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異本 蠣崎新三郎の恋 その二十五
しおりを挟むふと思い起こすと、蠣崎新三郎慶広、あるときからは松前志摩守慶広は、愕然とすることがある。
(あまりに、短い月日であった……!)
津軽の遅い春、まだ風が冷たく感じられ、雪が山に残る頃にはじまった。そして、次の齢の春には、別れが来たのだ。
(一年足らずでしかなかった。)
それに思い当たったとき、志摩守―新三郎のやや老いた足は、人けのない所を探す。夜であれば城内の公事の場所であり、滅多に誰も使わぬものみの高楼であった。日中であれば、暇を盗んで、馬を出す。供も連れず、馬を攻めに出る態でじっさいには馬場ではなく、浜や岬を目指した。
この松前は新三郎のものであった。なんの警戒の要もない。町の庶生には丘の上の城の主の顔を知る者ばかりではないが、それだけに構われることもない。
(なんという一年であったことか。)
見慣れた景色に目をやることもなく、対岸にはるか遠い、津軽浪岡のことばかり考えている。多忙な蝦夷島の武家の頭にはあるまじきことだった。
しかし、齢を重ねるにつれ、新三郎にはそうした時間がぼつぼつと増えていった。
隠居したわけではないから、いくら伏見や江戸に詰めているのではなく本領で過ごしていると言っても、自由にできる時間が多いわけではない。すぐる関ケ原の一戦以来、この十年ほどたしかに中原は平穏で、天下の北の外れにある蝦夷島もまた、安寧と繁華の道を着々と辿っている。だが、それだけに、松前家支配のこの土地で、当主である新三郎にはすることが山ほどあった。
そして、永禄以来の歴戦の将であり、戦国奥州の生き残りの一人である松前志摩守の鋭敏な感覚は、中原の覇を名実ともに決定する最後の後片付けの大戦が迫っていることを、正確に把握していた。慶広はそれに参加するだろう。いうまでもなく、その功によって、天下人に認められた蝦夷島の支配を永久のものにするためであった。
(おれの長い人生の務めも、仕上げが近づいておるわ。)
蝦夷島よりもはるかに広大な大陸を西から運ばれてきた、途方もなく巨大な大筒が、ひそかに届いていた。あとはこれを、さらにひそかに江戸あるいは駿府に送らねばならぬ。奥州はじめ、各地の大名にも知られぬように、こっそりと大御所(徳川家康)の手に落すには、周到な準備が必要であった。
(それが済めば、あとはいずれ上方に出かける。戦の決着は、始まったときにもうついておるから、出かけるだけじゃ。あやつらを連れて行こう。)
あやつら、というのは、蝦夷島に地生えの、「アイノ」と名乗る連中であった。蝦夷兵を抱え込むのを、ほんらい新三郎はあまり好んではいない。蝦夷に偏見があるからではないといえた。蝦夷は自分たち「和人」(という呼び方が作られつつあった。上方から来た商人たちが作った言葉だろう。)と馴染まぬ方が、本当はよいのだ、と思っている。だが、かれらももはや昔通りの暮らしができる者ばかりではない。奥州ほどではないが、風体もなかば和人になっているものも、松前のような町には少なくない。かれらがたとえば蝦夷足軽として暮らしていきたいと思うのならば、さようにすればよい―というのが、新三郎の考えだった。
そして上方では、おれはまた、やつらの主らしく扮装してやろう。大御所も、昔は太閤も、それを興がられた。北辺より駆け付けた、虜囚の長らしく振る舞ってやるのだ。蝦夷足軽の毒矢を、大坂にたむろする不逞の牢人どもは味わうがよかろう。
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