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31話「懐かしい香り」
しおりを挟む31話「懐かしい香り」
荒いキスを繰り返し受けながら、細く目を開けて千絃を見ると、彼はとても焦っているのがわかった。彼は嫉妬しているのか、ただただ怒っているのか。それとも、自分を狂おしいほどに欲しているのか。彼の気持ちがわかるはずがなかった。
けれど、きっと千絃は和歌のキスをよく思っていないのは確かだ。それは当たり前のこと。千絃が誰か知らない女性とキスをしたと知ったならば、響だって心がギスギスしてしまうだろう。そう思うと、黙っていればよかったと思ってしまう。けれど、彼に秘密はつくるべきではないとも思うのだ。
彼の気持ちを受け入れて、何度も何度も自分の想いを伝えていくしか、彼の怒りを鎮める方法はないのだろう。
響は彼のキスを感じながら、「私もキスをしてほしかった」そんな思いを込めて彼の背中に腕をまわし、ギュッと力を込めて抱きしめた。
すると、彼のキスが優しくなり、ゆっくりと唇が離れた。
「………悪い………いきなりすぎたな」
「ふふふ……いいの。私も千絃にキスして欲しかったから」
「消毒というか、上書きだな」
「そうなの?」
言葉は優しいが、彼の顔にはまだ笑顔がない。
響は笑顔で彼を見つめる。きっとまだ納得していない事があるのだろう。響には、もちろんわかっていた。
「………やっぱり舞台を降板して欲しい」
「千絃………」
「あいつの目的は響の演技じゃなくて、おまえ自身なんだってわかっただろ?」
「それは………でも、やるって決めたことだし、もう稽古は始まっているのよ。今さらやめられない。それに、私がやめたらゲームの評判にも影響が出るかもしれないじゃない」
やはり、千絃は舞台に出るのをよく思っていなかったのだ。元々賛成ではなかった事に、和歌の事が重なったのだ。更に、やめるべきだと思うのも仕方がないかもしれない。
けれど、響は稽古も始めているし、自分を必要としてくれる人もいる。今更やめるなど言えるはずもなかった。それに、途中でやめる事は響はしたくなかった。
「お願い、私にこの仕事を最後までさせて」
「………おまえが舞台をやらなくても、俺たちのゲームは売れる。響の力を借りなくても成功するんだ」
「…………っっ………」
千絃は自分の事を思って言ってくれた言葉なのかもしれない。
けれど、響の胸に何かがグサリと刺さった気がした。
自分は役に立っていない。必要とされていない。
そう言われたような気がした。
「…………帰って………」
「響………おまえ、泣いて……」
気づくと響は泣いてしまっていた。
それほどに心が悲鳴を上げていたのだ。
自分は千絃の力になれていない。私のしたことは、きっと彼にとって迷惑な事だったのだ、と。
千絃の手が自分に伸びてきたのに気づいて、響は顔を布団に隠し、声と態度で彼を拒絶した。
「触らないでっ!!」
「…………」
「もう、帰ってよ!……私の前から勝手に居なくなって、1番辛いときにいなくなったくせに!!そんな事言わないでっ!!」
響は咄嗟にそんな事を言ってしまった。
彼と再会する前の事は、もう解決したはずなのに、また持ち出してしまったのだ。もう、気にしてなどいないはずなのに。その頃の千絃の気持ちを理解したはずなのに………。
けれど、1度口から出た言葉は削除出来ない。
響は彼の反応が怖くて、ベットに顔を埋めたまま動くことが出来なかった。
すると、ベットがギシッと鳴った。
「………わかった」
それと同時に千絃の色のない声が聞こえた。
そして、彼の足音が遠ざかり、バタンッとドアが閉まる音がした。
彼が部屋から出ていったのだ。
響が涙を拭きながら起き上がる、千絃を追いかけて「ごめんなさい」と謝らなければいけない。それなのに、体は動かない。
響が謝って、舞台の仕事をやめればいいのか。けれど、仕事を降りるつもりはないのだ。
今、2人の気持ちは和解する事はないのだ。
「…………どうして、わかってくれないの……千絃………」
響は一通り泣いた後に、ノロノロと立ち上がった。こんな泣いた顔のまま稽古には行けない。顔を洗って目を冷やさなければ。
と、その時に千絃が部屋に来るときに持っていた紙袋が片隅に置いたままになっていた。
彼が忘れていったのだろう。
「………何だろう……取りに来るかな……ううん、来るはずないか」
響はため息をつきながら、袋の中を覗いた。
すると、そこには見覚えがあるものがあった。それを見つめ、響はドキッとしてしまう。
その場に座り、紙袋からある物を取り出した。
それは彼の家にあるローズのボディソープだった。響のために準備してくれたもの。そして、響が気に入って欲しいと話したものだ。
それを彼は覚えて、持ってきてくれたのだろう。
そんな優しい彼に自分は何て酷いことを言ってしまったのだろうか。
響はそのローズのボディソープを手に持ちながら、また泣いてしまったのだった。
響はその後も舞台の仕事をやめることはなかった。
そして、千絃とは会話もほとんどなく、言葉を交わすとしても仕事の事だけだった。「月城さんと何かかありました?」と斉賀に心配されるほどだった。
けれど、響は仕事に夢中になることで千絃の事を考えないようにしていた。仕事が終わったら、コンビニのおにぎりを急いで食べて稽古に臨み、夜遅くまでみんなと舞台稽古に集中した。疲れもあったかもしれないけど、元々はアスリートだ。体力には自信がある。休みの日にしっかりと寝れば大丈夫だった。
「響さん、少しお時間を貰ってもいいですか?」
「和歌さん。はい、どうしましたか?」
「少しお話があります」
稽古の途中で、見学にきていた和歌に呼ばれた。演技指導だろうと思い、彼に近づいたけれど、その場では話す事ではないようで、別室に案内された。
「お疲れ様です。随分と役者やスタッフとも仲良くやっていただいてるようで。それに、まんな殺陣が上達しています。響さんの指導のお陰ですね。ありがとうございます」
「そんな……まだまだですよ」
「本番が楽しみです。それで……今回お願いしたのは、公演がスタートする前に、ちょっとした動画を上げようと思っていまして……殺陣をやりたいのですが、出ていただけますか?1、2分の動画なのですが、宣伝にもなるかと思いまして」
「いいですね!ぜひ、お願いします」
「ありがとうございます。やはり、響さんは強いですね。ハードな稽古にも付き合っていただけるし、初めての事にも挑戦してくれる。………頼りきりになってしまって申し訳ないです」
響が承諾すると、和歌は嬉しそうに微笑んでくれる。
和歌は、響の事を「強い」と言ってくれる。それは、響にとっても嬉しい事だったが、何故か胸が苦しくなったりもした。
私は本当に強いのだろうか、と。
「響さん、もう1つだけいいですか?」
「え………は、はい。何でしょうか?」
考え事をしていた響は慌てて返事をする。
すると、和歌は響の手を取り、自分の口元へ近づける。そして、響の手の甲に唇を小さく落とす。
響は驚き、真っ赤な顔のまま彼を見る。
「明日の休み、私とデートしてくれませんか?」
和歌は響の手に優しく触れながら、そう誘ってきたのだった。
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