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毒の話
Gift_Ⅲ
しおりを挟む「じゃあ、始めようか」
なんて、どこか仰々しい言葉と、緊張により強張った笑顔からその時間は始まった。サラはサラで、らしくもなく少し緊張した様子で「よろしくお願いします」なんて頭を軽く下げるものだから、余計緊張してしまう。
…実は、今日があまりにも楽しみすぎて昨晩ほぼ一睡もできなかった。
明日を迎えるのが嫌で眠れないことは散々あったけれど、楽しみで眠れないなんてことこれまでなかった。眠らなければと思いながらも眠れないというのは、どんな理由にしろ辛い。しかし、それでもやはり楽しみが理由で眠れない夜には、苦痛や恐怖で眠れない夜とは違うときめきがある。
私はきっと、サラと出会えなければこんなこともずっと知らないままだったのだ。私は本来であればこんなことも知らないまま、ただひたすらに死んだように生きていくはずの人間だったのだろう。でも、私はサラと出会えた。彼女と出会って、私の人生は初めて意味をもつようになり、初めて色を与えられて、初めて始まった。
やはり、サラは私の運命だ。
サラが私を必要としているのと同じように、私もどうしようもなくサラを必要としている。これを運命と言わずしてなんと言おうか。
「…頑張るね。サラをもっとかわいくできるように」
「ねぇ、これのデザインいいね」
口紅の色をどうしようかと悩んでいると、そういってサラが机の端を指さす。
指先を視線でたどると、蓋の上で咲く薔薇が印象的なデザインの口紅がちょこんとそこにいた。薄桃色のロードクロサイトと呼ばれる宝石でできた花弁は、あまりにも繊細で少しの刺激で簡単に崩れてしまいそうだ。たしか、リップ自体の色はローズピンクだったはず。
「これかい?」
そういってその口紅をとって見せる。この口紅は私もお気に入りだ。リップ自体の色も、デザインも。
「ううん、違う。こっち」
サラはゆるく首をふると、私のポーチから少し飛び出していたまた別の口紅をつまんだ。
「えっ」
それは、店主に勧められるがままに買ったボルドーの口紅だった。彼女が褒めたそれのデザインは、黒地に金縁というとてもシンプルなものでかわいさの欠片もない。
「わ、色もかっこいい」
彼女は蓋を開けて口紅の色をみると、その深い茶色の瞳をキラキラとさせる。
「ねぇ、これ使ってみたいな。トゥルさん」
「いや、でもこの色は…あんまりかわいくないよ」
「それでもいいからさ!…ね!お願い!一生のお願いだからさ!」
「サラ、君…一生のお願いを何回使うつもりだい?それとも、君の一生は一回だけじゃないということかな?」
「来世とか来来世の分の前借りってことで!」
だからお願い、とサラは私の手の甲に手を重ねる。その手の温もりがあまりにも優しいから、私はうっとりとして思わずそのまま首を縦に振ってしまいそうになる。
だが、ふとこのボルドーの口紅をつけたサラが頭に浮かぶ。
潤んだこげ茶の瞳、艶やかな髪、ボルドーに塗られた唇を蠱惑的に引き上げて…
…だめだ。そんなサラはだめだ。サラはかわいいんだから。あんな口紅似合わない。
「…うん、やっぱりその色はだめだよ。サラ。少しも似合っていない」
サラの手からボルドーの口紅をとりあげ「君にはこっちの色の方が似合うよ」と、ちょうど手元にあったベビーピンクの口紅を差しだす。この口紅は、海の世界がテーマの愛らしいデザインのものだ。特に蓋の上の枝珊瑚を抱きしめる幼い人魚のモチーフが気に入っている。
「…似合ってないって、ひどくない?」
「だって似合ってないからね。君にはこのリップが最適さ。…さぁ、じっとしていて」
「…別にいい。自分でつける。それぐらい私にだってできる」
「だめ。だめだよ。そういって先月フラスコを全部割ったのは一体どこの誰かな?」
「ウッ…!その節はご迷惑をおかけました…」
まぁ、実のところそんな気にしていないけれど。
あの日は、サラが課題を授業内に終わらせられなくて、放課後残ってその課題をすることになった。その課題をやるにはいくつか実験道具を用意することが必要だったのだが、その時にサラは「自分で全部用意して自分で課題も終わらせる」と言って聞かなかったのだ。そして、フラスコを用意をする際に事件は起きた。まぁ、前述の通り全部割ったのだ。綺麗に転んで。
大きく響いたガシャンというどこか涼しさすら感じる音に、私の心臓は冷えに冷えた。大慌てで呆然と座り込むサラに傷がないことを確認して一安心したが、それでもドキドキがしばらくおさまらなかった。あんな気持ちもサラと出会って初めて知ったけど、あんな思いは本当に二度としたくない。
その後はどうしようを繰り返すサラを「私がなんとかするから」と言ってなだめつつ、ガラスを片付けた。その時に、サラが私の背中にぎゅっと腕を回して「ありがとう…。大好き…」と半泣きで感謝を伝えてくれて、この事態に一瞬感謝したのは秘密だ。
ただ、本当に大変だったのはガラスを片付けたその後で、私は町中でフラスコを探し回ることになった。魔法を使ったとは言え、なんとか学園で使っているのと似たフラスコを当日中に見つけられたのはラッキーだったと思う。
フラスコを買った後は超特急で学園に帰り、課題ぐらいは自分でやるとごねるサラをかわして、私がサラの課題を終わらせた。ついでに、教師への謝罪も私が割ったことにしてすませておいた。フラスコは買いなおしたので問題はないと思うけれど、割ったことは事実だし、それを黙っているのは不誠実だと思ったので一応。
「…で、でもさ…これとそれとじゃ話が別じゃない?私、口紅粉砕したりとかしないよ?」
「なにが起こるのかわからないのが君じゃないか」
「ううっ…」
そんなところも大好きだけどね。大好きだけど、サラが怪我をするのだけは容認できない。
それに、私ができることであればなんだってやってあげたいと思うんだ。サラには私のことを必要だともっと思ってほしいから。
「だからおとなしくじっとしていておくれ」
「…これぐらいできるのに…」
「しっー」と人差し指で黙らせて、その隙に唇を愛らしいベビーピンクで染める。
「…うん、かわいい」
想像通り…いや、想像よりずっとかわいいよ。
「さぁ、どうかな?」
最後に髪の毛を少し整えてあげて、サラに手鏡を手渡す。
我ながらなかなかいい感じだと思う。サラの魅力をすべて…とまでは言えないが、それなりに引き出せた気がする。やっぱり、ベビーピンクの唇がかわいい。ボルドーの口紅なんて選ばなくてよかった。
「…すごい。いつもとなんだか違う。うれしい。すごいね、トゥルさん」
「そうかい?そう言って貰えると嬉しいよ」
「うん、なんだか…いつもよりも大人っぽく見える。結構可愛い色ばっか使ったのに」
ありがとうと微笑むサラは彼女が言う通り、いつもより少し大人っぽく見える。
「…落とそうか」
いつかと同じように衝動的に言葉が漏れた。
こんなこと言うつもり一つもなかったのに、言ってしまった後にはとてもしっくりくる。
「え」
「お化粧。私も君を素敵にできて満足したし」
なぜだろう。自分でも不思議だ。「ありがとう」とか「うれしい」だとか望む言葉はすべてもらった。その事実は嬉しいし、一瞬前まではその言葉にすごく満たされてた。でも、今はもう今の彼女を見ていたくない。さっきまではそれなりに私も満足していたはずなのに、今は満足のかけらもない。むしろ焦燥感とも言えるような不快な感覚が胸をジリジリと焦がす。
「でも私…せっかくしてもらったんだから、もうしばらくは楽しみたい」
「…そう言ってくれるのは嬉しいけど…」
「…じゃあ、せめて帰るまでだけでいいからさ。お願い」
まぁ、帰るまでだったら大した時間ではない。どうせ、学園にいるとしてもあと10分ぐらいだろう。
それぐらいだったらいいかなと渋々頷くと、「やった!」とサラは幼子のように両腕をあげる。その姿に「ああ、いつものサラだな」と少し笑ってしまう。サラはいくら見た目が変わってもサラだ。
「サラ、今日はどうもありがとう。楽しかったよ。そして、これは今日のお礼」
と、サラの前に例のベビーピンクの口紅を置く。
本当は今回サラのために買った化粧品はすべてプレゼントするつもりだったけど、それはやっぱりやめにした。正直いって…お化粧をしたサラはもう見たくない。
でも、せっかくだからサラになにかあげたいな…ということで、これをあげることにした。この口紅はサラによく似合っていると思うし、これであればそこまで大きくサラの印象を変えない
「え?お礼?むしろ私がお礼しなくちゃいけないぐらいだと思うし…大丈夫だよ」
「じゃあ、お礼じゃなくても構わないよ。どんな理由でもいいからどうか受け取っておくれ。サラのために買ったのだからね」
「でも…これすごく高いやつだよね?本当にいいの?」
「もちろん。こんなかわいい色持っていても、どうせ私には使えないのだから」
サラはじぃっとその口紅を見つめる。しばらくすると口紅を両手で包み、「ありがとう。大事に使うね」と大人びた笑みを浮かべた。
その笑顔に、少し和んでいた感情が再び陰る。サラの笑顔は大好きだけれど、その顔で、そんな風に笑わないでほしい。
「…じゃあ、私は少し手を洗ってくるからしばらく待っていておくれ」
サラとそんな感情から目をそらして、言い訳でもするかのように自分の両手を見つめる。
私の手はサラに色を見せるために試し塗りしたり、オフするために使ったりなどした。なので、様々なお化粧がついていて汚い…とはまた違うが、あまり美しい状態ではない。だから、実際に洗いたいことには間違いない。
「いってらっしゃい」
最後までサラの顔から目をそらしたまま、私は教室を後にした。
いつもより少し時間をかけて手を洗って、「そろそろ満足してくれたかな」なんて思いながら廊下をだらだらと歩く。
この気持ちは何て言うんだろう。なんでこんな感情を私は抱いているのだろう。わからないけれど、プラスの感情ではないことはわかる。
こんな風にサラと出会ってから様々な感情を初めて知ったけれど、それは必ずしも良い感情だけではない。大切な人のもろもろに抱く不安とか、恐怖とか…色々知った。だからといって、それらの感情を知らなければよかったと思ったことはない。全部、サラと出会わなければ得ることもできなかった大切な感情だ。
…でも、それを味わうのは、やはり…ちょっぴり苦しい。
「…ただいま」
なるべくいつも通りを心がけて声をかける。
だが、返事がない。
「サラ?」
元の席にもいない。
不安になって慌てて周囲に視線を巡らすと、西日の差す窓際の机にまろい背中が突っ伏して緩やかに上下している。
…どうやら、私がいない間に移動していたらしい。手元に手鏡があることから察するに、もっと明るいところで化粧を見てみようと移動したら、太陽の温かさにつられて眠ってしまったというとこだろうか。
起さないようにしないとと思いつつも、そうせずにはいられなくてそっとサラの手に触れる。その温かさにやっと人心地がついて、ふぅと小さくため息をつく。
…よかった。一瞬すごく嫌な予想が頭を過った。でも、冷静に考えてみれば、サラはそんなことしないし、したとしてもいつもの悪戯だ。そんなことを考えてもいけないし、そんなことをされても真剣に受け止めてはいけない。
「…サラ」
いくらお化粧をしていても、眠っているとひどくあどけない。西日に照らされた頬はさくらんぼのように赤らんでいて、まるで幼子のようだ。
そんなサラを頬を緩めて見つめていると、先ほどから触れていたサラの手がもぞもぞと動く。寝ずらかったかもしれないと重ねていた手を離そうとすると、サラのもちもちの手が私の人差し指をぎゅっと握りしめた。
「…かわいい」
本当にかわいい。どうすればいいのかわからないほどかわいい。いっそのこと食べてしまいたい。
シフォンケーキのような柔肌を、ムースように滑らかな髪を、チョコレートのように甘い瞳を口いっぱいに頬張って、私の一部とするのだ。そうすれば、私のこのどうしようもない衝動もどうにかなるかもしれない。
ああ、いや、もちろん、本当に食べたりはしない。しないが、しないけど…でも、でも、ああ…
気が付けば、眠るサラのうなじに口づけを落としていた。
幼い子が大切な人にお呪いをかける時にするような、ただ唇をおしつけるだけの幼稚なキス。
そっと唇を離すと、そこには不格好なコチニールレッドの花が咲いている。きっと、この印はサラに気づかれることなく、近いうちに水と泡に流されそっと消えていくのだろう。
でも、
この先、どんな病魔に侵されたとしても
この先、どんなに悲しいことがあっても
この先、すべてのものを失ったとしても
この先、サラと私の間になにがあっても
「あいしてる」
この気持ちだけは、決して消えない。
私の胸の中で永遠と芽吹き続ける。
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