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1話「冷雨とたんぽぽ」
しおりを挟む1話「冷雨とたんぽぽ」
春がもう少しでやって来るという冬の終わり。皆が暖かくなる日を待ちわびて、少しずつ明るい色の服を着たり、花見の予定を立てたりするこの時期。
この日は夕方から、冷たい雨が降っていた。
仕事が終わり、早く彼がいる家へ帰り、温かいご飯を作って2人でゆっくりしたいな。
そんな事を花霞は思い、急ぎ足で自宅へと歩いていた。
けれど、待っていたのは酷い現実だった。
玄関のドアを開けた瞬間、彼が珍しく出迎えてくれた。嬉しく思ったの束の間、彼の海外旅行用の大きなスーツケースを差し出された。
「俺と別れてくれ。」
「え…………。」
「そして、今すぐにこの家から出ていってくれないか。」
「な、何を言ってるの………?」
3年前に付き合い始め、すぐに同棲した恋人である玲は、めんどくさそうに茶色の髪をクシャクシャとかきながらこちらをジロリと睨んだ。
「もうおまえとは付き合えないって言ってんの。俺、新しい彼女出来たから。」
「そんな、私何も聞いてないよ。それにすぐに出ていけだなんて。どこに住めば………。」
「あー、おまえ実家もないもんな。まぁ、友達のとこ行けばいいんじゃね?」
「………玲………。」
確かに彼とはケンカも多くなり、玲の帰りが遅くなることも多々あった。
けれど、まだやっていけると思っていた。作った料理は食べてくれるし、話しを掛ければ返事をしてくれる。
でも………玲とはデートをほとんどしなくなっていた。恋人らしい事は、ただ体を重ねるだけ。
そんな関係がおかしいと気づいていたはずなのに、花霞は気づかぬフリをしていた。
もう、彼との恋は終わっていたのだ。
今の玲は冷静ではないはずだ。ここで話し合うことは出来ないはずだ。
そう思った花霞は小さく息を吐き、涙を手で拭いて彼から大きなスーツケースを受け取った。
「………わかったわ。もう、おしまいにしましょう。また、今度話しをしましょう。」
「おまえとはもう話す事はない。………あ、その持っている鍵も貰うぞ。」
「あっ………。」
もう別れたら他人とでも言うかのように、玲は花霞が持っていた鍵を奪い取った。
「玲、じゃあ………せめて、忘れ物がないか確認しておきたいんだけど。」
「俺がそのスーツケースにおまえの荷物入れといてやったから、そのまま出ていけるだろ。」
「それでもっっ!貴重品とかは自分で見たい。通帳とか、貯金箱とか……それに玲と話が………。」
「あぁ………おまえのお金なら全部使った。」
「…………え………。」
「新しい彼女がさ、ベットは新しくしたいとか、車買いたいとか言っててさ。」
「………なんで、そんな事を……。」
あまりの事に、花霞は呆然としたまま、言葉を吐き出した。口元だけが動いていたが、体はふらふらして力が入らなくなってきていた。
「当たり前だろ。おまえと付き合った時に使ったお金を返してもらったんだよ。通帳の番号は何となくわかってたし、旅行に行こうって2人で貯めてたのも、別に使ってもいいだろ。」
「よくないよ………私のお金だよ?あの通帳は私の全財産なんだよ?」
「んだよっ!うっせーな。金ないなら働けばいいだろっ!」
「玲、お願い………どうしてそんな事しちゃったの!?玲っっ………!」
「うるせーなっ!さっさと出ていけっ。もう、おまえに名前も呼ばれたくなんだよっ!」
玲は細身の体だったけれど、やはり大人の男だ。両手で力いっぱい体を押されてしまえば、花霞の体は倒れてしまう。彼に押された体は、開いていたドアを出て外の廊下へ出てしまった。
「じゃーな。もう会うこともないだろうけど。」
花霞の体を蹴り、ドアが閉まるようになると、ニヤリと笑いながら玲はそう言い乱暴にバタンッとドアを閉めた。
そのマンションの廊下は外に面しており雨がパラパラと体に降ってきた。
「…………いたっ…………。」
ノロノロの体を起こそうとすると、押し飛ばされた時に体をぶつけ、腰や足、そして手首にに痛みが走った。
それでも、こんな所で倒れているわけにもいかずに、花霞は立ち上がり、ゆっくりと玲が居る部屋のドアを見つめた。
広くもない、少し古く安いアパートの3階の1室。
それでも安月給の2人でやりくりしながら暮らしてきた。贅沢は時々しか出来なかったけれど、それでも初めて出来た彼氏と過ごす日々はとても幸せだった。
そのはずだったのに………。
目の前の家は、一瞬にして自分の帰る場所ではなくなってしまった。
カンカンッとヒールを鳴らして階段を降りる。その足取りはとても重い。
もしかしたら、彼が追いかけて来てくれるかもしれない。
そんな甘い考えが、心の中にあるのかもしれない。
「あ………傘も家の中だ。」
アパートの入り口から空を見上げると、先程よりもどんよりとした雲で覆われた夜空が見えた。街頭の灯りに照らされて光ながら沢山の雨粒が落ちてくる。
傘を取りに戻ろうかと一瞬考えたが、すぐに止めた。
もう彼の怒った表情や、冷たい言葉を聞きたくはなかった。
幸せだった思い出が消えて、最後の恐怖を感じた事だけを覚えてしまうのがイヤだった。
屈託のない彼の幼い笑顔を忘れたくなかった。
仕方がなく、濡れてしまうのも構わずに歩き始める。すると、すぐに全身が冷たい雨粒にうたれる。髪はシャワーを浴びたようになり、顔も酷くなっているのが見なくてもわかる。
先程よりも雨足が強くなっているのか、服に雨水が吸い込んで重くなっていく。
ガラガラとスーツケースを引いて歩く。
傘もささずに歩く花霞を、すれ違う人達は怪訝な表情で歩いていた。花霞は俯いたまま、どこに向かえばいいのかもわからずにさ迷ってた。職場の花屋も閉店している時間。ホテルに泊まる事も考えたが、手持ちのお金が自分の全財産だと思うと、そんな贅沢は出来なかった。
ガラガラガラガラ。
スーツケースを持つ手がかじかんできた。濡れた顔も凍ってしまうのではないかと思うほど冷えてきた。夜も深くなり、気温も下がったのだろう。
フッと横道を見ると公園があった。
そこにはトンネルの遊具もあり、あそこで雨宿りが出来そうだ、と思った。そこでスマホで友達に連絡をしよう。迷惑がかかるかもしれないけれど、しっかり謝って訳を話そう。
そう思って公園内に入ろうとした瞬間。
段差があるのに気づかずに、花霞は躓いて転んでしまった。普段なら気にしない段差だったが、体がかじかみ上手く足が上がらなかったのだろう。
花霞が着ていたスカートやコートは泥だらけになった。
手を見ると、手に泥がついていたが、それも少しずつ雨によって流されていく。
真っ黒な視界の中で、明るいものが目に入った。それは、早咲きのタンポポだった。黄色の花を必死に咲かせて、自分はここだよ、と堂々と訴えているようだった。
花霞は、それを見ても何とも思わなかった。
花が大好きなはずなのに、「タンポポがあるな。」としか思えなかった。
それなのに、ポタリポタリと自分の手に温かいものが落ちてきた。
それが、自分の涙だと気づくのに、花霞はしばらくかかった。
泥がまだ付いいる手で雨水に混じった涙を拭き、タンポポに手を伸ばした。ぶちッとその花を採ると青臭い匂いが広がった。
無意識のまま手のひらに乗せたタンポポがを、花霞は握りつぶそうとした。
けれど、次に感じたのは先程の涙より温かいものだった。
花霞の右手にはタンポポとは別に、人の手が乗っていた。タンポポと一緒に花霞の手を包み込むように大きくて温かい手だ。花霞が横を向くと、ビニール傘をさして花霞と同じようにしゃがみ込んでいる男が居た。
長めの黒髪に、茶色の瞳。少し焼けている肌。小さい顔はとても整っており、どこかのファッション雑誌から出てきたような容姿だった。
その男は花霞と目が合うとニッコリと微笑んだ。それは、子どもをあやすような、満面で優しい笑みだった。
「綺麗な花ですね。」
この日から少し経ったとき、どうして彼はそんな事を言ったのだろう、と思ってしまうだろう。雨に打たれ、泥だらけになっている女を目の前にして言う言葉ではなかったはずだ。
けれど、その時の花霞はそんな風には思わなかった。
ただただ救われたような気持ちになって、目から沢山の涙が溢れ出たのだった。
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