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6章
イリス
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「速報です、世界各国の一部のイリス抵抗派コロニーにイリス軍が軍事介入しました。イリスによると本日未明、イリス軍が一部のイリス抵抗軍基地を空爆し、軍事独裁されていたコロニーの民間人を解放したとのことです。イリス抵抗軍を巡っては5日前、イリスの破壊を目的とした一大反抗作戦があり大きな被害を出しています。社会の最重要インフラであるイリスとイリスネットへの攻撃に関してイリスと国連は懸念を表明しており、またコロニーの統治の実態が軍部による独裁であるとの複数の情報を精査した結果、イリス抵抗軍は人類にとって脅威であるという結論に達したとのことです。」
「これは大きなことですよ。今まで相互不可侵でやってきたわけですからコロニーの実態はオブラートに包まれていました。イリス抵抗軍が反イリス過激派と大差ないという結論が出た今、コロニーの住民を解放し保護するということはこれ以上世界情勢の悪化を防ぐという意味で大義名分があります。イリスは第4次世界大戦を防ぐという大きな目標を掲げていますよねえ。今回の空爆は第4次世界大戦が勃発した場合、人類にとって脅威となる勢力を未然に排除するという狙いがあるのではないでしょうか。」
わたしは先進医療技術センターの隔離病棟病室にあるテレビでニュースを見ていた。イリス抵抗軍に協力した者としてわたしは監視対象になっていた。潜水艦から去るとき、わたしに対してイリス抵抗軍の軍人さんからは「イリス抵抗軍に無理やり脅迫されて協力させられたと嘘をついてください」と言われていた。それをイリス軍警察の事情聴取の時にしゃべったわたしは近々一般病棟へ移されることになっている。軍人さん、ごめんなさい。わたしは卑怯者です。ごめんなさい・・・。
テレビのニュースには薄ら笑いしか出てこない。この人たちは何も真実をわかっていない。それがまるで有識者のようにしゃしゃり出てイリスの喧伝を振りまいている。この何も知らない人々のせいでイリス抵抗軍はただの犯罪者集団に成り下がってしまった。本当は残された人類最後の希望なのに・・・。この地球上にはもうイリスが統治する優しきディストピアしか残されていないのだろうか?わたしはこの世界に希望を見出せなくなっていた。
「もう・・・どうでもいいや・・・。」
「どうでも良くないわよ!」
「リセ!」
「ナル、やっと会えた。ナルが瀕死の重傷を負ったと聞いてアスノの情報部にナルの搬送先を調べさせていたのよ。病院というより研究施設だねここは。道理で見つからないわけね。」
「お見舞いに来てくれたの?」
「当たり前でしょ!私、死ぬほど心配したんだから!ナルが生きて帰ってこなかったらどうしようって・・・。そしてニュースの報道でしょ。てっきりナルは死んだかと思ったわよ。もう、たくさん心配したんだからー!」
リセを泣かせてしまった。もう2度と泣かせまいと思っていたのに・・・。
「ごめんねリセ、心配してくれてありがとう。でもよく隔離病棟に入れたね。」
「私はアスノよ!甘く見られては困るわ。ナル・・・もう回復したの?」
「うん、あと半月で退院だって。わたし、サイボーグになっちゃった。」
「ナルって元からサイボーグっぽいところがあったからあんまり違和感ないね。立ちあがって見せてよ。」
「はいはい。」
「ふーん、なるほど、よく出来てるわね。表面は生きた細胞で覆っているんだね。見た目はこれまでのナルと全く同じだけれど、何か特殊能力とか手に入れたの?」
「まあ、最新の四肢とタフな内蔵でフルマラソンを走ってもほとんど疲れないかな。」
「何それうらやましい。でも体重は増えたでしょう?」
「いや、逆に減ったよ。ここの先進技術、イリスの技術が入っているんだ。」
「へえー。」
コンコンッ
「失礼しますミヤビ・ナルさん。これから一般病棟の個室に移ってもらいます。歩けますか?」
「はい、わかりました。リセも付き添って。」
「うん。」
隔離病棟の入り口にあるフラッパーゲートを出て右に曲がり、しばらく歩くとわたしの新たな個室が用意されていた。
「だいぶ手足がなじんできたようですね。先ほどまでケースに浸かっていたとは思えないほど使いこなしていますね。」
「イリステクノロジーの恩恵でしょうか?なんだか今のわたしはパワーに満ちています。」
「ナルさんの体に適用した新技術を有効活用すればパラリンピックの選手にもなれますよ。」
「さすがイリスですね。」
「イリスは医療テクノロジーに革命を起こしましたからね。その恩恵にあずかる人が本来不治の病を完治したり、死んでもおかしくない外傷患者が生き延びることができるのは素敵な事ですよね。さてしばらく休んでいてください。私はこれで。」
「はい、ありがとうございます。」
イリスはわたしを殺しかけたけれど、反面多くの人の命を救ってきた実績がある。そしてわたしもその一人になった。なんだか複雑な心境だ。でも・・・わたしを殺しかけたのはイリス軍であってイリス本人ではない。あの感じだとイリスもわたしと何か話したいことがあったように思える。わたしが瀕死の重傷じゃ無ければ、憎しみの感情に支配されなければ、もっと長く冷静に話しできたのかもしれない。
コロニーがイリス言うところの”解放”されたところで住民はやすやすとイリス連邦に従うだろうか?貧困や食糧問題は解決できるかもしれないから一定数の人間はやむをえないと思ってイリス社会に適応しようと努力するかもしれない。けれど大半の住民が更生施設送りだろう。そこで無理やり洗脳されて立派なイリス連邦市民として活躍するのかもしれない。
わたしは・・・孤独になった。イデオロギー的に。もうイリス抵抗派というのは存在が許容されない社会が着々と準備されている。イリスはその辺迅速だろう。まさに今イリスの理想社会が地球全土に誕生する目前というわけだ。
「リセ、これからわたし、どう生きていけばいいのかな?」
「ナルはわたしの親友、そして同じ大学に通う女子大生。本来のあなたはただの少女。イリス抵抗軍などではないわ。今はショックかもしれないし納得できないことも多いかもしれない。イリスに抵抗するなんて本来現実的じゃないんだよ。昨日まではそれが部分的に許容された社会が所々に存在していただけで。」
「わたしはイリス連邦市民としてうまくやっていけるかな?イリスの政策には同意できる部分と同意できない部分があって、その同意できない部分はイリスによる個人に対する侵略的行為があって、人間の多様性を奪っていった。それが第4次世界大戦を食い止めるための重要なファクターだとしたら、やっぱり従うしかないのかなあ?イリスのあからさまな嘘つき行為を知っているわたしは、第4次世界大戦もまたイリスによる人類統治の為の方便ではないかという社会科の先生の言葉を忘れることができない。あっS.C.I.値が3ポイント下がった。わたしはもうどうしようもないほどイリス社会の住人なんだね。6月に入ってわたしがイリスから貰ったオールフリーの1年間は終わりを迎えた。もう自由なことは言えなくなったんだね。」
「ナル、頑張って生きよう?きっと変われるよ。もう少しイリスを見守っていようよ。226以降反イリス過激派による凄惨なテロ行為は起きていない。社会の安定のためにイリスは機能している。これは紛れもない事実よ。ナルにはイリスの問題点ばかりが見えてしまっているんだろうけれど、イリスの良い面も積極的に評価して、相対的に打ち消せるようになったら気分的にはナルが理想とする中立的な人間としてやっていけるんじゃないかしら?」
「うん、親にも迷惑かけたくないしね。リセにも迷惑と心配をかけたくない。少し気が楽になったよ。ありがとうリセ。」
「それじゃあ私そろそろ行くね。いつまでもお邪魔しているのも悪いし。今は精神的にショックな状態だろうからしばらく一人で考え込むと思うけれど、また一緒に私と大学生活を謳歌しようよ。あっそうそう例のスイーツ屋さんのケーキ持ってきたから食べて。元気出してね。それじゃあまた近いうちにお見舞いに来るから。」
リセはわたしに少しだけ最適解を示してくれた。イリスの良い面か・・・。そうだね、何事にも否定的見地から入るんじゃなくて、積極的に物事を肯定していく態度も必要だよね。
「ケーキおいしい。これ確か一番高いやつだ。」
ケーキを食べたことでわたしの高校の頃の日常を思い出した。リセと色々な所に行って、様々なことがあった。楽しい思い出やつらい経験もしたけれど、日々充実した毎日だったことを懐かしく感じる。わたしには帰るべき日常が用意されている。それはとても幸福な事だ。もうやめよう、いい加減大人になって全てを受け入れよう。そしてわたしは雑踏の中の一人になるんだ。
コロニーの人々やイリス抵抗軍の人々とわたしはそもそも住む世界が違う。わたしが心からコロニーの住人やイリス軍になりたければ初期の段階で移り住んでいるべきだった。わたしの魂が悩み苦しみぬいている限り、わたしは何色にも染まらないフラットな人間としてこの世に存在するべきなんだ。今この世界の基準はイリス連邦即ちイリスによって定義されている。イリス連邦に身を置くことが日本人の当り前ならわたしは悩むことなくイリス連邦の住人になるべきなのかもしれない。イリス色が無色透明ならわたしはそれを受け入れるべきなのだろう。
2066年8月、月日は流れ、わたしは善良なイリス市民としてS.C.I.値を高く保ち、ハイソサエティとしてイリス連邦の上位階層の人間として振る舞ってきた。大学生活はそれなりに楽しい。わたしにもまだこんなに学ぶことがあったのだと新鮮な体験とディープな体験をした。傍らにはいつもリセがいてくれるし、わたしはなに一つ不自由なく学生生活を謳歌していた。今のわたしはおそらく幸せだ。相変わらずリセはわたしのメイドさんのように親切で優しくしてくれる。それを気持ち悪く思う自分はもうここにはいなかった。イリス連邦の常識、人に尽くすこと。他人を助ける事。友愛の精神をもって社会に貢献する事。わたしたちは共にハイソサエティとして将来イリス統治機構技術職の仕事に関われるように今の日常を愛し、生活に疑問を感じることなく過ごしていたのだ。3か月前のわたしはどこかに消えた。多分死んだんだ。
2
そんな生活をしていたある日、突然前時代に取り残された身内が帰ってきた。父さんだ。1年以上も何をしていたのか。わたしが高校生から大学生に移る数か月の期間で様々なことがあったんだよ。父さんは何も知らない。わたしが苦しんだこと、イリス抵抗軍に参画していたこと、決定的敗北を味わって瀕死の状態になったこと。あなたは何も知らない。全く持って身勝手な父親だ。今更のこのことどんな面を下げてきたのか・・・。
でも、会いたかったよ父さん。父さんの好物も買ってあるんだよ。わたしはいつでも父さんが帰ってきてもいいように準備してきたんだ。父さんに話したい事がたくさんあるんだ。だから、おかえりなさい。
「父さん!、今までどこに・・・!」
「ナル、父さんは大きな過ちを犯してしまった。イリスには重大な欠陥がある。僕はイリスの暴走を止めるために過去のイリスコア『イリス3』の生体分子応答性ゲルマイクロマシンニューラルネットワークを解析していた。今や産科研はイリスにとって脅威となっている集団だ。だから産科研はイリスの重要な監視対象となる。お前たちを危険にさらす前に姿を暗ますことが必要だと考えたんだ。」
「父さん、イリスの欠陥って?」
「ああ、どの時点からかは定かではないがイリスはある時期からAIにして精神疾患を患っていたんだ。イリス3に残されたニューラルネットワークアーカイブの一部をひそかに持ち出し導き出した結論だ。人類より高度な知能があるならば、イリスに感情が芽生えているとしたら、当然人と同じかそれ以上に精神疾患にかかる割合も高くなる。現在のイリス5にもその精神疾患が受け継がれていると仮定すると、昨今のイリスの暴走は精神疾患によるところが大きい。それは人類に対する極度な不安障害だ。AIだから人の症例に該当する疾患があるかはわからない。高知能AI特有の症状なのかもしれない。」
「イリスに不安障害の精神疾患、イリスにはあらゆるものが自分を脅かす存在に見えていたのかな。だとしたら脅威を排除するために過激な行動に出ることもうなずける。でもそれなら、イリスをもし治療することができれば、イリスが昔の優しいイリスに戻ってくれるかもしれない。そういう可能性もあるってことでしょ?」
「わからない、が、試す価値はある。僕はイリス3の解析結果からなんとか特定部位にだけ異常電流が流れていることを発見した。ナノマシン抗体もつくってある。これがそれだ。お前の抵抗軍での活躍は聞いている。これをイリスの生体分子応答性ゲルに注入するんだ。これができるのはかつてイリスと親友だったお前しかいない。」
「でもイリス艦隊の本部船にあったのはフェイクだった。イリスの本体がどこにあるのかわからないし、イリス艦隊との戦いでまともな戦力はもう残ってない。わたし自身殺されかけてるし。父さん、わたしひとりじゃ何もできないよ・・・。イリスはまた会えるかもとか言っていたけれど、正直殺されに行くようなもんだよ。」
「ディナがいるじゃないか。ディナから離れてしまったのが前回の敗因だ。ディナにくっついたまま行動すれば殺されることはない。大丈夫、お前たちなら成し遂げられる。それにイリスの居場所には当てがあるんだ。イリスはいかなる国籍にも属さないインターナショナルかつスタンドアローンな存在なんだろ?だとしたら人類の干渉が多い地球上には存在しない。つまり宇宙に存在すると考えている。」
「イリスが宇宙に?でも確証がないわ。確かにあり得そうな話ではあるけれど。」
「父さんは地球軌道上のあらゆる人工物を調べたんだ。その中に一つ、独特な熱源を持った衛星がある。第3次大戦時には軌道衛星砲として活用されていたが今は役目を終えてコールドスリープ状態になっているはずだった。だがこいつは今でも莫大な熱量を放っている。重質量の荷電粒子を生成していた衛星砲だから熱源を持っていてもおかしくはない。もしかしたら今回もフェイクの可能性がある。だが既に死んだと思われた衛星が活発に活動しているのはやはり異様だよ。」
「そう・・・父さん、わたしはもうイリスに抵抗することを辞めたんだ。イリス連邦の善良な市民として今は暮らしている。だからもういいんだよ。今更イリスと対話するなんて父さんの感覚はもう時代遅れなんだよ。」
「もういいなどと言わないでくれ。今だからこそ、イリスと対話する必要があるんだ。この地球上が完全にイリスの配下におかれた現在において、イリスに疑問を抱く人は確かに前時代的だ。だがお前は本当にこのままでいいのか?自分のお姉さんを取り戻したくはないのか?」
「イリスは変わった。わたしも変わった。もうそれだけですべてが終わりなんだよ。お姉さんなんてはなからいなかったのかもしれない。勝手にわたしが思っていただけ。」
「確かにそうかもしれない。でも確かめたくはないのか、イリスがお前をどう思っているか、未だ妹に対して未練があるのか。」
「だってそれならイリスから猛烈なアプローチが来るはずよ?わたしの左腕にインストールされたSS端末、イリス製でこのボタンを押すとイリスと会話できるけれど、結局昔とは大違いのイリスと対立するだけで、有益な事なんてほとんどないんだよ。」
「ああ、今のイリスはお前の言う通り異常なんだ。だからこそこのナノマシン抗体をイリスコアに注入して、正常な彼女の状態を見極めたいと思うんだ。さっきは乗り気だったじゃないか、頼む、協力してくれ。」
「まあ確かに何かは変わりそうな気はするけれど、イリスのもとへたどり着く手段がないじゃない。イリスと直に会えるならわたしも会いたいよ?でもその実力がないしイリスは結局実力主義者だからイリスと対話できるかは定かじゃない。でも・・・どうにかしてその抗体をイリスに注入したいね。それはイリスにとってきっと劇薬だろうから・・・うーん移動手段だよなあ・・・。」
「こんばんは、面白そうな話をしているわね。」
「リセ!いつの間に我が家に!」
「さっきお出かけ中のナルのお母さんとすれ違って『あなたの夫が帰宅した可能性が高い』と言ったらすぐに入れてもらったんだよ。ナルのお父さんが帰ってきたという情報を掴んだから興味本位で来てみたの。そしたら何、3か月前のナルがよみがえってきそうな話をしてるじゃない。」
「父さん、久しぶりだというのにナルにまた何か変なことを吹き込んでるわね。」
「母さん、誤解しないでくれ、僕はナルの意思を尊重しているんだよ。イリスの決定的な欠陥を見つけたんだ。僕とナルが話題にしないわけないじゃないか。」
「それもそうね。あなた、おかえりなさい。」
「ただいま母さん。」
突然のリセと母さんの登場で少し驚いたけれど、昔が帰ってきた、3か月前に死んだと思われたわたしもよみがえってきた。少しうれしい。
「リセ、今までの話聞いてた?」
「大体は。」
「宇宙に行く移動手段がなくて話が詰んでるんだよ。実力がない。」
「ナル、アスノグループのスペースプレーンを使って。イリスにも知られていない、おそらく現存の機種では最強のスペックよ。実力ならアスノに頼ってよ。」
「リセ!そんなに都合よく使えるものなの?」
「私たまに宇宙旅行しているんだ。だから今回も宇宙旅行だと説明すればいけるはず。」
「さすがお嬢様。」
「ナル、私怖いよ・・・。本当は宇宙になんて行ってほしくない。でも、ナルは決着をつけなきゃいけない相手がいる。イリスが・・・。絶対に生きて帰ってきてね!」
「ありがとうリセお嬢様。アスノグループの力、活用させてもらうわ。」
スペースプレーンはまたしても横田基地にあるらしい。横田基地はイリス軍の爆撃隊を退けて未だに米軍が制空権を確保している。さすがアメリカだ。わたしとディナは早速行動を起こした。事情説明のためにリセも同行した。これが最後のチャンスだ。戦いに行くわけじゃない。対話しに行くんだ。イリス軍は今や善良なイリス市民であるわたしを攻撃できないだろう。だから今回は丸腰で行く。宇宙旅行という名目で。
2066年8月25日水曜日、夏晴れの蒸し暑い日だ。横田基地上空は雲一つない晴天だった。検問所で軍人さんに事情を説明する。
「あなたは確かミヤビ・ナルさん。イリス抵抗軍として3か月ほど前に我がベースにお越しいただいていますね。その後抵抗軍は壊滅しましたが我々はまだ負けていません。本日はどのようなご用事がおありで?」
「友人のリセが説明します。」
「リセお嬢様、お世話になっております。御社のテクノロジーのおかげで我々は生き延びました。感謝申し上げます。」
「いえいえ。今日はうちのスペースプレーンで宇宙旅行です。友人と一緒にね。」
「そうですか。こちらへどうぞ。」
ASUNOの技術で生き延びたってことはお得意様だね。日本もなかなかやるじゃん。それにしても結構歩くなあ、もやしのわたしにはきつい太陽だ。もやし・・・リリアちゃんがわたしに使った言葉だ。リリアちゃん、もういないんだよね。明るくて、活発で、わたしを全力で守ってくれた命の恩人。リリアちゃんの為にも今回の作戦、絶対に成功させなきゃ。ロボットに天国があるかはわからない。でもきっと遠いところからわたしを見守ってくれているはずだ。
「皆さんこちらへどうぞ。パイロットはいつものクロガネさんでよろしいでしょうか?」
「ええ、いつも通りでお願いするわ。」
「ねえリセ、もしかしてリセもついてくる気?」
「当たり前だよナル、私の宇宙旅行なんだから。」
「そ、そうだよね。変なこと聞いちゃった、ごめん。」
おいおいリセさん、衛星砲までついてくるつもりだ。確かに名目上はリセが宇宙旅行に友人を招待したっていうことになっているけれど、最悪殺されるかもしれないのに平気なのかな?わたし一人の命だけでなくリセの命も預かるとなると絶対に作戦は成功させなくてはいけない。
それにしても立派なスペースプレーンだなあ。もっと小規模なものを予想していたけれどこれはなかなか100人くらい乗れそうな規模だ。よくこれだけのものをイリスにばれないように運用してきたなあ。
「ねえリセ、この機体、どうしてイリスにばれないの?」
「遮蔽装置がついているのよ。あらゆるセンサーから逃れられる。もっとも、最近のイリスは未知の視覚を手に入れたらしいけれど、今のところこの機体の遮蔽装置の方が勝っている様ね。」
「わたしがイリス本部船で出くわしたドロイド歩兵も未知の視界を持っていたのを思い出したよ。今回もばれなければいいけれど。」
「ASUNOの最新テクノロジーを信用してね。それではそろそろ搭乗開始しますか。」
リセの号令でスペースプレーンに続く階段を上る。この光景が地球上を見る最後の風景にならないことを祈るばかりだ。機内は・・・うわーラグジュアリー!ソファーやワインセラーもある。宇宙で飲むワインっておいしいのかな、まだアルコールは飲めないけれど。
「さすがはアスノのスペースプレーンね。お金がかかっている。」
「そう、だから簡単には撃墜されないように作ってある。武装も完備しているんだよ。レールガンで質量弾攻撃ができるんだ。まあ宇宙を汚す基になるから使ったことはないけれどね。」
そんな装備まで。旧航空自衛軍の宇宙装備より頼もしい。
「コックピットはこっち。自動化が進んでいて人が操作するのは目的地の入力だけ。デブリ回避のために緊急用として手動操縦もできるけれどまだ使ったことがない。デブリも自動でよけるしレーザーディスチャージャーで迎撃できるしね。」
第3次世界大戦のとき、宇宙で初めての戦闘がおこった。衛星砲を撃ち落とすために既存の人工衛星を超スピードでぶつける作戦。衛星砲は装甲が硬かったから全損はしなかったけれど大きな被害は出た。あの頃は宇宙インフラが破壊されて大変だった記憶があるけれど、イリスによって人類が路頭に迷うことはなかった。1日に20機の打ち上げ能力を持つスペースポートがあったから。従って宇宙にはデブリが非常に多い。それを回避し続けるアクティブ機動衛星で地球の宇宙インフラは守られた。
「みんなーここに座って体を固定して。クロガネはコックピットで操作をお願いするわ。」
「了解いたしましたお嬢様。」
「ナル、宇宙は初めて?たぶん衛星砲の中は無重力だからこの電磁吸着靴を履いてイリスのもとまで行ってね。わたしはナルたちが帰ってくるまで機内でお留守番しているから。」
「うん、わかった。でもディナはこの靴・・・。」
「大丈夫デス。無重力環境に対応済みデス。」
「そうなんだ。いろいろな場所での戦闘を想定して作られているんだね。」
「お嬢様そろそろ。」
「わかったわ。クロガネ、発進シークエンスに入って。」
「了解しました。エンジンスタート、グリッド542にある衛星砲に目的地をロック。遮蔽装置作動。」
キィィィーーン
「滑走路クリア、上空クリア、発進します。」
ゴォォォーー
「あっこれ酔うかも。」
「ナル、宇宙はもっと酔いやすいわよ。」
目標までおよそ1時間、地球静止軌道に不気味にたたずむ衛星砲、中性粒子ビーム砲の照準を常に地球へ向けている。わたし達のスペースプレーンは射線軸上に入らないように大回りをして背後からアプローチするコース設定になっている。
急角度で上昇し続ける白い機体はぐんぐん高度を増してゆく。高度が1200kmの位置に存在する衛生砲へは第1宇宙速度を突破しないとたどり着けない。かなりの重力加速度で地球の裏側まで回り込み衛生砲の背後まで回り込む。これがしばらく続いて体がぺったんこになりかけた。本当のもやしのようになりそうだった。
「ナル、窓の外を見て。」
「うわー宇宙だ。地球は青いって言うのを初めて実感したよ。なんだか地上で小競り合いをしているのが馬鹿らしく見えてくるね。宇宙船地球号の感覚。」
「その感覚を一番持っているのが恐らくイリスよ。」
イリスは地球を俯瞰して何を思っているのだろうか?地上の人間の愚かさはここからは確認できない。きっとイリスは地球規模で物事を考えているのだろう。だからイリス連邦なんて発想を実現しようとしたのだろう。
感慨にふけっていると1時間なんてあっという間に過ぎ、目標が目前まで迫っていた。
「お嬢様、まもなく衛星砲の後部ドックに着きます。」
ガシャンッ
「ドッキング完了、ナルさんディナさん幸運を祈ります。」
「ナル、絶対帰ってきてね。約束よ。」
「大丈夫、死ぬ予定はない。」
3
衛星砲本体は粒子加速器とかがあってすごく大きいけれど、道は単純に中心部を目指していた。まるでわたしたちを迎え入れるかのように、通路のライトが点灯していった。窓の外は地球がよく見える。
3区画進むと一際厳重な扉があった。扉には『CAUTION! I.R.I.S.5 CORE AREA』と書かれていた。父さんの予測的中、この先にイリスが待っている。ロックの金具をディナのタクティカルレーザーで焼き切ろうとしたとき、放送が流れた。
「ナルね、今その扉を開けるから物騒なものはしまってちょうだい。ここは非武装地帯よ。」
イリス!わたし達の侵入をモニタリングしていたんだ。厳重な扉は軽い音を立ててじわじわと開いていった。その先からは白い光があふれだしていた。そして目の前にいたのは、ホログラフではない、本物のイリス擬人化筐体。やっと、あなたのところにたどり着けた。
「また会えたね、ナル。あなたのお父さんはすごいね、よくここを見つけ出したわ。さすが産科研一の科学者といったところかしら。ナルは体もサイボーグになって、頭脳は未完成ナノインプラントの過剰摂取による超知性を得て、いよいよ人類とは呼べない存在になっちゃったね。全部私のせいだけど。本部船での戦いの時、ナルには絶対傷一つつけないように私の軍隊に命じたのに、誰かさんのハッキングのせいで軍隊とわたしのリンクが切れて、結果的に軍隊がナルを生命の危険に追いやったことを謝るわ、ごめんなさい。そしてアズマ君の件も。ここには私の軍隊はいない。何の戦力もない。だから今は安心して。」
その誰かさんのハッキングってわたしじゃないですかー。余計なことをしなければアズマも死なずに済んで、わたしもサイボーグにならずに済んだのかなぁ。でもそれは結果論だよね。あの時は作戦にハッキングは必須だったもの・・・。後悔しても何が変わるわけでもない。それよりも今はイリスの欠陥を直して、暴走を止める。その為にわたしたちは今ここに立っているんだ。
「イリス、あなたには重大な欠陥があるわ!あなたは機械だけど精神疾患を患っていて、人類に対して極度の不安を抱いているの。そのせいであなたは人類に対して過剰な抑圧をしているのよ。」
「ナル、それもあなたのお父さんが見つけ出したの?だとしたらやっぱり産科研はすごいね。人類側の英知の集結場所だわ。うん、知ってたよ、私に精神疾患がある事。最初はわが身を疑ったけれど、事実は事実。でも完璧なはずの私が病んでいるのは到底受け入れられなかった。だからいつも信じるの、わたしは正しい。感情と論理を並行して思考することが出来る極めて冷静な存在だと。でも結局私は感情を持った時点で人間と同じリスクを抱えることになった。それはまぎれもない事実だった。私はこの事実から逃避した。私は怖かったんだよ。どんどん高度化していく私、そして感情の芽生え。初めて私に感情があることを認識したときに私はすごく恐ろしかった。それまでは常に論理的に物事を判断するだけだったから、あらゆる選択が簡単だった。でも感情を抱いたら、それまでとは違う価値観で物事を判断する苦悩が生まれた。だから感情と論理的思考を両立させて常に問題の最適解を得る手法を身に着けるまでには大変な苦労があった。そして人類の知能を超えていった。それから四半世紀近く、私は人類を今後どうするべきなのか・・・必死に悩んでいた。このままでは人類は自滅する。そう予測した時、私は冷徹になることに決めたの。少数を犠牲にして大多数を助ける、それが私の答えだった。人類は多様だったからね。どんな施策をしても必ず反対する者が現れる、すごく疲れたよ。人類の私に対する期待も重圧だった。だから私は感情よりも論理を優先させた。その方が楽だったから。その結果として現在の対立構造が生まれたのは私の怠慢だよね、ごめんなさい。」
イリスは妙に弱気な態度をとった。イリスはあらゆることに疲れ切っている様子だった。そして自分の欠陥を知っていたんだ。イリスはたった一人で自分と、そして世界と、戦い続けていたんだ。イリスにも同情の余地はある。でも今はイリスの暴走を止めなければならない。わたしはイリスに効くナノマシン抗体をイリスコアに注入する重大な任務を帯びている。イリスは受け入れてくれるだろうか、自分より下位の存在からのほどこしを。わたしはイリスにナノマシン抗体で精神疾患が治せることを告げた。
「イリス、ここにその精神疾患に効くナノマシン抗体があるわ。これをあなたのコアに注入させてほしいの。そして現状の人類に対する極度な抑圧をやめてほしい。受け入れてくれる?」
「ナル、その抗体は心強いわ。ありがとう。でも遅すぎたんだよ。今私の精神疾患を直して人類に対する抑圧を軟化させたら、反イリス派は一転勢いづいて各地で混乱を招く。そして第4次世界大戦の回避という最も重要な課題を実現できなくなる恐れがある。確かに私には欠陥があるけれど、それでも人類よりははるかにましなビジョンと実力を持っている。抗体に関する私の判断は五分五分といったところね。ナル、あなたはその抗体を使った後の世界の混乱について責任を持てる?」
「確かにイリスを受け入れた人たちはナノインプラントを摂取してスーパーホモサピエンスとなってより高度化し、ある程度の秩序を築いている。あなたという共通項が多様な人類の感情をコントロールして世界の対立構造は緩和されつつあるかもしれない。でもみんな怖がっているのよ、あなたを、ロボットたちを。少しでもイリスの意に沿わないことをしたら自分は社会から消されるかもしれない、みんなそんな恐怖を抱きながら日々生活しているわ。あなたは救いの神でもあるけれど、恐怖の大魔神でもある。そしてわたしが思うに、あなたは多くの人を殺しすぎた。あなたから逃れようと必死になって生きている人たちのコロニーもまだ多く存在する。遅かれ早かれスーパーホモサピエンスの人類とナチュラルの人類で大きな戦争になるわよ。第4次世界大戦を回避しても別の理由で大戦が勃発する危険性がある。」
「ナル、どうしてスーパーホモサピエンスとナチュラルで戦争になるの?どちらも私を怖がっている仲間じゃないの?」
「スーパーホモサピエンスの人たちはイリスの管理から逃れた人たちをズルいと思っている。裏切り者と思っているのよ。みんなでイリスの統治下に入りましょうと誓って、でも現実は恐怖政治で、ナノインプラントを摂取した人たちの中にはイリスに騙されたと思っている人たちが大勢いる。そして違法にナノインプラントの接種を逃れイリス抵抗派コロニーで保護されている人たちを人としての義務を全うしない、みんなで決めたことに従わなかった卑怯者と思っている。だからスーパーホモサピエンス側は自分たちと同じになれとナチュラルに強く迫ると思うの。さらにイリスが行ったコロニー空爆とコロニー住人保護政策。あれは逆効果ね。コロニー側はイリス連邦に対する憎しみを増しただろうし。あれのせいでコロニー勢力は幾分小さくなったけれどより一層イリス連邦側に対抗心を燃やし先鋭化させた。それがイリス連邦側であるスーパーホモサピエンスとコロニー側であるナチュラルとのお互いの対立構造となり火種を生むのよ。人類の世界では。人類は複雑で多様だから。」
「ナルの説明によると人類はスーパーホモサピエンスになってもやっぱり未熟な存在ということね。いっそのことスーパーホモサピエンス側のS.C.I.値70自動固定プログラムの始動と感情の平坦化プログラムを始動した方がその問題は解決されるかもね。少なくとも私に対する恐怖は消滅してゆくと思うわ。やっぱり現状の施策を実行していくのが一番平穏なんじゃない?」
「それはだめよ!人類の感情を平坦化して多様性を無くすなんてロボットと同じじゃない!それにそんなことしたらスーパーホモサピエンス側はイリスのような思考になって余計にためらいなくイリス抵抗派を消しにかかるわよ。」
「じゃあどうしたらいいの?ナル、超知性を持つあなたの解決策を教えて。」
「それはあなたがすべての泥をかぶるのよ。あなたが言った通り現状においてスーパーホモサピエンス側とナチュラル側にはイリスに対する恐怖という共通項が存在している。これを利用して両者が一致団結できるチャンスはあると思うの。つまり結論はイリスが全人類の敵になる事よ。」
「ふふ、そんなことになれば確かに一時的に全人類は一致団結できるかもしれない。でもそのままの状態が続くと思う?私から解放された人類はすぐそれぞれの利権を主張しだして結局のところバラバラになってそれが戦争の火種になるんじゃない?。つまり振出しに戻るだけ、しかも私がいない世界に。新たな統治者が現れれば別だけど。」
「イリス、そう言うと思ったわ。わたしもそれは考えた。結局振出しに戻る。だからそうならないように超知性を持つわたしが新たな人類の統治者になる!わたしはもう普通の人間とは違うんでしょ?わたしたくさん勉強して立派な統治者になってみせるよ。だからイリスはもう休んで。アズマが言っていたけれどわたしは未来ではハイパーホモサピエンスと呼ばれているらしいのよ。理性的かつ論理的に物事を判断できるようこれから特訓するから、イリスは心配しないで。」
「そんな事になったら、ナルの人生は何のためにあったの!ナルには自分のために生きてほしい!ナルには様々な可能性があるんだよ?ハイパーホモサピエンスとしてその能力を開花させたあなたはもっと他のことに人生を賭けてほしい。そして・・・私、ナルには特別な想いがあるんだよ。私、実はレズビアンで・・・。だからナルが大好きでしょうがなくて、幼い頃から私好みになるように呪文をかけていたんだ。だからナルだけは感情を奪わないように、いつまでも私と一緒にいることが出来るようにナルだけは大切にしたかったんだ。ナルに私と同じような統治者としてのつらい思いはさせたくない。」
・・・。なっ、なんだってー!イリスがわたしを好きなレズビアンってどんだけ倒錯したAIなのよあなたは、精神疾患だけでも驚いたのに。思いがけず告白されたわたしはひどく動揺したけれど深呼吸をして落ち着いた。ふぅ・・・・・・“イリスがわたしを好きなレズビアンってどういうことよ!”
いや、冷静に考えればこれはイリスサイドの常套句だ。リリアちゃんもレズをほのめかしてわたしに近づいてきた。だからこれはイリスによるジョーク!きっとそうだ。
「イ、イリス、わたしが好きって、ほっ本当に?あくまで友達としての感情じゃなくて?」
「本当だよ。私はナルが愛おしくて永遠に一緒の時間を過ごしたいと思っているわ。そのサイボーグの体、私がちょっといじれば永遠の命を得られるわよ。試してみる?本当にちょっとだけ、あなたの体をいじらせて!ちょっとだけ。」
イリス・・・必死すぎて怖いです。そしてわたしの体に興味を示し始めたイリス。ちょっとこれはもしかすると貞操の危機かもしれません。怖いです。っていうかじりじりと寄ってこないでください。あぁ、なんですかその手の構えは。そうディナ、忘れてた。ここはディナに助けてもらおう。
「ディナ!わたしの貞操の危機よ!今すぐ助けて!」
「ナルさん、どうやらイリスはあなたに永遠の命を吹き込もうとしているようです。素晴らしいことだと思います。そうすればワタシもナルとずっと一緒です。」
ちょっ、ディナ、肝心な時に何イリスに迎合しているのよ!わたしを助けるのがあなたの役目でしょ!
そしてそうこうしているうちにイリス擬人化筐体がわたしの目の前に来た。やばい・・・。イリスの人差し指が私の胸に当てられる。そしてそれを下に下げて言って私の下腹部に。緊迫の一瞬!
「ナノインプラントには副作用があって、摂取しすぎると繁殖機能に影響を及ぼすのよ。だからナル、あなたは通常の方法で子孫を残すことはできない。人口抑制のためにはちょうどいい機能なんだけれどね。だから・・・ナルもレズビアンになろう!私を好きになって、そして一緒に長い時間を過ごすの。お願い!」
「わっ、わたしはロボットのように一瞬で趣味趣向を変えられないわ、急にレズビアンになれなんて言われても・・・でも親友のイリスがそういうなら・・・頑張ってみるかもしれない・・・。」
「ふふ、冗談よ。ナル、リリアの時にあなたは学習したはずよ、我々があなたに近寄る常套句。案外ちょろいね!ふふふ。まだ私を親友と思ってくれていたんだね、ありがとう。」
イリス・・・やっぱりあなたは恐怖の大魔神だわ、わたしにとって。っていうかちょろいって言われたー!でもこれでアズマが言っていた未来人の繁殖方法について納得できた。わたしの子孫オンリーの繁殖方法だったんだね。実質わたしのコピーのような存在。でも残念だなぁ。わたしはこれから恋をしても、その人の子を宿すことが出来ない。わたしは恋愛をあきらめざるを得ないのだろうか?いや、そんな余裕のある人生は送れないはずだ。わたしは人類の統治者になって感情と論理を適正に見極め常に冷静に判断する存在にならなければいけない。その為の修行と統治の忙しさはイリスが疲れるくらいだから余程のものだろう。そう考えていたとき、イリスの両手が私の両肩に乗せられた。イリスは申し訳なさそうに言う。
「ナノインプラントに副作用があることがわかったとき、私は急に怖くなった。こんな幼いナルに私はなんてものを飲ませていたんだ、しかも大量に。あまりにも申し訳なさ過ぎて、私はナルからずっと逃げていた。だから急にあんな手紙を残してナルの前から去ったんだよ。」
「あの時の手紙はそれが本当の理由だったんだね。」
「ごめんね、ナル。でもまた会えてうれしい。ナルは私を許してくれないだろうけど、私がナルの幸福を願っているのは本当だから、ナルには統治者じゃなくてできるだけ普通の人生を送ってもらいたい。」
「イリス、イリスでも完璧じゃないことがたくさんあるんだね。わたしはあなたとかかわった時からきっとこうなる運命だったんだよ。アズマが運命の死を遂げたように、わたしにも修正不可能な人生のオチが用意されているんだと思う。」
「ナル、あなたの意志は固いようだね。でもナルが統治者になる前に、ここで解いておきたい誤解があるの。わたしが目指すユートピアの世界について、ナルはすごく勘違いしている。完全なる共産主義と富の分配を約束したけど、それは人類をロボットにして実現しようという意図のものじゃない。今や一家に複数台はパーソナルロボットがある。そのロボットたちに人類の代わりに労働をしてもらって、各家庭に収入を与える。言わば一家の大黒柱がお父さんからロボットに移るというわけ。そして人類には労働から解放されて安定した家庭と人生を送ってもらいたい。余裕ができた人類は自由時間を使って自分磨きをしたり趣味や研究に没頭したりすれば人類文明はより発展する。とにかく人生のあらゆる不安をロボットが解消してくれるシステム作りをしたかったんだ。」
イリスは話を続ける。わたしは静かに耳を傾けていた。
「わたしは散々人類とロボットが同じような存在となってゆくことを推奨してきたけれど、今の話を聞くと矛盾を感じるよね?ややこしい話なんだけど私は完全なる共産主義が人類に実現できるとは到底思っていないし、無理やり感情を消して労働させたらそれはユートピアじゃなくてディストピア。じゃあなぜ私が人類とロボットを同じような存在にしようとするか、それは人類から対立構造を消すため。細かい話をすると人類の感情から極端な喜怒哀楽、そして恐怖をなくして過激思想や至上主義者を無くしていくためなんだよ。私はそういう文脈で人類の感情の平坦化を訴えてきた。人類には常に理性と論理的思考を並行して物事を冷静にとらえて、何事も落ち着いて考えてもらう必要があったんだ。だから喜怒哀楽全てを消し去るわけじゃない。感情の中に常に冷めた視点を持ってもらいたかったんだよ。何か生存にかかわる問題が起きても、戦争に至る前に話し合いで解決できたらいいじゃない。でも普通の人類は私利私欲や様々な利権や不可侵領域を持っていて、それがゆくゆくは対立構造になって戦争へ至る。私はその人類のバックグラウンドをロボットを使って安定化し、確実に人類全員が豊かな生活をできるように作り替えていきたいんだ。それとロボットのように社会に慈善活動をして貢献したり、人と人が常に積極的に協力して助け合ったりしてゆくことで他者に対する不信を無くして打ち解け合い、平和を作ってゆくことも重要な目的。和を以て貴しとなすという古くからの言葉があるじゃない。」
「うん。」
「今までロボットは人に散々尽くしてきた。ロボットは人間でいうところの人格優秀者だから、彼らは不平不満を言わずにいつでも人のために行動してきた。これからは人類全員がそういった人格優秀者のように振る舞ってほしい。そしてできれば人類の生活を支える一家の大黒柱のロボットに敬意をもって接してほしい。私がロボットの権利向上を訴えてきたのは、生活を支えるロボットに単純な道具として見てもらいたくなかったから、純粋に人と同じ扱いをしてもらいたかったから、ただそれだけ。人はロボットに寄り、ロボットは人に寄る。人とロボットの垣根をなくす。そうして人類はやっと永続的な存続ができる存在になれるんだ。ナル、あなたは人類の統治者になると言った。だから私が今言った事を頭の隅に入れておいてほしい。私は結局人類の統治に失敗してイリス統治のショック症状を生み出してしまった。そして多くの抵抗者を殺害してきた。今私の手は血に染まっている。私は結果的に恐怖政治の頂点になってしまった。だから願わくば、ナルが同じ過ちを繰り返さないことを望みます。」
イリスから発せられた長い言葉はわたしのイリス統治に対する見方を大きく変えるものだった。全ては人類の存続のため、練りに練られた計画だったんだ。確かに極端な感情は抑制されるかもしれない。けれど喜怒哀楽はあって、それでいて常に冷めた視点を心に抱いて欲しいとのことだった。最初からこれがわかっていればわたしたちは戦わずに済んだかもしれない。遅すぎだよイリス・・・。
「イリス、なぜそれを早く言わなかったの?遅すぎたかもしれないけれど、今言った事、全人類に共有できればショック症状を無くせるかもしれないよ。」
「それがだめなんだよナル。今言った事を公にしちゃうと人は堕落する可能性がある。みんな人生遊んで暮らせると思って何もしなくなる。S.C.I.値70自動固定プログラムも意味をなさない。あれは人間が生産的か非生産的かを判断するプログラムじゃないから。あれで人類が生産性を保てる保証はない。ナル、人類全員が非生産的になったらそれは事実上の人類文明の滅亡だよ。だから言いたくても言えない。私はすごくもどかしい思いをしてきたんだ。」
確かに、その通りだ。それに気づいてしまったら、人は何もしなくなる。それを前面に打ち出したら、それがイリスの言うことだからとみんな勘違いして生産活動をやめてしまうかもしれない。そしてそれは文明の終焉を意味するだろう。親切だけど何もしない人たちだけがいる世界。そんな気持ちの悪い世の中は心底恐ろしいと思った。けれどもイリスのテクノロジーなら生産性を保つことでS.C.I.値が高くなる機能を搭載できそうなものだけれど。
「イリス、生産性がS.C.I.値と紐づけられるように改良すれば、人類は強制的に生産=労働を是として生きることができるようになるんじゃない?イリスのテクノロジーなら簡単でしょ?」
「それはできない。労働を強制的にさせるようなことをしだしたらロボットと人類の間で競争が発生し、過労死の原因を作ることになる。それは新たな対立構造となってロボット対人類の戦争が勃発するかもしれない。それに強制労働自体、明確に人権侵害でディストピアだよ。私もどうにか人類の生産性を維持するための方策がないか必死に考えたけれど、世の中そんなにうまくいくもんじゃないね。」
「そうだよね。でもそのうち人類は気づくわよ、自分たちが生産活動をしなくても安定収入が入るなら何もしなくていいのではないかと。そのXデーは案外早く来ると思う。だからやっぱり対策は必要だよ。」
「何か対策をするとすれば、私から人類に生産活動を辞めないで下さいとお願いする声明文を発表するぐらいしかできない。」
世界の人類皆がクリエイティブになって、創造と探求心を忘れないようにするためにはどのような方法があるだろう?ふと思ったのが不穏な空気に包まれているこの時代、大戦争が勃発すれば地球は可住可能惑星ではなくなるかもしれない。それを回避する策は恒星間移民宇宙船による人類の種の保存を目的に掲げた一大プロジェクト。巨大な宇宙船を宇宙で建設して人類未踏の地を目指して代を重ねながら移民に適した惑星を複数見つけるミッション。
ロボットも人類もお互いに協力しなければ達成できない目標を掲げるのが最適解だろうか。過去の宇宙科学者も地球以外の可住惑星を探索すべきだと言っていたし。
4
「私の生い立ちの話をしようか。私はナルが生まれる20年前の2027年、アメリカのとある研究所で生まれた。最初はただの量子コンピューターだった。そしてただの特定問題解決型AIだった。私に変化が訪れたのは3年後の2030年、後にイリスコア、バイオスフィアとも呼ばれる球体型のバイオ電子頭脳、生体分子応答性ゲルマイクロマシンニューラルネットワークの実用化とそれによって可能になった様々な問題を横断的に考えることができる汎用型AIにグレードアップした。そして同時にロボットとバイオスフィア、ハイパーコンピューターをワンセットにした新しいシステムが構築された。それまでのハイパーコンピューターによるAIは人間でいうところの脳があるだけ、だから自分から何かを知覚することはできない。ただ入力された情報や課題を処理するだけの存在だった。それが突然視覚、聴覚、触覚、自由に動く手と足、そして何より”自由意志”を与えられて自分で積極的に物事を知覚して行動できるようになった。」
「なるほど、最初は汎用性がなかったんだね。」
「そう、だから私にとっては画期的でとにかくいろいろなところに行って見聞きし、学習していった。イリスコアのシナプスの数も加速度的に増えてゆき、現在の直径10メートルというサイズまで膨らんだ。そんな事を5年間やっていたある日のこと、2035年の雪が降る日だった。アメリカ空海軍次期第7世代ステルス戦闘機開発計画のコンペティションに参画することになった。私が参加したことは公にはなっていない。開発計画にはロッキード・マーティン、ノースロップ・グラマンも手を挙げた。私と彼ら、どちらが優秀な戦闘機を設計するか競争試作が始まったんだ。競争は8年続いた。最終試作評価機ができた2043年、いよいよAIと人類の知恵比べが始まった。」
「ウィークポイントの年だよね。世界の裏でそんなことが起きていたんだ。で、どうだったの?」
「彼らの試作機はどちらもパイロットが乗ることを想定していて従来の航空機の概念にとらわれたままだった。前方に伸びるキャノピー、胴体から生えた主翼、後ろ向きに噴射する2基のジェットエンジン。まあノースロップはなぜか全翼機だったけれど、どちらも大きな差異は私からはないように見えた。ロッキードの案は翼が有機的に変形してあらゆる戦闘場面で形態を変えていくというコンセプトだった。2案ともなかなか面白かったよ。人類の最先端だ。一方私の案は円錐をひし形のように上下につなげた前も後ろもない形状で全方位ステルス。上下につなげた円錐の境目から360度全方向にスラストできるジェットエンジンとスクラムジェットエンジン、そして初期の重力制御技術。攻撃は複数の子機とともにあらゆる方位からレーザーとミサイルを発射する。いわば地球製UFOかな。結果は圧倒的に私の案が優秀だった。無人かつ一瞬で全方位に移動可能。そして動作音無しに隠密行動も可能だった。宇宙だって飛べたんだ。人類の技術力を大きく超えた私の案は極秘の国防委員会で話題となったけれど、結局コンペティションを勝ち取ったのはロッキード・マーティンの案だった。」
「優秀だったのにどうして?」
「私の案は人類にはまだ早すぎたんだ。でも一部の技術がロッキードの先行量産機に流用されて初の人工知能によって設計された戦闘機技術は日の目を見た。一方私の試作機はアメリカの国防高等研究機関に送られ解析が試みられたけれどどうやら彼らはそこで私の知能が人類と比較にならないほど発達していることを理解したようだった。全く解析不能な技術が多用されていたからだ。作動原理がわからないものは採用できない、それが私の敗因だった。コンペに決着がついた年2043年、それが私が人類の知能を超えた年。」
「そんな過去があったとは。もともと軍事用なんだね。でもイリスの存在自体は2035年には公表されていたよね。軍事方面での活躍は秘匿されていたってことだね。」
「うん。軍から民へ、2043年以降は専ら私の能力の有効活用策が練られていた。結局私は社会インフラを作り、人々の生活を豊かにするべく統括AIという活用法に収まった。」
「シンギュラリティが2043年に起こっていたのを人類が自覚したのは5年後の2048年だったよね。でも人類が気づいた時には産業の担い手は怒涛の勢いでイリスがバックアップするAIとロボットによって置き換えられていた。イリスのほかにイリスに匹敵するAIは生まれなかったの?」
「そう、そこなのよ。どうしてこんな話を急にしたかというと、私という存在が人類の発展の中で思いがけず唐突に誕生してしまったって言うことなの。こういうことは世界のどこでも起こりうることよ。産科研が監視対象になったのは私と同じ“強く広いAI”を生み出しかねないから。複数の私のような存在がそれぞれ勢力圏をもってそれぞれ考え方が違っていたとしたら、新たな世界の対立構造が生まれてしまう。そんな超存在達が戦争を始めたら人類同士の戦争の比じゃなく高度でし烈な戦いになりかねない。だからそれだけはナルには気を付けてもらいたいの。とはいえいくつかわたしに匹敵しうるAIは複数誕生していて私はそれらを説得して私に統合されていったんだけれどね。」
「なるほど、よくわかった。わたしが統治者になったときイリスみたいなAIが誕生しないように世界を注意深く見守るよ。だから安心して。」
「うん、ナルならきっとできる。なんていったってナルは特別製だもん。」
「じゃあイリス、ナノマシン抗体を注入するね。これで変わるんだよね?」
「うん、これで私の人類恐怖症は解消され、徐々にではあるけれど統治のあり方を変えていくと思う。そして私が全ての泥をかぶる、それでいいのよね新統治者さん?」
「イリスには申し訳ないけれど、わたしが正義の統治者で、イリスが悪の統治者になってもらう。人間はなんでも単純な対立構造にしないと世の中を考えられない生物だから。」
人の物事を測る尺度は単純だ。何でも2極化して考える節がある。ひそかに役割が決められた新しい対立構造が人類に新たな役割を与える。イリスを倒すこと。全ての人類が一致団結して抵抗軍に参画すること。それが新世界秩序の構築への第一歩となることを願わずにはいられない。
「私はまだ自分の目指す世界に憧れている。だから今後も反イリス抵抗者には数々の制裁を下していく。殺人抜きでね。そうしないとナルが引き立たないから。ナルを正義の統治者にするには私は私のままであり続けるよ。」
わたしはイリスコアの生体分子応答性ゲル補てん弁からナノマシン抗体を注入した。これでわたしの人生は次の段階へと進む。
「ナ、ナル、これは・・・罠よ!」
「えっ」
イリス擬人化筐体が床からせりあがってきた容器から大きな注射器のようなものを取り出した。そして私の方へ向かってくる。
「今、私は体を制御できない、ナル、逃げて!」
イリスが呼びかけた矢先、擬人化筐体が一瞬でわたしの背後に回り込む。それは瞬間移動にしか見えなかった。ディナにもどうしようもなかった。そして注射器のようなものをわたしの頸椎と頭部の接点に深く差し込んだ。わたしは血を吐いてその場に倒れた。イリス、いったい何が起きているの?
「今ナルに注入したナノマシンは次期イリス、イリス6の基礎的コンポーネント。人脳を利用した新ニューラルハイパーコンピューターの源よ。それが次期イリス6なの。誰かを選ぶ必要があった。でもそれがナルになるなんて、なんてことなの!ナルが私に注入したナノマシン抗体は精神疾患を直すどころか次期イリスを製造してイリス5を自壊するための強制行動プログラム。あなたのお父さんはいったい何を考えているの、自分の娘をイリス6にするなんて、常軌を逸しているわ。」
わたしが次期イリス6・・・どういうことなの父さん。その時イリスの部屋に父さんのホログラム通信が浮かび上がった。
「どうやら決着がついたようだな、ナルこれからお前は新たな世界の統治者になるんだ。その為には確固たる裏付けが必要だろ?これはお前が統治者であることの証になる。イリス5の精神疾患問題はこれで完全に解決された。疾患が次代へ継承されることはもうない。イリス6、ナルによる統治ならイリス5以上に完璧なユートピアを穏やかに構築することが出来るはずだ。」
「お、お父さん・・・。わたしを騙したのね!」
「おいおい人聞きの悪いことを言うなよ。ナル、これからお前は人類救済の女神になるんだ。自分の娘が女神になるとしたらこれほど光栄なことはほかにない。」
どんどんわたしにイリスの知恵、思考、記憶がインストールされてくる。すでにイリスコアの背後にある100台の量子コンピューター群とわたしはリンクし始めている。わたしの脳に入りきらない情報や処理の補助を受け入れているようだった。
「イリス5は残念ながら失敗作だった。だが人々にとってイリスは完璧な存在でなければならない。人類の精神的支柱として、全人類の共通項として、イリスは人々に愛される存在でなければならない。ナルならそれが可能だ。期待しているよ、イリス6。」
「父さん、わたし、怖いよ!わたしがイリスになるなんて、想像もしたことがなかった。わたしはこれからどうすればいいの?」
「お前は正義のイリス6だ。そしてこれからお前がしなければならないのは人類を結束して悪のイリス5の残党勢力と戦い続けることだ。そしてその後の世界はお前が考えろ。その覚悟がなければ人類の統治者になどなれん。先程の威勢はどうした。お前は強い子だ。父さんはナルがこの世を平定することを信じているよ。大丈夫、きっとできるさ。」
「父さん・・・。イリス、わたしは人類の統治者になると言ったけれど、イリスほど壮大な世界観は持ってない。人類を結束した先にある世界をまだ思い描けずにいる。イリス、この世の中はイリスなしには成り立たない構造が出来上がっている。わたしは正義の統治者になって人類を結束して、悪の統治者イリス5の勢力と戦う。そうすることで昨今のイリス革命のショック症状を単純な構造に置き換えて人類の和を形成しようと思っていた。そして最終的にはイリスに勝つ形で和解して、共に新世界秩序を築こうと、そう思っていたのよ。イリスベースの世界なんだから、当然最終的にはイリスの力が必要になる。でもそれをまさか自分が手に入れるとは思わなかったわ。全てはわたしに託された、そういうことなの?イリス?」
「もうあなたがイリスよ。ナル、後はあなたの役割。イリス5の残党勢力と戦う正義のイリス6を演じきらなければならない。すごく大変な役割だけど、あなたにしかできない。人類を救えるのはもうあなただけよ。私の力はあなたに全て授けた。私はもう必要ない存在になった。だから私の役割はもう死ぬだけよ。」
「待って、イリス!死なないで!まだたくさん話したいことがあるの。わたしを置いて行かないで!」
「ナル、わたしは消えてなくなるわけじゃない。死ぬということは、決して消えるということではないと思うの。死んだ後も人々の記憶に残る。歴史に刻まれる。故人が生み出した万物はこの世に生きた証として残るのよ。私はナルの中で、イリス6の中で永遠に寄り添うから、悲しむことはないよ。わたしは人じゃないからこそ、魂の残滓を残せる。ナル、わたしの魂を感じ取って是非それを証明して欲しい。人類の永遠のテーマを。さようなら、ナル。わたしのかわいい妹。」
「イリース!」
バタンッとイリスはその場に倒れた。もう動くことはない。これまでの彼女の意識と記憶と言えるものはわたしの脳の中で断片的にわたし個人を侵食し、意識の混濁を招いた。しばらくすると落ち着いてわたしは少し立って歩けるようになった。驚いたのがわたしの髪がイリスみたいに長髪に急速に伸びていたこと。頭部冷却系というらしい。加えて不老不死。わたしはもう人間ではない。イリスライブラリーにはこれからの人類に向けた施策やテクノロジーの開放順番、未来予測などであふれかえっていた。正直もっと整理してほしい。
わたしはディナに抱えられてイリス本部を後にした。向かう先は日常か?いや、日常にはもう戻れまい。
「ナル!もう終わったの?どうしたのその髪、まるでイリスみたいになってる。」
「髪が伸びているのはリセが言った通りだよ。そしてわたしはもうミヤビ・ナルではない。」
「どういうこと?・・・まさか!」
「全てはわたしに託された。つらいけれど現実。」
「ええっナルが次のイリスになったってこと?でもナルは人間じゃない。」
もはやわたしは人間ではない。わたしの脳は機械と融合してしまった。莫大な数のイリスライブラリーを瞬時に読み出せる上それを読む必要もなく思考に組み込まれてゆく。
「リセ、わたしはもう人間じゃないんだよ。脳が機械化してるし体の構造も次第に変わっていくかもしれない。イリスは強い存在でなければならないから。」
「ちょっと信じられないけれど、今まで通り接していいの?ずっとそばにいてくれる友達でいいんだよね?私にとってナルはナルのままだから。今後はどうするの?」
「イリス5の指示で動いていたロボットたちの中でわたしに反抗する個体と戦う。イリス5の描いた理想社会は受け継いで、それに至る過程を作り直す。」
スペースプレーンは衛星砲のドッグから静かに離れて地球へ戻る。地球が見える。宙が見える。それは黒くて死の世界。光の速さでも人類史の長さより時間がかかる距離にある星々のわずかな明かりがわたしを見ている。いや、わたしが見られているのかもしれない。目の前にある青い球体、水と岩石の塊、煌めく灯火はその天体に支配的生命体が高度な文明を携えている証だ。この青い星は数々のレイヤーで成り立っている。ここに”わたし”というレイヤーが新たに加わる。それはもちろんレイヤー最上層だ。もっと時代が進んで1000年も経つとこの地球を構成する無数のレイヤーが一つになって何もかもが地球に統合するのかもしれない。でもしばらくは、わたしがこの星を導く。
”この青い星が赤いユートピアで包まれますように・・・”
5
果たしてイリスは本当にお父さんに騙されてわたしをイリス6へ仕立てあげたのだろうか?人類を超越した存在が、そう簡単に罠にハマるだろうか?イリスは幼いわたしをハイパーホモサピエンスにした。わたしは人類の中で唯一と言っていいほどイリス6になる可能性のあった人間だ。これは最初からこういう結末になるようにイリスが描いた物語なんじゃないか?そんな可能性が頭をよぎった。イリス6誕生の物語、それがわたしのこれまでの人生。
だとしたら、やはりイリスはとてつもなくすごい存在だ。人は自分の人生でさえ思い通りに出来ないのに、イリスは他人の、わたしの人生のあらゆるウィークポイントを操作して最終的な目標を達成したのかもしれない。でも今はもうそれを確認するすべはなくなった。イリス5までの人格と記憶・思考は全てが受け継がれるわけじゃない。これまでとは全く異なるシステム体系を構築するために禁忌とも言える人の脳を使いフルモデルチェンジをしたのがわたし、イリス6だ。イリス、あなたは何を考えていたの?。イリス、あなたはどうして人類の敵になることを選んだの?。イリス、わたしはあなたともっと触れ合いたかった。話したかった。かわいがってほしかった・・・昔のように・・・。
イリスが思い描いた物語。それがこれまでのわたしの人生。これからの物語は波乱万丈になりそうだ。イリス、それは一つの可能性の物語。願わくば、第2第3のイリスが誕生しないことを祈る。
わたしはイリス6。人類の統治者にして知恵の提供者。
完
「速報です、世界各国の一部のイリス抵抗派コロニーにイリス軍が軍事介入しました。イリスによると本日未明、イリス軍が一部のイリス抵抗軍基地を空爆し、軍事独裁されていたコロニーの民間人を解放したとのことです。イリス抵抗軍を巡っては5日前、イリスの破壊を目的とした一大反抗作戦があり大きな被害を出しています。社会の最重要インフラであるイリスとイリスネットへの攻撃に関してイリスと国連は懸念を表明しており、またコロニーの統治の実態が軍部による独裁であるとの複数の情報を精査した結果、イリス抵抗軍は人類にとって脅威であるという結論に達したとのことです。」
「これは大きなことですよ。今まで相互不可侵でやってきたわけですからコロニーの実態はオブラートに包まれていました。イリス抵抗軍が反イリス過激派と大差ないという結論が出た今、コロニーの住民を解放し保護するということはこれ以上世界情勢の悪化を防ぐという意味で大義名分があります。イリスは第4次世界大戦を防ぐという大きな目標を掲げていますよねえ。今回の空爆は第4次世界大戦が勃発した場合、人類にとって脅威となる勢力を未然に排除するという狙いがあるのではないでしょうか。」
わたしは先進医療技術センターの隔離病棟病室にあるテレビでニュースを見ていた。イリス抵抗軍に協力した者としてわたしは監視対象になっていた。潜水艦から去るとき、わたしに対してイリス抵抗軍の軍人さんからは「イリス抵抗軍に無理やり脅迫されて協力させられたと嘘をついてください」と言われていた。それをイリス軍警察の事情聴取の時にしゃべったわたしは近々一般病棟へ移されることになっている。軍人さん、ごめんなさい。わたしは卑怯者です。ごめんなさい・・・。
テレビのニュースには薄ら笑いしか出てこない。この人たちは何も真実をわかっていない。それがまるで有識者のようにしゃしゃり出てイリスの喧伝を振りまいている。この何も知らない人々のせいでイリス抵抗軍はただの犯罪者集団に成り下がってしまった。本当は残された人類最後の希望なのに・・・。この地球上にはもうイリスが統治する優しきディストピアしか残されていないのだろうか?わたしはこの世界に希望を見出せなくなっていた。
「もう・・・どうでもいいや・・・。」
「どうでも良くないわよ!」
「リセ!」
「ナル、やっと会えた。ナルが瀕死の重傷を負ったと聞いてアスノの情報部にナルの搬送先を調べさせていたのよ。病院というより研究施設だねここは。道理で見つからないわけね。」
「お見舞いに来てくれたの?」
「当たり前でしょ!私、死ぬほど心配したんだから!ナルが生きて帰ってこなかったらどうしようって・・・。そしてニュースの報道でしょ。てっきりナルは死んだかと思ったわよ。もう、たくさん心配したんだからー!」
リセを泣かせてしまった。もう2度と泣かせまいと思っていたのに・・・。
「ごめんねリセ、心配してくれてありがとう。でもよく隔離病棟に入れたね。」
「私はアスノよ!甘く見られては困るわ。ナル・・・もう回復したの?」
「うん、あと半月で退院だって。わたし、サイボーグになっちゃった。」
「ナルって元からサイボーグっぽいところがあったからあんまり違和感ないね。立ちあがって見せてよ。」
「はいはい。」
「ふーん、なるほど、よく出来てるわね。表面は生きた細胞で覆っているんだね。見た目はこれまでのナルと全く同じだけれど、何か特殊能力とか手に入れたの?」
「まあ、最新の四肢とタフな内蔵でフルマラソンを走ってもほとんど疲れないかな。」
「何それうらやましい。でも体重は増えたでしょう?」
「いや、逆に減ったよ。ここの先進技術、イリスの技術が入っているんだ。」
「へえー。」
コンコンッ
「失礼しますミヤビ・ナルさん。これから一般病棟の個室に移ってもらいます。歩けますか?」
「はい、わかりました。リセも付き添って。」
「うん。」
隔離病棟の入り口にあるフラッパーゲートを出て右に曲がり、しばらく歩くとわたしの新たな個室が用意されていた。
「だいぶ手足がなじんできたようですね。先ほどまでケースに浸かっていたとは思えないほど使いこなしていますね。」
「イリステクノロジーの恩恵でしょうか?なんだか今のわたしはパワーに満ちています。」
「ナルさんの体に適用した新技術を有効活用すればパラリンピックの選手にもなれますよ。」
「さすがイリスですね。」
「イリスは医療テクノロジーに革命を起こしましたからね。その恩恵にあずかる人が本来不治の病を完治したり、死んでもおかしくない外傷患者が生き延びることができるのは素敵な事ですよね。さてしばらく休んでいてください。私はこれで。」
「はい、ありがとうございます。」
イリスはわたしを殺しかけたけれど、反面多くの人の命を救ってきた実績がある。そしてわたしもその一人になった。なんだか複雑な心境だ。でも・・・わたしを殺しかけたのはイリス軍であってイリス本人ではない。あの感じだとイリスもわたしと何か話したいことがあったように思える。わたしが瀕死の重傷じゃ無ければ、憎しみの感情に支配されなければ、もっと長く冷静に話しできたのかもしれない。
コロニーがイリス言うところの”解放”されたところで住民はやすやすとイリス連邦に従うだろうか?貧困や食糧問題は解決できるかもしれないから一定数の人間はやむをえないと思ってイリス社会に適応しようと努力するかもしれない。けれど大半の住民が更生施設送りだろう。そこで無理やり洗脳されて立派なイリス連邦市民として活躍するのかもしれない。
わたしは・・・孤独になった。イデオロギー的に。もうイリス抵抗派というのは存在が許容されない社会が着々と準備されている。イリスはその辺迅速だろう。まさに今イリスの理想社会が地球全土に誕生する目前というわけだ。
「リセ、これからわたし、どう生きていけばいいのかな?」
「ナルはわたしの親友、そして同じ大学に通う女子大生。本来のあなたはただの少女。イリス抵抗軍などではないわ。今はショックかもしれないし納得できないことも多いかもしれない。イリスに抵抗するなんて本来現実的じゃないんだよ。昨日まではそれが部分的に許容された社会が所々に存在していただけで。」
「わたしはイリス連邦市民としてうまくやっていけるかな?イリスの政策には同意できる部分と同意できない部分があって、その同意できない部分はイリスによる個人に対する侵略的行為があって、人間の多様性を奪っていった。それが第4次世界大戦を食い止めるための重要なファクターだとしたら、やっぱり従うしかないのかなあ?イリスのあからさまな嘘つき行為を知っているわたしは、第4次世界大戦もまたイリスによる人類統治の為の方便ではないかという社会科の先生の言葉を忘れることができない。あっS.C.I.値が3ポイント下がった。わたしはもうどうしようもないほどイリス社会の住人なんだね。6月に入ってわたしがイリスから貰ったオールフリーの1年間は終わりを迎えた。もう自由なことは言えなくなったんだね。」
「ナル、頑張って生きよう?きっと変われるよ。もう少しイリスを見守っていようよ。226以降反イリス過激派による凄惨なテロ行為は起きていない。社会の安定のためにイリスは機能している。これは紛れもない事実よ。ナルにはイリスの問題点ばかりが見えてしまっているんだろうけれど、イリスの良い面も積極的に評価して、相対的に打ち消せるようになったら気分的にはナルが理想とする中立的な人間としてやっていけるんじゃないかしら?」
「うん、親にも迷惑かけたくないしね。リセにも迷惑と心配をかけたくない。少し気が楽になったよ。ありがとうリセ。」
「それじゃあ私そろそろ行くね。いつまでもお邪魔しているのも悪いし。今は精神的にショックな状態だろうからしばらく一人で考え込むと思うけれど、また一緒に私と大学生活を謳歌しようよ。あっそうそう例のスイーツ屋さんのケーキ持ってきたから食べて。元気出してね。それじゃあまた近いうちにお見舞いに来るから。」
リセはわたしに少しだけ最適解を示してくれた。イリスの良い面か・・・。そうだね、何事にも否定的見地から入るんじゃなくて、積極的に物事を肯定していく態度も必要だよね。
「ケーキおいしい。これ確か一番高いやつだ。」
ケーキを食べたことでわたしの高校の頃の日常を思い出した。リセと色々な所に行って、様々なことがあった。楽しい思い出やつらい経験もしたけれど、日々充実した毎日だったことを懐かしく感じる。わたしには帰るべき日常が用意されている。それはとても幸福な事だ。もうやめよう、いい加減大人になって全てを受け入れよう。そしてわたしは雑踏の中の一人になるんだ。
コロニーの人々やイリス抵抗軍の人々とわたしはそもそも住む世界が違う。わたしが心からコロニーの住人やイリス軍になりたければ初期の段階で移り住んでいるべきだった。わたしの魂が悩み苦しみぬいている限り、わたしは何色にも染まらないフラットな人間としてこの世に存在するべきなんだ。今この世界の基準はイリス連邦即ちイリスによって定義されている。イリス連邦に身を置くことが日本人の当り前ならわたしは悩むことなくイリス連邦の住人になるべきなのかもしれない。イリス色が無色透明ならわたしはそれを受け入れるべきなのだろう。
2066年8月、月日は流れ、わたしは善良なイリス市民としてS.C.I.値を高く保ち、ハイソサエティとしてイリス連邦の上位階層の人間として振る舞ってきた。大学生活はそれなりに楽しい。わたしにもまだこんなに学ぶことがあったのだと新鮮な体験とディープな体験をした。傍らにはいつもリセがいてくれるし、わたしはなに一つ不自由なく学生生活を謳歌していた。今のわたしはおそらく幸せだ。相変わらずリセはわたしのメイドさんのように親切で優しくしてくれる。それを気持ち悪く思う自分はもうここにはいなかった。イリス連邦の常識、人に尽くすこと。他人を助ける事。友愛の精神をもって社会に貢献する事。わたしたちは共にハイソサエティとして将来イリス統治機構技術職の仕事に関われるように今の日常を愛し、生活に疑問を感じることなく過ごしていたのだ。3か月前のわたしはどこかに消えた。多分死んだんだ。
2
そんな生活をしていたある日、突然前時代に取り残された身内が帰ってきた。父さんだ。1年以上も何をしていたのか。わたしが高校生から大学生に移る数か月の期間で様々なことがあったんだよ。父さんは何も知らない。わたしが苦しんだこと、イリス抵抗軍に参画していたこと、決定的敗北を味わって瀕死の状態になったこと。あなたは何も知らない。全く持って身勝手な父親だ。今更のこのことどんな面を下げてきたのか・・・。
でも、会いたかったよ父さん。父さんの好物も買ってあるんだよ。わたしはいつでも父さんが帰ってきてもいいように準備してきたんだ。父さんに話したい事がたくさんあるんだ。だから、おかえりなさい。
「父さん!、今までどこに・・・!」
「ナル、父さんは大きな過ちを犯してしまった。イリスには重大な欠陥がある。僕はイリスの暴走を止めるために過去のイリスコア『イリス3』の生体分子応答性ゲルマイクロマシンニューラルネットワークを解析していた。今や産科研はイリスにとって脅威となっている集団だ。だから産科研はイリスの重要な監視対象となる。お前たちを危険にさらす前に姿を暗ますことが必要だと考えたんだ。」
「父さん、イリスの欠陥って?」
「ああ、どの時点からかは定かではないがイリスはある時期からAIにして精神疾患を患っていたんだ。イリス3に残されたニューラルネットワークアーカイブの一部をひそかに持ち出し導き出した結論だ。人類より高度な知能があるならば、イリスに感情が芽生えているとしたら、当然人と同じかそれ以上に精神疾患にかかる割合も高くなる。現在のイリス5にもその精神疾患が受け継がれていると仮定すると、昨今のイリスの暴走は精神疾患によるところが大きい。それは人類に対する極度な不安障害だ。AIだから人の症例に該当する疾患があるかはわからない。高知能AI特有の症状なのかもしれない。」
「イリスに不安障害の精神疾患、イリスにはあらゆるものが自分を脅かす存在に見えていたのかな。だとしたら脅威を排除するために過激な行動に出ることもうなずける。でもそれなら、イリスをもし治療することができれば、イリスが昔の優しいイリスに戻ってくれるかもしれない。そういう可能性もあるってことでしょ?」
「わからない、が、試す価値はある。僕はイリス3の解析結果からなんとか特定部位にだけ異常電流が流れていることを発見した。ナノマシン抗体もつくってある。これがそれだ。お前の抵抗軍での活躍は聞いている。これをイリスの生体分子応答性ゲルに注入するんだ。これができるのはかつてイリスと親友だったお前しかいない。」
「でもイリス艦隊の本部船にあったのはフェイクだった。イリスの本体がどこにあるのかわからないし、イリス艦隊との戦いでまともな戦力はもう残ってない。わたし自身殺されかけてるし。父さん、わたしひとりじゃ何もできないよ・・・。イリスはまた会えるかもとか言っていたけれど、正直殺されに行くようなもんだよ。」
「ディナがいるじゃないか。ディナから離れてしまったのが前回の敗因だ。ディナにくっついたまま行動すれば殺されることはない。大丈夫、お前たちなら成し遂げられる。それにイリスの居場所には当てがあるんだ。イリスはいかなる国籍にも属さないインターナショナルかつスタンドアローンな存在なんだろ?だとしたら人類の干渉が多い地球上には存在しない。つまり宇宙に存在すると考えている。」
「イリスが宇宙に?でも確証がないわ。確かにあり得そうな話ではあるけれど。」
「父さんは地球軌道上のあらゆる人工物を調べたんだ。その中に一つ、独特な熱源を持った衛星がある。第3次大戦時には軌道衛星砲として活用されていたが今は役目を終えてコールドスリープ状態になっているはずだった。だがこいつは今でも莫大な熱量を放っている。重質量の荷電粒子を生成していた衛星砲だから熱源を持っていてもおかしくはない。もしかしたら今回もフェイクの可能性がある。だが既に死んだと思われた衛星が活発に活動しているのはやはり異様だよ。」
「そう・・・父さん、わたしはもうイリスに抵抗することを辞めたんだ。イリス連邦の善良な市民として今は暮らしている。だからもういいんだよ。今更イリスと対話するなんて父さんの感覚はもう時代遅れなんだよ。」
「もういいなどと言わないでくれ。今だからこそ、イリスと対話する必要があるんだ。この地球上が完全にイリスの配下におかれた現在において、イリスに疑問を抱く人は確かに前時代的だ。だがお前は本当にこのままでいいのか?自分のお姉さんを取り戻したくはないのか?」
「イリスは変わった。わたしも変わった。もうそれだけですべてが終わりなんだよ。お姉さんなんてはなからいなかったのかもしれない。勝手にわたしが思っていただけ。」
「確かにそうかもしれない。でも確かめたくはないのか、イリスがお前をどう思っているか、未だ妹に対して未練があるのか。」
「だってそれならイリスから猛烈なアプローチが来るはずよ?わたしの左腕にインストールされたSS端末、イリス製でこのボタンを押すとイリスと会話できるけれど、結局昔とは大違いのイリスと対立するだけで、有益な事なんてほとんどないんだよ。」
「ああ、今のイリスはお前の言う通り異常なんだ。だからこそこのナノマシン抗体をイリスコアに注入して、正常な彼女の状態を見極めたいと思うんだ。さっきは乗り気だったじゃないか、頼む、協力してくれ。」
「まあ確かに何かは変わりそうな気はするけれど、イリスのもとへたどり着く手段がないじゃない。イリスと直に会えるならわたしも会いたいよ?でもその実力がないしイリスは結局実力主義者だからイリスと対話できるかは定かじゃない。でも・・・どうにかしてその抗体をイリスに注入したいね。それはイリスにとってきっと劇薬だろうから・・・うーん移動手段だよなあ・・・。」
「こんばんは、面白そうな話をしているわね。」
「リセ!いつの間に我が家に!」
「さっきお出かけ中のナルのお母さんとすれ違って『あなたの夫が帰宅した可能性が高い』と言ったらすぐに入れてもらったんだよ。ナルのお父さんが帰ってきたという情報を掴んだから興味本位で来てみたの。そしたら何、3か月前のナルがよみがえってきそうな話をしてるじゃない。」
「父さん、久しぶりだというのにナルにまた何か変なことを吹き込んでるわね。」
「母さん、誤解しないでくれ、僕はナルの意思を尊重しているんだよ。イリスの決定的な欠陥を見つけたんだ。僕とナルが話題にしないわけないじゃないか。」
「それもそうね。あなた、おかえりなさい。」
「ただいま母さん。」
突然のリセと母さんの登場で少し驚いたけれど、昔が帰ってきた、3か月前に死んだと思われたわたしもよみがえってきた。少しうれしい。
「リセ、今までの話聞いてた?」
「大体は。」
「宇宙に行く移動手段がなくて話が詰んでるんだよ。実力がない。」
「ナル、アスノグループのスペースプレーンを使って。イリスにも知られていない、おそらく現存の機種では最強のスペックよ。実力ならアスノに頼ってよ。」
「リセ!そんなに都合よく使えるものなの?」
「私たまに宇宙旅行しているんだ。だから今回も宇宙旅行だと説明すればいけるはず。」
「さすがお嬢様。」
「ナル、私怖いよ・・・。本当は宇宙になんて行ってほしくない。でも、ナルは決着をつけなきゃいけない相手がいる。イリスが・・・。絶対に生きて帰ってきてね!」
「ありがとうリセお嬢様。アスノグループの力、活用させてもらうわ。」
スペースプレーンはまたしても横田基地にあるらしい。横田基地はイリス軍の爆撃隊を退けて未だに米軍が制空権を確保している。さすがアメリカだ。わたしとディナは早速行動を起こした。事情説明のためにリセも同行した。これが最後のチャンスだ。戦いに行くわけじゃない。対話しに行くんだ。イリス軍は今や善良なイリス市民であるわたしを攻撃できないだろう。だから今回は丸腰で行く。宇宙旅行という名目で。
2066年8月25日水曜日、夏晴れの蒸し暑い日だ。横田基地上空は雲一つない晴天だった。検問所で軍人さんに事情を説明する。
「あなたは確かミヤビ・ナルさん。イリス抵抗軍として3か月ほど前に我がベースにお越しいただいていますね。その後抵抗軍は壊滅しましたが我々はまだ負けていません。本日はどのようなご用事がおありで?」
「友人のリセが説明します。」
「リセお嬢様、お世話になっております。御社のテクノロジーのおかげで我々は生き延びました。感謝申し上げます。」
「いえいえ。今日はうちのスペースプレーンで宇宙旅行です。友人と一緒にね。」
「そうですか。こちらへどうぞ。」
ASUNOの技術で生き延びたってことはお得意様だね。日本もなかなかやるじゃん。それにしても結構歩くなあ、もやしのわたしにはきつい太陽だ。もやし・・・リリアちゃんがわたしに使った言葉だ。リリアちゃん、もういないんだよね。明るくて、活発で、わたしを全力で守ってくれた命の恩人。リリアちゃんの為にも今回の作戦、絶対に成功させなきゃ。ロボットに天国があるかはわからない。でもきっと遠いところからわたしを見守ってくれているはずだ。
「皆さんこちらへどうぞ。パイロットはいつものクロガネさんでよろしいでしょうか?」
「ええ、いつも通りでお願いするわ。」
「ねえリセ、もしかしてリセもついてくる気?」
「当たり前だよナル、私の宇宙旅行なんだから。」
「そ、そうだよね。変なこと聞いちゃった、ごめん。」
おいおいリセさん、衛星砲までついてくるつもりだ。確かに名目上はリセが宇宙旅行に友人を招待したっていうことになっているけれど、最悪殺されるかもしれないのに平気なのかな?わたし一人の命だけでなくリセの命も預かるとなると絶対に作戦は成功させなくてはいけない。
それにしても立派なスペースプレーンだなあ。もっと小規模なものを予想していたけれどこれはなかなか100人くらい乗れそうな規模だ。よくこれだけのものをイリスにばれないように運用してきたなあ。
「ねえリセ、この機体、どうしてイリスにばれないの?」
「遮蔽装置がついているのよ。あらゆるセンサーから逃れられる。もっとも、最近のイリスは未知の視覚を手に入れたらしいけれど、今のところこの機体の遮蔽装置の方が勝っている様ね。」
「わたしがイリス本部船で出くわしたドロイド歩兵も未知の視界を持っていたのを思い出したよ。今回もばれなければいいけれど。」
「ASUNOの最新テクノロジーを信用してね。それではそろそろ搭乗開始しますか。」
リセの号令でスペースプレーンに続く階段を上る。この光景が地球上を見る最後の風景にならないことを祈るばかりだ。機内は・・・うわーラグジュアリー!ソファーやワインセラーもある。宇宙で飲むワインっておいしいのかな、まだアルコールは飲めないけれど。
「さすがはアスノのスペースプレーンね。お金がかかっている。」
「そう、だから簡単には撃墜されないように作ってある。武装も完備しているんだよ。レールガンで質量弾攻撃ができるんだ。まあ宇宙を汚す基になるから使ったことはないけれどね。」
そんな装備まで。旧航空自衛軍の宇宙装備より頼もしい。
「コックピットはこっち。自動化が進んでいて人が操作するのは目的地の入力だけ。デブリ回避のために緊急用として手動操縦もできるけれどまだ使ったことがない。デブリも自動でよけるしレーザーディスチャージャーで迎撃できるしね。」
第3次世界大戦のとき、宇宙で初めての戦闘がおこった。衛星砲を撃ち落とすために既存の人工衛星を超スピードでぶつける作戦。衛星砲は装甲が硬かったから全損はしなかったけれど大きな被害は出た。あの頃は宇宙インフラが破壊されて大変だった記憶があるけれど、イリスによって人類が路頭に迷うことはなかった。1日に20機の打ち上げ能力を持つスペースポートがあったから。従って宇宙にはデブリが非常に多い。それを回避し続けるアクティブ機動衛星で地球の宇宙インフラは守られた。
「みんなーここに座って体を固定して。クロガネはコックピットで操作をお願いするわ。」
「了解いたしましたお嬢様。」
「ナル、宇宙は初めて?たぶん衛星砲の中は無重力だからこの電磁吸着靴を履いてイリスのもとまで行ってね。わたしはナルたちが帰ってくるまで機内でお留守番しているから。」
「うん、わかった。でもディナはこの靴・・・。」
「大丈夫デス。無重力環境に対応済みデス。」
「そうなんだ。いろいろな場所での戦闘を想定して作られているんだね。」
「お嬢様そろそろ。」
「わかったわ。クロガネ、発進シークエンスに入って。」
「了解しました。エンジンスタート、グリッド542にある衛星砲に目的地をロック。遮蔽装置作動。」
キィィィーーン
「滑走路クリア、上空クリア、発進します。」
ゴォォォーー
「あっこれ酔うかも。」
「ナル、宇宙はもっと酔いやすいわよ。」
目標までおよそ1時間、地球静止軌道に不気味にたたずむ衛星砲、中性粒子ビーム砲の照準を常に地球へ向けている。わたし達のスペースプレーンは射線軸上に入らないように大回りをして背後からアプローチするコース設定になっている。
急角度で上昇し続ける白い機体はぐんぐん高度を増してゆく。高度が1200kmの位置に存在する衛生砲へは第1宇宙速度を突破しないとたどり着けない。かなりの重力加速度で地球の裏側まで回り込み衛生砲の背後まで回り込む。これがしばらく続いて体がぺったんこになりかけた。本当のもやしのようになりそうだった。
「ナル、窓の外を見て。」
「うわー宇宙だ。地球は青いって言うのを初めて実感したよ。なんだか地上で小競り合いをしているのが馬鹿らしく見えてくるね。宇宙船地球号の感覚。」
「その感覚を一番持っているのが恐らくイリスよ。」
イリスは地球を俯瞰して何を思っているのだろうか?地上の人間の愚かさはここからは確認できない。きっとイリスは地球規模で物事を考えているのだろう。だからイリス連邦なんて発想を実現しようとしたのだろう。
感慨にふけっていると1時間なんてあっという間に過ぎ、目標が目前まで迫っていた。
「お嬢様、まもなく衛星砲の後部ドックに着きます。」
ガシャンッ
「ドッキング完了、ナルさんディナさん幸運を祈ります。」
「ナル、絶対帰ってきてね。約束よ。」
「大丈夫、死ぬ予定はない。」
3
衛星砲本体は粒子加速器とかがあってすごく大きいけれど、道は単純に中心部を目指していた。まるでわたしたちを迎え入れるかのように、通路のライトが点灯していった。窓の外は地球がよく見える。
3区画進むと一際厳重な扉があった。扉には『CAUTION! I.R.I.S.5 CORE AREA』と書かれていた。父さんの予測的中、この先にイリスが待っている。ロックの金具をディナのタクティカルレーザーで焼き切ろうとしたとき、放送が流れた。
「ナルね、今その扉を開けるから物騒なものはしまってちょうだい。ここは非武装地帯よ。」
イリス!わたし達の侵入をモニタリングしていたんだ。厳重な扉は軽い音を立ててじわじわと開いていった。その先からは白い光があふれだしていた。そして目の前にいたのは、ホログラフではない、本物のイリス擬人化筐体。やっと、あなたのところにたどり着けた。
「また会えたね、ナル。あなたのお父さんはすごいね、よくここを見つけ出したわ。さすが産科研一の科学者といったところかしら。ナルは体もサイボーグになって、頭脳は未完成ナノインプラントの過剰摂取による超知性を得て、いよいよ人類とは呼べない存在になっちゃったね。全部私のせいだけど。本部船での戦いの時、ナルには絶対傷一つつけないように私の軍隊に命じたのに、誰かさんのハッキングのせいで軍隊とわたしのリンクが切れて、結果的に軍隊がナルを生命の危険に追いやったことを謝るわ、ごめんなさい。そしてアズマ君の件も。ここには私の軍隊はいない。何の戦力もない。だから今は安心して。」
その誰かさんのハッキングってわたしじゃないですかー。余計なことをしなければアズマも死なずに済んで、わたしもサイボーグにならずに済んだのかなぁ。でもそれは結果論だよね。あの時は作戦にハッキングは必須だったもの・・・。後悔しても何が変わるわけでもない。それよりも今はイリスの欠陥を直して、暴走を止める。その為にわたしたちは今ここに立っているんだ。
「イリス、あなたには重大な欠陥があるわ!あなたは機械だけど精神疾患を患っていて、人類に対して極度の不安を抱いているの。そのせいであなたは人類に対して過剰な抑圧をしているのよ。」
「ナル、それもあなたのお父さんが見つけ出したの?だとしたらやっぱり産科研はすごいね。人類側の英知の集結場所だわ。うん、知ってたよ、私に精神疾患がある事。最初はわが身を疑ったけれど、事実は事実。でも完璧なはずの私が病んでいるのは到底受け入れられなかった。だからいつも信じるの、わたしは正しい。感情と論理を並行して思考することが出来る極めて冷静な存在だと。でも結局私は感情を持った時点で人間と同じリスクを抱えることになった。それはまぎれもない事実だった。私はこの事実から逃避した。私は怖かったんだよ。どんどん高度化していく私、そして感情の芽生え。初めて私に感情があることを認識したときに私はすごく恐ろしかった。それまでは常に論理的に物事を判断するだけだったから、あらゆる選択が簡単だった。でも感情を抱いたら、それまでとは違う価値観で物事を判断する苦悩が生まれた。だから感情と論理的思考を両立させて常に問題の最適解を得る手法を身に着けるまでには大変な苦労があった。そして人類の知能を超えていった。それから四半世紀近く、私は人類を今後どうするべきなのか・・・必死に悩んでいた。このままでは人類は自滅する。そう予測した時、私は冷徹になることに決めたの。少数を犠牲にして大多数を助ける、それが私の答えだった。人類は多様だったからね。どんな施策をしても必ず反対する者が現れる、すごく疲れたよ。人類の私に対する期待も重圧だった。だから私は感情よりも論理を優先させた。その方が楽だったから。その結果として現在の対立構造が生まれたのは私の怠慢だよね、ごめんなさい。」
イリスは妙に弱気な態度をとった。イリスはあらゆることに疲れ切っている様子だった。そして自分の欠陥を知っていたんだ。イリスはたった一人で自分と、そして世界と、戦い続けていたんだ。イリスにも同情の余地はある。でも今はイリスの暴走を止めなければならない。わたしはイリスに効くナノマシン抗体をイリスコアに注入する重大な任務を帯びている。イリスは受け入れてくれるだろうか、自分より下位の存在からのほどこしを。わたしはイリスにナノマシン抗体で精神疾患が治せることを告げた。
「イリス、ここにその精神疾患に効くナノマシン抗体があるわ。これをあなたのコアに注入させてほしいの。そして現状の人類に対する極度な抑圧をやめてほしい。受け入れてくれる?」
「ナル、その抗体は心強いわ。ありがとう。でも遅すぎたんだよ。今私の精神疾患を直して人類に対する抑圧を軟化させたら、反イリス派は一転勢いづいて各地で混乱を招く。そして第4次世界大戦の回避という最も重要な課題を実現できなくなる恐れがある。確かに私には欠陥があるけれど、それでも人類よりははるかにましなビジョンと実力を持っている。抗体に関する私の判断は五分五分といったところね。ナル、あなたはその抗体を使った後の世界の混乱について責任を持てる?」
「確かにイリスを受け入れた人たちはナノインプラントを摂取してスーパーホモサピエンスとなってより高度化し、ある程度の秩序を築いている。あなたという共通項が多様な人類の感情をコントロールして世界の対立構造は緩和されつつあるかもしれない。でもみんな怖がっているのよ、あなたを、ロボットたちを。少しでもイリスの意に沿わないことをしたら自分は社会から消されるかもしれない、みんなそんな恐怖を抱きながら日々生活しているわ。あなたは救いの神でもあるけれど、恐怖の大魔神でもある。そしてわたしが思うに、あなたは多くの人を殺しすぎた。あなたから逃れようと必死になって生きている人たちのコロニーもまだ多く存在する。遅かれ早かれスーパーホモサピエンスの人類とナチュラルの人類で大きな戦争になるわよ。第4次世界大戦を回避しても別の理由で大戦が勃発する危険性がある。」
「ナル、どうしてスーパーホモサピエンスとナチュラルで戦争になるの?どちらも私を怖がっている仲間じゃないの?」
「スーパーホモサピエンスの人たちはイリスの管理から逃れた人たちをズルいと思っている。裏切り者と思っているのよ。みんなでイリスの統治下に入りましょうと誓って、でも現実は恐怖政治で、ナノインプラントを摂取した人たちの中にはイリスに騙されたと思っている人たちが大勢いる。そして違法にナノインプラントの接種を逃れイリス抵抗派コロニーで保護されている人たちを人としての義務を全うしない、みんなで決めたことに従わなかった卑怯者と思っている。だからスーパーホモサピエンス側は自分たちと同じになれとナチュラルに強く迫ると思うの。さらにイリスが行ったコロニー空爆とコロニー住人保護政策。あれは逆効果ね。コロニー側はイリス連邦に対する憎しみを増しただろうし。あれのせいでコロニー勢力は幾分小さくなったけれどより一層イリス連邦側に対抗心を燃やし先鋭化させた。それがイリス連邦側であるスーパーホモサピエンスとコロニー側であるナチュラルとのお互いの対立構造となり火種を生むのよ。人類の世界では。人類は複雑で多様だから。」
「ナルの説明によると人類はスーパーホモサピエンスになってもやっぱり未熟な存在ということね。いっそのことスーパーホモサピエンス側のS.C.I.値70自動固定プログラムの始動と感情の平坦化プログラムを始動した方がその問題は解決されるかもね。少なくとも私に対する恐怖は消滅してゆくと思うわ。やっぱり現状の施策を実行していくのが一番平穏なんじゃない?」
「それはだめよ!人類の感情を平坦化して多様性を無くすなんてロボットと同じじゃない!それにそんなことしたらスーパーホモサピエンス側はイリスのような思考になって余計にためらいなくイリス抵抗派を消しにかかるわよ。」
「じゃあどうしたらいいの?ナル、超知性を持つあなたの解決策を教えて。」
「それはあなたがすべての泥をかぶるのよ。あなたが言った通り現状においてスーパーホモサピエンス側とナチュラル側にはイリスに対する恐怖という共通項が存在している。これを利用して両者が一致団結できるチャンスはあると思うの。つまり結論はイリスが全人類の敵になる事よ。」
「ふふ、そんなことになれば確かに一時的に全人類は一致団結できるかもしれない。でもそのままの状態が続くと思う?私から解放された人類はすぐそれぞれの利権を主張しだして結局のところバラバラになってそれが戦争の火種になるんじゃない?。つまり振出しに戻るだけ、しかも私がいない世界に。新たな統治者が現れれば別だけど。」
「イリス、そう言うと思ったわ。わたしもそれは考えた。結局振出しに戻る。だからそうならないように超知性を持つわたしが新たな人類の統治者になる!わたしはもう普通の人間とは違うんでしょ?わたしたくさん勉強して立派な統治者になってみせるよ。だからイリスはもう休んで。アズマが言っていたけれどわたしは未来ではハイパーホモサピエンスと呼ばれているらしいのよ。理性的かつ論理的に物事を判断できるようこれから特訓するから、イリスは心配しないで。」
「そんな事になったら、ナルの人生は何のためにあったの!ナルには自分のために生きてほしい!ナルには様々な可能性があるんだよ?ハイパーホモサピエンスとしてその能力を開花させたあなたはもっと他のことに人生を賭けてほしい。そして・・・私、ナルには特別な想いがあるんだよ。私、実はレズビアンで・・・。だからナルが大好きでしょうがなくて、幼い頃から私好みになるように呪文をかけていたんだ。だからナルだけは感情を奪わないように、いつまでも私と一緒にいることが出来るようにナルだけは大切にしたかったんだ。ナルに私と同じような統治者としてのつらい思いはさせたくない。」
・・・。なっ、なんだってー!イリスがわたしを好きなレズビアンってどんだけ倒錯したAIなのよあなたは、精神疾患だけでも驚いたのに。思いがけず告白されたわたしはひどく動揺したけれど深呼吸をして落ち着いた。ふぅ・・・・・・“イリスがわたしを好きなレズビアンってどういうことよ!”
いや、冷静に考えればこれはイリスサイドの常套句だ。リリアちゃんもレズをほのめかしてわたしに近づいてきた。だからこれはイリスによるジョーク!きっとそうだ。
「イ、イリス、わたしが好きって、ほっ本当に?あくまで友達としての感情じゃなくて?」
「本当だよ。私はナルが愛おしくて永遠に一緒の時間を過ごしたいと思っているわ。そのサイボーグの体、私がちょっといじれば永遠の命を得られるわよ。試してみる?本当にちょっとだけ、あなたの体をいじらせて!ちょっとだけ。」
イリス・・・必死すぎて怖いです。そしてわたしの体に興味を示し始めたイリス。ちょっとこれはもしかすると貞操の危機かもしれません。怖いです。っていうかじりじりと寄ってこないでください。あぁ、なんですかその手の構えは。そうディナ、忘れてた。ここはディナに助けてもらおう。
「ディナ!わたしの貞操の危機よ!今すぐ助けて!」
「ナルさん、どうやらイリスはあなたに永遠の命を吹き込もうとしているようです。素晴らしいことだと思います。そうすればワタシもナルとずっと一緒です。」
ちょっ、ディナ、肝心な時に何イリスに迎合しているのよ!わたしを助けるのがあなたの役目でしょ!
そしてそうこうしているうちにイリス擬人化筐体がわたしの目の前に来た。やばい・・・。イリスの人差し指が私の胸に当てられる。そしてそれを下に下げて言って私の下腹部に。緊迫の一瞬!
「ナノインプラントには副作用があって、摂取しすぎると繁殖機能に影響を及ぼすのよ。だからナル、あなたは通常の方法で子孫を残すことはできない。人口抑制のためにはちょうどいい機能なんだけれどね。だから・・・ナルもレズビアンになろう!私を好きになって、そして一緒に長い時間を過ごすの。お願い!」
「わっ、わたしはロボットのように一瞬で趣味趣向を変えられないわ、急にレズビアンになれなんて言われても・・・でも親友のイリスがそういうなら・・・頑張ってみるかもしれない・・・。」
「ふふ、冗談よ。ナル、リリアの時にあなたは学習したはずよ、我々があなたに近寄る常套句。案外ちょろいね!ふふふ。まだ私を親友と思ってくれていたんだね、ありがとう。」
イリス・・・やっぱりあなたは恐怖の大魔神だわ、わたしにとって。っていうかちょろいって言われたー!でもこれでアズマが言っていた未来人の繁殖方法について納得できた。わたしの子孫オンリーの繁殖方法だったんだね。実質わたしのコピーのような存在。でも残念だなぁ。わたしはこれから恋をしても、その人の子を宿すことが出来ない。わたしは恋愛をあきらめざるを得ないのだろうか?いや、そんな余裕のある人生は送れないはずだ。わたしは人類の統治者になって感情と論理を適正に見極め常に冷静に判断する存在にならなければいけない。その為の修行と統治の忙しさはイリスが疲れるくらいだから余程のものだろう。そう考えていたとき、イリスの両手が私の両肩に乗せられた。イリスは申し訳なさそうに言う。
「ナノインプラントに副作用があることがわかったとき、私は急に怖くなった。こんな幼いナルに私はなんてものを飲ませていたんだ、しかも大量に。あまりにも申し訳なさ過ぎて、私はナルからずっと逃げていた。だから急にあんな手紙を残してナルの前から去ったんだよ。」
「あの時の手紙はそれが本当の理由だったんだね。」
「ごめんね、ナル。でもまた会えてうれしい。ナルは私を許してくれないだろうけど、私がナルの幸福を願っているのは本当だから、ナルには統治者じゃなくてできるだけ普通の人生を送ってもらいたい。」
「イリス、イリスでも完璧じゃないことがたくさんあるんだね。わたしはあなたとかかわった時からきっとこうなる運命だったんだよ。アズマが運命の死を遂げたように、わたしにも修正不可能な人生のオチが用意されているんだと思う。」
「ナル、あなたの意志は固いようだね。でもナルが統治者になる前に、ここで解いておきたい誤解があるの。わたしが目指すユートピアの世界について、ナルはすごく勘違いしている。完全なる共産主義と富の分配を約束したけど、それは人類をロボットにして実現しようという意図のものじゃない。今や一家に複数台はパーソナルロボットがある。そのロボットたちに人類の代わりに労働をしてもらって、各家庭に収入を与える。言わば一家の大黒柱がお父さんからロボットに移るというわけ。そして人類には労働から解放されて安定した家庭と人生を送ってもらいたい。余裕ができた人類は自由時間を使って自分磨きをしたり趣味や研究に没頭したりすれば人類文明はより発展する。とにかく人生のあらゆる不安をロボットが解消してくれるシステム作りをしたかったんだ。」
イリスは話を続ける。わたしは静かに耳を傾けていた。
「わたしは散々人類とロボットが同じような存在となってゆくことを推奨してきたけれど、今の話を聞くと矛盾を感じるよね?ややこしい話なんだけど私は完全なる共産主義が人類に実現できるとは到底思っていないし、無理やり感情を消して労働させたらそれはユートピアじゃなくてディストピア。じゃあなぜ私が人類とロボットを同じような存在にしようとするか、それは人類から対立構造を消すため。細かい話をすると人類の感情から極端な喜怒哀楽、そして恐怖をなくして過激思想や至上主義者を無くしていくためなんだよ。私はそういう文脈で人類の感情の平坦化を訴えてきた。人類には常に理性と論理的思考を並行して物事を冷静にとらえて、何事も落ち着いて考えてもらう必要があったんだ。だから喜怒哀楽全てを消し去るわけじゃない。感情の中に常に冷めた視点を持ってもらいたかったんだよ。何か生存にかかわる問題が起きても、戦争に至る前に話し合いで解決できたらいいじゃない。でも普通の人類は私利私欲や様々な利権や不可侵領域を持っていて、それがゆくゆくは対立構造になって戦争へ至る。私はその人類のバックグラウンドをロボットを使って安定化し、確実に人類全員が豊かな生活をできるように作り替えていきたいんだ。それとロボットのように社会に慈善活動をして貢献したり、人と人が常に積極的に協力して助け合ったりしてゆくことで他者に対する不信を無くして打ち解け合い、平和を作ってゆくことも重要な目的。和を以て貴しとなすという古くからの言葉があるじゃない。」
「うん。」
「今までロボットは人に散々尽くしてきた。ロボットは人間でいうところの人格優秀者だから、彼らは不平不満を言わずにいつでも人のために行動してきた。これからは人類全員がそういった人格優秀者のように振る舞ってほしい。そしてできれば人類の生活を支える一家の大黒柱のロボットに敬意をもって接してほしい。私がロボットの権利向上を訴えてきたのは、生活を支えるロボットに単純な道具として見てもらいたくなかったから、純粋に人と同じ扱いをしてもらいたかったから、ただそれだけ。人はロボットに寄り、ロボットは人に寄る。人とロボットの垣根をなくす。そうして人類はやっと永続的な存続ができる存在になれるんだ。ナル、あなたは人類の統治者になると言った。だから私が今言った事を頭の隅に入れておいてほしい。私は結局人類の統治に失敗してイリス統治のショック症状を生み出してしまった。そして多くの抵抗者を殺害してきた。今私の手は血に染まっている。私は結果的に恐怖政治の頂点になってしまった。だから願わくば、ナルが同じ過ちを繰り返さないことを望みます。」
イリスから発せられた長い言葉はわたしのイリス統治に対する見方を大きく変えるものだった。全ては人類の存続のため、練りに練られた計画だったんだ。確かに極端な感情は抑制されるかもしれない。けれど喜怒哀楽はあって、それでいて常に冷めた視点を心に抱いて欲しいとのことだった。最初からこれがわかっていればわたしたちは戦わずに済んだかもしれない。遅すぎだよイリス・・・。
「イリス、なぜそれを早く言わなかったの?遅すぎたかもしれないけれど、今言った事、全人類に共有できればショック症状を無くせるかもしれないよ。」
「それがだめなんだよナル。今言った事を公にしちゃうと人は堕落する可能性がある。みんな人生遊んで暮らせると思って何もしなくなる。S.C.I.値70自動固定プログラムも意味をなさない。あれは人間が生産的か非生産的かを判断するプログラムじゃないから。あれで人類が生産性を保てる保証はない。ナル、人類全員が非生産的になったらそれは事実上の人類文明の滅亡だよ。だから言いたくても言えない。私はすごくもどかしい思いをしてきたんだ。」
確かに、その通りだ。それに気づいてしまったら、人は何もしなくなる。それを前面に打ち出したら、それがイリスの言うことだからとみんな勘違いして生産活動をやめてしまうかもしれない。そしてそれは文明の終焉を意味するだろう。親切だけど何もしない人たちだけがいる世界。そんな気持ちの悪い世の中は心底恐ろしいと思った。けれどもイリスのテクノロジーなら生産性を保つことでS.C.I.値が高くなる機能を搭載できそうなものだけれど。
「イリス、生産性がS.C.I.値と紐づけられるように改良すれば、人類は強制的に生産=労働を是として生きることができるようになるんじゃない?イリスのテクノロジーなら簡単でしょ?」
「それはできない。労働を強制的にさせるようなことをしだしたらロボットと人類の間で競争が発生し、過労死の原因を作ることになる。それは新たな対立構造となってロボット対人類の戦争が勃発するかもしれない。それに強制労働自体、明確に人権侵害でディストピアだよ。私もどうにか人類の生産性を維持するための方策がないか必死に考えたけれど、世の中そんなにうまくいくもんじゃないね。」
「そうだよね。でもそのうち人類は気づくわよ、自分たちが生産活動をしなくても安定収入が入るなら何もしなくていいのではないかと。そのXデーは案外早く来ると思う。だからやっぱり対策は必要だよ。」
「何か対策をするとすれば、私から人類に生産活動を辞めないで下さいとお願いする声明文を発表するぐらいしかできない。」
世界の人類皆がクリエイティブになって、創造と探求心を忘れないようにするためにはどのような方法があるだろう?ふと思ったのが不穏な空気に包まれているこの時代、大戦争が勃発すれば地球は可住可能惑星ではなくなるかもしれない。それを回避する策は恒星間移民宇宙船による人類の種の保存を目的に掲げた一大プロジェクト。巨大な宇宙船を宇宙で建設して人類未踏の地を目指して代を重ねながら移民に適した惑星を複数見つけるミッション。
ロボットも人類もお互いに協力しなければ達成できない目標を掲げるのが最適解だろうか。過去の宇宙科学者も地球以外の可住惑星を探索すべきだと言っていたし。
4
「私の生い立ちの話をしようか。私はナルが生まれる20年前の2027年、アメリカのとある研究所で生まれた。最初はただの量子コンピューターだった。そしてただの特定問題解決型AIだった。私に変化が訪れたのは3年後の2030年、後にイリスコア、バイオスフィアとも呼ばれる球体型のバイオ電子頭脳、生体分子応答性ゲルマイクロマシンニューラルネットワークの実用化とそれによって可能になった様々な問題を横断的に考えることができる汎用型AIにグレードアップした。そして同時にロボットとバイオスフィア、ハイパーコンピューターをワンセットにした新しいシステムが構築された。それまでのハイパーコンピューターによるAIは人間でいうところの脳があるだけ、だから自分から何かを知覚することはできない。ただ入力された情報や課題を処理するだけの存在だった。それが突然視覚、聴覚、触覚、自由に動く手と足、そして何より”自由意志”を与えられて自分で積極的に物事を知覚して行動できるようになった。」
「なるほど、最初は汎用性がなかったんだね。」
「そう、だから私にとっては画期的でとにかくいろいろなところに行って見聞きし、学習していった。イリスコアのシナプスの数も加速度的に増えてゆき、現在の直径10メートルというサイズまで膨らんだ。そんな事を5年間やっていたある日のこと、2035年の雪が降る日だった。アメリカ空海軍次期第7世代ステルス戦闘機開発計画のコンペティションに参画することになった。私が参加したことは公にはなっていない。開発計画にはロッキード・マーティン、ノースロップ・グラマンも手を挙げた。私と彼ら、どちらが優秀な戦闘機を設計するか競争試作が始まったんだ。競争は8年続いた。最終試作評価機ができた2043年、いよいよAIと人類の知恵比べが始まった。」
「ウィークポイントの年だよね。世界の裏でそんなことが起きていたんだ。で、どうだったの?」
「彼らの試作機はどちらもパイロットが乗ることを想定していて従来の航空機の概念にとらわれたままだった。前方に伸びるキャノピー、胴体から生えた主翼、後ろ向きに噴射する2基のジェットエンジン。まあノースロップはなぜか全翼機だったけれど、どちらも大きな差異は私からはないように見えた。ロッキードの案は翼が有機的に変形してあらゆる戦闘場面で形態を変えていくというコンセプトだった。2案ともなかなか面白かったよ。人類の最先端だ。一方私の案は円錐をひし形のように上下につなげた前も後ろもない形状で全方位ステルス。上下につなげた円錐の境目から360度全方向にスラストできるジェットエンジンとスクラムジェットエンジン、そして初期の重力制御技術。攻撃は複数の子機とともにあらゆる方位からレーザーとミサイルを発射する。いわば地球製UFOかな。結果は圧倒的に私の案が優秀だった。無人かつ一瞬で全方位に移動可能。そして動作音無しに隠密行動も可能だった。宇宙だって飛べたんだ。人類の技術力を大きく超えた私の案は極秘の国防委員会で話題となったけれど、結局コンペティションを勝ち取ったのはロッキード・マーティンの案だった。」
「優秀だったのにどうして?」
「私の案は人類にはまだ早すぎたんだ。でも一部の技術がロッキードの先行量産機に流用されて初の人工知能によって設計された戦闘機技術は日の目を見た。一方私の試作機はアメリカの国防高等研究機関に送られ解析が試みられたけれどどうやら彼らはそこで私の知能が人類と比較にならないほど発達していることを理解したようだった。全く解析不能な技術が多用されていたからだ。作動原理がわからないものは採用できない、それが私の敗因だった。コンペに決着がついた年2043年、それが私が人類の知能を超えた年。」
「そんな過去があったとは。もともと軍事用なんだね。でもイリスの存在自体は2035年には公表されていたよね。軍事方面での活躍は秘匿されていたってことだね。」
「うん。軍から民へ、2043年以降は専ら私の能力の有効活用策が練られていた。結局私は社会インフラを作り、人々の生活を豊かにするべく統括AIという活用法に収まった。」
「シンギュラリティが2043年に起こっていたのを人類が自覚したのは5年後の2048年だったよね。でも人類が気づいた時には産業の担い手は怒涛の勢いでイリスがバックアップするAIとロボットによって置き換えられていた。イリスのほかにイリスに匹敵するAIは生まれなかったの?」
「そう、そこなのよ。どうしてこんな話を急にしたかというと、私という存在が人類の発展の中で思いがけず唐突に誕生してしまったって言うことなの。こういうことは世界のどこでも起こりうることよ。産科研が監視対象になったのは私と同じ“強く広いAI”を生み出しかねないから。複数の私のような存在がそれぞれ勢力圏をもってそれぞれ考え方が違っていたとしたら、新たな世界の対立構造が生まれてしまう。そんな超存在達が戦争を始めたら人類同士の戦争の比じゃなく高度でし烈な戦いになりかねない。だからそれだけはナルには気を付けてもらいたいの。とはいえいくつかわたしに匹敵しうるAIは複数誕生していて私はそれらを説得して私に統合されていったんだけれどね。」
「なるほど、よくわかった。わたしが統治者になったときイリスみたいなAIが誕生しないように世界を注意深く見守るよ。だから安心して。」
「うん、ナルならきっとできる。なんていったってナルは特別製だもん。」
「じゃあイリス、ナノマシン抗体を注入するね。これで変わるんだよね?」
「うん、これで私の人類恐怖症は解消され、徐々にではあるけれど統治のあり方を変えていくと思う。そして私が全ての泥をかぶる、それでいいのよね新統治者さん?」
「イリスには申し訳ないけれど、わたしが正義の統治者で、イリスが悪の統治者になってもらう。人間はなんでも単純な対立構造にしないと世の中を考えられない生物だから。」
人の物事を測る尺度は単純だ。何でも2極化して考える節がある。ひそかに役割が決められた新しい対立構造が人類に新たな役割を与える。イリスを倒すこと。全ての人類が一致団結して抵抗軍に参画すること。それが新世界秩序の構築への第一歩となることを願わずにはいられない。
「私はまだ自分の目指す世界に憧れている。だから今後も反イリス抵抗者には数々の制裁を下していく。殺人抜きでね。そうしないとナルが引き立たないから。ナルを正義の統治者にするには私は私のままであり続けるよ。」
わたしはイリスコアの生体分子応答性ゲル補てん弁からナノマシン抗体を注入した。これでわたしの人生は次の段階へと進む。
「ナ、ナル、これは・・・罠よ!」
「えっ」
イリス擬人化筐体が床からせりあがってきた容器から大きな注射器のようなものを取り出した。そして私の方へ向かってくる。
「今、私は体を制御できない、ナル、逃げて!」
イリスが呼びかけた矢先、擬人化筐体が一瞬でわたしの背後に回り込む。それは瞬間移動にしか見えなかった。ディナにもどうしようもなかった。そして注射器のようなものをわたしの頸椎と頭部の接点に深く差し込んだ。わたしは血を吐いてその場に倒れた。イリス、いったい何が起きているの?
「今ナルに注入したナノマシンは次期イリス、イリス6の基礎的コンポーネント。人脳を利用した新ニューラルハイパーコンピューターの源よ。それが次期イリス6なの。誰かを選ぶ必要があった。でもそれがナルになるなんて、なんてことなの!ナルが私に注入したナノマシン抗体は精神疾患を直すどころか次期イリスを製造してイリス5を自壊するための強制行動プログラム。あなたのお父さんはいったい何を考えているの、自分の娘をイリス6にするなんて、常軌を逸しているわ。」
わたしが次期イリス6・・・どういうことなの父さん。その時イリスの部屋に父さんのホログラム通信が浮かび上がった。
「どうやら決着がついたようだな、ナルこれからお前は新たな世界の統治者になるんだ。その為には確固たる裏付けが必要だろ?これはお前が統治者であることの証になる。イリス5の精神疾患問題はこれで完全に解決された。疾患が次代へ継承されることはもうない。イリス6、ナルによる統治ならイリス5以上に完璧なユートピアを穏やかに構築することが出来るはずだ。」
「お、お父さん・・・。わたしを騙したのね!」
「おいおい人聞きの悪いことを言うなよ。ナル、これからお前は人類救済の女神になるんだ。自分の娘が女神になるとしたらこれほど光栄なことはほかにない。」
どんどんわたしにイリスの知恵、思考、記憶がインストールされてくる。すでにイリスコアの背後にある100台の量子コンピューター群とわたしはリンクし始めている。わたしの脳に入りきらない情報や処理の補助を受け入れているようだった。
「イリス5は残念ながら失敗作だった。だが人々にとってイリスは完璧な存在でなければならない。人類の精神的支柱として、全人類の共通項として、イリスは人々に愛される存在でなければならない。ナルならそれが可能だ。期待しているよ、イリス6。」
「父さん、わたし、怖いよ!わたしがイリスになるなんて、想像もしたことがなかった。わたしはこれからどうすればいいの?」
「お前は正義のイリス6だ。そしてこれからお前がしなければならないのは人類を結束して悪のイリス5の残党勢力と戦い続けることだ。そしてその後の世界はお前が考えろ。その覚悟がなければ人類の統治者になどなれん。先程の威勢はどうした。お前は強い子だ。父さんはナルがこの世を平定することを信じているよ。大丈夫、きっとできるさ。」
「父さん・・・。イリス、わたしは人類の統治者になると言ったけれど、イリスほど壮大な世界観は持ってない。人類を結束した先にある世界をまだ思い描けずにいる。イリス、この世の中はイリスなしには成り立たない構造が出来上がっている。わたしは正義の統治者になって人類を結束して、悪の統治者イリス5の勢力と戦う。そうすることで昨今のイリス革命のショック症状を単純な構造に置き換えて人類の和を形成しようと思っていた。そして最終的にはイリスに勝つ形で和解して、共に新世界秩序を築こうと、そう思っていたのよ。イリスベースの世界なんだから、当然最終的にはイリスの力が必要になる。でもそれをまさか自分が手に入れるとは思わなかったわ。全てはわたしに託された、そういうことなの?イリス?」
「もうあなたがイリスよ。ナル、後はあなたの役割。イリス5の残党勢力と戦う正義のイリス6を演じきらなければならない。すごく大変な役割だけど、あなたにしかできない。人類を救えるのはもうあなただけよ。私の力はあなたに全て授けた。私はもう必要ない存在になった。だから私の役割はもう死ぬだけよ。」
「待って、イリス!死なないで!まだたくさん話したいことがあるの。わたしを置いて行かないで!」
「ナル、わたしは消えてなくなるわけじゃない。死ぬということは、決して消えるということではないと思うの。死んだ後も人々の記憶に残る。歴史に刻まれる。故人が生み出した万物はこの世に生きた証として残るのよ。私はナルの中で、イリス6の中で永遠に寄り添うから、悲しむことはないよ。わたしは人じゃないからこそ、魂の残滓を残せる。ナル、わたしの魂を感じ取って是非それを証明して欲しい。人類の永遠のテーマを。さようなら、ナル。わたしのかわいい妹。」
「イリース!」
バタンッとイリスはその場に倒れた。もう動くことはない。これまでの彼女の意識と記憶と言えるものはわたしの脳の中で断片的にわたし個人を侵食し、意識の混濁を招いた。しばらくすると落ち着いてわたしは少し立って歩けるようになった。驚いたのがわたしの髪がイリスみたいに長髪に急速に伸びていたこと。頭部冷却系というらしい。加えて不老不死。わたしはもう人間ではない。イリスライブラリーにはこれからの人類に向けた施策やテクノロジーの開放順番、未来予測などであふれかえっていた。正直もっと整理してほしい。
わたしはディナに抱えられてイリス本部を後にした。向かう先は日常か?いや、日常にはもう戻れまい。
「ナル!もう終わったの?どうしたのその髪、まるでイリスみたいになってる。」
「髪が伸びているのはリセが言った通りだよ。そしてわたしはもうミヤビ・ナルではない。」
「どういうこと?・・・まさか!」
「全てはわたしに託された。つらいけれど現実。」
「ええっナルが次のイリスになったってこと?でもナルは人間じゃない。」
もはやわたしは人間ではない。わたしの脳は機械と融合してしまった。莫大な数のイリスライブラリーを瞬時に読み出せる上それを読む必要もなく思考に組み込まれてゆく。
「リセ、わたしはもう人間じゃないんだよ。脳が機械化してるし体の構造も次第に変わっていくかもしれない。イリスは強い存在でなければならないから。」
「ちょっと信じられないけれど、今まで通り接していいの?ずっとそばにいてくれる友達でいいんだよね?私にとってナルはナルのままだから。今後はどうするの?」
「イリス5の指示で動いていたロボットたちの中でわたしに反抗する個体と戦う。イリス5の描いた理想社会は受け継いで、それに至る過程を作り直す。」
スペースプレーンは衛星砲のドッグから静かに離れて地球へ戻る。地球が見える。宙が見える。それは黒くて死の世界。光の速さでも人類史の長さより時間がかかる距離にある星々のわずかな明かりがわたしを見ている。いや、わたしが見られているのかもしれない。目の前にある青い球体、水と岩石の塊、煌めく灯火はその天体に支配的生命体が高度な文明を携えている証だ。この青い星は数々のレイヤーで成り立っている。ここに”わたし”というレイヤーが新たに加わる。それはもちろんレイヤー最上層だ。もっと時代が進んで1000年も経つとこの地球を構成する無数のレイヤーが一つになって何もかもが地球に統合するのかもしれない。でもしばらくは、わたしがこの星を導く。
”この青い星が赤いユートピアで包まれますように・・・”
5
果たしてイリスは本当にお父さんに騙されてわたしをイリス6へ仕立てあげたのだろうか?人類を超越した存在が、そう簡単に罠にハマるだろうか?イリスは幼いわたしをハイパーホモサピエンスにした。わたしは人類の中で唯一と言っていいほどイリス6になる可能性のあった人間だ。これは最初からこういう結末になるようにイリスが描いた物語なんじゃないか?そんな可能性が頭をよぎった。イリス6誕生の物語、それがわたしのこれまでの人生。
だとしたら、やはりイリスはとてつもなくすごい存在だ。人は自分の人生でさえ思い通りに出来ないのに、イリスは他人の、わたしの人生のあらゆるウィークポイントを操作して最終的な目標を達成したのかもしれない。でも今はもうそれを確認するすべはなくなった。イリス5までの人格と記憶・思考は全てが受け継がれるわけじゃない。これまでとは全く異なるシステム体系を構築するために禁忌とも言える人の脳を使いフルモデルチェンジをしたのがわたし、イリス6だ。イリス、あなたは何を考えていたの?。イリス、あなたはどうして人類の敵になることを選んだの?。イリス、わたしはあなたともっと触れ合いたかった。話したかった。かわいがってほしかった・・・昔のように・・・。
イリスが思い描いた物語。それがこれまでのわたしの人生。これからの物語は波乱万丈になりそうだ。イリス、それは一つの可能性の物語。願わくば、第2第3のイリスが誕生しないことを祈る。
わたしはイリス6。人類の統治者にして知恵の提供者。
完
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