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②
飛び跳ねる少女
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僕の日課は放課後図書室にこもることだ。適当に読書や自習をして時間を潰す。完全下校時刻まで居座ることも珍しくない。
周りには勉強に集中する三年生が多く見られる。大学受験というのはどれくらい厳しいものなんだろうか。今から想像するだけで憂鬱になる。
本棚から引っ張ってきた文庫本を開くと、僕の精神は現実から切り離され、想像の世界へと旅立つ。たまに耳に入る現実のノイズ。生徒会が云々とか。どうでもいい。
ちょうど最後のページをめくったところで、下校を促す放送が流れ出す。現実に引き戻される。気が付くと図書室には僕一人だけになっていた。カウンター越しに見える司書室で居眠り中の図書委員を一瞥する。あれは委員長じゃないか。顔見知りとしては一応起こした方がいいのだろうか。面倒だしやめておこう。どうせ巡回の先生が起こしてくれるだろう。僕は意味も無く忍び足で図書室を後にした。
既に校内に人は無い。こんな時間に残っているのは、生徒会の人間か運動部の面々か、もしくは余程の暇人くらいだろう。
そう思って昇降口を出ると、校門をくぐる男女の姿が見えた。仲睦まじく手を繋いでいる。こんな時間まで何をやっていたんだか。あれが暇人の末路か。僕も他人のことを言えた立場じゃないけど。
「おーい! マサアキー!」
ミサキの声。振り向くと、運動場の方から現れる女子の集団。ラケットケースを背負っているところを見るに女子テニス部か。
皆の視線が僕に集中している。一気に居心地が悪くなった。
集団から小走りで抜け出したミサキは、部活のせいかこころなし疲労気味の様子だ。
「おつかれ」
「おつ! マサアキがこんな時間に下校なんて、珍しいわね」
別に珍しくない。僕はいつもこの時間に帰っている。今までミサキに出くわすことがなかっただけだ。
「ミサキー! ウチら先に帰ってるよー!」
「あーごめんごめん! また明日ね!」
校門をくぐっていく女子たちの好奇の視線が痛い。見せものじゃないよ。
「一緒に帰らなくていいの?」
「いいのいいの。どうせ帰る方向違うし」
僕とミサキは並んで校門をくぐる。
「こんな時間まで何してたの?」
「本読んでた」
「図書室?」
「うん」
「へー。どんな本?」
「恋愛小説」
「…………」
「どうして黙るの」
ミサキの無表情が徐々に崩れ、堪え切れない笑いが露わになる。
失礼な。僕が恋愛小説を読んだらそんなにおかしいか。
「ごめんごめん。怒んないでよ」
ミサキは半笑いで僕の肩を叩く。
「あたしの思うところによるとね」
ミサキは急に真面目な表情になって顎を押さえると、
「恋愛感情ってのはさ、結局は性欲の延長線上でしかないのよね。言い換えれば潤滑剤。子孫繁栄のためのね」
何か言い出した。
「だって恋愛の行き着く先ってそこでしょ。そうじゃないなら、それは生物として不健全、不完全だわ」
「人によると思うけど」
「それが問題よね。人間は下手に理性や知性なんかを身につけてしまっただけに、欲望に対してひねくれちゃってるのよ。種の保存という根本的な使命を忘れてね」
「へぇ。つまり?」
「セックス万歳!」
両手を掲げてジャンプ。スカートがふわりと広がる。
ノーコメント。ミサキの性哲学がどんなものであっても、僕の人生に何ら関与するところはない。
僕自身ミサキの言動には慣れてしまっているが、端から見たらどうなんだろう。年頃の少女がセックス万歳と言いながら満面の笑みで飛び跳ねている様を。
「まあそれはいいとして」
さすがに恥ずかしかったのか、ミサキは気まずそうに咳払いをする。
「恋愛小説と言えば、マサアキ知ってる? 『あたたかな手』っていうネット小説」
聞いたことの無い題名だった。趣味は読書だと言えるくらいには本を読んできたが、ネット上の小説に関しては無頓着だ。
「そこそこ有名よ? クラスの子はほとんど読んでるくらい」
「ネットで小説を読むって習慣がないからさ」
どうにも素人の書いた作品を読む気にはなれない。中には良作もあるんだろうけど、僕の好みには合わない気がする。恋愛小説ともなれば特に。
ミサキの談によれば、幽霊の出てくるノンフィクションだとかなんとか。底抜けの胡散臭さだ。
「もったいないわよ。面白いのに」
ミサキは言外に読めと言っているのだろう。けど、その気はない。仲の良い友人から勧められたものでも、そう簡単に既存の抵抗感は拭えない。
しばしの沈黙が訪れた。紅く染まり始めた太陽が、僕達の影を伸ばしている。
「ねぇマサアキ」
信号待ちで立ち止まった時、ミサキがぽつりと声をこぼした。
「あたしね。自分はもっと冷静な人間だと思ってた。やると決めたことは、どんなことがあっても投げ出さない強い人間だとも思ってた」
僕はぼぅっと赤信号を眺める。ミサキは急に何を言い出すんだろう。
「何かあったの?」
僕の問いかけに、ミサキはかぶりを振る。
「特に何も。むしろ、何もないことが不満なのよね」
信号が青に変わる。ミサキは歩き出そうとはしなかった。
「いいんじゃないのそれで。平穏が一番だよ」
かまわず僕は歩を進めた。一足遅れてミサキが小走りで追いかけ来て横に並ぶ。
「マサアキは悩みとかないの?」
「あるよ。色々」
「たとえば?」
「背が低いこととか」
「そんなの、どうしようもないことじゃない」
「そうだよ。だから悩んでも仕方ないことさ」
解決のために出来ることはある。早く寝るとか、牛乳を飲むとか、怪しい薬を使うとか。でも、全て確実じゃない。もしかしたら低身長は遺伝のせいで、これでも伸びた方なのかもしれない。
「でもさ、僕の悩みにそういう意見を持つってことは、ミサキの悩みはどうしようもあるってことだよね」
ミサキは俯く。それが首肯だったのか、ただ俯いただけなのかは解らない。
「羨ましいな」
「え?」
「自分の力で悩みを解決できるのは、羨ましいことだよ」
「そうかしら」
僕はバッグを背負い直す。
気が付けば、ミサキと道を違えるところまで辿りついていた。
「それじゃ、また明日」
「あ、うん」
ひらひらと手を振って僕はミサキに背を向ける。
「マサアキっ」
十歩ほど進んだところでミサキは僕の名を呼んだ。振り返ると、夕陽が逆光となって視界を眩ませる。
まだ何かあるのだろうか。ミサキの言葉を待ったが、彼女はなかなか言い出さない。
「なに?」
逆光が強く、ミサキは黒い人型となっている。彼女の口元すらも窺えない。
無言。呼び止められて立ち去るわけにもいかず、僕はミサキが何か言うのを待たなくてはならなかった。
小さく足踏みするミサキのシルエット。彼女らしくない、はっきりしない態度だ。
「バイバイっ。また明日!」
それだけを残して、ミサキは踵を返して走り去っていく。
「あ」
わざわざ呼び止めてまで言うことか?
追いかけようかとも思ったがやめておいた。僕如きがミサキの脚に敵うはずがない。
結果、一人取り残される僕。
なんだったんだろう、一体。
周りには勉強に集中する三年生が多く見られる。大学受験というのはどれくらい厳しいものなんだろうか。今から想像するだけで憂鬱になる。
本棚から引っ張ってきた文庫本を開くと、僕の精神は現実から切り離され、想像の世界へと旅立つ。たまに耳に入る現実のノイズ。生徒会が云々とか。どうでもいい。
ちょうど最後のページをめくったところで、下校を促す放送が流れ出す。現実に引き戻される。気が付くと図書室には僕一人だけになっていた。カウンター越しに見える司書室で居眠り中の図書委員を一瞥する。あれは委員長じゃないか。顔見知りとしては一応起こした方がいいのだろうか。面倒だしやめておこう。どうせ巡回の先生が起こしてくれるだろう。僕は意味も無く忍び足で図書室を後にした。
既に校内に人は無い。こんな時間に残っているのは、生徒会の人間か運動部の面々か、もしくは余程の暇人くらいだろう。
そう思って昇降口を出ると、校門をくぐる男女の姿が見えた。仲睦まじく手を繋いでいる。こんな時間まで何をやっていたんだか。あれが暇人の末路か。僕も他人のことを言えた立場じゃないけど。
「おーい! マサアキー!」
ミサキの声。振り向くと、運動場の方から現れる女子の集団。ラケットケースを背負っているところを見るに女子テニス部か。
皆の視線が僕に集中している。一気に居心地が悪くなった。
集団から小走りで抜け出したミサキは、部活のせいかこころなし疲労気味の様子だ。
「おつかれ」
「おつ! マサアキがこんな時間に下校なんて、珍しいわね」
別に珍しくない。僕はいつもこの時間に帰っている。今までミサキに出くわすことがなかっただけだ。
「ミサキー! ウチら先に帰ってるよー!」
「あーごめんごめん! また明日ね!」
校門をくぐっていく女子たちの好奇の視線が痛い。見せものじゃないよ。
「一緒に帰らなくていいの?」
「いいのいいの。どうせ帰る方向違うし」
僕とミサキは並んで校門をくぐる。
「こんな時間まで何してたの?」
「本読んでた」
「図書室?」
「うん」
「へー。どんな本?」
「恋愛小説」
「…………」
「どうして黙るの」
ミサキの無表情が徐々に崩れ、堪え切れない笑いが露わになる。
失礼な。僕が恋愛小説を読んだらそんなにおかしいか。
「ごめんごめん。怒んないでよ」
ミサキは半笑いで僕の肩を叩く。
「あたしの思うところによるとね」
ミサキは急に真面目な表情になって顎を押さえると、
「恋愛感情ってのはさ、結局は性欲の延長線上でしかないのよね。言い換えれば潤滑剤。子孫繁栄のためのね」
何か言い出した。
「だって恋愛の行き着く先ってそこでしょ。そうじゃないなら、それは生物として不健全、不完全だわ」
「人によると思うけど」
「それが問題よね。人間は下手に理性や知性なんかを身につけてしまっただけに、欲望に対してひねくれちゃってるのよ。種の保存という根本的な使命を忘れてね」
「へぇ。つまり?」
「セックス万歳!」
両手を掲げてジャンプ。スカートがふわりと広がる。
ノーコメント。ミサキの性哲学がどんなものであっても、僕の人生に何ら関与するところはない。
僕自身ミサキの言動には慣れてしまっているが、端から見たらどうなんだろう。年頃の少女がセックス万歳と言いながら満面の笑みで飛び跳ねている様を。
「まあそれはいいとして」
さすがに恥ずかしかったのか、ミサキは気まずそうに咳払いをする。
「恋愛小説と言えば、マサアキ知ってる? 『あたたかな手』っていうネット小説」
聞いたことの無い題名だった。趣味は読書だと言えるくらいには本を読んできたが、ネット上の小説に関しては無頓着だ。
「そこそこ有名よ? クラスの子はほとんど読んでるくらい」
「ネットで小説を読むって習慣がないからさ」
どうにも素人の書いた作品を読む気にはなれない。中には良作もあるんだろうけど、僕の好みには合わない気がする。恋愛小説ともなれば特に。
ミサキの談によれば、幽霊の出てくるノンフィクションだとかなんとか。底抜けの胡散臭さだ。
「もったいないわよ。面白いのに」
ミサキは言外に読めと言っているのだろう。けど、その気はない。仲の良い友人から勧められたものでも、そう簡単に既存の抵抗感は拭えない。
しばしの沈黙が訪れた。紅く染まり始めた太陽が、僕達の影を伸ばしている。
「ねぇマサアキ」
信号待ちで立ち止まった時、ミサキがぽつりと声をこぼした。
「あたしね。自分はもっと冷静な人間だと思ってた。やると決めたことは、どんなことがあっても投げ出さない強い人間だとも思ってた」
僕はぼぅっと赤信号を眺める。ミサキは急に何を言い出すんだろう。
「何かあったの?」
僕の問いかけに、ミサキはかぶりを振る。
「特に何も。むしろ、何もないことが不満なのよね」
信号が青に変わる。ミサキは歩き出そうとはしなかった。
「いいんじゃないのそれで。平穏が一番だよ」
かまわず僕は歩を進めた。一足遅れてミサキが小走りで追いかけ来て横に並ぶ。
「マサアキは悩みとかないの?」
「あるよ。色々」
「たとえば?」
「背が低いこととか」
「そんなの、どうしようもないことじゃない」
「そうだよ。だから悩んでも仕方ないことさ」
解決のために出来ることはある。早く寝るとか、牛乳を飲むとか、怪しい薬を使うとか。でも、全て確実じゃない。もしかしたら低身長は遺伝のせいで、これでも伸びた方なのかもしれない。
「でもさ、僕の悩みにそういう意見を持つってことは、ミサキの悩みはどうしようもあるってことだよね」
ミサキは俯く。それが首肯だったのか、ただ俯いただけなのかは解らない。
「羨ましいな」
「え?」
「自分の力で悩みを解決できるのは、羨ましいことだよ」
「そうかしら」
僕はバッグを背負い直す。
気が付けば、ミサキと道を違えるところまで辿りついていた。
「それじゃ、また明日」
「あ、うん」
ひらひらと手を振って僕はミサキに背を向ける。
「マサアキっ」
十歩ほど進んだところでミサキは僕の名を呼んだ。振り返ると、夕陽が逆光となって視界を眩ませる。
まだ何かあるのだろうか。ミサキの言葉を待ったが、彼女はなかなか言い出さない。
「なに?」
逆光が強く、ミサキは黒い人型となっている。彼女の口元すらも窺えない。
無言。呼び止められて立ち去るわけにもいかず、僕はミサキが何か言うのを待たなくてはならなかった。
小さく足踏みするミサキのシルエット。彼女らしくない、はっきりしない態度だ。
「バイバイっ。また明日!」
それだけを残して、ミサキは踵を返して走り去っていく。
「あ」
わざわざ呼び止めてまで言うことか?
追いかけようかとも思ったがやめておいた。僕如きがミサキの脚に敵うはずがない。
結果、一人取り残される僕。
なんだったんだろう、一体。
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