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幕間 六
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泣き虫カインと呼ばれた病弱な幼子が、齢十五にして立派な戦士に成長することを、一体誰が予想しただろう。村の若者と共に侵略者を撃退した彼の初陣は、後世に語り継がれる伝説の幕開けとなった。
類稀な軍才を自覚した彼は、自身の才能を世の為に使おうと一念を起こす。数人の仲間と共に故郷の村を発ち、同志を募る旅に出た。
彼には秘めたる矜持があった。カインという名に込められた願い。敬愛する灰の乙女より授かった祈りが、彼を突き動かす原動力となり大業への道を歩ませたのだ。故に、いかに艱難に満ちた道程も遊楽の旅に相違なかった。
彼を慕う七人の英雄が集結した時、歴史は激動の時代を迎える。
故国の悪王を追放し政権を奪取すると、即座に周辺諸国へ侵攻を開始。強化魔法の恩恵を享けるカイン軍の勢いたるや凄まじく、並び立つ小国を次々と平定していった。
乙女の聖名のもと、平和の為に剣を振るう。彼の理念に魅了された志士は数知れず。ある時は敵国からの亡命者までが陣中に加わった。
向かうところ敵なし。数多の英雄豪傑を従えた彼の勢力は日に日に増長し、天下に比類なき軍勢となった。
カインは前だけを見据え、ただ突き進んでいた。その先にあるはずの平和を目指し、死に物狂いで戦った。振り返ればそこに、悲惨と怨嗟が渦巻いていることさえ知らず。
配下の中にはそれに気付く者もいたが、純粋に平和を求めるカインに水を差す真似は誰にもできなかった。彼らもまた信じていたのだ。カインの進む先に真の平和があると。
日夜に関わらず軍を進め、戦いに明け暮れる日々。その道は勝利と栄光に彩られていた。
だが、順風満帆の快進撃は一夜にして終わりを迎える。
明るい満月の夜。進軍先に現れた一人の剣士が、カイン軍十万の行く手を阻んだ。
「なんだ? あの男は」
カインの隣で馬を歩かせる親友のチェキロスが、訝しげに目を凝らす。
「敵方の使者かな? それにしては妙だね。馬も引かずに一人だなんて。チェキロス。あれ、どういうつもりだと思う?」
口角を吊り上げたカインの目が、屈強な体つきの剣士を見据える。三十代半ばほどだろうか。黒い髪。黒い瞳。眼光鋭く、その佇まいは熟練の使い手そのものであった。
「友好的でないことは確かだな」
チェキロスの放った殺気に感応したかの如く、剣士は腰の柄に手をかける。
「ふははっ。おもしろい! 我らに向かってくるつもりか」
無邪気な笑いは嘲笑ではない。たった一人で十万の軍に立ち向かう、その気概への称賛であった。故に危機感などまるで覚えず、剣士の臨戦を蛮勇と断じた。それも当然だ。ここは遮るもののない平野。兵力がものを言う戦場で、剣士一人に何ができるものか。
「行軍を止めるのも面倒だ。先鋒隊」
「はっ」
軍の最前線を進む千人の部隊。その隊長が姿勢を正す。
「ちょっとした余興をしよう。俺があの位置まで進むまでに、奴を始末してみせてよ。討ち取った者には千人長の地位をやろう」
「御意」
カインの気まぐれを耳にした先鋒隊の兵達が沸き立つ。
「者ども聞いたか! 我らが王のご慈悲である! 褒美が欲しい者は突撃せよ!」
隊長が叫ぶや否や、先鋒隊員は我先にと馬を加速させた。
不敵な笑みを浮かべ、瞬きをするカイン。
刹那。彼の兜が上空へ弾け飛ぶ。
「あ?」
魔法によって強化された兜が、粉微塵となって宙を舞った。顔面に垂れ落ちる生温かい液体。
呆然自失とはこのことだ。何が起きたか皆目わからない。
カインが死を免れたのは、咄嗟に反応したチェキロスのおかげだった。カイン軍最強の戦士であり優れた参謀でもあるチェキロスは、不測の事態に備え肉体に強化魔法を施し神経を研ぎ澄ませていた。ところが、自身ではなく王の安全を最優先としていた彼が、剣を砕かれ片腕を破壊されて尚、迫る刃をわずかに逸らすことしかできなかった。
「王をお守りしろッ!」
チェキロスの絶叫。半ば無意識下で発した命令だった。だが周囲の兵は動かない。何人たりとも動けない。
カインの眼前に悠然と佇む剣士を前にして、十万の軍は一人残らず呼吸を忘れた。はるか後方にいる最後尾の一人に至るまで、身動き一つとれなかった。存在感。圧力。歴戦の精鋭は戦うまでもなく感じ取る。喉元に触れる鋭利な刃を。
「退け」
剣の口から発せられた一言。
久しく忘れていた恐怖が、カインの背筋を震わせる。
「ぶ、無礼者! 一介の剣士風情が何を――」
「この先に灰の乙女がいる。それ以上の説明が必要か」
剣士の声は稲妻の如く、全軍に衝撃を走らせた。
「乙女の騎士……!」
灰の乙女とその騎士は、カインが生まれて間もなく大陸の外へ旅立ったと聞いた。だからこそカインは、乙女の名代としてこの大陸に平和をもたらさんと戦ってきたのだ。
いつ戻ってきたのか。そもそも真実なのか。進軍を止めるための虚言ではないのか。この男が乙女の騎士である証拠などどこにもありはしない。
ならばこの感覚はなんだ。生命の奥底に響く、神を前にしたかのような畏れはなんだ。
真実には抗えない。目の前の男がどうしようもなく本物であると、無条件に認めざるを得なかった。
仮に偽物であったとしても、この男の前では十万の軍など塵芥も同然。彼我の実力差は、もはや測ることさえできない。僅かでも戦意を見せようものなら、その瞬間に軍は消滅する。
「灰の乙女がいらっしゃるなら……神妙に、軍を退こう」
呼吸に努めなければ意識を失いかねない。そんな圧迫感の中、カインは声を絞り出した。王の矜持を握り締め、騎士の姿を網膜に焼き付ける。
顔面を血に染めるカインは、自ら馬を下り剣士の前に平伏した。
七将軍をはじめ、直属の配下はみな王に倣い、大地に伏して額をつける。
「我が名はカイン。乙女の騎士よ。あなたの名を、教えて頂けないだろうか」
カインの心に常在する乙女と騎士の精神。この時まで気付かなかった傲慢を打ち払うべく、生命の父たる騎士の名を記憶に刻みたいと願った。
十万の兵達が固唾を呑んで見守る中、男は静かに剣を納める。
「カイト・イセ」
ぶつかった鍔と鞘とが、夜空に澄んだ金属音を奏でた。
「忘れていいぞ」
名乗りの後、剣士は一陣の風を残して消えた。
暗がりの平野には、ただ静寂のみが響き渡る。
歴史に並び立つ者のない英雄。建国王カイン一世が喫した初めての敗北。
たった一人の剣士に叩きつけられた、唯一にして清々しい惨敗であった。
類稀な軍才を自覚した彼は、自身の才能を世の為に使おうと一念を起こす。数人の仲間と共に故郷の村を発ち、同志を募る旅に出た。
彼には秘めたる矜持があった。カインという名に込められた願い。敬愛する灰の乙女より授かった祈りが、彼を突き動かす原動力となり大業への道を歩ませたのだ。故に、いかに艱難に満ちた道程も遊楽の旅に相違なかった。
彼を慕う七人の英雄が集結した時、歴史は激動の時代を迎える。
故国の悪王を追放し政権を奪取すると、即座に周辺諸国へ侵攻を開始。強化魔法の恩恵を享けるカイン軍の勢いたるや凄まじく、並び立つ小国を次々と平定していった。
乙女の聖名のもと、平和の為に剣を振るう。彼の理念に魅了された志士は数知れず。ある時は敵国からの亡命者までが陣中に加わった。
向かうところ敵なし。数多の英雄豪傑を従えた彼の勢力は日に日に増長し、天下に比類なき軍勢となった。
カインは前だけを見据え、ただ突き進んでいた。その先にあるはずの平和を目指し、死に物狂いで戦った。振り返ればそこに、悲惨と怨嗟が渦巻いていることさえ知らず。
配下の中にはそれに気付く者もいたが、純粋に平和を求めるカインに水を差す真似は誰にもできなかった。彼らもまた信じていたのだ。カインの進む先に真の平和があると。
日夜に関わらず軍を進め、戦いに明け暮れる日々。その道は勝利と栄光に彩られていた。
だが、順風満帆の快進撃は一夜にして終わりを迎える。
明るい満月の夜。進軍先に現れた一人の剣士が、カイン軍十万の行く手を阻んだ。
「なんだ? あの男は」
カインの隣で馬を歩かせる親友のチェキロスが、訝しげに目を凝らす。
「敵方の使者かな? それにしては妙だね。馬も引かずに一人だなんて。チェキロス。あれ、どういうつもりだと思う?」
口角を吊り上げたカインの目が、屈強な体つきの剣士を見据える。三十代半ばほどだろうか。黒い髪。黒い瞳。眼光鋭く、その佇まいは熟練の使い手そのものであった。
「友好的でないことは確かだな」
チェキロスの放った殺気に感応したかの如く、剣士は腰の柄に手をかける。
「ふははっ。おもしろい! 我らに向かってくるつもりか」
無邪気な笑いは嘲笑ではない。たった一人で十万の軍に立ち向かう、その気概への称賛であった。故に危機感などまるで覚えず、剣士の臨戦を蛮勇と断じた。それも当然だ。ここは遮るもののない平野。兵力がものを言う戦場で、剣士一人に何ができるものか。
「行軍を止めるのも面倒だ。先鋒隊」
「はっ」
軍の最前線を進む千人の部隊。その隊長が姿勢を正す。
「ちょっとした余興をしよう。俺があの位置まで進むまでに、奴を始末してみせてよ。討ち取った者には千人長の地位をやろう」
「御意」
カインの気まぐれを耳にした先鋒隊の兵達が沸き立つ。
「者ども聞いたか! 我らが王のご慈悲である! 褒美が欲しい者は突撃せよ!」
隊長が叫ぶや否や、先鋒隊員は我先にと馬を加速させた。
不敵な笑みを浮かべ、瞬きをするカイン。
刹那。彼の兜が上空へ弾け飛ぶ。
「あ?」
魔法によって強化された兜が、粉微塵となって宙を舞った。顔面に垂れ落ちる生温かい液体。
呆然自失とはこのことだ。何が起きたか皆目わからない。
カインが死を免れたのは、咄嗟に反応したチェキロスのおかげだった。カイン軍最強の戦士であり優れた参謀でもあるチェキロスは、不測の事態に備え肉体に強化魔法を施し神経を研ぎ澄ませていた。ところが、自身ではなく王の安全を最優先としていた彼が、剣を砕かれ片腕を破壊されて尚、迫る刃をわずかに逸らすことしかできなかった。
「王をお守りしろッ!」
チェキロスの絶叫。半ば無意識下で発した命令だった。だが周囲の兵は動かない。何人たりとも動けない。
カインの眼前に悠然と佇む剣士を前にして、十万の軍は一人残らず呼吸を忘れた。はるか後方にいる最後尾の一人に至るまで、身動き一つとれなかった。存在感。圧力。歴戦の精鋭は戦うまでもなく感じ取る。喉元に触れる鋭利な刃を。
「退け」
剣の口から発せられた一言。
久しく忘れていた恐怖が、カインの背筋を震わせる。
「ぶ、無礼者! 一介の剣士風情が何を――」
「この先に灰の乙女がいる。それ以上の説明が必要か」
剣士の声は稲妻の如く、全軍に衝撃を走らせた。
「乙女の騎士……!」
灰の乙女とその騎士は、カインが生まれて間もなく大陸の外へ旅立ったと聞いた。だからこそカインは、乙女の名代としてこの大陸に平和をもたらさんと戦ってきたのだ。
いつ戻ってきたのか。そもそも真実なのか。進軍を止めるための虚言ではないのか。この男が乙女の騎士である証拠などどこにもありはしない。
ならばこの感覚はなんだ。生命の奥底に響く、神を前にしたかのような畏れはなんだ。
真実には抗えない。目の前の男がどうしようもなく本物であると、無条件に認めざるを得なかった。
仮に偽物であったとしても、この男の前では十万の軍など塵芥も同然。彼我の実力差は、もはや測ることさえできない。僅かでも戦意を見せようものなら、その瞬間に軍は消滅する。
「灰の乙女がいらっしゃるなら……神妙に、軍を退こう」
呼吸に努めなければ意識を失いかねない。そんな圧迫感の中、カインは声を絞り出した。王の矜持を握り締め、騎士の姿を網膜に焼き付ける。
顔面を血に染めるカインは、自ら馬を下り剣士の前に平伏した。
七将軍をはじめ、直属の配下はみな王に倣い、大地に伏して額をつける。
「我が名はカイン。乙女の騎士よ。あなたの名を、教えて頂けないだろうか」
カインの心に常在する乙女と騎士の精神。この時まで気付かなかった傲慢を打ち払うべく、生命の父たる騎士の名を記憶に刻みたいと願った。
十万の兵達が固唾を呑んで見守る中、男は静かに剣を納める。
「カイト・イセ」
ぶつかった鍔と鞘とが、夜空に澄んだ金属音を奏でた。
「忘れていいぞ」
名乗りの後、剣士は一陣の風を残して消えた。
暗がりの平野には、ただ静寂のみが響き渡る。
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