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「偽の婚約……」
「とりあえず、今の婚約相手と両親に諦めてもらうのが先だろう?」
「それはそうなのですが……」
「それに、俺がまだ受け入れられてないんだ、罪が許されるって事を。だから、今は………」
「……こちらこそ、すみません。無理を言ってしまって……でも」


 透碧はすくっと立ち上がると、蛍の隣りに腰を下ろした。そして、蛍の手を両手で包むように握りしめたのだ。

「では、偽でも婚約者になったのですが、手を繋いでいいですよね?」
「……誰もいない場所ではしなくてもいいだろ?」
「そういう役作りは普段からが大切なんですよ!
「そういうものなのか?」
「そういうものです」

 どう考えても彼女の思い通りに進んでいるような気がする。
 けれど、それが嫌ではないから強くは断れてないのだ。自分の気持ちと世間一般のあたりまえという考えが違うとこうも苦しいのだ、と蛍は改めて感じたのだった。

「これからどうしますか?お弁当は毎日は作りますね」
「毎日は大変だろう?それに、俺も先輩たちの付き合いで外食に行くことも多いから、作ってくれるとしたら時々で大丈夫だ」
「そうですか。わかりました。……では、デートをしましょう。仕事終わりとか、休みの日とか」


 そう。両親は何者かをつかって透碧の行動を監視しているのだろう。論文を盗み出すほどだから、今も見知らぬ男性の部屋に入ったことで焦っているかもしれない。蛍に出来ることは、昔の時間をほっくり替えされないかが心配であった。けれど、調べればすぐに情報は上がるだろう。それが心配であるが、片っ端から自分の事件記事を作業していくしか方法がない。蛍にとってはそんなことはすぐに出来る作業だが、それも犯罪行為に当たる。
 堂々と身構えているしか、今は出来ないのだ。

「今日定時で上がってしまったからな。明日は難しいから、明後日はどうだ?仕事が休みで1日空いているが」
「はい。私も空けます」
「空けますって、無理はしなくていいんだぞ」
「大丈夫ですよ。その日は仕事に集中する日って決めていたんですけど。明日に変更して、何が何でも終わらせます」
「そうか」

 やけに気合が入っているような透碧を見ていると思わず笑みが零れる。
 蛍にとっては初めてのデートである。学生の頃はパソコンに夢中になっていたし、事件も起こしたので恋人など出来るはずもなかった。そして、麻薬組織に居た時は組織の人間で遊び相手はいたものの、恋人はいなかった。遊び相手と言っても飲みにいくぐらいで、蛍自身は仕事が人間だったので、仲のいい女性もほとんどいなかったが。

 そんなこともあり、明後日までにデートのプランを考えるのが必須になったのだった。



 デリバリーで頼んだものは大分冷えてしまっていたが、2人で会話を交わしながら食事をした。
 といっても、透碧の妖怪の話がほとんどだった。おすすめのホラー映画を教えてもらったが、ほとんどが「学校の怪談」のような子ども向けのものだったのが蛍にとっては面白く、そして可愛らしいなと思えた。
 夏になったら、大人2人で夏の怪談ものの映画を見たりお化け屋敷に行くのも楽しそう、という話にもなった。だが、蛍は内心で夏になったらどんな関係になっているのだろうか。そんな思いもあった。
 自分で提案した偽の婚約者。その関係は終わりを迎えるだろう。だとしたら、俺たちはどのような関係になるのか。
 そして、透碧は蛍が周りからどんな目で見られているのか、それを耐えたれるのか、それが心配でたまらなかった。信じているけれど、周りの人間がどんな行動をするのかはわからないのだから。

 蛍にだって偽の関係ではなくてもいいと思えたが、過去の出来事が頭をよぎると今まだダメだと思えるのだ。


 楽しい時間はあっという間だ、彼女を最寄駅まで送る。すると、別れ間際に彼女が「そうでした!」と何かを思い出したように目を見開き、蛍の前に立った。

「私は、名字が嫌いなので、名前で呼んでください」
「え?」
「仲良くなった方にはみんな名前を呼んでもらっているのです。名字が耳に入るだけで、私は華嶽から離れられないのだと思ってしまって苦しくなるのです。それに、大切な人には名前を呼んでもらいたいもんじゃないですか?」
「そう、だな……」


蛍は、透碧の考えをきいて、「ああ、やはり一緒だな」と思った。
 蛍も「川崎」と呼ばれるのはあまり好きではなかった。だから、蛍と呼んでもらっていた。それに、蛍にけいではなく、ほたる、と呼ばれるほうが安心できたのだ。
 だから、これから会う人には、ほたると呼ばれたいなっと思っていた。彼が呼んでくれたように。大切な人が笑顔で呼んでくれる時のように。
 だから、彼女をにもほたるという名前を先に教えたのだ。大切なもう1つの名前なのだから。


「透碧」
「………はい!」

 名前で呼ぶというのはどうも緊張したが、彼女がそれを望んでいるのだ。それならば婚約者として叶えなければいけない。それが例え偽の関係だとしても、蛍は名前で呼び合う関係になりたいと思えたのだから。
透碧はとても嬉しそうに微笑み、小さく頷いてくれる。名前を呼ぶだけでこんなにも喜んでくれ、笑顔を見せてくれるのだ。これからも、呼び続けたくなる。

「ほたるさん、今日はありがとうございました。本当に本当に嬉しかったです。明後日楽しみにしていますね」
「ああ。待ち合わせ場所とかはまた決まったら連絡する」
「はい。ではおやすみなさい」

 透碧はお辞儀をした後に控えめに手を振った後、人混みの中に消えていった。
 きっと周りから見たら恋人同士の日々の別れの場面にしか見えないだろう。誰も偽物の関係など見れない。
 それでいいのだ。それが目的なのだ。

 けれど、蛍は妙な虚しさと嬉しさが混ざった妙な気分になり、その気持ち悪い感情を気にしないよう、ポケットに手を突っ込んで帰路を歩いた。

 その日はやけに光る魚が綺麗に見えるような気がした。



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