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虫の話
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しおりを挟む「今日は転校生がいる」
この学校に来てから一か月。私は清々とした気持ちで新しい学校へと通っていた。前の学校からも、家からもずいぶん離れた学校なので寮で生活を送っている。寮暮らしなんて一時はどうなるかと思ったが、「いい人」の力や同室の子の力を借りつつなんとかやっている。
そう、もうすでに「いい人」も見つけた。しっかり者で優しくて、それなりに裕福な一家の長女、そして世話好き。私は彼女をマーさんと呼んでいる。
だから正直、転校生などどうでもいい。どうでもいいはずなのだが、酷く嫌な予感がするのは気のせいだろうか。
「どうぞ入ってください」
「はい」
普段は横柄な態度で私たちに接する教師が、ただの転校生のはずの生徒に突然使う敬語。この年にしてはやけに色気のある独特の声。季節外れの転校生。なんとなく下がる室内の温度。
それらが、指し示すものは、
「どうぞよろしく」
きゅっと上がった毒々しい紫色の薄い唇。腰まである艶やかな金色の髪。赤と緑の混ざった複雑な瞳の色。以前とほぼ変わらない。変わったことと言えば、目の下のクマと頬が少しこけたことぐらいだろうか?
彼は自らの胸に手をあてて、まっすぐに私だけを見つめながら優雅に腰を折って挨拶をした。
「席は…サラの隣へどうぞ」
「先生」
席を立ち、手を挙げて教師の視線をこちらに向ける。発言なんていつぶりだろう。こんな目だつこと、本当はごめんだが背に腹は代えられない。
「なんだ」
緩慢な動作でかったるそうに教師がこちらを見る。
「私の隣はすでに両隣とも埋まっています」
「…マリア。どけ。一番後ろの空席へ」
なんとびっくり。教師はわざわざマーさんをどかせるつもりらしい。おおかた、彼からの「お願い」があったのだろう。彼はこの光景を薄ら笑いを浮かべながら見つめている。
「じゃあ、私が一番後ろの席に移動します」
「いいや、マリア。お前が後ろの席へ」
「マーさん。私が移動するよ。だから、マーさんはそのままで…
その時、これまで事態を静観していたあの男が、突然マーさんの前までカツカツと踵を鳴らしながらやってきた。そして緩く首を傾げて、一言。
マリア・オットー、と。
なんの感情も込もらない冷たい瞳で。でも、口元の笑顔はいつも通りで。
「…あ…えっと、私…その…後ろの席に行きます…」
そういってマーさんは慌てて荷物をまとめると、そくさと後ろの席にいってしまった。
そして、残されたのは私とあいつ。
男は雰囲気を一気に柔らかくして、その腕を私の頭と首にまわす。ふわり、と頭がおかしくなりそうなほど甘ったるい薔薇の香りが私を包み込む。
「…久しぶり。会えてすごく嬉しい」
目を細めこちらを見つめる男に、私は隠すことなく冷たい瞳を向ける。だが、男は全く気付かない様子で蕩けるような笑みを浮かべながらべたべたと私の頬やら髪やらを触る。
「肌も乾燥してるし髪もこんなぐちゃぐちゃで…やっぱり君は私がいないとだめなんだから」
「…」
「朝礼が終わったら全部やってあげるから待っておいで。お昼もちゃんと渡すから。君のことだから、きっとこの一か月酷い食事を…
「結構です。関わらないでください」
男の耳元でそんな言葉を吐き出した後、私は何事もなかったかのように席についた
大変申し訳ないが、現在の私の「いい人」はマーさんだし、彼に関しては手切れ金も払ったので過去の「いい人」ですらない。なので彼に猫を被る道理は全くない。
そもそもなんでこんなところまで追いかけてくるのだ。どうやって私がこの学校にいることを知ったのだ?こいつは本気でなにがしたいんだ?
「あの、サラ…」
「…」
先生が朝の連絡を述べているにも関わらず、それを一切聞かずに彼は小声で私のことを呼び続ける。
先ほどはっきりといったはずなのによく懲りないものだ。
「その、サラ…。聞いてくれ」
「…」
「ちゃんとエマ・ヘルマーにはしかるべき罰を与えたから…きっと二度と君には近寄らないはず。だから…」
エマ・ヘルマー?…エマさんのフルネームだったか?なんで彼女の名前が…?いや、彼は今なにをいった?
「罰…?」
これまでだんまりだった私が口を開いたのが嬉しいのか、彼はその人形じみた顔をぐっと私に寄せて、上ずった声で続きを述べた。
「そう。彼女のことを呪ったんだ。その呪いを解く代わりに二度と君には近寄らないよう誓わせた。だから君は二度と彼女に煩わされることはない」
「は…?」
なにをいっているのかわからなくて、私はただまじまじと彼の顔を見返した。それをなにか勘違いしたのか、男はさらに興奮した様子で話を続ける。
「近いうちに君の両親もどうにかしないといけないね。血が繋がっているだけで、君のことをなにもわかってない」
「なにを、
「彼ら、私と君を引き離そうとしたんだ。自分たちはなにもしない癖に、いざ君を助けようとする人間が現れると排除しようとするなんて…両親だとしても許されざる傲慢だよ」
彼は私に思考の余地も与えないまま異常なスピードでひたすらに話し続ける。
「知ってるかい?君の両親は教師連中に金を握らせて、君の居場所を私に教えないようにしたんだ。だからここを見つけ出すのにこんなに時間がかかってしまって…」
ちがう、
「でも、君が残してくれた物があっただろう?あれのおかげで私は君を見つけられた。君の気配をギリギリだけど辿れたんだ。君が私の魔法のことを知っているとは思わなかったよ」
__全部、違う。
金を握らせてくれたのは知らなかったけど、両親に「どうか誰にも私の行き先の学校を伝えないでほしいと教師に伝えてくれ」と言ったのは私だ。
それに、私はあんたの魔力のことなんざ知らない。悪役だから使える可能性は高いだろうなぐらいにしか思ってなかった。まさか、私が置いて行ったものの気配を辿ってくるなんて思わなかった。だから、そんなつもりで置いていったんじゃない。
「さっきの態度も両親に言われてそうしたんだろう?…忌々しい。君の両親は君に全くもってふさわしくない」
「ちがうって!!」
ここにきて、私はやっと言葉を上げた。…かなりの大きな声で。いつの間にか朝礼は終わっていたが、教室中に響いた私の声はクラス中の注目を集めることとなった。
「…出よう」
こんなところで視線を集めるのはごめんなので、教室の扉を顎でしゃくって教室の外へと向かえば、彼はそれに大人しくついてきた。
あまり人気がない場所がいいと、裏庭に向かうとやはりそこには誰もいなかった。
彼が私に手を上げるわけもないから、手を上げるとしたら私だけ。加害者にとってちょうどいい場所だ。
「…最初にいっておく。私、あなたのことが大っ嫌い。転校したのはあんたが嫌いだから。教師の口止めをお願いしたのは私だし、あんたの魔法のことを知ってたら物だって置いてかなかった。そしてこれは両親に言わされてるんじゃなくて、全部自分の意志で言ってる」
一息で言い切った。まっすぐ彼を見て、一回も目をそらさなかった。心に思い浮かんだ言葉を正直に伝えた。事実はいつだっていつも一番に人を傷つける。それはきっと、悪役の彼とて変わらない。
そしてやはり、私の言葉を聞いて彼は涙を零した。天使が零すような綺麗な涙をはらはらと。
「すまない…本当にすまない…」
彼は消え入りそうな声で謝罪を繰り返す。何度も、何度も。
そんな様子を見ていると、なんだか自分がものすごく酷いことをしたような気がしてきて、本当はもう少し色々言おうとしていたのを切り上げることにした。
「…だからとにかく、エマさんにも家族にも…なにもしないで。もちろん私にも。とにかく関わらないでくれたらいいから。じゃあ」
そういって足早に裏庭から立ち去ろうとすると、冷たい手が私の腹に緩く…でも振りほどくことはできない強さで巻き付いた。
「君のこと…守れなかった。安心してくれ。必ず、君を解放してあげるから」
「は?」
「脅されてるんだろう?わかってる」
「だから、
「アドリーヌ・ベルツ、ユーべル・ベルツ、クラウス・レトゲン、リタ・リーネルト、エマ・ヘルマー、マリア・オットー、コラリー・ペロン…
次々と並べられていくのは両親、親戚、これまでの「いい人」の名前。
「誰が君を脅したのかはわからないけど…まぁ、いい。彼らみたいなサラにとって有害な存在は…もう全て排除してしまおう。みんな、私の塔のちしゃと薔薇の養分にしてしまえばいい」
「だから!!!私は、
「私だってそんなことはしたくない。だが、君の健やかな生活を守るためには仕方ない」
「私は本当にあんたのことが嫌いで!!!」
「私も嫌いだよ。君にそんなことを言わせるようなやつらが。心底許せない」
「だから…だから…だからさ…」
「サラ、私が必ず君の健やかな生活を守るよ。それ以外はどうだっていいとすら思ってる。だからどうか…安心して私にすべてを任せておくれ。二度と…こんなことがないようにするから」
彼は自らの目元に小さく溜まった涙を細く真っ白な指で拭いながら、優しい笑顔で私にそう語りかける。
彼にはなにも伝わらない、なにも届かない、同じ言語のはずなのになにも通じない。排除ってなんだ?それは殺すという意味か?なんで、そんな話になったんだ?元から足りない私からさらになにか奪うつもりなのか?私になにを求めるんだ?
「…こんなの、こんなの普通じゃない…」
ちっぽけな脳みそから絞り出したのは、これまで彼をいいように扱うために散々利用してきた普通。
「君の普通の…健やかな生活を取り戻すためだったらこれぐらいのことは普通だよ」
そこまで言ったあと、彼は照れくさそうに笑って目線を地面にむける。
「それに、たとえ普通から外れてたとしても今はそれでいいんだ。君と私の関係は特別なんだから。特別な関係のためにちょっと普通じゃないことをするのは少しも不思議なことじゃない」
八方塞がり。
普通すら通じない。本当に、今日の彼にはなにも通じない。前はあんなに気にしていた普通を歯牙にもかけない。普通の反対側に彼はいってしまった。そして、それは決して特別というポジティブな意味ではない。異常という意味だ。
こんな異常者相手に私はなにをすればいい?しかもその異常者は、無駄に権力もあって魔法だって使える。
対して私には権力だってないし、魔力なんかもちろんない。それどころか、自分のことだってまともにできないただの寄生虫だ。
そんな寄生虫に…なにをどうしろと言うのだ。
いや、答えはすでに示されている。このまま放置すればいいのだ。このまま特になにもせず私は今まで通りの日常を過ごせばいい。そうすれば勝手にこの男が排除とやらをしてくれる。お母さんとかお父さんとか、これまでの「いい人」たちがいくらか死ぬかなにかするだろうがそれだけだ。
…それだけ?だけってなんだ?たかが私の健やかな生活とやらにお母さんやお父さん、「いい人」たち以上の価値があるとでも?ないに決まってる。そもそも、私が生きているのはお母さんとお父さんの善意にどうにかして報いたかったからだ。お父さんもお母さんもこんな私を育てるために沢山の時と金をドブに捨てた。ただ、私が死んでしまえば今度こそその時も金もどうにもならなくなる。だから生きてきた。少なくとも、金は少しでもいいから返さなければならないと。「いい人」だって前世からの「両親」という存在への負担を少しでも減らしたかったからつくったようなものだ。
…だから、私はこのまま放置するわけにはいかない。でも、だからといってどうすればいいというのだ?私になにができると?この人間ですらないただの薄汚く醜い寄生虫に?
「サラ…どうか泣かないでくれ」
冷たい手が頬に触れて初めて気づく。私はどうやら泣いていたらしい。この涙が絶望からくるものなのか、自分へのさらなる失望からくるものなのか私にはよくわからない。ただ、目から零れる液体を止めることは私にはどうやらできそうにもない。
「サラ、サラ…君が泣くと私はどうすればいいのかわからないよ…。なにが君の涙の原因なんだい?どうかこの私に教えてくれないか」
無言で首を横に振れば、手が背と頭へ移動し強く抱きしめられる。
なぜか知らないが、私を抱きしめる彼の身体は小さく震えている。震えたいのは私なのに、なにを勝手に彼は震えているのか?一体どういう心境で?わけがわからない。震える体とはあまりに対照的なその腕の力強さに、抗おうという気持ちすら起こらない。
「なにか困ったことがあったのかい?それともなにか辛いことが?君の憂いは全て私が晴らしてあげたいんだ」
__気持ち悪い。気持ち悪い。やめてくれ。
涙のおかげか、気持ち悪さのおかげかオーバーヒートを起こしていた脳みそが少し冷静さを取り戻した。パニックになってはいけない。私はこの状況を…どうにかしなければならない。
今の彼には、彼にとって都合の悪い言葉は聞こえていない。いや、聞こえていても都合のいいように捻じ曲げる。であれば、彼にとって都合がいい言葉を吐きつつ、少しでもマシな方向にもっていくしかない。寄生虫としてやってきたのと同じように…彼を操るのだ。だが、彼の言動を見るに、今の彼にどんなに都合のいい言葉を吐いても、彼は私の健やかな生活とやらを守るという一点だけは決して譲らないだろう。そして、その一点を守るためには、有害な存在の排除が必要不可欠だ。…彼の中では。全てがめちゃくちゃだけど、彼の中ではきっとそうなのだ。実際は、私の健やかな生活を守ってきたのは彼が有害な存在と断ずる人々だし、私にとって本当に有害な存在は彼だ。でも、そんな事実を彼は受け入れない。受け入れるわけがない。彼の脳内のお花畑を守るためには、そんな事実は必要ないのだ。
だから、私は代案を彼に提案しなければならない。彼の脳内のお花畑を守りながら、私の周りの人間を守る方法を。有害な存在を排除するという方法以外で、彼の言う私の健やかな生活とやらを守る方法を。その方法は…もう思いついている。あとは、甘い砂糖をまぶしながらそれを言葉に出すだけ。
だから__
「___トゥルさん…
「うん?」
震える喉から必死に紡ぎだされた彼の名前。その名前の主は、どんな小さな音でも聞き逃さぬようにとでもいいたげに耳を私の口元に寄せてくる。…ああ、どの動作にも胸やけするほどの甘さが溢れていて吐き気がする。
「トゥルさんに…排除なんか…して欲しくなくて…」
「でも…」
「お願い…!!」
ひしと胸にすがりつけば、男はびくりと体を震わせて頬を赤らめて私から目を逸らす。
「で、でも、外の世界は君にとっては有害な存在ばかりで…君の健やかな生活を守るためには排除が必要不可欠で…」
「い、いい…」
「え?」
彼は、私の健やかな生活のために、有害な存在を社会から排除すると言う。
だが、もちろんそんなことを受け入れられるわけがない。
であれば__
「外の世界なんか…もうどうでもいい…!トゥルさんがいればいい…!私、トゥルさんの塔に行って、そこにずっといる…!!だから…どうか…トゥルさんの手を汚さないで…」
逆に、有害な存在があふれる社会から私を排除させればいい。
「それは…
___沈黙
痛いほどの静寂。あまりにも恐ろしくて、彼の方を見上げることすらできない。私の甘い言葉に彼は騙されてくれたのか?彼はうまく誘導されてくれるのか?わからない。こわい。もし、この昏い代案が受け入れられなかったら…。
ただひたすらに、彼の胸に頬を押し付ける。鼓動は先ほどから少しも変わらない。常人よりいくらか早いスピードでまるで生き急ぐかのように脈を打っている。
「それは…私の塔で私と一緒に暮らしてくれるということ?ずっと…どこにも行かないで?」
その言葉に私がゆっくりと頷くと、男は大きく目を見開き、親指の腹でそっと私の唇をなぞる。
「ああ…」
呻き声とも喜びの絶頂から来る声ともとれるなんともいえない声を発した男は、もう一度私を強く抱きしめた。
「サラは本当に、本当にいい子だね…」
慈しみに満ちたその声は、歌うようにそんな言葉を紡ぐ。
「うん…うん…。そうだね…。私の塔で…二人で、二人きりで暮らそう。それで、君がずっと塔にいてくれれば…それだったら、わざわざ私が手を汚す必要もない。うん…うん…」
何度も私の頭に頬をすりつけながら、まるで泣いているかのような声で「うん、うん…」と男は繰り返す。
…どうやら、私の代案は受け入れられたらしい。
安心すると同時に、昏い絶望が腹の底からこみ上げてくる。
私はこれからこの男と共に暮らさねばならないのだ。この男の香りに満ちた塔とやらで、一瞬たりともこの男を忘れることを許されず、ずっと…ずっと____
ゴミみたいな現実に私は思考を止めた。
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