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虚ろなる凱旋

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 クディカ軍の陣営。
 並び立つ白い幕舎のうち、とりわけ厳重に警固された一つ。二十余名の兵士に囲まれたその中に、ソーニャ・コワールの眠る寝台が置かれていた。簡素な貫頭衣を着せられ、静かに寝息を立てる麗しく幼げな寝顔は、力を是とする魔族の将とは思えない。
 モルディック砦で体験した凄惨な出来事を思い出し、ヘイスは身を震わせた。ソーニャ・コワールは残虐非道な異種族の女であると、薄れそうになる恐怖を忘れないために。
 だが、今はそんなことよりも。

「カイトさま。そろそろお休みになってください」

 ベッド脇の椅子に腰掛けたまま微動だにしないカイトが、目下の懸念であった。
 勝利の報と共に彼が凱旋した時、ヘイスはえも言われぬ喜びと誇らしさを覚えた。それも一瞬。当のカイトは表情をひどく曇らせており、称賛の言葉を欲しているようには見えなかった。戸惑いの中でカイトを迎え、彼の功績を労うも、帰ってくるのは生返事ばかり。せっかく用意した寝床も使わずじまいである。

「せめてお顔を……」

 温めた手拭いを差し出すと、カイトは無言で受け取り顔を拭った。目の下に隈を作り、
ぎらついた瞳をソーニャに向け、ただ彼女の目覚めを待っている。
 ヘイスの幼い心は、今のカイトを恐いと感じてしまった。同時に、そんな自分をどうしようもなく嫌悪する。いかなる時も身命を投げうち、主人を支えると決めたはずなのに。

「カイトさま。何か食べるものをお持ちしましょうか? あ、それかお水を」

 手を組んで笑顔を浮かべ、できるだけ明るい声を心がける。

「なんでも言いつけて下さい。ボク、なんでもしますから」

 リーティアから事情は聞いた。ソーニャ・コワールが魔王の名を呟いたこと。そして、その名がカイトの実妹と同じであること。
 今のカイトは心が乱れている。だからそっとしておくようにと言われた。それでもヘイスは愛する主人の為に何かをしたかった。従者としての役目を果たしたかった。

「ヘイス」

「は、はいっ」

 ようやく返ってきた言葉。だが、カイトは一瞥すら寄こさない。

「いい。何もするな」

 無気力な声は、ヘイスを落胆させる。
 自分は必要とされていないのか。主人を励ますことはできないのか。暗い無力感が目の前を覆いかけた時、続くカイトの言葉がそれを打ち払った。

「黙って傍にいてくれ」

 心が締め付けられた。
 ヘイスはスカートの裾を握り締める。自分はなんと愚かなのか。カイトの気持ちを理解しようとせず、ただ自身の価値を証明しようとしていた。与えることだけを考えて空回りしていた。今はただ、受け入れるだけでよかったのに。
 隅にあった椅子を運び、カイトのすぐ隣に腰を下ろす。彼に寄り添い、その手を握り締めた。そうしてやっと、カイトの手が震えていることに気付く。
 眠り続けるソーニャを前にして、殴り起こし詰問したい衝動が激しく脈を打っている。そんなことをすれば答えから遠のくだけだと分かっていても、静かなる激情は次第に水嵩を増していく。この場から離れることもできず、ただじっと耐えて目覚めを待たなければならない。ひどく、もどかしい。
 カイトの葛藤が、汗ばんだ手を通して伝わってくる。

「ごめん」

 ふと、乾いた呟きが耳朶を打った。

「勝手な奴だよ。俺は」

 ぽつりぽつりと、並べられていく言葉。

「魔王を倒すって、決めたのにさ。もしかしたら魔王は、カイリかもしれない」

「カイトさまの……妹さんですか?」

 カイトの目がこちらを向いた。虚ろな表情に息を吞んでしまうが、ヘイスは決して目を逸らさない。ぎらついた黒い瞳にはどこか違和感を覚える。ヘイスを映していながら、他の誰かを見ているような。

「ヘイスと同じくらいだった。歳とか、身長とか。目元が似てるんだよな」

 和らいだカイトの表情。どきりと心臓が跳ねる。

「嬉しいんだよ、俺。嬉しいって……思っちまった。だってさ、もしあいつがこの世界で生きててくれてるなら。会えるだろ、また」

 けれど魔王は、人類の敵。相容れぬ異種族の王。
 息交じりの不安定な笑いが、カイトの口から漏れる。

「わかんねぇよな。名前が同じなだけかもしれないし」

 いま何を考えるべきか。これから何をするべきか。

「マジで、わかんねぇ」

 顔を覆うカイト。ヘイスは唇を引き結ぶ。
 彼がどんな過去を抱えているか、ヘイスは知らない。この世界に来る前の話を、カイトはあまり話したがらない。身の上話などは特に。
 それがどうした。出来事を知らずとも、カイトの心は確かに伝わってくる。
 痛み。苦しみ。悩み。迷い。葛藤。怖れと不安。
 その全てを分かち合いたい。ヘイスはただそれだけを望んでいる。

「カイトさま」

 握った手に、少しだけ力をいれてみた。

「ボクには、何が正しくて、どんな道が正解なのかなんて、全然わかりません。あんまり頭、よくないですから」

 浮かべた苦笑いを引っ込め、握った手に両手を添える。

「でも一つだけ、絶対に間違いじゃないってわかることがあるんです」

 意思を固め、ゆっくりと息を吸い込む。

「ボクは、何があってもカイトさまのお傍にいます。どこへだってついていきます。カイトさまがイヤだと仰っても、意地でも離れません」

 カイトの体がぴくりと震えた。

「従者として――いえ、一人の女としてそう決めているんです。この選択だけは、絶対に間違いじゃないって言い切れます。一生かけて証明します」

 栗色の瞳は決意に満ちていた。矜持と愛に溢れていた。
 それがヘイスの誓いだった。愛する主人を励まさずにおかないとの強き願い。新芽に過ぎなかった彼女の、今まさに結実しつつある人間性の発露である。

「ヘイス」

 目が合う。不思議とカイトが何を考えているのかが読み取れた。卑屈な自己の過小評価。これはカイトが持つ思考の癖のようなもの。
 それを必死に否定する。繋げた手と、真心の眼差しをもって。

「わかった」

 彼が浮かべたのは、自信に満ちた強い微笑み。
 ヘイスは小さな悲鳴をあげた。抱き寄せられ、カイトの腕の中にすっぽりと収まってしまったからだ。

「ありがとう」

 力強い抱擁の中に、優しさが溢れている。
 痛いほどに高鳴る鼓動。顔が燃えるように熱い。何も言えず、動けず、ただカイトに身を委ねるしかないこの状況が、たまらなく幸せだ。
 天幕の中に、しばしの静寂が訪れた。
 身体の奥で疼く衝動が、全身に駆け巡っていく。だんだんと力が抜けていき、表情は恍惚となっていく。生まれて初めての感覚にほんのすこしの抵抗を覚え、けれど抗えない。カイトに触れる部分が、ぴりぴりとしびれる様だ。
 この瞬間がずっと続けばいい。不謹慎にもそんなことを考えてしまう。
 だが、至福の時間は唐突に終わりを告げる。

「……あのさぁ」

 苛立たしげな声。
 ヘイスは半ば反射的に、声の方を見る。

「目の前でイチャつくのやめてもらえるかしら。なんかすっごい腹立つんだけど」

 目を覚ましたソーニャが、湿った視線をこちらに向けていた。
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