと輝いていた。


 皇太子の婚約者候補として正しい姿なのだろうなとオリビアは思う。候補と言えども皇太子の婚約者となれることは光栄なことであり、他では決して受けることのできない王妃教育も貴重なものだ。本来ならオリビアの席には同じように期待に満ちた女性が座っていたことだろう。


 それを逃げるためだけに消費することにオリビアが罪悪感を抱かないわけがない。けれど、とオリビアは前を向く。この半年間を与えてくれた父のためにもオリビアは顔を上げた。


 ノックとともに入ってきたのは、20代前半ぐらいだろう男性だ。焦げ茶色の髪は肩ぐらいまでの長さなのだろうか、低い位置で結ばれている。部屋を見渡す顔は整っており、婚約者候補の少女たちは思わず背筋を伸ばした。


「宰相補佐を務めております、アダム・クレメソンです。ここにいる7名が婚約者候補として選ばれました。まずは、おめでとうございます」


 どこかやる気がないように見えるアダムは、会釈程度に頭を下げた。けれど優秀な人なのだろうなとオリビアは思った。


 普通に生活をしていても聞き覚えのある「宰相補佐」という役職は、誰にでもなれる役職ではない。おそらく皇太子が国王となったときの宰相となる人物だ。資料をペラペラと捲りながらこちらを伺うアダムをオリビアも伺うように見つめた。


「それで、ですね。皆様、婚約者候補とは何かという基本的事項はすでにご存じだと思いますので、本日は皇太子と過ごされる曜日を決めていただきたく集まっていただきました。本日が日曜日で、皇太子選定期間は明日から半年間。一応平等に回数が来るようにしますので、各曜日26日間、つまり、26×2時間の52時間が皆様に与えられた皇太子と過ごす時間となります。是非、効率的にお使いください。なお、節度を守ってさえいれば、我らも口を挟みません」


 オリビアは軽く周囲を見渡した。候補者の年齢は14歳から18歳。一番家の格が高い令嬢がホラーク公爵家の次女であるジェシカだ。歴史のあるホラーク家は王家とのつながりも深い。オリビアと同い年の17歳であり、同じ学校に通っていた。しかし、クラスが同じになったことはないため、直接言葉を交わしたことは数えられるほどしかない。


 彼女は華やかな顔立ちに似合いの赤いドレスを身に纏っていた。ブロンドの綺麗な髪はまとめ上げられており、大きなサファイアの宝石のついた髪留めで止められている。


 逆に一番家の格が低いのはガルシア家の長女シエナであった。14歳の彼女はこの中で一番歳が若い。ショートヘアがよく似合う彼女は、薄黄緑色のドレスを上品に着こなしている。そんな彼女は実年齢よりも大人びて見えた。


「まず全員に希望を出してもらい、重なった曜日はくじで決めて行きます。まずはご自身がどのよう日を希望されるかお考えください。初日が月曜日で、最終日が日曜日となります。曜日が決まった方から本日は帰っていただいて結構です。本日の目的は、簡単な説明と顔見せ、みたいなものですから。皆様も他の婚約者候補が気になっていたことでしょう?」


 アダムの言葉で空気に若干の鋭さが生まれた。なるほど、こうして感情を出させていく役なのだなとオリビアは思った。そうすると、やる気のなさそうに見える態度もわざとだろうか。


「なかなか自分から発言するというのもやりにくいでしょうから希望する曜日に手を上げていただけますか?それではまず、月曜日から…」


 アダムが曜日を読み上げていく。候補者が手を上げたのは、月曜日が2人、水曜日が1人、日曜日が4人であった。


「まあ、一番最後が記憶に残りやすいでしょうし、日曜日に人気が集中するのは想定の範囲内ですね。でも、えっと…水曜日に一人。カールソン家のオリビア様ですね。本当にこの曜日でよろしいですか?」


「はい」


「そうですか。わかりました。他の方も特に変更はございませんね?…それでは水曜日はオリビア様に決定です。他の皆様はくじをご用意しますので、そのままお待ちください。オリビア様はお帰りいただいて構いません」


「承知しました。ありがとうございました」


 スカートの端を掴み、頭を下げる。アダムもそれにならい頭を下げた。どこか鋭い視線を背中に感じながらオリビアは部屋を出る。


 屋敷の外まで案内され、オリビアはカールソン家の馬車に乗り込んだ。


「お疲れ様でございました」


 従者のタレスのねぎらいの言葉にオリビアは深く頷き、息を吐いた。


◆◆◆

 空を見上げれば、どこか薄黒い雲が浮かんでいる。かすかに土の匂いが鼻についた。どこか遠くで雨が降っているのだろう。


 揺れが止まったと感じた瞬間に馬車の扉が開いた。そっと差し出される手にオリビアはその手の先に視線を動かした。3日前に見た端正な顔がそこにはあった。笑みではなく、どこか面倒くさそうなその顔にオリビアは笑みを浮かべたまま、自身の手を預ける。


「ありがとうございます、クレメソン様」


「いいえ。それで、念のためもう一度確認しますが、執務室でテオドール様の仕事風景を見たい、ということでよろしいでしょうか?」


「ええ。昨日お伝えしたとおりです」


「…」


「何か?」


「いいえ。お連れいたします」


 馬車から降りたオリビアの手をアダムはすぐに放した。そのままオリビアの一歩前を歩き出す。身長の高い彼の背中は大きかった。


 宰相補佐であるアダムが直々に案内するという事実にオリビアは少しだけ驚く。けれど、これは未来の王妃を決めるための行事なのだ。それならば、当たり前なのかもしれないと思い直した。長い足が進む一歩は大きい。けれど、オリビアはおっとりした歩調でついて行った。


 割り振られた2時間をどう過ごすのか、その希望は前日に聞かれることになっていた。そのため、昨日、王妃教育の合間に訪れたアダムはオリビアに尋ねた。


「明日、テオドール皇太子とどのように過ごされますか?」


 その言葉にオリビアは少しだけ考えるように口を閉ざした。


「クレメソン様、…皇太子殿下が今、望むのは何だと思われますか?」


「…?」


「皇太子殿下が今、2時間与えられたら、何を希望するのでしょうか?」


「そうですね…仕事の量は減ってないのに、毎日2時間削れているわけですからね。何をしてもいいなら、たまりつつある仕事を片付けたいんじゃないでしょうか?」


「そうですか。それでは、明日は、皇太子殿下の仕事風景を見たいです」


「仕事風景を?」


「はい」


「どうしてか理由を聞いても?」


「口を挟まない、のではなかったですか?」


「…確かにそういうお約束でしたね」


 そう言うアダムにオリビアはくすりと小さく笑った。


「意地悪を言って申し訳ありません。まあ、気になるのは仕方がありませんね。理由ですか。そうですね…いつもの殿下の様子を見てみたいからですわ」


 オリビアにとって、この半年間は逃げの時間だ。けれど、いやだからこそ、迷惑をかけたくなかった。けれど、それを口に出すことはできないから、口元に笑みを浮かべながらそう答えた。


「…なるほど。変わったご希望ですが、理解はできますね。テオドール様の印象に残りそうだ」


「ええ、そうだと嬉しいですわ」


◇◇◇

 少しだけ開けられた窓から吹く風がオリビアの長い黒髪を靡かせた。心地よい風がオリビアの心を落ち着かせる。オリビアは一つの部屋の前に来ていた。2歩前を歩くアダムが確認するようにオリビアの方を向いたので、頷くことで答える。


 ノック音が響いた。入室を許可する声に、アダムが扉を開ける。


「それでは、また2時間後にお迎えに参ります」


 オリビアが部屋に入ったことを確認するとアダムはそう言い残し、扉を閉めた。


 オリビアは前を見る。そこには、一人の男性が立っていた。肖像画ではよく見たことがあったが、自分の目で見たのは、これで2回目か、3回目か。それも遠くで眺めるだけだったので、こんなに近くで見たのは初めてだった。


「お初にお目にかかります、オリビア・カールソンと申します」


 スカートの端を持ち上げ、淑女の礼をする。それにテオドールも右手を左胸に当て、深く頭を下げた。


「テオドールだ。これから半年間、よろしく頼む」


 少しだけ低いその声は、どこか心地よい。オリビアは顔を上げてテオドールを見た。短く切りそろえられた髪は黒に近いグレーで、綺麗な顔立ちによく似合っている。


 革靴が床と当たる音がした。ドアの前で立ちすくむオリビアにテオドールが歩みを進める。近づいたテオドールの顔の位置は5センチのハイヒールを履いたオリビアとほとんど変わらない。オリビアは微笑みを浮かべながら小さく頭を下げた。


「オリビア…婚約者候補の全員を下の名前で呼び捨てることになっているんだ。初対面なのになれなれしくて申し訳ないが慣れてくれ」


「いいえ、ありがとうございます」


「逆に君たちは俺のことをなんと呼んでもかまわない。下の名前で呼ぶことも愛称で呼ぶことも不敬に問うことはしない。君たちは候補とは言えども、俺の婚約者だからね」


「承知しました、殿下」


「そうか。オリビアは俺をそう呼ぶんだね」


「はい」


「それで、これから何をする?アダムからはここにいればいいとしか聞いていないんだけど」


「殿下がなさりたいことをしてください。お仕事でも身体を休めるでもなんでも。私のことはお構いなく」


「どういう意味かな?」


「言葉どおりの意味ですわ。私はこちらをお借りしますね」


 そう言うとオリビアは部屋中央よりやや左にあるソファに腰掛けた。座り心地のよいそれは、体重の分下に沈む。


「…そういう作戦?」


「ええ、そういう作戦ですわ」


 許可なく座ることは本来なら不敬だろう。けれど、名前で呼ぶことさえも許されているなら問題ないだろうと高をくくる。


 それは正しかったようで、テオドールはオリビアを一瞥したが特に何も言わず、自席についた。しばらくオリビアの様子をうかがっていたようだったが、すぐに途中だった書類にサインを書き始めた。


 オリビアはソファからテオドールの様子を見る。オリビアの言葉どおりにしているようで、テオドールにオリビアを構う様子はない。


 机に積み重ねられた書類の量からも多忙具合が見て取れた。ずっと見られているのも気が散るだろうとオリビアは持参したバックから刺繍道具を取り出すと、意識をそちらに向ける。


 どれくらい時間が経っただろうか。集中力が切れたオリビアは刺繍から目を離し、顔を上げた。少し顔の位置を動かせば、テオドールの前にあった書類の山が少しだけ小さくなっている。


「…あともう少しで時間が終わる」


 オリビアの視線に気づいたのだろう。書類に視線を向けたままテオドールがそう言った。


「そうですか。教えていただき、ありがとうございます」


「この2時間で収穫はあったかい?」


「さあ、どうでしょうか」


「ふ~ん、なるほど。さて、最後に何か言うことはあるかい?」


 テオドールの言葉にオリビアはすっと立ち上がった。2歩前に出るとスカートの裾を持ち上げる。


「本日はありがとうございました」


 淑女の礼にテオドールは少しだけ微笑んで軽く右手を挙げた。


 ノック音が聞こえる。


「どうぞ」


「失礼します」


 そう言って入ってきたのはアダムだ。


「オリビア様、時間です」


「はい」


 荷物をまとめるとオリビアはアダムの傍に立った。そうしてテオドールを見ると、もう一度頭を下げる。


 部屋から出るとアダムの一歩後ろをオリビアはついていった。


「火曜日も私がご自宅に伺いますので、次の水曜日の予定を決めておいてください」


「またクレメソン様が来てくださるのですか?」


「ええ。皇太子の婚約者選びは宰相補佐の一番重要な任務なので。他にも宰相補佐は数名いますが、私は水曜日と木曜日の令嬢の担当となっております。なので、これからもオリビア様のところには私が伺うことになります」


「承知しました。…クレメソン様、一つお願いできますか?」


「内容によります」


「ええ、もちろんです」


「言うだけならどうぞ」


「火曜日に尋ねて来てくださる時に、殿下のしたいことを聞いておいていただけないでしょうか?」


「…なんのためにか聞いても?」


「殿下の望む時間を過ごしたいので」


「まあ、それくらいならいいでしょう」


「ありがとうございます」


 屋敷の外に出れば、カールソン家の馬車がすでに待っていた。その隣には従者のタレスと護衛のグレブが立って待っている。オリビアの姿に2人が頭を下げた。


「お待たせしました」


「いいえ、お疲れ様でございました。お嬢様」


「それではクレメソン様。本日はありがとうございました」


「ええ。また火曜日にお伺いします」


 頭を下げるアダムにオリビアも頭を下げる。オリビアが馬車に乗ったことを確認するとアダムはすぐに背を向けた。


 馬車の扉を閉めれば、どっと疲れを感じた。出そうになるため息を堪える。


「あと半年」


 誰に聞かれるでもない独り言が漏れた。


◇◇◇

「剣術の練習をしたいそうですよ」


 火曜日の夜、家に訪れたアダムがそう言った。


「剣術、ですか?」


「最近、訓練の時間がとれないとおっしゃっていました」


「殿下は剣術もできるんですね」


「まあ、命を狙われるお立場ですから。最低限闘えるように訓練されております。剣も弓も使いこなせますし、素手でもお強いです」


「そうなんですね」


「テオドール様は騎士団を率いるお立場でもありますし」


「…本当にすごい方なんですね」


 今更ながらの感想が思わず口から出た。


「それで、明日はどうしますか?」


「殿下の訓練の見学をさせてください」


「承知いたしました」


「…」


「…」


「…クレメソン様、どうかなさいました?」


 何か物言いたげな様子のアダムにそう問いかける。アダムは少しだけ考えるように口を閉ざしたが、すぐに開いた。


「あなたは他の令嬢がどのようにテオドール様と過ごされているか気になりませんか?」


「え?」


「他の令嬢はもれなく聞いてきているようなので」


「そうですね。私には必要ありません」


「そうですか。…印象に残りにくい水曜日をあえて選び、自分の希望ではなくテオドール様の希望を優先させ、貴重な2時間を過ごす。これは、作戦ですか?」


「ええ。もちろん」


「…」


「実際に、クレメソン様も気になっているではありませんか。同じように殿下の気にも止まっているかもしれません」


「…そうですね。今はそうしておきましょう」


 どこか含みを持った物言いに、オリビアは笑みを浮かべることで応えた。


「それでは失礼します」


「ありがとうございました。お気を付けてお帰りください」


 スカートを持ち上げ、頭を下げる。淑女の礼でアダムの広い背中を見送った。


 国の精鋭たちが皇太子の婚約者候補の素性を調べないという愚行を犯すはずがない。それならば、テオドールもアダムもオリビアがジェイムズと婚約していたことも、少し前に婚約破棄をしたことも知っているだろう。


 そしてジェイムズが、養子となったばかりのオリビアの義妹、エライザと婚約したことも、そのエライザがジェイムズの幼馴染みであったことも知っているはずだ。


 オリビアの行動は端から見れば皇太子妃となるために婚約者であったジェイムズを切り捨てたように見える。そんな中で、何の働きかけもしないオリビアの行動はアダムから見れば不可解なのだろう。



◆◆◆


 空を見上げれば、白い雲が風に靡いて揺れている。気持ちの良い天候にオリビアは思わず目を細めた。


 金属がぶつかり合う音がする。かけ声に、叱咤。男たちが踏み込むたび、砂が舞う。用意されたパラソルの下、オリビアは訓練場で他の騎士たちと混ざり、訓練をするテオドールの様子を見ていた。


「危ないから近づかないように」


「承知しました」


 その言葉を交わしただけで、テオドールは男たちの輪の中に入っていた。


 訓練場を見学した候補者はオリビアが初めてなのだろう。訓練に参加する騎士たちの不躾な視線がいくつも飛んできた。それを気にすることなくオリビアはテオドールを見る。涼しい顔で一人、二人となぎ払い、倒れた騎士が立つために手を貸していた。


 アドバイスをしているのだろうか、身振りを踏まえて騎士に話しかける様子も見られる。騎士たちの様子からテオドールが尊敬されていることがわかった。自国の皇太子が騎士たちに好かれている、それを知られただけでもここに来て良かったとオリビアは思った。


 そんな中、ふと、左からずっとこちらを伺う視線を感じた。あまりに長いそれにオリビアは顔をそちらに向ける。


「…っ」


 視線の先にあったのはよく知った人物の顔だった。思わず出そうになる声を必死でかみ殺す。視線の先にはオリビアの元婚約者であるジェイムズが立っていた。騎士として練習に参加していたようだ。


 目が合った。…1秒、2秒。


 一瞬がやけに長く感じた。オリビアとジェイムズの視線が重なる。久しぶりに見るジェイムズの姿は婚約破棄を告げたあの日からから大きな変化はない。


「…」


 ジェイムズとペアを組んでいた騎士が不思議そうにジェイムズを見ていた。けれどジェイムズはオリビアから視線を逸らさない。けれど、オリビアはゆっくり視線をジェイムズから外し、テオドールに向けた。周囲にはただ周りを見ていただけのように見えただろう。


 笛の音が一つ鳴った。休憩を知らせる合図だったようで、テオドールが袖で汗を拭きながらオリビアのところに戻ってくる。オリビアは立ち上がり、そっとタオルを渡した。


「殿下、これを」


「用意がいいね」


 そう言いながらテオドールはオリビアのタオルを受け取ると、額の汗を拭き始めた。


「必要かと思いまして」


「ありがとう」


「いいえ」


「彼、君の婚約者だったよね」


「…え?」


 突然のテオドールの言葉にオリビアは一瞬反応が遅れた。そんなオリビアに、テオドールは笑みを浮かべて視線を動かす。その視線の先を追えばジェイムズの姿があった。ジェイムズはまだオリビアを見ている。


「君の元婚約者だ」


「…ええ」


「いい機会だし、話をしてきてもいいよ」


「え?」


「話すことがあるんじゃないの?」


「話すことなど何にありません」


「本当に?」


「殿下、…何がおっしゃりたいのでしょうか?」


 口調が強くなるのをごまかすことはできなかった。そんなオリビアの様子にけれどテオドールは何事もないように言葉を続ける。


「いや、本当にそれでいいのかなと思ってね」


 笑みもなく、テオドールの瞳はまっすぐにオリビアを見ていた。その視線から感情は読み取れない。だから、オリビアはただ、耳を傾けた。


「これから君たちは家族になるんだろう?だって彼は君の義妹の婚約者だ。それなのに、彼は君を見ている。そして、君も彼を見ている」


「…」


「それで、家族になれるのかな?彼とは義理の弟としてこれからも何度も言葉を交わすことになるんだろう?」


「…」


「君の早合点だった、ということはない?彼は君に恋しているように見えるけど?君が身を引く必要がどこにあったのかな?」


 テオドールの言葉で、彼がオリビアの全て知っていることを悟った。オリビアとジェイムズとの関係はもちろん、エライザをジェイムズの婚約者としたのがオリビアであることも、決して口に出すことはなかったオリビアの心までも。


 どうして知っているのか。それはわからない。ただ、それさえ知ることができる。それがテオドールのいる世界なのだ。


「……殿下、失礼ながら申し上げます」


 何のことでしょうか、そう言うべき場面だった。「わからない」そう言い切ってしまえばいいこと。オリビアにもそれがわかっていた。けれど、オリビアの視線はまっすぐにテオドールに注がれ、言葉は自然と口から出ていた。


「どうぞ」


「彼が私を見る目が恋をしている目に見えるようでしたら、きっと殿下は、恋をしたことがないのですね」


「…」


「あれが恋をしている目であるわけがありませんわ。恋をしていれば、…もっとキラキラと輝くものです」


 ジェイムズがあの子を見ているときのように、と心の中で付け加える。


「殿下、これは、私の問題です」


 言外に口を挟むなと伝えた。不敬に問われても文句は言えない言葉の数々に、けれどテオドールは嫌な顔ひとつ浮かべずに小さく笑みを浮かべた。


「確かにそうだ」


「…」


「それならば、今後、君たちの関係に口を挟むことはしないと約束しよう。けれど、君も一つだけ約束して欲しい」


「約束、ですか?」


「ああ」


「どんな約束でしょうか?」


「彼ばかり見るのは辞めてもらいたい」


「……私は、殿下しか見ておりません」


 オリビアの言葉にテオドールは小さく笑みを浮かべながら、首を横に振った。


「確かに視線は俺を見ているだろうね。けれど、君はずっと彼のことを考えているよ」


「…」


 テオドールの言葉に、オリビアは肯定も否定もできなかった。ただできたのは、テオドールから顔を逸らさないでいることだけ。けれど、テオドールはオリビアの反応を待たずに、言葉を続けた。


「君が彼をどう思っていても構わないし、俺を逃げ場にするのは構わない。だって、君の人生は君のものだから」


「…」


「けれど、この半年間を意味のないものにしたくない。彼ばかりを思い、ただ逃げている君では、他の6人と比べることができない。だから、前を向いて欲しい」


「…」


「俺を好きになれとは言わない。好きになってもらっても、応えられないかもしれないから。王妃になりたいと思えとも言わない。願っても、叶えられないかもしれないから。けれど、選ばれるかもしれない、その可能性を勝手に消さないでくれ。だって、君は今、俺の婚約者候補として、俺の隣にいるのだから」


 オリビアは重い荷物を肩にかけられたようなそんな気がした。


 そこにどんな理由があろうと、オリビアはこの国で7人しか選ばれることのない「婚約者候補」なのだ。それを今になってやっと理解した。オリビアにとってはここは逃げ場でも、多くの希望者を退けての今であり、テオドールに選ばれたら、皇太子の婚約者となり、将来は王妃となるそんな立場。


「まあ、すぐにとは言わない。彼の気持ちは読み間違えたかもしれないが、君の気持ちはあっているようだしね。…ただ、半年って長いようで短いってことだけは覚えていてほしい。選ばれるにしても、選ばれないにしても、この半年を大切にして欲しいんだ」


「…承知しました」


 頷くオリビアにテオドールはそっと手を伸ばした。その手がオリビアの頭に触れる。トン、トンとリズムよく頭を撫でられた。


「ちゃんと泣けたかい?」


「え?」


「つらかったし、苦しかったんだろう?」


「…はい」


 嘘をつくことも取り繕うこともできた。けれど、オリビアはテオドールの前では正直でいようと思った。


「一人で泣いたの?」


「一人でも、父の前でも、です」


「そう。誰かの前で泣けるならそれはいいね。心から信頼している人がいるってことだから」


 そう言ったテオドールの目は優しかった。だから、逆にオリビアはテオドールに聞いたのだ。


「…殿下は…」


「ん?」


「殿下は、誰かの前で泣けますか?」


「その人を今、探している」


 どこか遠くを見ているようで、皇太子という重みを少しだけ、ほんの少しだけ感じたようにオリビアには思えた。


「さてと、休憩はこの辺で終わりにしようかな。ねぇ、オリビア、今度はちゃんと見ててね」


「承知しました」


 テオドールの言葉とともに、訓練が再開された。オリビアは一度目を閉じる。心の中で、3秒数えた。目を開けると、視線をテオドールに向ける。


 先ほどまでも、きちんと見ていたつもりだった。けれど、そうではなかったと思い知らされる。


 剣を避けるときの真剣な顔も、一歩踏み込む時の勝ち気な顔も、淡々とこなしているように見えたテオドールの表情がころころ変わっていた。


「…」


 オリビアは知らず、小さく息を吐く。


 幸せになるために、ジェイムズのもとを離れたはずだった。彼が幸せならそれでいいと。それが自分の幸せなのだとそう思っていた。彼の幸せのために、自分の心は吹っ切ったはずだった。


 けれど、そんなことはなかったのだと思い知らされる。きっとずっと心にジェイムズがいた。婚約者として。そして今、初めてジェイムズはオリビアの「元婚約者」となったのだ。


 もし、今ジェイムズを見れば、自分は彼をどんな気持ちで見るのか、オリビアは気になった。けれど、約束どおりテオドールだけを見ていた。



◆◆◆


 その後の水曜日に変化があったのかと言えばそうではない。オリビアは相変わらず、テオドールの希望を確認し、そのとおりに与えられた2時間を過ごした。テオドールが執務を希望すれば、彼の執務室のソファで過ごし、ゆっくりしたいと言えば、王宮の図書室で静かな時間を過ごした。


 けれど、王妃教育には変化があった。「もしも王妃になるのなら」、そう考えればオリビアが希望する勉強の質は自然と変わった。


 ルース国の現状をより知るために、国民の識字率や病院の数、貴族の権力構図などを調べ、市井の状況や現状を把握した。そして今、何が必要なのか、それを目指すにはどんな知恵や知識を手に入れる必要があるのか。そんな視点で王妃教育を受けるようになった。


 宰相補佐たちは、婚約者候補たちの動きを逐一テオドールに報告していたため、オリビアの変化についてもテオドールの耳に入ってた。


「…オリビアがスラム街を視察に行く…だと?」


 けれどテオドールは想定していなかった。オリビアが部屋での勉強以外を望むなんて。


「はい、そう家庭教師に希望したようです。前例がないため、雇いの家庭教師では判断がつかず、私のところに話が来ました」


「…」


 アダムの報告に、テオドールはどのような表情を浮かべるのが正解なのかわからなかった。


「いかがいたしましょう」



「…アダム、お前はどう思う?」


「……この国の暗い部分を知ることは大切なことだと思います。上に立つ者ならばなおさら。今回、彼女が選ばれなくても、貴族であることは変わりません」


「…」


「しかし、護衛を何人も付けることはできません。スラムの治安はいいとは言えないため、危険がないとは言い切れないでしょう」


「ああ、そうだな」


「婚約者候補がスラム街を視察するなど、前例がないのも確か。婚約者候補とは言え、あくまで候補です。危険を冒してまでスラム街を視察する必要があるのかは、テオドール様のご判断に委ねます」


 アダムの言葉に頷くと、テオドールは思考を巡らせた。


◇◇◇

「あなたが同行してくださるとは思いませんでした」


 テオドールとアダムが話し合いをした2週間後のこと。晴天の空の下、オリビアはぼろ切れをつなぎ合わせた小汚い服を身に纏い、スラム街に着ていた。綺麗な長い髪は目立つため、まとめ上げその上から少年のような帽子をかぶる。


「口調」


 隣にいたアダムは睨むようにオリビアに視線を向けた。


「あ、すみま…いや、ごめん。何度も言われてたのに」


「習慣はなかなか変えられないけど、気をつけてくれ。ここでは敬語なんて使わない。まだ周りに人はいないけど、慣れておいてもらわなければ困る」


「……はい」


 アダムの注意に見るからに肩を落とすオリビアにアダムは一つ咳払いをした。オリビアは視線をあげる。


「さっきの質問だけど」


「え?」


「なんで俺が来たのかって聞いただろ?」


「あ、うん」


「ここのことをよく知っていて、ある程度腕が立つからって、テオが俺を選んだ」


「…テオって、…テオ?」


 質問にもなっていないオリビアの問いに、アダムは小さく笑う。


「俺たちの間でテオって言ったら、あの人しかいないだろ?」


 テオドールは珍しい名前ではない。誰かに聞かせる訳でもない会話にそれでも「テオドール」という言葉を付けないのは万が一にでも迷惑をかけないようにするアダムの配慮なのだろうなとオリビアは思った。


 様を付けないことも恐れ多いのに、愛称で呼ぶなんて、と冷や汗が出そうになるが、郷に入れば郷に従え、である。オリビアは一つ息を吸い、大きく吐いた。


「それにアダムさ…アダムがここをよく知ってるって?」


「俺、ここ出身だから」


「…」


「驚いた?」


 あまりの衝撃に言葉を失った。そんなオリビアを笑うようにアダムは片頬を持ち上げる。どこか冗談のような雰囲気。けれどオリビアは知っている。短い付き合いではあるが、アダムは意味のない嘘をつく人間ではないと。


「…とても。ごめんなさい、なんと言うのが一番いいのかわからないわ」


 賞賛も同情も哀れみもどれも違う気がした。どういう経緯があったかはわからないが、スラム街から王家の宰相補佐になるには、オリビアが想像することもできない苦労があったのだろうなと思う。それに対して自分は何も言えないとオリビアは思った。


「…そこまで正直に言われたのは初めてだ」


「…すみません」


「ありがとう」


「え?」


「何を言われていても反論していたと思う。だから、何も言わないでくれてありがとう」


「…」


「さて、それで、何を見たい?」


 声のトーンが一つ上がった気がした。切り替えたアダムにオリビアも思考を切り替える。


「ここに住む人たちがどんな生活をしているのか見たいわ」


「了解。あと、これから俺から絶対に離れないように。もう一人離れたところに腕の立つ護衛を付けているけど、それでも安全だとは言えないから。ここはまだスラム街の入り口だから大丈夫だけど、中に入っていくとそれに比例するように危険な奴らが増えてくる。どんなに汚い服を着ても、男の格好をしていても、あんたは綺麗なお嬢さんだからね。あんたみたいな奴はお金を取れなくてもいいことがあるから狙われやすい」


「いいこと?」


「まあ……、それはおいおい。とりあえず、俺から離れないこと。わかった?」


「…うん」


「オッケー、じゃあ行こう。あんまり緊張してると目立つから、なるべく肩の力抜けよ」


「が、頑張る」


 こわばった表情のまま頷くオリビアにアダムは苦笑を浮かべながら歩みを進めた。


◇◇◇

 そこは異様な光景だった。いや、このスラム街では普通の光景だ。しかし、貴族であるオリビアからしたら異様としか言いようがなかった。


 オリビアは思わず鼻を押さえる。異臭が漂っているからだ。視線を巡らせば、道路にはところどころに寝転ぶ人の姿が見える。酒に酔って寝ている人もいれば、何かの病を患っているのだろうことが遠目から見てもわかる人もいた。


 時折、怒鳴り声も聞こえる。暴力と隣り合わせの生活に、人々の目はおびえているようにオリビアには見えた。子どもたちはガリガリに痩せている。


「驚いただろ」


 言葉を失うオリビアにアダムがそう声をかける。


「……うん」


「そうだろうな。でも、これでも前よりだいぶ良くなったんだぜ」


「え?」


 オリビアが目を丸くする。その反応に、アダムは苦笑した。貴族の世界で生きてきたオリビアにとって、今見ているこのスラム街は底辺だろう。けれど、とアダムは言葉を続ける。


「ここにいるのは一般社会で生きていけない奴らとその子どもたちばかりだ。前は、スラム街にいる人間は全員ガリガリに痩せていた。盗みをすることも女をさらうこともできなかった。だた、死ぬのを待つだけ。そんな場所だった。」


「…」


「でも、今は、盗みをし、女をさらい、暴力を振るう。悪事ができるのは、それだけ体力があるということ。死を待つだけの場所じゃなくて生活の場所になったんだ」


「でも…」


「うん、わかってる。それは決していいことじゃあない。被害者からしたら死んだ方がましだってことも多いと思う。でも、人も街も急には変われない。1から100には急になれないんだ。だから、今が過渡期なんだと思っている。」


「…」


「この街はゆっくり変わっている。それは、ずいぶん前からテオたちが頑張ってくれているからだ。貧困層の税金を安くして、学校も作ってくれた。そこで文字を学び、学を付け、ルールを身につける。そして、それを少しずつ広めている。学校で学んだことを生かして、ここから出て行く奴も今では多くいるさ」


「…ねぇ、アダムはここの出身って言ってたよね?」


「ああ」


「どうして、その…今の立場になったの?」


「偵察に来たテオに襲いかかった」


「え?」


 予想もしなかった内容に驚いてアダムを見た。アダムはどこか昔を懐かしんでいるようなそんな表情を浮かべている。だから、アダムが次の言葉を続けるまで、オリビアはただ、アダムを見ていた。


「…5年前、俺は15歳の時だった。といっても、正確な生年月日なんて知らないから、たぶんだけどね」


 そう言ってアダムは話し出した。



■■■



 俺とテオドールが出会った5年前は、このスラム街に国からの助けが入り始めた頃だった。


 生きていくための必要な物資が国からもらえるようになっていたんだ。


 けれど、無料で配られる物資の量は決して多くはなかったし、それに反比例するようにスラム街に住む人の数は年々増えていた。


 だから、食べ物にありつくためには、奪い合いに勝つ必要があったんだ。力が弱いやつとか子どもとかは、なかなか食べられなかった。でも、何もないよりずいぶんましになっていた。


 テオと出会ったあの日、俺はたまたまパンを手に入れてたんだ。


 子どもの拳サイズの小さなパンだったけど、俺にはごちそうだった。それを食べた俺は、何でもできる気がしていた。


 それに中途半端に腹を満たしたからもっと食べたくて、金を持っている奴から金を奪おうと思った。


 そこにテオが通ったんだ。今のあんたみたいに、ボロ着を来ているのに、明らかに身分が高いことがわかった。


 隣に護衛らしき男を一人連れていた。がたいはいいのに、なんか弱そうに見えたんだ。だから俺は、テオを人質にとって金を奪おうとした。


 右手に砂を掴んで、俺はテオと護衛の前に急に出たんだ。


 テオは俺より身長が頭一つ分くらい小さかったし、身体も華奢だった。だからテオには勝てると思って、テオの隣にいる男の目を狙って砂を投げた。


 ひるんで目を閉じた隙に、男の股間を蹴った。あんたにはわからないかもしれないけど、股間は急所だ。


 男が痛さに一瞬ひるんだ隙に、そいつの顎を殴ったんだ。顎を殴られると脳が揺らされてうまくいけば気絶させられる。あの頃は仕組みなんてわからなかったけど、何度か喧嘩したり、他の人の喧嘩を見たりしながら顎が急所だってことはわかってた。


 俺は、ふらふらして膝をついた男を無視して、テオの後ろに回り込んだ。


 ポケットに入れていたガラスの破片をテオの首に突きつけたんだ。ナイフなんて手に入らないからそれで脅すしかなかった。


 けど、貴族の子息なら普通、それでびびるだろ?それで十分だと思ったんだ。


 でも、テオは首に回していた俺の腕を掴んで背負い投げした。俺は確かにガリガリだったけど、テオはそのときまだ13歳だった。そんなテオが頭一つ分大きい俺を簡単に投げ飛ばしたんだ。


 一瞬、何が起こっているかわからなかった。その隙に、腕を取られて、背中に乗られた。


「なんで、俺を襲った?」


 テオにそう聞かれた時には俺の手に持っていたガラスはテオの手に渡っていた。


 立場が一瞬で逆転してたんだ。けど、負けたくなくて俺はこっちを見てくるテオを睨みつけた。


「お前、貴族の息子だろ?人質に取って金を巻き上げようと思ったんだよ」


「どうしてそう思った?」


「はっ!変装してたらばれないとでも?ボロ着を着てたって、ここの奴らと違うことは一目でわかる」


「だ、大丈夫ですか?」


 復活したらしい護衛の男が俺を捕まえようと手を伸ばした。でも、それをテオは制した。


「…?」


「他に違和感は?」


「は?」


「俺たちがここの人たちと違うと思ったのは服装だけか?」


「なんで応えなきゃ…痛って!わかった、言うよ。…今、そいつが言っただろ?大丈夫ですか?って。ここの奴らはそんな言い方しない」


「なるほど、敬語を使わないのか」


「敬語?」


「人を敬うときに使う言葉遣いのことだ」


「…やっぱ、あんたいいとこの息子なんだな」


「お前、名前は?」


「は?」


「だから名前を聞いてる」


「…」


「名前は?」


「……アダム」


「アダム、お前、いい目といい耳を持ってるな」


「は?」


「なぁ、アダム、俺の味方にならないか?」


 そう言ってテオは俺をここから連れ出してくれた。そこからテオの右腕になれるように当時、子どものいなかったクレメソン家の養子となれるように話を付けてくれたのテオだ。


 身分を手に入れた俺は、それだけではもちろん足りないから、テオの隣に立てるようにいろんなことを学んだ。文字を学び、言葉を学んだ。


 ここからは今のあんたたちと同じだな。家庭教師を付けて来る日も来る日も勉強した。


 逃げるための戦い方しか知らなかったけど、テオを守れるように剣術も学んだ。


■■■


「あと、一応擁護しておくけど、あのときテオと一緒にいた護衛はただの文官だ。だから俺なんかに簡単にやられたんだ。団に属している人間は、テオだからってそうそう規律違反を犯さない。だから、立場を利用して脅しに屈した人物の中で一番、がたいのいい奴を連れてきてたってあとからテオが言ってたぜ。…それから俺はテオとこの街に何度も来た。テオが違和感なくここに来られるようにいろんなアドバイスをした」


「…」


「…でも、何度来ても、ここに来るたびに、申し訳ないと思う。あのとき、たまたまテオと出会ったのが俺だっただけで、そんな奇跡がなければ俺は今でもここにいたんだから。文字も読めず、暴力に身を任せるだけの生活。きっと空腹に耐えてかねて、悪事を働いていたんだろうなと思う。金を盗んで、女さらって、…なんてな」


 話し終えたアダムはどこか自嘲的な笑みを浮かべた。オリビアから視線を外すように周りを見る。


「そうでしょうか?」


 そんなアダムをオリビアは見た。


「え?」


「私はそうは思いません。だって、たった5年で文字を学び、政治を学び、経済を学び、今の地位になったのでしょう?それは相当な才能だと思いますし、相当な努力の結果だと思います。それに、今の話からするとテオの変装に気づいた人は少なかった。それに気づいたアダムには観察眼もあったんですよね?それなら、きっと、テオと出会わなくても、暴力に身を染める、なんてことはなかったんじゃないでしょうか?あなたは、きっとここに残っていても、真っ当に生きていたと思います。…あ、すみません。何も知らないのに、わかったような口をきいてしまって」


「…口調」


「あ…、…ごめん」


「なんか似てるな」


「え?」


「あんたとテオだよ」


「…へ?」


 変な声が出た。そんなオリビアにアダムは小さく声を出して笑う。


「か、からかってるでしょう!」


「違うよ、本当に思ったことを言っただけ」


「…恐れ多すぎるわ」


「でも、嬉しかった」


「え?」


「今の言葉もそうだけど、それ以上に、あんたがここを見たいと言ってくれたことが嬉しかったよ。こんなスラム街なんて、普通に生きている人から見たら、一番に蓋をしたい場所だろう?」


「…」


「ここは汚くて、臭くて、暗いところだ。だから、今の立場にあるあんたがここを見たいと言ってくれて、ここを変えたいと思ってくれた。…それだけで、なんか嬉しかったよ。なぁ、なんで、ここに来たいと思ったんだ?」


「だって、本当のことを知らなければ何もできないわ。臭いものに蓋をするだけじゃ何も変わらない」


「うん」



「それに、ただのオリビアでは、ここに来ることも、こんな話を聞くこともできなかった。与えられた権利を十二分に使っただけだわ」


「そっか」


「何ができるかわからないし、私が選ばれることなんてないかもしれない。でも、今日ここで見たことはきっとこれからの私の役に立つと思うの」


「ああ、そうだといいな」


「ええ。ねぇ、そういえば、学校があるって言ったわよね?その様子も見てみたいのだけど」


「了解。さっきも言ったけど俺から離れないこと。オッケー?」


「オッケー」


 オリビアは頷いて前を見た。何ができるのかわからない。それでもどこか薄暗いこの街のために何ができるのか、少しでも考えたいと思った。


「何してるんだよ、行くぜ」


「うん」


 先を進むアダムの大きな背中を追いかけた。チャンスがあれば人は変われる。それを体現しているアダムがここにいる。だからオリビアは顔を上げた。


◇◇◇

 空は夕暮れのオレンジに染まっていた。ボロ着のままで馬車に揺られ、家に着いたオリビアを出迎えたのは、父親でも母親でも義妹でもなく、テオドールだった。短く切りそろえられたグレーの髪が風に吹かれ揺れている。どこか輝いているように見えた。


「………」


「おかえり、オリビア」


 馬車から降りるオリビアにテオドールが手を差し伸べる。オリビアは無意識に自分の手をその手の上に重ねた。足が地面の土を踏む。


 疲労がピークに溜まっていたことも、自分がドレスではなくボロ着を着ていることも忘れオリビアは瞬きを2、3回繰り返した。思わず半歩後ろに立っていたアダムを見る。


「アダム…?」


「さぁ、私は知りませんよ」


 呆れたようにアダムは両方を持ち上げた。


「…あの…今日は水曜日じゃないけど?」


「けど?それに、アダム?」


「あ、も、申し訳ありません。これは、その、先ほどまでの癖で」


「癖?」


「あそこで敬語は不自然ですから。もちろん敬称なんて誰も使いません。それに家の名前を出すことはできませんし、下の名前を呼び捨てにするよう私が言いました」


 アダムが補足するように付け足した。


「…」


「テオドール様、私も気になります。皇太子殿下というお忙しいご身分のテオドール様がどうしてカールソン家にいらっしゃるのでしょうか?」


「たまたま通りかかってね」


 テオドールの言葉にアダムは小さくため息をついただけで何も言わなかった。そんなアダムの代わりをするようにオリビアが尋ねる。


「たまたま、ですか?」


「うん、たまたま」


「…」


「何、オリビア、俺の言葉を疑うの?」


「い、いえ。そんなことはありませんが、たまたま私の家の前にいらっしゃるというのはどういう状況なのかな、と思いまして」


「偶然ここにいた。それ以上でも以下でもないよ」


「…承知しました」


 これ以上何も言っても無駄であろうことは理解した。婚約者候補の一人がスラム街を視察に行けば気になるのもしかたがないのかもしれない。


「スラム街を視察してきたんだろう?どうだった?」


 テオドールの言葉にオリビアは少しだけ考えるように黙った。


「…?」


「殿下、今日は何曜日ですか?」


「ん?金曜日だけど?」


「ええ、そうです。今日は金曜日。ガルシア家の長女シエナ様のお時間ですわ」


「…」


「…」


 まっすぐ見つめ合うようにオリビアとテオドールの視線が絡み合う。先に折れたのはテオドールだった。苦笑のような声が漏れる。


「俺が悪かった。帰るよ。そうだな、次の水曜日には、オリビアの話を聞かせてくれる?」


「もちろんでございます」


「じゃあ、水曜日に」


「ええ」


 軽く手を振るテオドールにオリビアは頭を下げた。


「クレメソン様、本日はありがとうございました」


「いえ、お供できて光栄でした」


「アダム、帰るぞ」


 アダムの言葉に被せるようにテオドールが告げる。


「お気を付けてお帰りください」


 スカートを持ち上げようとしてオリビアは自分がドレスを身につけていないことを思い出した。ドレスだけではない、帽子の中に詰め込んでいた髪はぼさぼさで、化粧も施していなかった。


 こんな格好でテオドールと話していたのかと思うと先ほどまでは感じなかった羞恥を急に感じ始めた。


「……あの、それでは」


 淑女の礼を諦め、深々と頭を下げると、失礼だとは思いながらすぐに背を向け、家の中に入った。


 安心と羞恥と困惑。いろんなものを含んだ息が口から出た。今日は金曜日。水曜日まではあと5日もある。



◆◆◆


 窓から注ぎ込まれた太陽の光はまぶしくて、オリビアは少しだけ目を細めた。そんなオリビアに気づいたようにテオドールがカーテンを少しだけ閉める。


「ありがとうございます」


「いいよ。それから、どうだったの?」


 次の水曜日、約束どおりオリビアはテオドールの執務室のソファに座り、スラム街の視察の話をテオドールに聞かせていた。


「学校も見てきました。キラキラした目で授業を受けている子どもたちがとても可愛かったです。ただ、学校に通えているのはスラム街でも比較的余裕のある家の子どもたちで、格差が広がってしまうことが懸念されます」


「うん」


「子どもだけではなく大人の通う学校も必要だと思いました。ルールを理解し、それを遵守できるように。それから、スラム街への周りの偏見を変えるような対策も必要かと思います」


「大人が通うための学校はすでにあるんだ。だけどなかなか通う人がいなくてね。学校に通う余裕がない人が多いのが現実だよ。偏見についても、スラム街の外に生きている人たちの多くは、スラム街を野蛮なところだと思っている。実際、そういう側面があることは事実だ。だけどこのままでは、スラム街で生まれたというだけで希望した未来を進めない人たちが出てしまう。いや、すでに出ている」


「ええ」


「…オリビア、ありがとう。きちんと考えてくれて」


 どこか優しい目でテオドールはそう言った。そんなテオドールにオリビアは困ったように首を横に振る。


「勝手なことばかり言ってすみません。私が言ったことなんて、殿下はすでに知っていることでしょう。クレメソン様から、殿下は何度もあそこに出向いていると聞きました。…たった一日行っただけで何もわかるはずがないのに意見なんか…」


「オリビア」


 言葉を続けるオリビアを止めるようにテオドールは彼女の名前を呼んだ。そこに浮かぶのは優しい笑み。


「あの街がこの国にある。それを忘れようとしている人々は多い。裕福な人たちは特にそうだ。けれど、君はきちんと向き合ってくれた。それだけで十分だし、それだけで俺は嬉しい」


「…ありがとうございます」


「それは俺の台詞だって」


「はい」


「でも、ちょっとずるいなとも思うんだ」


「ずるい、ですか?」


「アダムだよ。君に呼び捨てにされるし、ため口で話してたし」


「え?あ、あれは、しかたがなく…」


「それに、君の可愛い格好も一日見られていたしね。俺は一瞬しか見られなかったのに。君は俺の婚約者候補なのに、ずるいと思わない?」


「あ、あ、あれは、……忘れてください」


「可愛かったのに?」


「か、可愛くなんてありません。忘れてください!」


「え~。ねぇ、今度、青い帽子を贈るから一回くらい見せてくれない?」


「…青い帽子、ですか?」


「そう。帽子かぶってたんでしょう?髪を帽子で隠したって聞いたけど」


「ええ」


「青い帽子なら付けてくれるでしょ?」


「どうして青い帽子なんですか?」


「だって、オリビア、青、好きだろ?」


「…」


 テオドールの言葉にオリビアは息を飲む。目を丸くするオリビアの反応にテオドールは首を傾げた。


「オリビア、どうしたの?」


「いえ、あの…なんで…」


 知っているのか、そこまで言葉を繋げなかった。けれどテオドールには伝わったようで、その頬に笑みを浮かべながらテオドールは応えた。


「わかるよ。青のドレスが一番多いし、それに似合ってるしね。ネックレスの宝石も青が多いし、好きなんだろうなって」


「一番…好きな色です」


 泣きそうになるのを堪えて応えた。そんなオリビアを見て、テオドールは静かに立ち上がる。小さなテーブルを挟んで向かいに座っていたオリビアの隣にそっと座った。肩が触れるほどの近さだった。その距離に、オリビアは自分の頬に熱が集まるのを感じる。


「殿下…?」


「オリビアは、青色が好きだし、ビオラの花が好きだ」


「…」


「君を見て、君の話を聞いていればすぐにわかることだよ」


 テオドールの言葉にオリビアは苦笑を浮かべて、小さく首を横に振る。


「もしかして、君の元婚約者はそんなことすら知らなかったの?」


「……いつも黄色のドレスとガーベラの花束をくれました。どちらも、…エライザの好きなものです」


「…」


「…」


「ねぇ、オリビア」


「…はい」


「抱きしめてもいい?」


「え…?」


「嫌ならやめるけど」


 突然の言葉に思考が追いつかなかった。けれど、嫌かと聞かれればそれは否。だからオリビアは小さく首を横に振る。


「…嫌ではありません。えっと…でも、なぜかなとは…」


 話を遮るように少し微笑みながらテオドールは両手をオリビアの背に回した。抱きしめると表現するには緩い抱擁。かすかに伝わる体温があたたかくて、オリビアは思わず瞳を閉じる。


 2人ともそれ以上何も口にしなかった。近いその距離に心臓の音が聞こえなければいいなとオリビアは思った。


 テオドールのことを考えると、自分の中にゆっくりとあたたかいものが広がるのをオリビアは感じていた。なぜ、抱きしめられたのかそれはわからない。


 好きな色も、好きな花すらも元婚約者に知られていなかったオリビアに同情してのことだったのかもしれない。けれどそれで十分なのかもしれないとも思った。だってこれは、あと数か月後には無くなるあたたかさなのだから。



◆◆◆


 頬を撫でる風が少しずつ冷たさを帯びてきた。オリビアは自分の定位置となったテオドールの執務室にあるソファの左隅に腰をかける。家から持ってきたハンカチに刺繍をしながら少しだけ視線を動かした。


 真剣な顔で書類を読むテオドールの横顔。オリビアの視線に気づいたのか、テオドールが書類から顔を上げた。何を言うわけでもなく、口元を軽く持ち上げ笑みを浮かべる。それにオリビアも笑みを返した。


 オリビアに与えられた水曜日の2時間は、「ただ一緒にいる」そんな時間だった。テオドールは職務に専念したり、剣術の訓練をしたり、たまにゆっくり休んだり、そんな風に時間を過ごした。


 オリビアは本を読んだり、刺繍をしたり、たまにテオドールの様子を眺めたり。2人で何かをするわけでもない時間。たまに雑談をしたり、テオドールがオリビアの意見を求めることはあったが、他の婚約者候補の令嬢たちのように一緒にオペラを見たり、買い物に行ったりすることはなかった。


 それでも、とオリビアは再びテオドールに視線を向ける。テオドールをずっと見ていても許されるこの時間は、次第にオリビアにとって特別なものになっていた。


 ただ一緒にいるそれだけ。2人を包む静寂がオリビアは嫌いではなかった。沈黙が気にならないそんな雰囲気が流れる。


 ジェイムズと婚約者だったときには、いつもオリビアは話していた。最近の出来事や今流行っているものなど些細なことまで話題を振っていた。オリビアにとってジェイムズは傍にいたくて、でもそれ以上に誰よりも幸せになって欲しい人であった。


 けれどテオドールと一緒にいるオリビアの中には、それとはまた違う感覚が湧いている。そこに会話がなくても、傍にいられるのが心地よかった。ジェイムズの時のように燃え上がるようなそんな気持ちではない。


 それでも、テオドールと一緒にいると、胸の中にゆっくり静かにあたたかいものが広がった。その気持ちをなんと呼ぶのが正解なのか、オリビア自身もわかっていない。それでもこの穏やかな時間はあと片手で数えられるだけで終わってしまうのは寂しいと思えた。


「そういえば」


「はい」


「ガルシア家のシエナが婚約者候補の辞退を申し出たよ。なんでも、王妃教育が厳しくてこれ以上ついて行けないそうだ」


「そうなんですね。…あと1月ですのに」


「まあ、もともとガルシア家は家の格が候補者の中では一番低いからね。どうせ婚約者にはなれないと思ったみたいだよ。その状態で1月耐えることはできないらしい」


「…」


「婚約者候補になったという事実だけで彼女に縁談は舞い込んでくるだろうし、今辞退して、他の令嬢より早く動き始めることができれば、よりよい条件の男性と知り合うこともできるかもしれないし。あの家の当主は結構そういうところ打算的だから、それを狙ったのかも」


「そう…ですか」


「…オリビアは?」


「え?」


「王妃教育、辞めたいとは思わない?」


 伺うようなテオドールの言葉に、オリビアはすぐに首を横に振った。


「確かに大変です。それに、自分の時間も今までのようには持てません。けれど、私は幸いにも学ぶことは嫌いではありませんし、自分の知らないことを学べることを楽しいと思えます」


「うん」


「それから、…今まではただ学ぶだけでしたが、婚約者候補となってからは私の意見を殿下が聞いてくれます。それについてさらに殿下の意見を聞かせてもらえるのも嬉しいです」


「つまり俺と話すのが楽しいってこと?」


「えっと…一言で言えばそうですね」


「そっか」


 オリビアの言葉に頷くと、テオドールは再び視線を手に持つ書類に戻した。オリビアも同じように刺繍を再開させる。


 部屋の中に太陽の光が差し込まれていた。外は寒さを帯びてきたのに部屋の中はあたたかくて、オリビアの頬は少しだけ熱を持っていた。


◇◇◇

 今日もいつもどおりアダムが来て、オリビアに与えられた2時間は終わりを告げた。小さく手を上げるテオドールにオリビアはスカートを持ち上げて頭を下げる。


「気をつけて帰るように」


「ありがとうございます」


 オリビアを王宮の前で停まっていたカールソン家の馬車に乗り込んだ。ゆっくりと動き出す馬車に背中を預ける。


 馬車の中でふと、シエナの辞退の話が思い出された。確かに見込みのないテオドールの婚約者候補を切り上げて、他の人との出会いを求める方が現実的なのかもしれない。


 そして、彼女がそうしたように、今後、同じように辞退する者が出てくるかもしれないとも思った。自分はどうしたいのか、オリビアは自問自答する。


 好き、なのかもしれないと思う。テオドールのことを好きなのかもしれないと。ジェイムズの時のように恋い焦がれる思いではない。


 けれど、隣で笑っていたいと思う。ただ、テオドールの隣にこれからも居続けるために自分に何ができるのか。もちろん今まで以上に王妃教育を頑張ることはできるだろう。けれどそれだけだった。だって、テオドールが言ったのだ。


「好きになってもらっても、応えられないかもしれない」と。


 そこにオリビアの気持ちは関係がない。テオドールに選ばれるか、選ばれないか。それだけだった。そして、世間の外聞から逃げるためにここに来た自分には、選ばれる価値などないのではないかとオリビアは思っている。


 ふと馬車の外を眺めた。道端に咲く花が風に揺れる。綺麗だけど手の届かないそれに、オリビアは重ねていた自分の右手で左手を強く掴んだ。


「オリビア様!!!!」


 突然呼ばれた自分の名前にオリビアは顔を上げる。その瞬間、馬車が揺れた。小さい悲鳴がこぼれる。馬の嘶きが耳に入った。


「…逃げっ…うっ!」


 従者のタレスの声だった。それと同時に金属がぶつかり合う音も聞こえる。緊急事態だということはすぐにわかった。逃げなければいけない。そう思って、扉に手をかけた。


「…」


 その瞬間だった。オリビアの力ではなく、反対側から馬車の扉がゆっくり開いた。開いた扉の向こうに見えたのは、見知った護衛でも従者でもなかった。見知らぬ男がオリビアを見ている。


「降りろ」


 低い声でそう言った。けれどオリビアには何が起こっているのか理解できなかった。反応のないオリビアに男は舌打ちを一つ打つと、オリビアの細い腕を掴む。


「きゃっ」


「うるせぇ!静かにしろ!」


 オリビアの小さな悲鳴に、男は怒号で返した。そして、引きずられるように馬車の外に出させられる。


 オリビアは息を飲んだ。倒れている護衛と従者、そして意識を失った2人の見知らぬ男の姿があったから。従者のタレスは頭を打ったようで気を失っており、護衛のグレブは足から血が出ていた。状況から判断するに、倒れている2人の男はグレブが倒したのであろう。


「…グレブ!!」


 オリビアが護衛の名を呼んだ。その声に反応するように、グレブは隠し持っていたナイフをオリビアの後ろに立つ男に投げつけた。けれど次の瞬間、甲高い音が耳に入る。グレブの投げたナイフはオリビアの目の前に転がった。


「おいおい、危ねぇな。お嬢さんに当たっちまうだろう?」


「くっ!」


「もう碌に動けねぇんだから余計なことすんなって」


 グレブがナイフを投げたことでオリビアに少しだけ冷静さが戻った。


 オリビアは一つ小さく息を吐く。視線だけを動かし、あたりを見た。動ける黒ずくめの男3人が周囲を囲んでいる。馬は手綱を切られどこかに逃げたようだった。


 護衛のグレブは足を切られ、動けない。従者のタレスは気を失っている。そして、オリビアはリーダー格であろう大男に腕をつかまれ、首にナイフを当てられていた。奇襲されたのは、家と王家のちょうど真ん中あたり。唯一、人気が少なくなる場所であった。


「…何が、…目的ですか?」


 後ろに立つ男にオリビアは尋ねた。声が震えそうになるのを必死で堪える。


「へぇ~、お嬢さん、なかなか肝っ玉が据わってるな」


「…」


「でもそれじゃあ、つまらねぇ。俺はあんたみたいな綺麗なお嬢さんが泣きわめくところが見たいんだけどな」


「お頭の趣味、いいもんな~」


 いやらしい笑いが起こる。オリビアは睨むように男を見た。


「お~、こわ。でもお嬢さん、足の震えはごまかせてないぜ?」


「…何が、目的ですか?」


「……まあ、こんなところで泣きわめいていちゃあ、皇太子の婚約者なんかなれぇわな」


 男の言葉で、自分が婚約者候補であるために襲われたことを理解する。


「王家に恨みでも?でも、私は、7人いる婚約者候補の内のたった1人です。…何の交渉材料にもなりません」


「ほう、そう解釈するか」


「…どういう意味ですか?」


「俺たちはあんたを人質に王家を揺する、なんてことするつもりはねぇよ。ただ、あんたにお願いしたいだけだ」


「…お願い?」


「ああ、お願いだ」


 そう言った男はオリビアの首に当てたナイフに力を込めた。小さな痛みが走る。ナイフが当たっている場所から血が流れるのを感じた。


「とっても簡単なことだ。婚約者候補を辞退してくれりゃあそれでいい。そんでもって、皇太子に二度と会わないと誓え」


「…」


 男の口から出たのは予想外の言葉だった。


「理由は俺たちも知らねぇ。だけどあんたには婚約者になるのをあきらめてもらうぜ?」


「…」


「俺はあんたを殺す方が手っ取り早いって言ったんだけどな。なんか、そうするといろいろ面倒になるそうだ。だから、あんたにはここで辞退を申し出る手紙をしたためてもらうぜ。ちなみに従わなかったり、余計なことをしたら、そこに寝転んでいるこいつらを殺すから」


「…っ」


「だから妙なまねするんじゃねぇぞ」


「目的は…なんですか?」


「だからさっき言っただろう?俺たちはそんなこと知らねぇって。お嬢さん、人の話はちゃんと聞こうぜ。それよりいいのか?早くしねぇとこいつ出血多量で死ぬぜ?」


 指をさされたグレブを見る。腕を捕えられ、男に押さえつけられている彼の周りには血が広がっていた。すぐに処置が必要であることは素人のオリビアにもわかった。


「ここで婚約者候補を辞退する旨の手紙を書けば見逃してくれるのですか?」


「ああ。辞退して、二度と皇太子と会わねぇようにしろ。あとはこのことについて誰にも話さないでくれりゃあ、もう今後あんたらに手を出すことはねぇよ」


「それを信じろと?」


「信じるも信じないもあんたの自由だ。だがな、お嬢さん。あんたには、俺たちの言葉を信じる以外に道はねぇと思うがな?」


 男の言うことは最もだった。男がたとえ嘘をついていたとして、手紙を書いた後に殺されるのだとしても、今、男たちから逃げる手立てはオリビアには存在しない。それならば、男の言葉を信じて、言うとおりにするしかないのだ。


「ほら、紙とペンを持ってきてやった。さっさと書きな、お嬢さん。早くしねぇとこいつ本当に死ぬぜ。まあ、急いだところで助けも呼べねぇこの場所じゃあ、どうすることも出来ねぇと思うがな!」


 再び男たちから笑いが起こった。オリビアはグレブを一瞥する。男たちの拘束を解こうと抵抗しているが、その抵抗も徐々に弱まっている。動くたびに足から血が出ていた。


「グレブ、もう動かないで。すぐに終わらせるから」


「オリビア様、だめです!こいつらの言葉に何の保証もありません!」


「おい、早くしろよ」


 オリビアは男から紙とペンを受け取った。近くにあった大きめの石の上で手紙を書き始める。息を一つ大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。


 はじめから殺す気であるならばとっくに殺されているはずだ。それならば男たちの言葉を信じる方が現実的である。なれるのかもわからない皇太子の婚約者になる道を絶つだけなのだから。


「…」


 婚約者候補を辞退する、そう書けばいい。きっと理由を聞かれるから、王妃教育が厳しいからとでもすればそれでいいのだ。


「…」


 あと5回、テオドールと一緒に過ごす時間がなくなるだけ。それだけのはずだ。そんなことが人の命より重いはずがない。グレブもタレスも幼い頃からオリビアについてくれている大切な家族のような存在だ。それなのに、ペンを持つ手が震えた。「辞退」その言葉を書くことをためらってしまう自分がいた。


「いいのか、こいつ死ぬぞ」


「…今、書きます」


 オリビアはペンを握り直す。一度目を閉じ、すぐに開けた。止まっていた手を再び動かし始める。


◇◇◇

 ふと、地面が揺れた気がした。


「お、お頭!」


 1人の男が叫ぶ。次の瞬間、馬が駆ける音が聞こえた。


ドドド―――!


「な、なんだ!?」


 砂埃が立ち上がる。男の野太い悲鳴が聞こえた。何が起こっているのか、オリビアにはわからなかった。


「オリー!」


 聞き覚えのある声が耳に入る。肩に大きな手が触れた。


「…ジェイムズ…様…?」


「オリー、もう大丈夫。今、助ける」


 その言葉とともに、視界がジェイムズの広い背中で埋まった。次の瞬間、リーダー格であろう大男が地面に倒れた。


「…」


「大丈夫。殺してないから。急所を強打しただけ。…聞かなきゃいけないこともあるしね」


 振り返ったジェイムズは穏やかな笑みを浮かべていた。ジェイムズは座り込んでいたオリビアの肩を掴むと立ち上がらせる。周りを見れば他の男たちも、次々と倒れていた。


「どう…して…」


「騎士団でパトロールをしている最中だったんだ。手綱の外れた馬が一頭、駆けてきてね。何かがあったのかもしれないと思って駆けてきた方向に向かったら、君たちがいた」


 ゆっくりと安心させるようにジェイムズはそう言った。ジェイムズの言葉に安堵で腰の力が抜ける。


 倒れそうになるオリビアをジェイムズはそっと支えた。


「大丈夫?」


「はい。私は。…グレ、グレブ!グレブの足から、すごい血が出ていて!」


「ああ、わかってる。応急手当をして病院に連れて行くよ。6対1じゃあ、さすがのグレブも敵わなかったみたいだけど、とっさに避けたんだろうな、太い血管は外れているみたいだ。だからきっと大丈夫だよ」


「…タレスは?」


「彼は頭を打って気を失っているだけみたい。もちろんグレブと一緒に病院に連れて行くけど、こっちも大丈夫だと思うよ」


「…よかった」


「それより、何があった?あと、これを着た方がいい」


 そう言いながらジェイムズは自分の上着をオリビアの肩にかけた。今まで気づかなかったが、強引に引かれたためか、ドレスの所々が破れている。


「ありがとう、ございます」


「ううん。それで、あの男たちは誰?」


「誰かは私にもわかりません。ただ、……殿下の婚約者候補を辞退する旨の手紙を書くよう強要されました」


「辞退の強要?」


「はい。それから、…殿下に二度と会わないと誓えと」


「…もしかしたらほかの婚約者候補の脅しかもしれないね」


「そんな…」


「まあ、令嬢たちは何もしてないと思うよ。けれど、皇太子の婚約者は未来の王妃だから、その権力を掴みたい大人は多いだろうな。…くだらない権力抗争に巻き込まれたんだと思う」


「…」


「ねぇ、オリー、君は、こんな目にあっても…」


「ふざけんな、放せ!」


「おい!ぶっ殺すぞ!!」


 ジェイムズの声が暴漢たちの叫び声にかき消された。腕と腰をひもで縛られた男たちは暴言を吐きながら抵抗していた。


「オリー…?」


 名前を呼ばれてオリビアは初めて自分の身体が震えているのに気がついた。震えが止まらず、自分の両手で自分を抱きしめながらしゃがみ込む。


「オリー?どうした?」


「い、今になって……こ、こわく…」


「オリー…」


「ご、ごめん…な、さい…」


 自分が婚約者候補になったから、グレブやタレスを巻き込んでしまった。グレブの足から流れていた血や気を失ったタレスが脳裏に思い出される。容赦なく捕まれた手もナイフを突きつけられた首も感覚を取り戻したように痛み出した。


「す、すみま…せん」


 震えを止めなくてはいけないと思うのに、思えば思うほど恐怖がオリビアを襲う。もう終わったのだ、助かったのだ。そう思うのに、震えが止まらない。より強い力で自分を抱きしめる。


「オリー、大丈夫」


 ジェイムズは震えるオリビアの背中をそっと抱きしめた。背中から熱が伝わる。


「もう大丈夫。大丈夫だから」


 言い聞かせるようにジェイムズが繰り返す。


「オリー、息を吸って、吐いて。そう、上手」


 ジェイムズの言葉どおりにゆっくり呼吸を繰り返す。数回目には震えは止まっていた。


「悪い奴らは騎士団が捕えた」


「…はい」


「だから安心して」


「はい、ジェイムズ様。もう、大丈夫です。ありがとうございました」


 落ち着いたオリビアは感謝を伝えた。けれど、ジェイムズの温度は背中から伝わってくるままだった。


「ジェイムズ様…?」


「ねぇ、オリー、テオドール殿下の婚約者候補、辞めたら?」


「…え?」


「ごめん、あの男たちと同じことを言って。でも、…黙っていられないよ。だって、もしかしたらこれからだってこんなことが続くかもしれない」


「…」


「ごめん、こんなことがあったばかりの君に言うことではないはわかっているんだ。でも、今、言わないと、俺は君と話をすることもできないから」


「…」


「ねぇ、オリー、俺は、君を大切に思っている。婚約者だったときも、今も」


「ジェイ…ムズ様」


「君と同じ気持ちではなかったかもしれない。でも、それでも、君が大切で大事なんだ。だから…君に幸せでいて欲しいんだ」


「…」


「だから…」


 オリビアは自分を抱きしめるジェイムズの腕にそっと触れた。決して強い力ではなかったそれは、オリビアの力ですぐに離れた。


 オリビアはゆっくりと立ち上がる。ジェイムズの手を掴んだまま後ろを振り向いた。心配そうに表情を歪めるジェイムズがそこにいた。それは初めて出会ったときから今まで、初めて見る表情であった。オリビアは、握っていたジェイムズの大きな手をそっと放す。


「オリー…?」


「幸せになりたいと思っています。…許されるなら、殿下の隣で」


「…」


「叶うなんて思っていません。私に殿下の隣が務まるとも思っていません。でも、…願ってしまいました。……幸せな姿を見たい、のではなく、私があの人を幸せにしたいと。一緒に幸せになりたいと」


「オリー…」


「だから、最後まで頑張らせてください」


 オリビアはそう言って今の自分にできる一番の笑顔で笑って見せた。その顔にジェイムズは少しだけ驚き、すぐにその口元に苦笑を浮かべる。


「俺の時には最後まで頑張ってくれなかったのに」


 その言葉にオリビアは首を横に振る。


「いいえ、ジェイムズ様には最大限の愛を贈らせていただいたはずですわ。人によって愛の形は変わるのです。どちらが上も下もありません。私はあなたの幸せを一番に考えて行動しました。そして、今度の恋は、こういう形というだけですわ」


「……そっか」


「はい」


「…でも、君を大切に思っているのは本当だ。それだけは忘れないで欲しい」


「わかりました。ジェイムズ様、助けていただいて、本当にありがとうございました」


「…騎士として当然のことをしたまでです。念のため君も病院へ連れて行くよ」


「はい、お願いします」


 周りを見れば、ほかの騎士たちはグレブとタレスの護送のためにすでに病院に向かったようで誰もいなかった。2人の間に漂うただならぬ空気を察知して声をかけず離れたようだ。 


 オリビアは肩に掛かっていただけのジェイムズの上着に腕を通し、ジェイムズの助けをかりて馬に乗る。その後ろにジェイムズも乗った。軽く叩くと、馬は爽快なリズムでかけ始めた。


「これは後から質問攻めだな」


「ジェイムズ様が急にあんなこと言い出すからですわ」


「そうだね」


「エライザに誤解ないようにしてくださいね。私の大切な義妹なんですからね」


「ああ、わかってるよ」


「本当ですか?」


「もちろん。ねぇ、オリー、2人で馬に乗るのも久しぶりだね」


「ええ、そうですね」


 出不精だったオリビアをジェイムズはよくこうして馬に乗せて連れ出してくれた。2人で馬に乗るとき、密着するその距離にオリビアの心臓はいつも大きな音を立てていた。


 オリビアは自分の胸にそっと左手を当てる。静かなその音に、小さく笑った。


◇◇◇

 しばらくして病院についたオリビアを出迎えたのは、テオドールとアダムだった。ジェイムズの助けを借りて馬から下りると、オリビアはテオドールに駆け寄る。


「殿下、どうされました?」


「どうされました、じゃない!…君が、無事で、よかった」


 それは心から安堵したような声だった。


「殿下…」


「あ!血が出てる!早く手当しないと!」


 テオドールはオリビアの首に手を伸ばす。のぞき込むように見るその距離に、オリビアは慌てて首を横に振る。


「少し切られただけですわ。もう大丈夫です」


 オリビアの言葉どおりもうすでに血は止まっていた。それでも目の前のテオドールの目から心配の色は消えない。


「大丈夫です。本当ですわ」


「大丈夫でも切られた箇所の手当は必要です。さあ、中に入りましょう」


 そう告げたのはアダムだった。


「アダムの言うとおりだ。ちゃんと治療を受けた方がいい」


「わかりました」


「オリビア様、ご無事で何よりでした。…あなたを襲ったのはヘルゲン家に雇われた者だったようです」


「…ヘルゲン家、ですか?」


 ヘルゲン公爵家はテオドールの婚約者候補の中で、2番目に地位の高い令嬢の家だ。ヘルゲン当主コナーは王家騎士団の副団長である。そして人一倍権力に執着している人物でもあった。


「…コナー副団長の事情聴取はこれからする予定だ」


 テオドールの表情がかすかに歪む。今まで一緒に国を支えてきた仲間の一人でもある人物の暴挙だ。気が落ちないわけがない。オリビアは何か声をかけたかったが、頷くことしかできなかった。


「それにしてもお2人ともここに来るのが少し遅かったようですが、何かされていたのですか?」


「申し訳ありません。私がオリビア様と少し話がしたくて、引き留めておりました」


 アダムの言葉に応えたのは今まで口を閉ざしていたジェイムズだった。ジェイムズが頭を下げる。そんな彼をテオドールはじっと見つめた。そしてゆっくりと首を横に振る。


「謝る必要はない。オリビアをよく守ってくれた。礼を言う」


「ありがたいお言葉」


「だが、ここからは…俺に任せてもらおう」


 そう言うとテオドールはオリビアの肩に手をかけた。羽織っていたジェイムズの上着を脱がせ、それをジェイムズに押しつけるように渡した。


「で、殿下?」


 戸惑うオリビアににこりと笑い、テオドールは自分の上着を脱いだ。それをオリビアの肩にかける。


「ジェイムズ、と言ったかな?君はここで帰ってくれて構わない」


「…はっ」


「オリビア、君は中で治療をしよう」


 そう言ってテオドールはオリビアの肩を抱きながらジェイムズに背を向けた。


「テオドール殿下。…オリビアをお願い申し上げます」


「…君に言われなくてもそうするつもりだ」


 視線を合わせず言葉を交わす2人。オリビアはそっと後ろを向いた。そこには深々と頭を下げるジェイムズの姿があった。



◆◆◆


 事件の後、婚約者候補の警備が強化された。事件を起こしたヘルゲン家の令嬢は婚約者候補から外され、当主であるコナーは投獄された。ヘルゲン家はコナーの弟が当主となったが、爵位は男爵まで降格された。


 オリビアの首の傷は次の日にはかさぶたとなった。握られてできた腕の黒ずみも今ではすっかり綺麗に治っている。怪我をした護衛も従者も命に別状はなかった。あの事件から残されていた選考期間は静かに過ぎていった。


 空を見上げれば、雲一つない晴天で、あたたかい日差しにオリビアはそっと目を閉じる。オリビアは選考結果を聞くために王宮に呼ばれていた。馬車の中でこの半年間を振り返る。


 ただ逃げるための半年だったはずだ。それでもオリビアはテオドールに次第に惹かれていった。国を思う姿に、多くのものを背負うその背中に。そんなテオドールを傍で支えたい、そう思うようになった。


 オリビアは握っていた拳に力を入れる。どんな結果であろうと最後は笑顔で終わろうと心の中でそう誓った。


「オリビア様、お待ちしておりました」


 王宮に着いたオリビアを待っていたのはアダムだった。


「それではテオドール様のお部屋に行きましょう」


「…はい」


 アダムの背中を前にしながらオリビアはテオドールの部屋まで行く。このルートをこの半年で何回も通った。広い王宮であるがもうきっと一人でも迷わずに行けるだろう。


 足を一歩進めるたびに重くなるような気がした。半年間の思い出があふれるように出てくる。


「…」


「この半年間は長かったですか?」


「え?」


「婚約者候補となった半年ですよ。長かったですか?それとも短かったですか?」


「…両方、ですわ。長くて、短かったような気がします」


「オリビア様は特に、大半の時間をテオドール様の執務室で過ごされていましたからそう感じるのかもしれないですね」


「それでも、…殿下といろいろなお話をさせていただきました。真剣にこの国のことを考えてくださる殿下の姿も、たくさん見せていただきました」


「そうですか」


「はい。…それだけで十分だと思えるほど濃い半年間でした」


「…」


「…」


「オリビア様、私がスラム街出身だという話はしましたよね」


「…?はい」


「あそこは欲望にまみれた街です。皆が欲しいものを欲しいと言います。理性ではなく、本能に任せて」


「…クレメソン様。何を、おっしゃりたいのでしょうか?」


「手段さえ間違えなければ、欲しいものを欲しいと願うことは決して悪いことではないと思いますよ」


「…」


「さあ、着きました。私は別の業務がありますので、ここからはお一人でお願いします」


 見知った扉の前だった。アダムは小さく笑みを浮かべると会釈をして離れていく。


 一人残されたオリビアはノックをするために一度右手を持ち上げた。しかし、すぐに下ろす。その手で自身の胸に触れた。大きく息を吸い、静かに吐き出す。


 今度こそ、扉を叩いた。


「どうぞ」


「失礼します」


 部屋の中に入ったオリビアを待っていたのは、ビオラの花束を抱えたテオドールだった。


「…殿…下…?」


 戸惑うオリビアの前にテオドールは歩み寄る。その目がまっすぐにオリビアを見つめた。


「君を選ぶことにしたよ」


「…」


「今、この瞬間からオリビア、君が俺の婚約者だ」


「私で…いいのでしょうか?」


 そう問うオリビアにテオドールは小さく首を横に振る。


「オリビアがいいんだ」


「…」


「きっとこれから苦労をさせると思う。…この前のように怖い思いをすることもあるかもしれない」


「…」


「でも、俺は、君の前なら泣ける気がするから、だから…俺とともに歩んで欲しい」


「…はい」


 泣きそうになりながらオリビアは深く頷いた。そんなオリビアにテオドールは安堵の笑みを浮かべて、ビオラの花束を渡す。オリビアはゆっくり手を伸ばし、花束を受け取った。そっと花束を抱きしめる。いい香りが鼻孔に広がった。


 自分に何ができるのかわからない。それでもテオドールの隣を歩けるのなら、頑張ろうとそう思えた。



「それから、もう一つ」


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「殿下…」


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「…」


「今すぐに好きになれ、なんて言わない。でも、…いつかは好きになってほしい。俺がオリビアを想うのと同じように」


「…」


「オリビア、君が好きなんだ」


「殿…下」


「君が知っているように俺は恋を知らないから、君にどうしたら好きになってもらえるのかわからないんだ。だから教えて欲しい。俺はどうしたら、君に好きになってもらえるだろうか?」


 その表情は真剣で、本心を言っていることがオリビアにはわかった。胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


 好きな人が幸せならそれでいいと思っていた。隣にいられるのが自分ではなくても、好きな人が幸せならそれが一番幸せだと。きっとそういう恋もあるだろう。けれど、とオリビアは顔を上げる。綺麗な緑色の瞳に自分が映っていた。


「…殿下、私は、…あなたが幸せならそれでいい、とは…言えないかもしれません」


「え?」


「もし、…これから先、殿下の心が私から離れてしまっても、…私は殿下の傍から離れないかもしれません。…それでもいいですか?」


「なにそれ。そんなの…最高だよ」


 テオドールは満面の笑みを浮かべて、オリビアに両手を伸ばした。そっと抱きしめる。


「で、殿下、花が…」


「あ、そっか」


 テオドールはオリビアから花束を取ると、ソファの上に置いた。


「これでいい?」


「…はい」


 頷くオリビアをテオドールは今度はきつく抱きしめる。オリビアもその広い背に手を伸ばした。


「オリビア、好きだよ」


「私もお慕いしています、殿下」


「…ねぇ、オリビア、名前で呼んで?」


「テオドール様」


「うん」


「テオドール様、大好きです」


「俺も。…これからきっと苦労させると思う。でもそれ以上に幸せにするから、だからずっと俺の隣にいて、笑っていてほしい」


「テオドール様の隣にいられれば、いつも笑顔でいられますわ」


 オリビアの言葉にテオドールは両頬を持ち上げた。オリビアの背中に回っていた手をそっと肩に置く。


「オリビア、愛している」


 少しだけ顔を傾けて近づいてくるテオドールの端正な顔に、オリビアは静かに目を閉じた。

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