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彼女と妖精の騎士
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しおりを挟むあの事件を、私は女の記憶を完全に消すことで「処理」しました。
女の脳にペチュニアに関する全ての記憶を消すことを「命令」し、さらには「記憶がない」ことに違和感を覚えないよう「命令」しました。これであの女にとって、このことはすべてなかったことになります。
とはいえ、目前の問題は「理事長がこの件についてすでに知っている可能性がある」ということでした。しかしながらそれについては、その場で対処するには支配魔法の時間が足りない、そもそも支配魔法でカバーし切るのはほぼ不可能ということで一度保留にしました。
そもそもなにを支配魔法でどうしようが、理事長に対処するのはほぼ不可能なのです。「魔法」というものにおいてこの学内であれに敵う者はいませんし、その他の点でもあれの目を誤魔化すのは難しい。
ただ、思うのは。
__あの男は、道徳や倫理などに興味があるのか。
私たちについてなにも知らない癖に、あの女__リーア・コスタが私に指摘したのは、道徳的、倫理的瑕疵でしょう。事実は置いといて、第三者から見れば我々__私とペチュニアの関係性は歪なものに見えるのかもしれません。だがしかし、そんなことにあの理事長が関心を寄せるのか。
あれは全のために個を戸惑いなく切り捨てる、そういう存在です。たかがペチュニア一人のために、私という全に貢献する存在を潰すような真似をするでしょうか。さらには、大学側では決してできない彼女を使った「実験」はいずれかの形で「全」に役立つ日がくるでしょう。そんなことは確実にわかるであろうあの男が、わざわざ私から彼女を引き離そうとするのか__それは大変疑わしいものです。
もちろんこれは希望的観測かもしれません。
しかし、そもそもです。理事長は本当にペチュニアについて気づいていなかったのでしょうか。リーア・コスタですらペチュニアの存在に気づけたのです。コスタ程度の魔法使いが気づけるようなことを、理事長がコスタにいわれるまでこの長期間ずっと気づかなかったなんてことはあるのでしょうか。
つまり、私が言いたいのは、
__理事長は、これについて黙認しているのではないか。
私とペチュニアの関係について、ペチュニアの存在について、ペチュニアを使い行う実験について…理事長はいくらか前から__下手をしたら最初から__知っていた。知っていたにも関わらず、口を閉ざしているのではないか。
おそらくは先述したような理由のために。
細部は違えど、この仮説は大方合っているのではないでしょうか。
でなければ、あの事件から一週間経った今でもなんの音沙汰もない、なんてことがあるわけがありません。
さて…となると、先日の事件はリーア・コスタの一人相撲だということになりますが__まぁ、その滑稽さに免じて許しましょう。
「イソトマさん」
昼休みに一度居住区に帰ろうと準備をしていると、ラボに出入りしている学生の一人から声がかかる。
数か月前に私の事務作業などを手伝っていた主な助手たちが一斉に辞めて以降に、その後釜として手伝いをするようになった学生の一人だったはずです。たしか私と同学年だったはずですが…名前は忘れました。
「これ、お手紙です」
差し出されたのは、真っ黒な便箋。
その色のせいかどうかどことなく不穏な気配が漂っている。
「…差出人は?」
「すみません、書いてなくて」
…ますます怪しい。
「探知魔法はかけましたか?なにかしらの危険な魔法が仕込まれていないか…確認はしましたか?」
その言葉に青年は首を横に振り、小さな声で「すみません…」と謝罪する。
これが本当にそういったものかは知りませんが、差出人の名前がないというだけで十二分に怪しむべきでしょう。実際、これまでにも差出人不明の手紙が届いて、小爆発が起きたりなどのトラブルが起きたことが数回あります。
「…これからは気を付けてください。そして、できればそういった処置はラボに持ち込む前に行うように。理由は…言わずともわかりますね?」
「はい…」
「では、もうこのことは構いませんのでお昼でもなんでもご自由に」
「えっ」
「…そこの扉でご友人たちが待っていらっしゃいますよ。早く行ってあげた方がよいかと」
先ほどから心配そうにこちらを見つめる、扉の影に隠れて…いるつもりであろう学生達を顎でしゃくる。
すると、目の前の学生は「あ」という顔をした後、扉の学生達と私を交互に見る。
「でも…」
「処理はこちらでしておきますのでお気になさらず」
手紙はそこに置いておいてください、と告げると学生は何度も「すみません」と謝罪を繰り返しながら扉の方に向かう。
彼が扉の向こうに行くと、途端に賑やかな声が響き始める。彼を心配する言葉、昼食の相談、教授への愚痴…猥雑でありながらもどこか太陽の香りがするその会話は、徐々に遠くなり、やがて聞こえなくなる。
そして、部屋は静寂に包まれました。
扉に隠れていた学生たちは確か全員私と同学年の生徒たちだったでしょうか。私は研究があるため大学の授業は限られた講義を不定期に受講するのみですが、必修授業で何度か見た覚えがあります。たしか、その時も彼らは近くの席に座り授業を受けていました。仲が良い__所謂、友人という関係なのでしょう。
ふと、あの女の言葉を思い出します。
__あなたにとって彼女は一体何?
くだらない。私を糾弾するためだけの言葉。そんな言葉について思考する意味などありません。
無意識の内に止めていたらしい呼吸を吐き出し、改めてその黒い便箋に向き合います。
軽く魔法で探知魔法をかけてみましたが、特におかしなところは見当たりません。
魔法はかけられているようですが、送り先__つまり私以外に文面を見られないようにするための、手紙を送る上ではごく一般的な範囲のものです。
ですが、ここまで怪しい条件がそろっているにも関わらず、なにもないとなると…逆に怪しい。
いえ、そもそも宛名すらない手紙を私が開封する理由などあるのか。その答えは「ない」一択でしょう。
手紙を魔法で燃やそうとした__その時のことです。
なにも書かれていなかったはずの黒い便箋の上に、金文字の署名が現れました。
私は、その署名が誰のものかをよく知っていました。そして、それが間違いなく本人により書かれたものであることも…すぐにわかりました。
__理事長です。
この署名は間違いなく、この大学の理事長によって書かれたものでした。
「あ…」
脳が理解を拒絶しているのか、動きだすことを拒んで、しばらくの間手紙を片手にただ硬直していました。投げ捨てることもできず、ただその黒と金のコントラストを見つめていました。
ついに、恐れていた日が__恐れていたことが起きてしまった。
理事長からこんな形で手紙が送られてきたことは、当然ながらありません。いつもは白い封筒に、最初から署名がある状態で送られてきました。
ということは、いつもと違う要件での手紙ということ。理事長が白い封筒をたまたま切らしていただけという結末を祈りたいですが、そうでなければあの事件のことだと考えるのが妥当でしょう。
それにしたって__あの事件から1か月たったこのタイミングで、なぜ今更。
本当に意味がわからない。何にしたってあまりにも遅すぎる。もうなにもないと思っていたのに。
震える手で封を切り、中に入った紙を引きずり出す。
そこには__
「…ペチュニア、私にとってあなたはいったい…」
帰って来るなり、異様な気配をまとい、意味のわからない問いかけをする私にペチュニアは困惑しているようでした。
当然です。彼女にとって私の言葉は文字通り「意味がわからない」のですから。
__あなたは言葉のわからない小さな彼女をペットとして愛玩していらしたのでは?
…違う。
「ペチュニア…」
鉛のように重い腕をどうにか持ち上げてペチュニアの頬に向けて伸ばす。
当然のように、彼女が腕の中に納まってくれると思っていました。
でも。
彼女はその腕を避けるかのように、一歩後ろに下がりました。
…いえ、現実逃避は辞めましょう。「避けるかのように」ではなく、実際に彼女は「避けた」のです。しかし、その「避ける」という動きは彼女自身が意識して行ったことではなかったのか、その瞳には強い驚きと動揺が宿っていました。
「b"、b"・y…」
「…」
…薄々察してはいたのです。
あの日__リーア・コスタに衝動的に支配魔法をかけてしまったあの日から、ペチュニアが私に怯えを感じていること。
そのことは数値にも表れていて、あの日から私と触れ合った際の魔力循環の効率は大幅に下がっていました。それはつまり、彼女は私と触れ合う時に以前よりもリラックスしていないということを示しています。
そして、この数値が続くようだと、彼女に魔法をかけ続けることができないのは明らかでした。今の状態で実験のために魔法をかけ続ければ、彼女は雪病を患いいずれ長い眠りにつくでしょう。
しかしながら、一緒に居たいのならば…
__「継続した研究データの提出を義務づける。」
理事長からの手紙の内容。
それは、簡潔に言えば、「①彼女を研究対象として適切に扱う②大学側の実験指示に私が従う③全ての実験データを大学側に提供する。以上三つを私が約束するのならば大学側は現状を黙認する。もしそれができないのであれば、早急に彼女を大学側に引き渡せ」そういった内容でした。
③は構いません。しかしながら、②は…。
雪病の危険性を提示すれば、大学側は薬を提供するかもしれません。雪病の原因となる「魔力」を打ち消す解魔法薬はいくら高価といえど、大学側が用意できない金額ではありません。ただ、解魔法薬は高価なだけでなく、強い副作用がある。
魔力とはまさに「力」であり、打ち消すためには同じく強い力が必要です。さらに厄介なのは、魔力は神経伝達物質に影響を与えるということ。魔力はしばしば神経伝達物質のような働きをすることもあるので、ある意味では魔力も神経伝達物質の一種と言えるかもしれません。まぁ、すなわち…魔力は脳に影響を及ぼすのです。ゆえに、過剰な魔力により雪病に罹患すると幻覚や妄想といった症状が出るわけですが、それに強い力をぶつけて無理やり「打ち消す」となるとどうなるのか。
当然ながら、脳にダメージがいきます。1、2回であればまだ許容範囲でしょう。それが何度も繰り返されると、薬を投与された人間は…徐々に人格が崩壊していきます。彼女の人格が多少崩れたところで実験は続けられますから、大学側が実験を辞めたり薬の投与を辞めることはないでしょう。
そんな扱いは__彼女を実験動物として扱うのと同義です。
…ええ、ええ、認めましょう。
私はもうペチュニアを実験動物だとは思えない。そんな風には扱えない。
だから私は本当は、②の「大学側の実験指示に私が従う」だけでなく①の「彼女を研究対象として適切に扱う」こともまともに約束できないのです。
__であれば、あなたにとって彼女は一体何?
フラッシュバックするあの女の言葉。
愛玩動物でもなくて、実験動物でもない彼女は私にとって一体なんなのか。
そして…彼女にとって私は一体なんなのか。
「…イ、イストマ?」
不安と心配の混ざった顔でペチュニアが私を覗き込む。
そんな顔をさせたくなくてどうにか笑顔を作って見せると、なぜかペチュニアは泣きそうな顔で笑い返してくる。
「…ペチュニア sイソトマui?」
「5…?」
硬直するペチュニアに、今度はジェスチャーを使いながらもう一度問いかける。
私と彼女の関係性は一体なんなのかを。
しかし、質問の内容よりも、私がペチュニアと同じ言葉を話した驚きの方が勝ったのか、彼女は質問に答えず呆然とこちらを見やる。
「…bsf"…uyw゛?」
「b"・y。0qd、ペチュニアbsf"…」
「学習」だとか「勉強」に該当する言葉がわからないので、彼女の口と自分の耳を順に指さし、文字を書くジェスチャーをする。
「イストマ…」
…本当は、いくらか前から彼女の言葉はいくつか理解できるようになっていました。
わかりやすいように「勉強」と表現しましたが、実際には意識的に勉強をした…というよりは共に生活する中で自然に理解できるようになっていました。
それにも関わらず、彼女の言葉を理解しようとしなかったのは、会話を試みなかったのは関係性が変わるのを恐れていたから。より正確に言うならば、彼女の「意思」を、「考え」を、聞くのが恐ろしくてたまらなかったから。
でも、彼女はもう実験動物でもなんでもない。
であれば、彼女の「意思」を「考え」を…私は知らなければならない。
「0qdsイストマ…」
「b;…?s";?」
ペチュニア用に買ってきたまだ文字の読めない児童向けの絵本を数冊引っ張り出して、様々な関係性の「ふたり」を提示してみる。
他人のように見えるふたり、家族のように見えるふたり、友人のように見える…ふたり。
他にも色々な「ふたり」を見せてみましたが、どれに対してもペチュニアは首を横に傾げるばかりで縦には振らない。
他にどんな「ふたり」があるかと私が思案していると、ペチュニアが本棚から一冊の絵本を取り出してきました。そして、表紙を指さしにっこりと笑いながら私にそれを差し出します。
「b;」
その表紙に書かれていたのは、犬と…それを愛でる飼い主らしき女。
「…」
__愛玩していらしたのでは?
「イストマt”e1。0qdfc;0t0et”。vs」
少なくとも彼女はそう感じていたし、そういう関係であると捉えていた。
__愛玩
そんな関係性に未来はあるのか。
そこに私の幸福はあっても彼女の幸せはあるのか。
この環境・関係のままでいたくないのかという問いに、否と答えるのはそれは嘘になります。しかし、彼女の幸福を望む気持ちも本当なのです。
私は彼女のことを実験動物としても、愛玩動物としても扱いたくない。
そして、私が彼女のことを「愛玩」ではなく、一人の人間として正真正銘「愛している」のだとすれば、自身の幸福よりも彼女の幸福を考え優先するのが当然…なのではないでしょうか。
であれば__答えは明瞭でした。
* * * *
私はそうやって彼女の幸福を望み、彼女の記憶に魔法で蓋をし、朝一番に彼女を医務室前に置き去りにして、さらには自分の記憶にも魔法で蓋をしたのでした。
大学側に預けることも考えましたが、その場合は彼女が「実験動物」にされかねません。
ゆえに、彼女の存在が生徒と教師たちに、そして人権派であったはずの保健師に彼女の存在が知られ、大学側が好き勝手にはできないようにするために医務室前に彼女を置き去りにしました。できることならば、朝誰よりも早く大学に来るはずの学内で最も高潔で理事長にも物申せるシェバか、無駄に正義感の強い保健師に真っ先に発見されますようにと祈りをこめて。
彼女と私の記憶に蓋をしたのは単なる私の我儘で、すべてを忘れてまた改めて出会えたら、また別の関係を築けるのではないか__という奇跡に縋ったのでした。
その結末がコレなのですが。
全てを思い出した今、目の前にあるのは途轍もない悲劇で喜劇でした。
幸福を祈って彼女を解放したはずが、記憶に蓋をした私は助手まで使って彼女の幸福を手折ろうとしていたのです。そして、散々恨みを買ってついには刺され、彼女を自害にまで追い込んでしまった。
これならば、「愛玩」していた方がまだよかったと思える結末。
「(ペ、チュ、ニ、ア)」
必死に口を動かせば、あわくペチュニアが微笑む。
「(ご、め、ん、な、さ、い)」
血よりは幾分か生温い温度の液体が顔の皮膚をつたう気持ちの悪い感覚。
でも、目から流れているらしいそれはどうにも止められない。
「(ご、め、ん)」
なぜ、彼女が謝るのだろう。
尋ねる間もなく、彼女の瞼がゆっくりと閉じていく。
慌てて手を伸ばしてみてもなにもかわらない。
どうにか角笛を取り出して吹いてみても、まともに音も出せやしない。これでは大した魔法もかけられません。それでもなにかをやらずにはいられなくて、か細い音色になんとか治癒魔法をのせても彼女の瞼は開かない。
それはそうだ。この程度の治癒魔法であの傷が治るはずがない。ただ、彼女の死に向かうまでの道のりを少しだけ伸ばす程度のことしかできない。
そのうち、だんだん私の意識も闇に引き摺られていき__
次に目が覚めたのは、酷い血の海の中でした。
もとより私が刺された時点で血だまりが広がってはいましたが、その時よりもずっとひどい血の海がそこには広がっていました。
相変わらず首は酷い痛みで、なぜ目覚めたのか不思議でなりませんでした__が、先ほどまではいなかったはずのセイレーンと人間の混ぜ物が血と傷まみれになって目の前に転がっていることから、おおよその察しがつきました。
おそらく、なにかしらの理由でこの部屋に訪ねて来たコレが、自らの血肉を使いペチュニアを救命しようと試みたのです。そして、どこかのタイミングでたまたまセイレーンの血が私の口か傷口に触れて…私は今、目覚めた。セイレーンの血は魔の物に死をもたらし、そうでないものには治癒をもたらすはずでしたが__どうやら、堕ちきったエルフである私もまだなんとか魔の物だとは判定されなかったようです。
ペチュニアは__私がみる限りまだ死んではいない様子でした。しかし、まさに風前の灯火。おそらく、今更魔法で助けを呼んだところで間に合わない。今、ここで、すぐに処置をしなければ、確実に死に至る。
__であれば、やるしかないでしょう。
重い重い腕を伸ばし、セイレーンの前に広がる血だまりに手を浸す。
そして、その血をまずは自身の首の傷口に塗り付ける。傷口を手で触れる激痛に吐き気を覚えつつも、どうにかやりきって再び血だまりに手を浸す。そして、その手を口元まで運び零れ落ちてくる血の雫をどうにかこうにか飲み込む。
すると、さすがセイレーンの血。徐々に喉の傷口が癒されていくことを感じる。
完治とは全く言い難いが、これで角笛は短時間であれば吹けます。
どのみち、この大量に血を失った状態では強い魔法を使えるのは一回きりです。だから角笛も少し吹ければいいし、そこに賭けるしかない。
ペチュニアの顔を目に焼き付け、瞼を閉じて息を深く深く吸い込む。
そして、角笛を口に当てて、その一回きりが最大の結果を彼女にもたらすよう、これまで信じたこともなかった神に祈る。
これが成功するならば、なにを捧げても構わない。
喉などもういらない。魔法だって必要ない。
別にもう、私の命を捧げたって構わない。
だから今度こそは、
__彼女に、幸福な未来がありますように。
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