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異本 蠣崎新三郎の恋 その三十二
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「根来のお坊様……?」
「はい。正式の僧かは知りませぬが、一向宗門徒で、法名を名乗っておりました。」
「それが、鉄砲撃ちか。」
さ栄の感覚では、やはり不思議ではある。往古より僧兵というものはいる。だが、僧が水際立った腕前の射撃手で、つまりは熟練の殺人技術者であるというのは、どうしてもやや解せぬところがあった。聖職者の全てが不殺生戒を守れる世でもないのは、さ栄とて戦国の女だからわかってはいるつもりであったが、……。
(しかも、その者、信心はたしかであるという。)
そうであろう。紀州の山中から越前に向かい、そこから船を乗り継いではるばる蝦夷島の松前湊まで渡ってきたのも、自分一個の欲得のためではない。一向宗の教団のためだったというのだ。
この時期、本願寺を頂点とする諸国の一向宗門徒の勢いは、各地でなお盛んである。だが、諸国で一揆を戦う門徒衆には、目先の効く者がいた。いずれ、有力な権力の成立によって抑え込まれる危機が遠くない。いざというときに、逃れ出る地を今の内に作っておかねばならないのではないか。いずれ成立するかもしれない強大な中央政権は、上方やその周辺にいる一向宗を圧迫するだろうし、各地方の大名たちもさんざんに苦しめられてきた一向一揆に対して容赦はないはずだ。彼らの手の及ばぬような、新しい居場所を探しておかねばならない。
「それで、松前?」
はい、と頷いて、新三郎は苦笑してみせた。
「一向宗門徒など、もし受け入れてしまえば、いかにも剣呑ではございますが。」
蝦夷代官である蠣崎季広はしかし、表向きは海容な態度に終始したようである。
「蝦夷島は天下の外。よしんば公方様がご禁制あろうとも、この地では御信心好きになされよ。」
とまでいったらしい。根来衆の僧形の男は、いたく感謝してくれたようだ。
堺や大和あたりに雇われて鉄砲を撃っている彼にとっては慣れたものではあったが、頼まれるままに浪岡まで足を運び、新三郎の軍に参じてくれたのも、父である蝦夷代官への義理立てであっただろう。
「松前には、不思議な人も集まるのじゃね。」
さ栄は、まだ見ぬ地への空想で胸がふくらむ思いがした。新三郎の故郷というだけで悪い印象はそもそもないが、たしかにさほども離れていないこの津軽とも、まったく異なった風土をもつらしいのが、面白く感じた。
「さあ……? 天下の北の外れには、違いませぬから。」
「ご本と毛皮がいっぺんに来る。」
さ栄は笑った。
「それは、松前は湊でございますので。……お喜びいただけましたようで、ありがたく存じます。」
「かたじけなく、頂戴いたしますよ。お疲れをねぎらうのはこちらであるはずが、かえってこのような心遣いをさせて、痛み入ることです。」
本と毛皮、というのは、新三郎が松前から送らせたのを、持って来てくれたのだ。さ栄が喜びそうな書物を、妹のひとりに選ばせていた。近年の評判のいい歌論書や、古い物語の絵巻などである。毛皮は、北の土地から運ばれてきたクロテンであった。どちらも高価ではあったが、松前湊では決して珍しいものではない。
さ栄が喜んでくれたので、新三郎は満足した。
本来、招かれているのは新三郎であった。このたびも手柄をたてたらしいから、さ栄はなにか祝ってやりたかった。
(どうも、報われておられぬ。)
そう思えてならないから、せめて自分だけでも心から労いたいという思いがある。
このたびの鮮やかな戦勝が、一軍を率いる立場にあった新三郎の差配によったのは、誰の目にも明白であった。捕まれば死ぬしかない脱走の指揮者格以外はほとんど殺さずに鎮圧できたのも、内紛で浪岡御所全体の戦力が損耗せずに済んだのだから、手柄に数えて貰わねばならない。
叛乱に紛れ込んでいた鉄砲撃ちの素性が知れたのも、大きかったであろう。御所がたが危惧していたこととはいえ、どうやら余所者―大浦の息のかかった者であったらしかった。御所―西舘こといまのご名代にとって、対外的な戦略を固める上での確たる証拠を得たともいえる。
(じゃのに、このひとには御所―兄上からなんの御沙汰もない。恩賞すら出なかったらしい。)
「いえ、小一郎にご恩賞がいただけましたから。」
「それは蠣崎―ここ津軽の蠣崎のお家への恩賞でありましょう? 新三郎どのには、御所より別個お褒めがあってしかるべきでは?」
さ栄はつい口に出してしまい、すぐにはげしく後悔した。そんなことは本人が一番よくわかっているのだ。それを腹に飲みこんで、今宵は機嫌よさげに、郷里からの土産まで持って来てくれた。その新三郎の内心の努力を、蔑ろにしかねぬ物言いであった。
案の定、新三郎は瞬時黙り込んだが、すぐに笑顔に戻って、
「このたびは戦といっても、謀叛人を鎮めただけ。御所の備の組頭には、当然の仕事にございましたから。……若い一太郎にお褒めあったのが、御所さまの特段の有り難いお考えにございましょう。」
その御所さまというのは、この前まで千尋丸だった一太郎少年よりも年少の幼児にすぎないから、「お考え」も何もないものだが、新三郎としてはそれで納得したいのであろう。
さ栄も、なるほどわかったという表情をつくってみせる。
だが、今日はもう一つあった。
ふくも遠慮して外している二人だけの席になったから、いっておきたい。ふくは、新三郎がさ栄のもとに忍ぶようになってからは、姫さまを守って隣室で寝るという長年の習慣をやめてしまった。その代り、かなり広い母屋―つまり津軽蠣崎家の拝領している屋敷に、自分の寝室を作ってしまった。さ栄が新三郎の訪れをにおわせる日や、二人が昔から続けている風流の「御学問」の日などは、気を利かせたつもりか、そちらに行って寝てしまう。
蠣崎家の老若の男たちにとっては少し迷惑な話だが、新三郎とさ栄にとってはありがたいばかりであった。二人の抱擁の衣擦れや、睦言や、どうしても抑えられない息のはずみ、激しい躰の動きがたてる物音を、気にしなくてもよくなったからだ。
とはいえ、今日のさ栄は新三郎をたしなめておきたいのである。その内容が、いくらふくとはいえ余人の耳に入るのは憚られるのであった。
「はい。正式の僧かは知りませぬが、一向宗門徒で、法名を名乗っておりました。」
「それが、鉄砲撃ちか。」
さ栄の感覚では、やはり不思議ではある。往古より僧兵というものはいる。だが、僧が水際立った腕前の射撃手で、つまりは熟練の殺人技術者であるというのは、どうしてもやや解せぬところがあった。聖職者の全てが不殺生戒を守れる世でもないのは、さ栄とて戦国の女だからわかってはいるつもりであったが、……。
(しかも、その者、信心はたしかであるという。)
そうであろう。紀州の山中から越前に向かい、そこから船を乗り継いではるばる蝦夷島の松前湊まで渡ってきたのも、自分一個の欲得のためではない。一向宗の教団のためだったというのだ。
この時期、本願寺を頂点とする諸国の一向宗門徒の勢いは、各地でなお盛んである。だが、諸国で一揆を戦う門徒衆には、目先の効く者がいた。いずれ、有力な権力の成立によって抑え込まれる危機が遠くない。いざというときに、逃れ出る地を今の内に作っておかねばならないのではないか。いずれ成立するかもしれない強大な中央政権は、上方やその周辺にいる一向宗を圧迫するだろうし、各地方の大名たちもさんざんに苦しめられてきた一向一揆に対して容赦はないはずだ。彼らの手の及ばぬような、新しい居場所を探しておかねばならない。
「それで、松前?」
はい、と頷いて、新三郎は苦笑してみせた。
「一向宗門徒など、もし受け入れてしまえば、いかにも剣呑ではございますが。」
蝦夷代官である蠣崎季広はしかし、表向きは海容な態度に終始したようである。
「蝦夷島は天下の外。よしんば公方様がご禁制あろうとも、この地では御信心好きになされよ。」
とまでいったらしい。根来衆の僧形の男は、いたく感謝してくれたようだ。
堺や大和あたりに雇われて鉄砲を撃っている彼にとっては慣れたものではあったが、頼まれるままに浪岡まで足を運び、新三郎の軍に参じてくれたのも、父である蝦夷代官への義理立てであっただろう。
「松前には、不思議な人も集まるのじゃね。」
さ栄は、まだ見ぬ地への空想で胸がふくらむ思いがした。新三郎の故郷というだけで悪い印象はそもそもないが、たしかにさほども離れていないこの津軽とも、まったく異なった風土をもつらしいのが、面白く感じた。
「さあ……? 天下の北の外れには、違いませぬから。」
「ご本と毛皮がいっぺんに来る。」
さ栄は笑った。
「それは、松前は湊でございますので。……お喜びいただけましたようで、ありがたく存じます。」
「かたじけなく、頂戴いたしますよ。お疲れをねぎらうのはこちらであるはずが、かえってこのような心遣いをさせて、痛み入ることです。」
本と毛皮、というのは、新三郎が松前から送らせたのを、持って来てくれたのだ。さ栄が喜びそうな書物を、妹のひとりに選ばせていた。近年の評判のいい歌論書や、古い物語の絵巻などである。毛皮は、北の土地から運ばれてきたクロテンであった。どちらも高価ではあったが、松前湊では決して珍しいものではない。
さ栄が喜んでくれたので、新三郎は満足した。
本来、招かれているのは新三郎であった。このたびも手柄をたてたらしいから、さ栄はなにか祝ってやりたかった。
(どうも、報われておられぬ。)
そう思えてならないから、せめて自分だけでも心から労いたいという思いがある。
このたびの鮮やかな戦勝が、一軍を率いる立場にあった新三郎の差配によったのは、誰の目にも明白であった。捕まれば死ぬしかない脱走の指揮者格以外はほとんど殺さずに鎮圧できたのも、内紛で浪岡御所全体の戦力が損耗せずに済んだのだから、手柄に数えて貰わねばならない。
叛乱に紛れ込んでいた鉄砲撃ちの素性が知れたのも、大きかったであろう。御所がたが危惧していたこととはいえ、どうやら余所者―大浦の息のかかった者であったらしかった。御所―西舘こといまのご名代にとって、対外的な戦略を固める上での確たる証拠を得たともいえる。
(じゃのに、このひとには御所―兄上からなんの御沙汰もない。恩賞すら出なかったらしい。)
「いえ、小一郎にご恩賞がいただけましたから。」
「それは蠣崎―ここ津軽の蠣崎のお家への恩賞でありましょう? 新三郎どのには、御所より別個お褒めがあってしかるべきでは?」
さ栄はつい口に出してしまい、すぐにはげしく後悔した。そんなことは本人が一番よくわかっているのだ。それを腹に飲みこんで、今宵は機嫌よさげに、郷里からの土産まで持って来てくれた。その新三郎の内心の努力を、蔑ろにしかねぬ物言いであった。
案の定、新三郎は瞬時黙り込んだが、すぐに笑顔に戻って、
「このたびは戦といっても、謀叛人を鎮めただけ。御所の備の組頭には、当然の仕事にございましたから。……若い一太郎にお褒めあったのが、御所さまの特段の有り難いお考えにございましょう。」
その御所さまというのは、この前まで千尋丸だった一太郎少年よりも年少の幼児にすぎないから、「お考え」も何もないものだが、新三郎としてはそれで納得したいのであろう。
さ栄も、なるほどわかったという表情をつくってみせる。
だが、今日はもう一つあった。
ふくも遠慮して外している二人だけの席になったから、いっておきたい。ふくは、新三郎がさ栄のもとに忍ぶようになってからは、姫さまを守って隣室で寝るという長年の習慣をやめてしまった。その代り、かなり広い母屋―つまり津軽蠣崎家の拝領している屋敷に、自分の寝室を作ってしまった。さ栄が新三郎の訪れをにおわせる日や、二人が昔から続けている風流の「御学問」の日などは、気を利かせたつもりか、そちらに行って寝てしまう。
蠣崎家の老若の男たちにとっては少し迷惑な話だが、新三郎とさ栄にとってはありがたいばかりであった。二人の抱擁の衣擦れや、睦言や、どうしても抑えられない息のはずみ、激しい躰の動きがたてる物音を、気にしなくてもよくなったからだ。
とはいえ、今日のさ栄は新三郎をたしなめておきたいのである。その内容が、いくらふくとはいえ余人の耳に入るのは憚られるのであった。
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