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異本 蠣崎新三郎の恋 その三十三

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「新三郎どの。お戦は、たしか三日前でしたのね。」
 新三郎は、何を今さら問われるのか、という意外そうな顔で、はい、と頷いた。
「やはり。……では、いかぬではありませぬか?」
「なにをでございましょう?」
「ご出陣の前の日、……」
 と、さ栄は説明しかけて、一瞬口ごもり、
「武家の作法に反しましょう。」
 肝心な中身を飛ばしてしまっているので、新三郎はすぐに気づかない。
「なにがでございますか?」
「い、いわせますのか?」
「は?」
「つまり、……いけませぬ。縁起が悪うございましょうよ。このたびは、お手前のご知略の甲斐もあり、かすり傷も負わずにお戻りになられ、まことに安堵いたしました。が、……」
「かたじけのう存じます。が、……? 縁起? 新三郎はお蔭様にて、かように無事にて。」
「ご武運まことにおめでたく存じます、が……。」
 さ栄は口ごもった。新三郎は思い当たらないらしい。
 その様子をみていると、別のことでなにか腹が立ってきた。つい、そちらを口に乗せてしまう。
「思い当たりませぬか?……男のひとというは、女になずんでしまえば、左様のものか?」
「えっ、いきなり、なんのことでございましょう?」
 新三郎は、さ栄のやや尖った言葉にようやく慌てたが、まだ気づかない。
「悔しい。新三郎どの、薄情なことじゃ。おぬしさまと違って、さ栄は、おぬしさまとの、……そう、あいだのこと、すべて忘れませぬ。一夜一夜が、忘れ難く、心に刻まれておりますから。いや、」躰にも、……といいかけて、さ栄はさすがに言葉を飲み込んだ。
「あ、……」
「お戦の、……ご出陣の前の宵に、新三郎どのは、ここにお越しになった。」
「それを、忘れたわけではございませぬ!」
 新三郎は腰を浮かせた。
「新三郎こそ、姫さまとの、その、……あいだのこと、何度あろうと、すべて覚えております。忘れがたい無上のよろこびじゃもの。一度いちど、決して忘れてなど」
 聞いていて恥しくなったさ栄は手を振って、新三郎のことばを遮り、
「も、もうよろしい。左様か? さ、左様であれば、それはうれしい、……いや、それはよいとして、……そうじゃ、そうじゃった。そもそもがいけませぬ。ご出陣に先立って、女に触れるなど、あるまじきことでございましょうに? 我が家の陣触れに如何にあるかは知らぬが、出陣の前に女の肌に触れぬは、古来、唐天竺ですら同じと聞きます。当たり前のこと。それを、……」
 さ栄はまた言葉に詰まったが、
「……左様よ、あのとき、明朝ご出陣とはさ栄はついぞ存じ上げませんでした!」
 教えてくれれば、喜んで迎えたりはしなかったのじゃ、どうだ、と言わんばかりにさ栄はやや上気した顔を反らし、胸を張ってみせた。
「屹度、縁起の悪いことでもありましょう。神仏のお怒りがなくて、まことによかった。」
「申し訳ございませぬ。先の出陣は、なにぶんにもごく内々のことにございましたので、姫さまにすらお伝えいたしかねました。」
「それを申しているのではありませぬよ、新三郎どの。おぬしさまはおわかりなのですから、さ栄の呼び出し、……ではない、いつものご学問など、それとなくお断りになればよろしかったのです。さすれば、出陣の前夜に、あの、……左様じゃ、女と戯れるなど不埒はせずによかったでしょう?」
 黙って聞いていた新三郎は、恐縮ぎみにやや伏せていた目をあげた。
「よかった? 姫さまはそれでよろしうございましたか。」
「わ、わたくしは、……」さ栄は、新三郎の静かな声にたじろいだが、「うん、それでよかった。大事なおぬしさまの身に何かあるくらいなら、一晩くらいは、我慢できました。」
(あっ、淫らな物言いをしておる!)
 さ栄は顔に血をのぼらせ、身を揉むように恥しがったが、新三郎の顔は喜色に溢れた。
(なにをよろこんでおるのか、新三郎!?)
「申し訳ありませぬ。わたしは、……」
(我慢できなかった、とでも御云いかい?)
「あの夜、姫さまに如何してもお目にかかりとうございましたから。」
 さ栄は胸が熱く、痛むほどに動悸しているのがわかる。
(わたくしもじゃよ、新三郎! わたくしなど、まことは、かた時とておぬしさまから離れとうないのじゃ!)
「会うだけならともかく、……淫らな行いは、慎まれるがよろしかった。」
「淫ら?」
「神仏のバチが当たるが怖い。」
「神仏? ……じゃが、姫さまは、天人さまのようなものじゃから。神仏といえば、新三郎にとって、姫さまこそはそれも同然。戦の前にこそ、天人さまに触れることがかなえば、弾にも当たらぬかと思うたので。」
「……!」
「その通りになりましてございます。」
 新三郎は恭しく低頭した。あげた顔は、微笑んでいる。
「……途方もないことをおっしゃる!」
 さ栄は涙ぐむのを覚えたが、新三郎は別に思い詰めた様子でもないのが、救いであった。 たしかにかれは勝ち、瀕死の傷の仇も討ったのだ。神罰仏罰などとんでもない、このこころ正しい新三郎にご加護以外あろうものか、とさ栄は心の底では思ってはいる。
「新三郎。まことに、勿体ない。……天人さまなどと! あっ、左様なこと、他の者の前で口に出してはなりませぬよ! たとえ、わたくしと、……いえ、わたくしどもの仲のことに触れずとも、いくら御所の身内というてもあまりに大仰で、おぬしさまが変に思われますよ。」
「ご存じありませぬか、姫さま。内館あたりでは、たまにお家のご儀式に顔を見せられるあなたさまを、みな天女さまじゃというておるそうな!」
 さ栄も、それは知っている。面映ゆいばかりだし、そんなことがもし兄の耳に入ったら何をどう思うかわからないのも、気が懸かるくらいだ。
 だがいまは、自分の恋人の評判がうれしくてならないらしい若者の明るい顔に、自分まで弾む気持ちを抑えきれない。
「あれあれ……!」
 さ栄は笑ってみせた。働きに応じた報いを受けられない新三郎に、いまの自分がしてやるべきは、楽しくからかってみせて、憂さをひととき飛ばしてやるくらいのことだ。
「天人さまの、天女さまのと有り難がってくださるが、その割には、新三郎どの? 些か、その、お手荒にはございませぬでしたか? とても、ご神仏も同然とのお扱いでは……」
 あっ、と新三郎は頬に血をのぼらせたようだ。さ栄もいいながら、思い出すこともあって、見るみる上気する。先ほどから、恥しいことばかり口にしていると思った。
 二人でもじもじと身を揺らすばかりであったが、些か日が陰ってきたのに気づく。
 灯りをつけさせましょう、とさ栄はいったが、気づいてみればこの離れにはもう二人以外いない。下女さえ母屋に下げてしまっていた。
 新三郎は、静かに首を振った。腰をあげかける。しかし、灯りをつけてくれるのではないらしい。
(帰ってしまう?)
 さ栄は一瞬、がっかりしかけたが、すぐに驚きと、あたたかい幸福感に包まれた。
 風のような勢いでそばに寄った新三郎が、座ったままのさ栄を抱きしめていた。そして、耳元で囁くのだ。
「姫さま……手荒をお許しください。」
 さ栄は無言で頷いた。
 言葉に嘘はなかった。出陣の前のあの夜に、新三郎に自分の躰がいかに文字通り貪りつくされたかを、さ栄はすでに、ありありと思いだしている。さ栄の躰のうちのなにものかが、全身を震えさせた。
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