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本当の気持ち
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目を開ければ、陽の光がカーテン越しに入ってくる。穏やかな朝の訪れに、けれどエルサの心は、落ち着かなかった。
夜会から3日が経っていた。それなのに、夜会の最後の光景が鮮明に蘇ってくる。自然と唇に手が伸びるのが、癖になりつつあった。
ずっと、アンドリーの気持ちを考えていた。どうして自分に口づけしたのかと。考えて、考えて、思い出した。エルサはアンドリーに自分の計画を話していなかったことに。エルサはアンドリーの共犯者だ。少なくともエルサはそのつもりでいる。けれど、それをアンドリーは知らない。だとしたら、アンドリーは本気でエルサと結婚するつもりなのかもしれない。自分の気持ちを押し殺して、どうにかエルサを好きになろうとしているのではないか。自分の思考の矛盾を感じながらも、そう考えたら、そうとしか思えなくなった。
「だからって、キスしなくても…」
思わず独り言がため息とともに口から出る。再び右手が唇に伸びた。一瞬であったが、触れた柔らかい感触を思い出す。思い出して、体温が上がるのを感じた。これ以上は耐えられなくて、慌ててベッドから出る。
「王子が好きなのはユリア」
自分に言い聞かせるようにそう呟く。胸の奥に痛みを感じた。それを払拭するように首を左右に振る。軽く頬を2,3回叩いた。窓を開けて風を浴びる。空を見れば綺麗な青に白い雲がぼんやりと浮かんでいた。風に流されて雲が動く。しばらくその緩慢な動きをただ見ていた。
「エルサ様、おはようございます」
ぼんやりとしていたエルサの耳にそんな声が入る。エルサの返事を受けて中に入ってきたのはユリアを含む侍女3人だった。エルサは思わずユリアから視線を逸らす。
「おはようございます、エルサ様。お着替えお手伝いさせていただきます」
「本日もアンドリー王子が来られるんですよね。気合を入れてお綺麗にしますから!」
どこか楽しそうに言葉をかける侍女にエルサは微苦笑を浮かべることしかできなかった。
アンドリーが定期的にエルサの元を訪れ、お茶をしていくのは、数年前からの習慣である。婚約者の勤めの一つであり、たわいもない近況報告の場でもあった。そしてアンドリーとユリアが唯一会う場でもある。
「いつもと同じでいいわ」
「そういう訳にはまいりません」
そう応えるユリアは優しく笑う。再び胸の痛みを感じた。きちんと話さなくてはいけない。ユリアたちが自分を着飾っていくのを他人事のように感じながらエルサはそう思う。
『私はあなたたちの味方です』
エルサの顔に化粧を施すユリアを横目に心の中で伝える。
「…エルサ様、どうかされました?」
エルサの視線に気づいたユリアがそう問うた。エルサは首を横に振る。
「いいえ、何でもないわ」
「でも、…泣きそうな御顔をしています」
「……きっと、ユリアの気のせいよ」
そう言って笑った。自分ができる一番の笑顔で。そんなエルサにユリアは戸惑いを見せる。
「本当に大丈夫よ。…王子が来るから少し緊張しているのかもしれないわ」
「そう…ですか」
「ええ。それよりもうすぐ王子が来るわ。ここは他の人たちに任せて、ユリアは玄関でお出迎えしてくれる?」
「はい、かしこまりました」
そう言って頭を下げて部屋を出て行くユリアをエルサはただ見つめていた。
心地よい風が髪を靡かせる。テラスに座り、香りのいい紅茶を口に付けた。目の前では端正な顔が特に笑うことなく同じように紅茶に口をつけている。その顔に先ほどまでの表情と大違いだなとエルサは思った。
アンドリーの到着を告げられたエルサが玄関まで行くと、そこにはユリアと話しているアンドリーの姿があった。皆がいる前だ。きっと他愛無い会話をしているのだろう。けれどユリアを見るアンドリーの表情はどこか照れているようにも見えた。そんなアンドリーにエルサは息苦しさを感じた。
当たり前だ、そう思う。だって、好きな人と話しているのだから。嬉しくなるのは当たり前。もう少し、このままで。そう思っていた。けれど。
「アンドリー王子」
思わず声をかけていた。淑女が声をかけるには遠い距離。けれど、待ちきれずに声をかけた、そんな風に見えたようで、隣を歩く侍女たちはどこか嬉しそうに笑うだけだった。エルサに気づいたアンドリーが軽く右手をあげる。その様子に、アンドリーと話をしていたユリアが一歩後ろに下がった。せっかくの逢瀬を邪魔する格好になる。そんな自分に嫌気がさした。
「おはよう、エルサ」
「おはようございます」
「今日はお土産にチーズケーキを持ってきたよ」
「え?」
「好きなんだろう?…レノに、…聞いてね」
「…ありがとうございます」
「あ、ユリアさん」
「はい、何でございましょう」
アンドリーが後ろを向いてユリアを見る。手に持っていた白い箱をユリアに渡した。
「チーズケーキをホールで買ってきたんです。切って持ってきてくれますか?大きいケーキを買ってきたから、残りはみなさんで食べてください」
「宜しいんですか?」
「ええ。評判のケーキらしいので、おいしいと思いますよ」
そう笑うアンドリーに、ユリアも嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「いえ。あと、それに合う紅茶もお願いできますか?」
「もちろんです。テラスにお持ちいたしますね」
「そうですね。こんなに気持ちがいい天気だからテラスをお借りするのがいいですね」
そうユリアに頷いて答えると、アンドリーはエルサを連れてテラスへ出た。
アンドリーはずっと前からエルサの婚約者である。だからこそ、何度もハスラー家に訪れており、自分の家のように勝手がわかっていた。持ってきたおやつを切り分けるのも、紅茶を持ってくるのも大体はユリアの仕事で、アンドリーがユリアに頼むこともよくある光景の一つではある。交わす会話もやりとりもいつもと同じだった。けれど、今日は特別なものに見えてしまった。息を小さく吐き、感情を整える。
おいしそうなチーズケーキと香りのいい紅茶がテーブルに並んだ。「あとは若いお2人で」と言わんばかりに侍女たちが離れていく。護衛のレノは近くにいるだろうが、視界には入らないため、エルサにとってはアンドリーと2人の空間であった。
穏やかな空気だった。チーズケーキはしっとりとして味は濃厚。ユリアの選んださっぱりとした紅茶もこの濃厚なチーズケーキに合っていた。他愛無い会話。おいしい食べ物。そんな楽しいティータイムのはずだった。けれど、エルサの頭の中に、ユリアに笑いかけるアンドリーの顔が浮かんでは消えた。そっとフォークを置く。拳を握りしめて、アンドリーを見た。
「…王子、あの…お話があります」
「話?」
「あの、……わたくし、…王子のお気持ち、知っております」
「え?」
「あの…だから、…遠慮しなくていいですから」
早口で捲し立てるように言った。どんな言葉を使えばいいかわからず、言葉足らずになった感は否めない。アンドリーからは反応がなく沈黙が続く。伝わらなかったのではないか、そう思い言葉を足そうとした時だった。
「……どういう意味か分かって言ってる?」
先に沈黙を破ったのは、アンドリーだった。まっすぐ見抜くような視線がエルサに刺さる。けれどエルサは視線を逸らさず頷いた。
「…はい」
仮の妻となる。アンドリーが愛しているのはユリアで、自分は体裁を整えるためだけにいる存在。愛されることなどない存在だ。アンドリーが昨日のようにキスを送るなんてことはないだろう。それを耐えられるのか、そう聞かれているのだとエルサは思った。愛し合う2人を見ながら一緒の時を刻む。それはきっと苦しいことだ。ここ数日で感じた胸の痛みがそれを教えてくれる。
けれど、とエルサはアンドリーを見る。好きな人がいて、その人と結ばれないなんてとても悲しいことだと思う。好き合う2人なら一緒にいるべきだ。エルサは共犯者となると決めた。あの時はこんな風に苦しくなるなんて思わなかった。けれど、それでも、幸せになってほしいという気持ちに変わりはない。
エルサの右手はまた唇に伸びていた。そんな自分に気づき、エルサは口元を拭うふりをしてごまかす。この唇にもう何も触れないとしても、目の前のこの人に幸せになってほしいとエルサは心から思った。
「わかっている、つもりです」
もう一度確かめるようにそう告げた。
「そっか…。なんだか、あなたに言わせてばかりだね」
どこか頬を赤くしてそう言うアンドリー。そんなアンドリーにエルサは首を横に振った。
「あの、……いつから好きになられたのですか?」
「え?それ聞く?」
「…お嫌でなければ」
エルサの返答にアンドリーは人差し指で頬を掻いた。視線をさまよわせるが、観念したように小さく息を吐く。
「会っているうちに、いつの間にか、かな。話をすることは少なかったけれど、はにかむように笑う顔が可愛くて…いつの間にか、好きになって・・って。恥ずかしいものだね」
照れながらも両頬を持ち上げる様子に、好きなのだなと感じた。そして、そんな風に見てもらえるユリアが羨ましくて、エルサは思わず視線を逸らす。
2人が幸せでいてくれるならそれでいいと思っていた。いや、今も思っている。それなのにどうしてかエルサは泣きそうになった。
「エルサ?」
俯いたエルサを心配したようにアンドリーがエルサの名前を呼ぶ。そっと手が伸びてきてエルサの髪に触れた。
「どうかした?」
あやすように髪を撫でる。その心地よさに思わず唇を噛む。
「いえ、……何でもありません」
「本当に?」
「ええ、もちろん」
「…それなら、…いいけど」
どこか疑うようなアンドリーに、話題を変えなくてはと思考を巡らす。エルサは視界に入ったケーキを指さした。
「そ、それにしてもこのケーキおいしいですね」
「え?…ああ、そうだね」
「王子もケーキが好きなんですか?」
「いや、…レノが…教えてくれてね」
「レノが?」
「…そう。レノが、ね」
「レノ」を強調するアンドリーに首を傾げながらもエルサはさらに言葉を続ける。
「レノからチーズケーキが好きだって聞きましたけど、本当に好きなんですね。わたくしもチーズケーキが好きなのですが、この味は初めてです」
「……」
「他のお店も知っているなら紹介してもらいたいですわ」
「……そう」
「…王子?」
「チーズケーキの話ばかりされてもつまらないんだけど」
ワントーンの低い声でアンドリーがそう言った。先ほどまで浮かんでいた笑みが消えている。
「も、申し訳ありません」
「…別に、いいけど」
どこか不満げな声色にエルサはどうすることもできなくてただ機械的にケーキを口に運んだ。あんなにおいしく感じていたそれが、味気をなくす。泣きそうになって、けれど泣いてはいけないと唇を噛む。
「紅茶のおかわりはいかがですか?」
ふと声がかけられた。顔を上げればユリアが立っている。そんなユリアにアンドリーは困ったように苦笑を浮かべた。
「もしかして見ていましたか?」
「少しだけ」
そう言って微笑むユリアにアンドリーは困ったように髪を掻いた。
「……煩わせてすみません。えっと…一杯もらってもいいですか?」
「ええ、もちろんです。エルサ様にもお注ぎしますね」
「…ありがとう」
「そうだ、エルサ様。今、庭のバラの花が満開ですよね。庭師たちも腕によりをかけておりますし、アンドリー王子を庭に案内されてはいかがでしょうか?」
「え?…あ、そうね。…王子、どうでしょうか?」
「それは見てみたいな」
そう言ってアンドリーが笑う。先ほどまで纏っていた鋭い空気はなくなっていた。ほっと息をつく。けれど、視線を交わすアンドリーとユリアに苦しくなった。
「……それではご案内します」
そう言って立ち上がる。椅子が引かれるのを待たないなど、淑女としてあるまじき行為だった。けれど、一刻も早くこの場を離れたかった。
「これはすごい」
庭に案内するとアンドリーが感嘆のこもった声を出す。そんな様子にエルサは安心して息を吐いた。
「気に入っていただけましたか?」
「もちろん」
庭を見渡すアンドリーに倣うようにエルサも庭を見た。赤に白にピンク。色々な色のバラが、所狭しと咲いている。その庭はバスラー家の自慢の一つでもあった。アンドリーにつられるようにエルサも笑みを浮かべる。そんなエルサにアンドリーがそっと右手を伸ばした。
「…お、王子?」
「赤くなってる。…俺が意地悪したせいだね、ごめん」
「え?」
伸びてきたアンドリーの指がいたわるようにエルサの下唇に触れる。3日前の光景を思い出し、思わずエルサは後ろに一歩引いた。そんなエルサの反応にアンドリーは小さく笑う。おまけのように2度、ポンポンと頭を撫でて再び視線を庭に移した。
そんなアンドリーにエルサは頬を赤く染めた。バラのいい匂いが庭中に満ちていた。吹く風は心地よく、陽射しは暖かい。
「…エ、エルサ?どうした?」
「え?」
目の前でアンドリーが慌てていた。珍しく動揺しているその姿に首を傾げる。何事かと思っていたら、視界がよく見えないことに気が付いた。涙が頬を伝った。泣いている。ようやく自分の状況を理解した。
「嫌…だった?」
アンドリーの手がエルサの頬に伸び、流れる涙をそっと拭う。そんなアンドリーにエルサは首を横に振った。嫌だなんて思ったことはない。唇に触れる手も、頭を撫でる手も、3日前のキスでさえ、エルサは嬉しかった。
『王子が好き』
ずっと燻っていた自分の感情。名前を付けたくなかったそれは、いつからか自分の心の真ん中にいた。
「…王子は悪くありません」
これ以上は無理だと思った。アンドリーの笑みを隣で見ることが幸せだと気づいてしまったのだ。アンドリーが自分以外を好きなことに耐えられそうもない。涙を堪えることなく、エルサはアンドリーを見つめた。
「わたくし、王子と結婚できません」
夜会から3日が経っていた。それなのに、夜会の最後の光景が鮮明に蘇ってくる。自然と唇に手が伸びるのが、癖になりつつあった。
ずっと、アンドリーの気持ちを考えていた。どうして自分に口づけしたのかと。考えて、考えて、思い出した。エルサはアンドリーに自分の計画を話していなかったことに。エルサはアンドリーの共犯者だ。少なくともエルサはそのつもりでいる。けれど、それをアンドリーは知らない。だとしたら、アンドリーは本気でエルサと結婚するつもりなのかもしれない。自分の気持ちを押し殺して、どうにかエルサを好きになろうとしているのではないか。自分の思考の矛盾を感じながらも、そう考えたら、そうとしか思えなくなった。
「だからって、キスしなくても…」
思わず独り言がため息とともに口から出る。再び右手が唇に伸びた。一瞬であったが、触れた柔らかい感触を思い出す。思い出して、体温が上がるのを感じた。これ以上は耐えられなくて、慌ててベッドから出る。
「王子が好きなのはユリア」
自分に言い聞かせるようにそう呟く。胸の奥に痛みを感じた。それを払拭するように首を左右に振る。軽く頬を2,3回叩いた。窓を開けて風を浴びる。空を見れば綺麗な青に白い雲がぼんやりと浮かんでいた。風に流されて雲が動く。しばらくその緩慢な動きをただ見ていた。
「エルサ様、おはようございます」
ぼんやりとしていたエルサの耳にそんな声が入る。エルサの返事を受けて中に入ってきたのはユリアを含む侍女3人だった。エルサは思わずユリアから視線を逸らす。
「おはようございます、エルサ様。お着替えお手伝いさせていただきます」
「本日もアンドリー王子が来られるんですよね。気合を入れてお綺麗にしますから!」
どこか楽しそうに言葉をかける侍女にエルサは微苦笑を浮かべることしかできなかった。
アンドリーが定期的にエルサの元を訪れ、お茶をしていくのは、数年前からの習慣である。婚約者の勤めの一つであり、たわいもない近況報告の場でもあった。そしてアンドリーとユリアが唯一会う場でもある。
「いつもと同じでいいわ」
「そういう訳にはまいりません」
そう応えるユリアは優しく笑う。再び胸の痛みを感じた。きちんと話さなくてはいけない。ユリアたちが自分を着飾っていくのを他人事のように感じながらエルサはそう思う。
『私はあなたたちの味方です』
エルサの顔に化粧を施すユリアを横目に心の中で伝える。
「…エルサ様、どうかされました?」
エルサの視線に気づいたユリアがそう問うた。エルサは首を横に振る。
「いいえ、何でもないわ」
「でも、…泣きそうな御顔をしています」
「……きっと、ユリアの気のせいよ」
そう言って笑った。自分ができる一番の笑顔で。そんなエルサにユリアは戸惑いを見せる。
「本当に大丈夫よ。…王子が来るから少し緊張しているのかもしれないわ」
「そう…ですか」
「ええ。それよりもうすぐ王子が来るわ。ここは他の人たちに任せて、ユリアは玄関でお出迎えしてくれる?」
「はい、かしこまりました」
そう言って頭を下げて部屋を出て行くユリアをエルサはただ見つめていた。
心地よい風が髪を靡かせる。テラスに座り、香りのいい紅茶を口に付けた。目の前では端正な顔が特に笑うことなく同じように紅茶に口をつけている。その顔に先ほどまでの表情と大違いだなとエルサは思った。
アンドリーの到着を告げられたエルサが玄関まで行くと、そこにはユリアと話しているアンドリーの姿があった。皆がいる前だ。きっと他愛無い会話をしているのだろう。けれどユリアを見るアンドリーの表情はどこか照れているようにも見えた。そんなアンドリーにエルサは息苦しさを感じた。
当たり前だ、そう思う。だって、好きな人と話しているのだから。嬉しくなるのは当たり前。もう少し、このままで。そう思っていた。けれど。
「アンドリー王子」
思わず声をかけていた。淑女が声をかけるには遠い距離。けれど、待ちきれずに声をかけた、そんな風に見えたようで、隣を歩く侍女たちはどこか嬉しそうに笑うだけだった。エルサに気づいたアンドリーが軽く右手をあげる。その様子に、アンドリーと話をしていたユリアが一歩後ろに下がった。せっかくの逢瀬を邪魔する格好になる。そんな自分に嫌気がさした。
「おはよう、エルサ」
「おはようございます」
「今日はお土産にチーズケーキを持ってきたよ」
「え?」
「好きなんだろう?…レノに、…聞いてね」
「…ありがとうございます」
「あ、ユリアさん」
「はい、何でございましょう」
アンドリーが後ろを向いてユリアを見る。手に持っていた白い箱をユリアに渡した。
「チーズケーキをホールで買ってきたんです。切って持ってきてくれますか?大きいケーキを買ってきたから、残りはみなさんで食べてください」
「宜しいんですか?」
「ええ。評判のケーキらしいので、おいしいと思いますよ」
そう笑うアンドリーに、ユリアも嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「いえ。あと、それに合う紅茶もお願いできますか?」
「もちろんです。テラスにお持ちいたしますね」
「そうですね。こんなに気持ちがいい天気だからテラスをお借りするのがいいですね」
そうユリアに頷いて答えると、アンドリーはエルサを連れてテラスへ出た。
アンドリーはずっと前からエルサの婚約者である。だからこそ、何度もハスラー家に訪れており、自分の家のように勝手がわかっていた。持ってきたおやつを切り分けるのも、紅茶を持ってくるのも大体はユリアの仕事で、アンドリーがユリアに頼むこともよくある光景の一つではある。交わす会話もやりとりもいつもと同じだった。けれど、今日は特別なものに見えてしまった。息を小さく吐き、感情を整える。
おいしそうなチーズケーキと香りのいい紅茶がテーブルに並んだ。「あとは若いお2人で」と言わんばかりに侍女たちが離れていく。護衛のレノは近くにいるだろうが、視界には入らないため、エルサにとってはアンドリーと2人の空間であった。
穏やかな空気だった。チーズケーキはしっとりとして味は濃厚。ユリアの選んださっぱりとした紅茶もこの濃厚なチーズケーキに合っていた。他愛無い会話。おいしい食べ物。そんな楽しいティータイムのはずだった。けれど、エルサの頭の中に、ユリアに笑いかけるアンドリーの顔が浮かんでは消えた。そっとフォークを置く。拳を握りしめて、アンドリーを見た。
「…王子、あの…お話があります」
「話?」
「あの、……わたくし、…王子のお気持ち、知っております」
「え?」
「あの…だから、…遠慮しなくていいですから」
早口で捲し立てるように言った。どんな言葉を使えばいいかわからず、言葉足らずになった感は否めない。アンドリーからは反応がなく沈黙が続く。伝わらなかったのではないか、そう思い言葉を足そうとした時だった。
「……どういう意味か分かって言ってる?」
先に沈黙を破ったのは、アンドリーだった。まっすぐ見抜くような視線がエルサに刺さる。けれどエルサは視線を逸らさず頷いた。
「…はい」
仮の妻となる。アンドリーが愛しているのはユリアで、自分は体裁を整えるためだけにいる存在。愛されることなどない存在だ。アンドリーが昨日のようにキスを送るなんてことはないだろう。それを耐えられるのか、そう聞かれているのだとエルサは思った。愛し合う2人を見ながら一緒の時を刻む。それはきっと苦しいことだ。ここ数日で感じた胸の痛みがそれを教えてくれる。
けれど、とエルサはアンドリーを見る。好きな人がいて、その人と結ばれないなんてとても悲しいことだと思う。好き合う2人なら一緒にいるべきだ。エルサは共犯者となると決めた。あの時はこんな風に苦しくなるなんて思わなかった。けれど、それでも、幸せになってほしいという気持ちに変わりはない。
エルサの右手はまた唇に伸びていた。そんな自分に気づき、エルサは口元を拭うふりをしてごまかす。この唇にもう何も触れないとしても、目の前のこの人に幸せになってほしいとエルサは心から思った。
「わかっている、つもりです」
もう一度確かめるようにそう告げた。
「そっか…。なんだか、あなたに言わせてばかりだね」
どこか頬を赤くしてそう言うアンドリー。そんなアンドリーにエルサは首を横に振った。
「あの、……いつから好きになられたのですか?」
「え?それ聞く?」
「…お嫌でなければ」
エルサの返答にアンドリーは人差し指で頬を掻いた。視線をさまよわせるが、観念したように小さく息を吐く。
「会っているうちに、いつの間にか、かな。話をすることは少なかったけれど、はにかむように笑う顔が可愛くて…いつの間にか、好きになって・・って。恥ずかしいものだね」
照れながらも両頬を持ち上げる様子に、好きなのだなと感じた。そして、そんな風に見てもらえるユリアが羨ましくて、エルサは思わず視線を逸らす。
2人が幸せでいてくれるならそれでいいと思っていた。いや、今も思っている。それなのにどうしてかエルサは泣きそうになった。
「エルサ?」
俯いたエルサを心配したようにアンドリーがエルサの名前を呼ぶ。そっと手が伸びてきてエルサの髪に触れた。
「どうかした?」
あやすように髪を撫でる。その心地よさに思わず唇を噛む。
「いえ、……何でもありません」
「本当に?」
「ええ、もちろん」
「…それなら、…いいけど」
どこか疑うようなアンドリーに、話題を変えなくてはと思考を巡らす。エルサは視界に入ったケーキを指さした。
「そ、それにしてもこのケーキおいしいですね」
「え?…ああ、そうだね」
「王子もケーキが好きなんですか?」
「いや、…レノが…教えてくれてね」
「レノが?」
「…そう。レノが、ね」
「レノ」を強調するアンドリーに首を傾げながらもエルサはさらに言葉を続ける。
「レノからチーズケーキが好きだって聞きましたけど、本当に好きなんですね。わたくしもチーズケーキが好きなのですが、この味は初めてです」
「……」
「他のお店も知っているなら紹介してもらいたいですわ」
「……そう」
「…王子?」
「チーズケーキの話ばかりされてもつまらないんだけど」
ワントーンの低い声でアンドリーがそう言った。先ほどまで浮かんでいた笑みが消えている。
「も、申し訳ありません」
「…別に、いいけど」
どこか不満げな声色にエルサはどうすることもできなくてただ機械的にケーキを口に運んだ。あんなにおいしく感じていたそれが、味気をなくす。泣きそうになって、けれど泣いてはいけないと唇を噛む。
「紅茶のおかわりはいかがですか?」
ふと声がかけられた。顔を上げればユリアが立っている。そんなユリアにアンドリーは困ったように苦笑を浮かべた。
「もしかして見ていましたか?」
「少しだけ」
そう言って微笑むユリアにアンドリーは困ったように髪を掻いた。
「……煩わせてすみません。えっと…一杯もらってもいいですか?」
「ええ、もちろんです。エルサ様にもお注ぎしますね」
「…ありがとう」
「そうだ、エルサ様。今、庭のバラの花が満開ですよね。庭師たちも腕によりをかけておりますし、アンドリー王子を庭に案内されてはいかがでしょうか?」
「え?…あ、そうね。…王子、どうでしょうか?」
「それは見てみたいな」
そう言ってアンドリーが笑う。先ほどまで纏っていた鋭い空気はなくなっていた。ほっと息をつく。けれど、視線を交わすアンドリーとユリアに苦しくなった。
「……それではご案内します」
そう言って立ち上がる。椅子が引かれるのを待たないなど、淑女としてあるまじき行為だった。けれど、一刻も早くこの場を離れたかった。
「これはすごい」
庭に案内するとアンドリーが感嘆のこもった声を出す。そんな様子にエルサは安心して息を吐いた。
「気に入っていただけましたか?」
「もちろん」
庭を見渡すアンドリーに倣うようにエルサも庭を見た。赤に白にピンク。色々な色のバラが、所狭しと咲いている。その庭はバスラー家の自慢の一つでもあった。アンドリーにつられるようにエルサも笑みを浮かべる。そんなエルサにアンドリーがそっと右手を伸ばした。
「…お、王子?」
「赤くなってる。…俺が意地悪したせいだね、ごめん」
「え?」
伸びてきたアンドリーの指がいたわるようにエルサの下唇に触れる。3日前の光景を思い出し、思わずエルサは後ろに一歩引いた。そんなエルサの反応にアンドリーは小さく笑う。おまけのように2度、ポンポンと頭を撫でて再び視線を庭に移した。
そんなアンドリーにエルサは頬を赤く染めた。バラのいい匂いが庭中に満ちていた。吹く風は心地よく、陽射しは暖かい。
「…エ、エルサ?どうした?」
「え?」
目の前でアンドリーが慌てていた。珍しく動揺しているその姿に首を傾げる。何事かと思っていたら、視界がよく見えないことに気が付いた。涙が頬を伝った。泣いている。ようやく自分の状況を理解した。
「嫌…だった?」
アンドリーの手がエルサの頬に伸び、流れる涙をそっと拭う。そんなアンドリーにエルサは首を横に振った。嫌だなんて思ったことはない。唇に触れる手も、頭を撫でる手も、3日前のキスでさえ、エルサは嬉しかった。
『王子が好き』
ずっと燻っていた自分の感情。名前を付けたくなかったそれは、いつからか自分の心の真ん中にいた。
「…王子は悪くありません」
これ以上は無理だと思った。アンドリーの笑みを隣で見ることが幸せだと気づいてしまったのだ。アンドリーが自分以外を好きなことに耐えられそうもない。涙を堪えることなく、エルサはアンドリーを見つめた。
「わたくし、王子と結婚できません」
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