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4話「寂しいな」
しおりを挟む4話「寂しいな」
秋文は千春が出会った頃もサッカーに夢中だった。けれども、話しを聞くと彼は幼い頃からサッカーが好きで、そして真剣に練習をしていたようだった。
彼はサッカーに関しては負けず嫌いなのがよくわかり、今でも自分の試合の中継は録画をして熱心に見ている。特に負けた試合はとても悔しそうにしながら、ぶつぶつと何かを呟きながら試合を見つめていた。
そんな、サッカーが大好きな秋文が、引退を考えているとは思わなかった。
確かに30歳前半で、プロスポーツ選手として引退をする選手が多いのはわかる。千春も、彼が引退する時がくると覚悟はしていた。
けれど、まさかこんなにも早く引退をするとは思ってもいなかったのだ。
その言葉を聞いて、千春は一瞬でいろんな事を考えてしまう。
「………引退って、もしかして、そんなに怪我がよくないの?」
「まぁ、それも少しあるな。1番の理由ではないけどな。」
「そんな………。じゃ、じゃあ………。」
「会社の事でもないし、おまえの事では全くないよ。」
千春が心配しているのを見込んで、秋文はそう言ってくる。
それでも、千春は「じゃあ……。」と不安そうに彼の顔を見上げると、秋文は千春を安心させるために微笑んで、濡れている手で頭をポンポンと撫でてくれる。
頭から暖かいお湯が垂れて、顔につたって落ちていく。それが泣いているよう落ちてしまい、まるで今の千春の気持ちを表しているかのようだった。
「自分の思った通りのプレイを出来なくなった。怪我もそうだし、まぁ年齢的にも……。」
「秋文はまだまだ活躍してるよ!?日本に戻ってきた時も、いろんなチームから誘いがあったじゃない!!」
秋文がスペインから戻ってきた時に、新たに日本のチームに入団する際、かなりの数のチームからオファーがあったと人伝に聞いた。
こういう事は、あまり話してくれないので、驚いたけれど、それでも彼を必要としてくれるチームが多いというのに、感動したし安心もした。
それに、彼はとても努力をしている。
そして試合でも成果を出しているのは、素人の千春でもよくわかっていた。
だからこそ、どうして今辞めてしまうのか。それが理解出来なかった。
「まぁ、ありがたい事にな。でも、それがあと何年続くかわからない。それに、自分が納得出来ない試合を続けていくのは、辛いからな。まだ、活躍出来ている時に辞めたいんだ。」
「………秋文はサッカー出来なくていいの?」
「…………。」
千春がそう聞くと、秋文は黙りこんでしまう。
胸まで浸かっていたお湯がちゃぷんと音をたてて揺れた。彼の腕がお湯に浸かったからだ。
先ほどまで千春を見ていた彼の瞳は、遠くを見据えている。
しばらくの沈黙。
千春は、お湯の中でぎゅっと秋文の左手を握った。そこには、千春とお揃いの指輪がついている。
彼は決して外すことなく、毎日つけてくれて大切にしている。
気づくと、その指輪と指輪がぶつかるほどに、強く手を握っていた。
すると、それに気づいたのか、秋文がゆっくりと千春を見た。
そして、一言返事をした。
「それは、寂しいな……。」
それはとても切ない笑顔だった。
サッカーが大好きで、そして今までずっと頑張ってきて本気で取り組んできた物。
それを、こんなにも早く手放すのはどんなに辛いのだろうか。
その事を全部理解した上での決断。そのはずなのに、彼は泣きそうに微笑むのだ……。
彼がサッカーを自ら進んで辞めたいわけではないのだ。そんなのは、当たり前だ。
「ごめん、なさい………。秋文………。」
千春は、ハッとして彼に抱きつきながら、ポロポロと泣いた。
彼に酷い事を聞いてしまった。そして、彼の気持ちが全て伝わってきたのだ。
秋文は、「何でお前が泣くんだよ。」と、笑いながら、優しく抱き締めてくれる。温泉の温かさよりも、秋文の熱くなった体温を感じる。
鍛え上げられた体も、頭の中に入っている戦略も、すべてサッカーのために秋文が積み上げてきた物だ。
そんな彼に抱きしめられながら、千春は泣き続けた。
「俺の代わりに泣いてくれて、ありがとう。」
少し震えている彼の言葉を聞いて、千春は更に涙が止まらなくなってしまったのだった。
こんなのではダメだ。
私がサポートする、と頼ってもらえるように、どーんと構えなければ秋文の奥さんらしくない。
そう思っても涙は後から後から出てきてしまう。
温かい涙は、温泉のお湯と混ざり漂っていた。
千春と秋文は、熱くなりすぎた体を冷やしながら、体を横にして気持ちを落ち着かせた。
畳の上に体を預けるなんて、はしたいかもしれない。
けれど、千春は心も体も冷静になっていくのがわかった。
近くで彼の呼吸が聞こえるだけで、千春は安心した。
「…………秋文。私、秋文の事、頑張ってサポートするから。」
頭もすっきりして、気だるさもなくなってきた。
千春は畳から起き上がり、同じく横でのぼせてしまった体を休めている秋文に近づいて、千春はそう強く宣言した。
すると、秋文もすぐに起き上がり、真剣な表情で千春を見つめていた。
そこには安堵した様子があった。
「千春………。」
「最後の約1年、秋文がサッカーに集中できるように、応援するね。私も、出来る限りの秋文のサッカーしている姿、目に焼き付けておきたいし。応援にも行きたい。」
「気持ちは嬉しいが、おまえには仕事もあるだろ?それに家事もほとんどおまえにやってもらってるし……。」
「そんなことないよ。秋文はいろいろやってくれてるよ。だけど、これからは私がやるから!サッカーだけに集中して欲しいの。……仕事も大きい依頼が終わったら、なるべく自宅で出来るようなもの貰うつもりだったの。だから、気にしないで。」
「無理はするなよ。おまえには負担かけたくないんだ。」
秋文は千春を座ったまま後ろから抱きしめた。千春は彼に寄りかかるように座りながら、「負担なんかじゃないよ。」と返事をした。
彼は完璧で、千春が手伝わなくてもやってしまう。料理は全くしないけれど、他の家事は気づいたらやってくれているし、千春が疲れていたら食事に誘ってくれて、さりげなくフォローしてくれているのだ。
だから、今度は自分が彼の役に立ちたい。
サッカー選手の最後を思いっきりプレイして、楽しんで欲しい。そして、秋文が納得出来る成績を残して欲しい。
そんな風に思った。
「ありがとう、千春。おまえは、いい嫁さんだな。」
「っっ………、そんなこと言われたら、沢山頑張れちゃうよ。」
やる気を出して両手を挙げる千春を、秋文は嬉しそうに見つめていた。「ほどほどにな。」という言葉は、千春には届いていなかった。
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