魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

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異本 蠣崎新三郎の恋 その四十一

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(あのとき、さ栄さまはなにをお考えだっただろう? ……結句おれは、やさしい言葉に許された気にもなって、その後はいつも恣に、さ栄さまに精を注いだ。さ栄さまもお望みだったかもしれぬ。……だが、おれが子をもつ覚悟を固められぬままに、欲を吐き出し続けた結末が、あれじゃ! 死産……。あの弱いお躰に、おれのような男の赤子が入ったというが、もとより無茶だったのではあるまいか? おれが節度を知らず、淫らだったあまり、天女さまを殺してしもうたのではないか?)
 しかし新三郎は、禁欲を絶対的な是とする倫理は教えられていない。悔恨の想いは、たちまち甘美な回想につながってしまう。
(あの、天女さまのご表情。柔らかい躰。髪の香。お肌のぬくもり。からみついてくる、かわいらしいお手と、強く強くこの腰を巻く、一所懸命のおみあし。)
まさにこの部屋だった。その闇のなかに、さ栄のさまざまな姿態が浮かんだ。
 さ栄さまと引き剥がされて以来、夜に一人の床で目の前に浮かび、苦しみに悶えてきた。
 はかない希望を残した別れですらつらく、やりきれなかったというのに、そのひとが死んでしまったというのだ。
 新三郎はその事実に打ちのめされた、

 その日のことは覚えている。急に内館の大御所さまに呼び出され、やや内々の居室で、本来は謁見に使われない大御所さまの書院に通されたのだ。厭な予感からくる動悸をおぼえながら部屋に入ると、驚いたことに大御台さままでが、青白い顔ですでに座っていた。
「新三郎、そなたは、亡きご先代さまのご猶子であるから、家の者としてお話がありまする。」
「わたくしなど、お家のひととは滅相もございませぬが……。」
 大御所さまの命を救った功で、馬回り(司令官)なみの処遇を与えられてはいた。だが、多くの士兵と領土を喪い、急衰した浪岡御所においては大したことができるわけでもない。そして、別にご先代の猶子だったからといって家族の扱いを受けているわけでもないのであった。
(むしろ、姫さまのことで恨んでいるはずだと、警戒されている。姫さまを大浦に差し出したこの大御台さまなどが、おれを煙たがるに最たる者であろう。)
 新三郎はだから、大御台さまの顔をみると、一瞬はぎょっとしたのだ。いつ言いがかりをつけられて誅殺されるやもしれぬ、という警戒心すらあった。反射的に気配を探った。
(潜んでいる者は……おらぬな。普段のご警護の者ばかりじゃ。)
 警護はつくものだが、あちらはあちらで、新三郎に油断はできないと思っているのだろう。
(こんな出仕は、姫さまのことがなければ、もう長続きせぬ。)
 腹を括るところがあった。
(姫さまのことがなければ、……あっ、姫さまの?)
「大御台さま! ご無礼お許しください。……もしや、姫さま……いや、大浦にお越しのお方さまの身に……?」
「新三郎!」
 大御台は、小さな悲鳴のような声をあげた。
 新三郎は詰め寄って問いたい気持ちをかろうじて抑えた。
(ご出産にはまだいくらかある。まさか……?)
 そのとき、大御所さまが、供も連れずに入ってきた。最愛の妹をあたかも売り渡すかのようにして命を拾って以来、冴えぬ顔しか見せない男になってしまったが、この日の顔色はもはや蒼白に近い。
(これは……!)
 低頭したままで大御所の様子をうかがった新三郎は、総身が震えだすのを感じた。ろくに座りもせぬうちに、大御所―もとの西舘、「兵の正」と呼ばれた偉丈夫の武将は、暗い声を若者にかけた。
「新三郎、さ栄が死んだ。」
 そのとき、新三郎の周囲から一切の光と音が消えた。
「……新三郎? したたにせよ! 新三郎?」
 大御所の呼びかける声、女―大御台だろう―の啜り泣きがようやく、闇の中に蘇った。
(ああ、おれは死んだか? おれも死んだほうがよい。)
 光が蘇った。身体は大きくかしいでいたが、別に倒れたりはしていない。
(……俺は、死ななんだようじゃな。)
 新三郎はぼんやりとした頭で、そんなことを思うだけだった。
「……死産であった。そのまま、血が流れすぎて、母親ももたなかったのじゃという。これは、大浦の偽りではない。」
 大御所にとって、ただ一人愛した―愛してしまった女が、自分の手から逃れただけではない、この世から消えてしまったのだ。大御台はただ泣いている。いかなる涙か、後悔か、哀憐か、いずれとも自分でもわかるまいが、ただ泣くよりほかないのであろう。
 新三郎は、うつろな気分でいる。涙は出ない。ただ、確信があった。
(おれの仕合せは、もう終わった。おれの人の世の旅(人生)では、もはや決して、自分の仕合せを追うことはない。)
「……新三郎、いずれ、仇は討とうぞ。」
「……あだ?」
 問い返すように呟いた。大御所は、つい口にした言葉を、すぐに恥じた。
(さ栄の仇とは、誰だ? 大浦か? 違う。こ奴にとって……)
(おれにとって、……姫さまの、さ栄さまの、さ栄さまとおれの間の子の、仇とは、誰だ?)
 新三郎は、何か難しいことのように、ぼんやりと考えている。
 大御所と大御台が何か声をかけ、それに応じて器械的に平伏したが、その内容も耳に入らない。
(おれにとって、姫さまの仇とは……)
 新三郎は、思い当った。そして、激しい憤怒と悲哀が、身体を突き抜けていくのを感じた。
(大御所、お前らではないかっ!)
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