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ファム・ファタール
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しおりを挟む「ねぇ」
今日は朝起きたら言葉が理解できなかった。だから、今ここにいる。
何度も転びそうになりながら、今日こそ八条が完全に「飽きちゃって」なにを言ってもやっても言葉を返してくれなかったらどうしようなんて泣きそうになりながら、ここまでやってきた。
言葉を理解できなくなるのがいつも早朝で、その早朝には私に嫌がらせをしかけるために森周りにうろついている奴らがいないというのは不幸中の幸いと言えるかもしれない。
でも、おかげ様で私は朝起きる瞬間が一番不安で怖くなった。毎回、「今日は大丈夫かな…?」なんて怯えながら起きるのにはうんざりだ。寝る前には「二度と目が覚めなければいいのに」なんて思うこともあるけど、最近はずっと悪夢ばかりみるから夢の中ですら救いがない。先日なんかは自分の叫び声で目を覚ました。
「わたし、きょうは唇がほしい」
八条はまろい頬に手を添え、まるで子供が「ハンバーグを食べたい」とでも言う時のようにそれを口にした。
「かよ子の唇、ちょうだい。口すいしたい」
…この日は、いつかは来るかもしれないと思っていた。
だって、求められる接触が徐々に際どいものになっていたから。
これまでずっと幼い姿でいてくれたのは幸いと言えたかもしれない。子供との可愛らしいスキンシップのようにも思えた。思えた、というよりはそうだと思い込んできた。今回は…どうだろう。
「…イヤ?」
ずいと近づけられる顔。細められる金色の目。
__試されている。
これで、「イヤだ」と言ったらどうなるのだろう。
簡単だ。「いいよ」と言うまで言葉を奪われるだけ。…いや、「だけ」じゃない。私にとってこの世界で言葉を失うことは…命を失うことに等しい。人権も人望もない私が言葉まで失えば…もう誰も私になにも与えてくれない。
これまでなんやかんや見捨てずにきてくれた大学だっていい加減私を捨てるだろう。
ルイゼだって言葉が通じない私にどうこうしてくれるほど優しいわけでも、そこまで私と仲がいいわけでもない。そもそもルイゼが私の傍にいてくれるのは大学側からそう命じられたからだ。あのバケモノにも「あれはただの点数稼ぎ」と嘲笑われた。そもそもそんなこと言われなくても、大学から切り捨てられた時点でルイゼともさよならなのはよくわかってる。
「…イヤじゃないよ」
「ほんと?したい?」
「…うん」
ファーストキスに夢見てたわけじゃない。なんならむかし誰かとじゃれ合いのようにキスぐらいしたような気もするし、ファーストですらないかもしれない。ただの唇と唇の接触。
愛ゆえではなく生きるためにするなら、キスというよりは人工呼吸って考えた方がもっと正確かもしれない。
でも、いざこうやって…この間まで庇護の対象だったはずで、今では私を脅してくる恐ろしい相手…そんな存在と唇を重ねると考えると…
「ねぇ、したいんでしょ?じゃあはやくしようよ」
さくらんぼのように真っ赤な唇が、その幼さにはあまりにも不相応な色気を纏いながら三日月型に吊り上がる。
「ね、はやく」
こういう時、決して八条は自分から動こうとしない。
すべてを私に委ねる。私が望んでそうするかのようにさせたがる。
だから…ここでは私が動かなければいけない。
「め、目を閉じて…ほしい…な」
「なんで?」
なんでって…
「は、恥ずかしいから」
「へぇ。でもわたしははずかしくないからそのままでいいよ」
「で、でも…」
「…ねぇ。はやく」
先ほどまでの幼くあどけない雰囲気は霧散して、全身の血が凍るほど冷たい表情。
私は八条のこの顔が一番恐ろしい。この表情の八条は「なにをやってもおかしくない」感じがする。たぶん、こっちの顔の八条がルイゼから聞いたあの悪い噂の元凶だ。
「ご、ごめんなさい。じゃ、じゃあ…」
しゃがみこんで八条の頬に手を添えると、くすぐったそうにくすくすと八条は無邪気に笑う。
あまりにも雰囲気と気分がジェットコースターで怖い。八条の本性は…一体どちらなのだろう。
「…」
…唇同士のキスって、どうすればいいんだろう。
ビビッて勢いで頬を手で固定したけど…よくわからない。頬とかにするキスと同じように、唇を唇に押し当てればいいのかな?
「…かよ子」
促すように、そして脅すように発された言葉に背中を押されて、私は唇を八条のそれに押し付ける。
そして感触などを感じる前にすぐに離れようとして、
「むぐっ…!!?」
はなれられない。
いつの間にか、八条の腕が私の頭に周っていたらしくなにも動けない。
ばたばたと暴れる中で、ざらりとしたものが唇に触れる。その感覚に思わず口を開くと、それはそのまま口の中に入って来た。
「んっ…!!!」
あまりの不快感に勢いよく口を閉じると、ぐにりとしたそれに歯が触れる感じがして、それと同時に口の中に鉄臭い味が満ちる。
しかしその時、八条の冷ややかで…でもどこか面白そうにこちらをみる目に気づき、はたと冷静になる。
「…」
噛んでしまった。
これは、今噛んでいるこの気持ち悪いなにかは、たぶん八条の舌だ。これはきっといわゆる…深いキスというやつだったのだ。私なんかがする日が来るとは思わなかったけど。
私がおずおずと歯を舌から離し口を開くと、舌はぺろりと私の口腔と舌をひと舐めした後口の中から消えていく。
「いた~い」
べっと八条がベロを出し、歯型がくっきりとついたその長い舌を見せつけてくる。
「ご、ご、ごめん」
「へへへ、いいよ~。かよ子、こういうのあんまりしなそうだもんね」
顔は…今は笑ってるけど、どうだろう。
今はよくても明日傷がじくじく痛んだ時とか…。
いくらこういうのに慣れてないとは言え、こういう…舌をいれて云々というものがあるとは知ってるんだからもうちょっとは考えればよかった。なんで私はいつもこう考えが足りないのだろう。
「…あれ?さむいの?かよ子」
八条に指摘されて気づく。
身体が震えている。
…最近これだ。別に寒いわけでもないのに気が付くと身体が震えている。怯えが原因?今はそうかもしれない。でも明らかにそうじゃない瞬間もある。どちらかといえば、身体を意識していない瞬間に…
「あたためてあげるね」
そういうと、八条のあたたかく紅葉のような手が頬に触れた。一瞬その仕草に身体が無意識に警戒態勢に入ってしまうが、しばらくして温かさが頬から全身に広がっていき緊張もほぐれていく。
__なんだか、懐かしい。
…未だに、魔法を使われる感覚は慣れない。でもこうされると、八条と過ごす時間が心の底から楽しくて安心できる時間だった時のことを思い出して…泣きそうな気分になる。
八条と出会った頃も…ハッピーとは言い難い状況だったけど、それでもまだ日々の中に小さな幸せがあった。今よりはずっとましだった。
…あの頃、シェバさんとちゃんと話していたらなにか変わったのだろうか。あの時、私が空腹を耐えるかちゃんと「たすけて」と言えていれば…今もあの子とずっと友達でいられたのだろうか。この前、私がすぐに八条のことを八条だと気付いていれば…こんな風にならなかった?
なぜ私の周りはみんな離れていくか、おかしくなっていくのか。
…そんなの決まっている。私がおかしいからだ。私がおかしいから、イソトマからも目をつけられた、バイトもクビになった、ルエさんにゴミムシをみるような目で見られる。異世界に飛ばされたのも…元々の世界の神様に見放されたからかもしれない。もういらないから引き取って、って。
__私って、誰にも必要とされてない
「…っ!!」
頭がぼうっとしてついでに目頭が熱くなってきて、慌てて歯を食いしばる。
嫌だ。こんなことで今更泣きたくない。正確には泣き顔を見られたくない。
「…ごめん」
なるべく八条から顔を逸らしたまま立ち上がる。
「今日はそろそろ帰るね」
いつもよりもいくらかはやい帰宅。
八条の機嫌を損ねるかもしれないけど、今は八条と話せるような気分じゃないしこの顔もみられたくない。
「…じゃあね」
八条の回答は聞かずに、そしてもちろん八条の顔も見ずにそのまま走り去る。
舌を噛んだあげくこんな対応をして…明日の私はどうなっちゃうんだろう。
でも、そんなことはどうでもいいぐらいにつらくてかなしくて、森の中を最初は小走りで、次は走って、走って、しばらくして疲れて歩き始めて…
__誰かが、いる。
その、恐ろしい事実に気づいてしまった。
走っている時は必死だったから気づかなかったが、歩きはじめてしばらくして…なにかの気配が私の数メートル後ろにあることに気づいた。
私の足は遅いし、そもそも何度も転んでいるから、捕まえるチャンスはあったはず。だから、追われているというわけでは恐らくない。ただ静かに…追跡されている。
誰だろう…。
八条だろうか。八条だったらまだいい。でも、八条がこんなことするかな。
でも…他ってだれ?こんな森の方に来るのなんて…イヤな心あたりしかない。
「…」
よくないとわかりつつ、不安と恐怖に負けておずおずと振り返る。
ここで…逆上してきた相手に襲われたらどうしよう。八条のところに戻るのと、部屋に戻るのどっちが早いかな…?そもそも戻ったところで八条は私を…
「…あなたは、もしかして…」
そこには、どこか見覚えのある巨大な狼が木々の間に隠れるようにして__全く隠れられていないけど__居心地悪そうに息を潜めていた。
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