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異本 蠣崎新三郎の恋 その四十
しおりを挟む身を起こしたこのとき、さ栄には、いろいろな気持ちが入り混じったままだった。
「……新三郎どのは、お子は要りませぬか?」
新三郎は虚をつかれたようになった。考えたこともない。十代の後半にようやく差し掛かり、少年の気配が抜けない若者には、答えられない問いでもあった。だが、ここでは少し思案の末、首を振った。
「無論、いずれは、姫さまのお子をこの手に抱きとう存じます。じゃが今は、万が一、いま姫さまが身重になられましたら、松前に渡る船にお乗せしにくい。」
「さ栄の身をお気遣いか?……うまいことをおっしゃる。」
さ栄は、知らずやや皮肉な言い方になる。新三郎は珍しい姫さまの態度に驚き、
「左様にいわれましても。」
「いや、それはうれしく、有難く思いまするよ。」
(嘘でもないのじゃ。新三郎は、心にもないことをいうて、取り繕ったりはせぬ。……じゃが、そればかりでもない。)
若者は、まだ女の肉体に貪欲なのだ。知りはじめた女の躰の味、心妻(恋人)との情事の甘さをまだまだ追いたいという気持ちが、無意識にせよ働いているのだろう。それは無理もない。さ栄が自身の胸に聞いてみても、女である自分にもあきらかにそうした声がある。自分は石女だろうというこの時の認識にも、さほどの重たい悲哀はなかったくらいなのだ。まだまだ男の愛をこの身で貪り続けたい、という欲がたしかにある。
(じゃが、自分自身の気持ちも、はかりかねる……)
新三郎と躰の奥まで繋がっているとき、無性にこのひとの子が産みたいという思いが立ち上るときがあるのだ。たとえ「恋」などと心のこととして呼ぶにせよ、その結果である睦合いという行為は、生殖活動に他ならない。新三郎の精を求めるときにさ栄を襲う、痺れるような受胎の欲求に似たものは、本能に起因するものかもしれない。
それとは別に、新三郎との仲をより強固なものにしたいという願望は、さ栄のなかで二人の間の子という形をとるのであろう。少女時代に人生の暗転があり、薄幸のさ栄は、松前という未知の土地で、新三郎と暮らす幸せの夢を追っている。どんな形にせよ、家族というつながりを得なければ、それは一生のものにならないだろう。そこに子どもがいて欲しい。今までの不本意な交合で得られなかったものを、この新三郎との間でだけ持てるとすれば、素晴らしいことに思えた。かけ離れた境遇と土地で生まれ育った、およそ釣り合わないかもしれない二人に、前世の宿縁めいたものがある証だとできるだろう。
(ただ、このひとに何もかもを求めてしまっては、ならない。このわたくしの宝物に、重い荷を背負わせてはならぬ。このさ栄が、大事な新三郎の重い荷になってはならぬ……!)
「……よいのよ、新三郎どの。もしも授かったら、さ栄がひとりで育てますから。」
「姫さま?」
「それはさぞかし、うれしい。さ栄は、新三郎どの、おぬしさまとさほどまでのご縁があったとわかるだけで、うれしかろう。それでよいのです。……もし、さ栄がよほど身重になっておったら、先にお帰りになって、松前でお待ちあれ。赤子を船に乗せられるようにならば、追いかけましょう。それまではさ栄ひとりで……。」
「おひとりになど、しませぬ。」
新三郎はさ栄を抱きしめた。さ栄の明るい声が、途中から震えているのに気づいた。
「左様に心細き目を、決して見せませぬ!……たとえ身重になられても、船に乗っていただきますよ。」
「無理じゃ、もし流れてしもうたら、如何いたします?」
「……石で腹を抑えて、船にお乗りくだされ。古の習いじゃ。」
「それは、神功皇后さまのことか? 古事記ではございませぬか!」
さ栄は、声をたてて笑ったのだ。
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