魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

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異本 蠣崎新三郎の恋 その二十六

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 ……そんなことを考え、家臣と策を練るのを、新三郎は特につまらぬとも不愉快だとも思ったことはない。それが自分の務めであり、そしてこの齢まで生き延びたところをみると、どうやら得手でもあるらしいからだ。
 だが、ときに、そうしたことがひどく白々しく、無意味なことに思えてくるときがある。そんなときに、必ず、さ栄姫と睦みあった日々を思い出すのだ。そして、ただ一人の場所を求めずにはいられなくなるのである。
(たったの一年……。なんという幸せな日々であったか。地獄の底の哀しみに断ち切られてしまったと知る今になっても、あのような輝かしいときは、おれにはもう来なかったとしか、思えぬ。)

 新三郎は馬を駆った。体躯に響く快い速度の中で、様々な考えが胸中を走っては消えた。
(それはその後も、泣くほどに嬉しいことにも出会えた。おれは、……忘れてはならぬ、おれの人生は幸運だった。つらい、苦しい思いを補ってくれる喜びが、惨めな敗北を上回る誇らしい気持ちが、蠣崎新三郎慶広には、あった。)
 喪ったものばかりではない……と、昼間であれば、新三郎はかろうじて思うことができる。夜に一人こうした思いに沈むときには、喪失ばかりのようだが、明るい時分にはかろうじて勘定がたった。松前という新しい名字にしたところで、新三郎が多くをこの手に掴んだ証であった。
 それに気づくと、浪岡御所の何が無闇に懐かしいのか、ふとわからなくなる時さえ来る。
 今日は、対岸の島影がかすんで遠い。さらにあの彼方に、浪岡御所があった。
(浪岡御所でのおれは、なんだったか? 最初は、ありていにいうて中間の小僧でしかなかった。こき使われたものじゃ。わけもわからず、殺されかけもした。だが、姫さまがいた。そのおかげで、仕合せな……。)
(いや、その日々とて、おれはようやく下っ端の侍であっただけよ。亡き御所さまの猶子とは名ばかりで、年寄りと子どもの家を任されては、泥と埃を毎日かぶった。白刃の下をくぐって命を懸けた末に、物置みたいな古屋敷を有り難く貰ったか。……そういえば馬の金、あれは返してくれよったかな?……こんど、聞いてやろう。)
 新三郎は、ひとり薄く笑った。津軽蠣崎家は、浪岡御所の滅亡に先立って、新三郎が成長した一太郎を松前に引き取ってやっていた。そのまま、親戚待遇の家臣にして、現在に至る。直系ではないから松前の名字は与えられていないが、蠣崎一太郎は松前家の重臣の一人に列なっている。馬の背にしがみついて泣いていたあの子どもが、だ。古いことを持ち出して、あの金早く返せとでもいえば、あの男は目を見開いて、慌てて弁解でも、しよるかもしれぬ。そして、ともにあのアオという馬を懐かしがれるだろう。
 古い家臣という以上に、新三郎にとって一番近しい弟のように思えているのは、多感な時代に苦楽をともにできた、この実直な津軽蠣崎家の当主だった。
 思えば、肉親の縁という点で、蠣崎新三郎には苦い思い出が尽きない。現に家督相続の争いがあり、同い年の庶弟を追放した。揃って自分とは異腹の弟たちは無論油断ならないから、「松前」家創設に当たっては、ことごとく純然たる家臣の列に下げた。血の繋がりなど実は全くないのだろう小一郎こそが、気を許せる弟になってしまったのだ。
あれほど悩んだ肉親の相克を、自分の代でも繰り返したことが、苦い思いになって残っている。あれほど、衝撃を受けた、同腹の兄たちの非業の最期、やさしかった異母姉や義兄の悲惨な刑殺……。
(遠い故郷で兄や姉が次々に殺されたのを聞いた。松前には帰りたくないと思い詰めたが、では、浪岡は血腥くなかったか? いや、まことは御文庫の文殻に埋もれていてもよかったのに、静かに日を過ごすのも許されなかった。名利のない内輪もめの戦に日々駆り出され、心やさしい同輩を斬り、ついにはまた命を落としかけた。それでも、出世の声はかからなかった。ひどい話だ。やはり所詮は蝦夷侍だと、軽く扱われたと言わねばならぬのではないか?)
新三郎は思い出すと腹立たしくすらなってくるのだが、それでも、おれはたいして気にしなかったな、と思い当たった。
(あれは、おれがうんと若かったからだ。若い奴は呑気でいられる。いつも前に明るさだけみていてもいい。ときはいくらでもあると思える。そういう生き物だったからだ。そして、……ああ、姫さまのそばにいられたからだ!)
姫さまと切り離されたときに、はじめて故先代御所の猶子らしい、馬廻りの役を貰った。だが、少しもうれしくはなかったのを、新三郎はまざまざと思いだした。
(姫さまが、すべてだったのだ。おれの浪岡御所は、さ栄姫さまのおそばということ。それ以外には、なかったのだ。)
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