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異本 蠣崎新三郎の恋 その二十四
しおりを挟む「新三郎、さ栄は、汚れた女じゃ。お前のように、身も心も綺麗な若武者に、相応しうはない。」
「さようなことを!」
「亡くなった旦那様のことは、身勝手ないいぶんじゃが、気にしないでくりょう。それはまさか、ご存じなくはないね? うん、……ご縁が薄かった。とんだ陰口じゃが、別段、おやさしうもなかったよ。じゃが、いまのさ栄には、あのお方がお気の毒で、すまなくてならぬ。なにもかもが、妻であったわたくしのいたらぬところじゃったから。」
「姫さまもご不運でございました。おいたわしう存じます。ただ、わたくしはもちろん、姫さまがかつてどなたかのご細君であられたからといって」
「むろん、そのことではありませぬ。……さ栄が汚れているというは、……いや、ひととして許されぬおぞましい所業があるは、……新三郎?」
脂汗を流して思わず固く閉じていた目を開くと、新三郎は両手で耳を塞ぎ、うずくまって目を閉じていた。
「さようじゃな。聞きとうもない、汚らしい話よな。」
やはり新三郎は薄々は気づいているのだな、とさ栄は苦い笑いを浮かべた。新三郎のついみせた幼い仕草が愛おしく、そして厭な話を聴かねばならぬのが可哀相でならない。
「お聴き為され。思うとつらくてなりませぬが、おそらくは新三郎の考えていた通りの話じゃ。」
「聞きとうございませぬ。いや、姫さまにお話しして欲しうないのでございます!」
「聞かねばならぬよ。聞いてほしい。」それで、わたくしに嫌気が差せばよい、とさ栄は声を振り絞ろうとした。そのとk、
「姫さま! お口に出されてはならぬ! わたくしは、姫さまのお身が案じられてならぬ! どうか新三郎のために、お話しくださいますな!」
「さ栄の、身?」
「さようです。つらいお話をされて、姫さまのお病がまた出たらどうされます? またお肌に赤いものが出るのを、見とうない! 姫さまがお苦しみになったら、わたくしは如何にすればよいのです?」
(新三郎、そこまでわかっていたのか? わたくしと西舘さまの過ちがのっぴきもならないところまで行ってしまっていたのに気づいていたのか? それがあの魚の鱗が浮き出る原因だとまで感づいていたのか? そのうえで、……そのうえで、さ栄の身を案じてくれるのか!? 畜生道の交わりに喘いだ、人でなしと気づいていてさえも?)
「お話しになってはならぬ。いや、思い出されてもなりますまい。この前、最初に私は言うた。覚えておられませぬか? 姫さまの辛いお気持ちも、悲しい思い出も、すべてひっくるめてこの蠣崎新三郎がいただきまする、と。すべておれのものにする。姫さまのお持ちのものは、すべてじゃ、と。」
「新三郎……!」
「もうわたくしが貰ってしまいました。じゃから、……」新三郎は、笑ってみせた。「姫さまがお話しになることは、すでに、お持ちではない。よって姫さまが、新三郎のためにあれこれと思案なさることも、もう、ないのじゃ。」
さ栄の目から涙が落ちた。膝に置いた手を、固く握りしめた。
(それでよいはずがない。じゃが、新三郎がかようにいうてくれる! その気持ちに背きたくない! それでよい、と思うてはならぬか? ああ、さように思いたい!)
さ栄は若者が、また自分を抱き締めてくれるのだけを待つ。そのぬくもりだけが、自分を納得させてしまうだろうと期待していた。
ところが、新三郎はさらに後ろに退いた。着衣を直した。
「姫さま。お願いがござります。」
と、上座に当たる場所に座り直す様に、視線と手ぶりで促した。さ栄は訝しく思ったが、いわれるままにその場に移り、自分の衣を直し、さらに考えて、寝衣のうえに羽織りものを重ねた。気づくと、新三郎もそのように、せめてもの身づくろいをしようとしている。二人、やや格式ばった距離をとって座りなおした。新三郎が口を開く許しを請う表情をみせたので、黙って頷く。
「姫さま。蠣崎新三郎慶広より、お願いを申し上げるのを、お許し下され。」
「苦しうない。」
「……姫さま、この蠣崎の妻にお迎えしとう存じ上げます。どうか我が家に入ってくださいませぬか。」
「えっ?」
「本来なら、間にしかるべき人を立ててお願いにあがるべき所にございます。ご無礼お許しください。されど、先代の大御所さま、御所さまともにご不例あり、無念ながらお許しを乞うこと叶いませぬ。姫さまご本人に直にお願いするは礼を失することは承知。されど、姫さまから常にいただきましたご恩、こたびの格別のご厚情、……すべて、ご縁と存じます。どうか、この無上のご縁を、整うた形であらためて結ばせて下さいませ。」
聞きながら、さ栄の身は震えていた。驚きをともなう、激しい随喜の感情が、全身を走っていた。からだが浮くような思いがした。新三郎の、潜めてはいるが温かい熱のこもった声が、生まれてから一度も聞いたことがない音楽のように響いた。
新三郎の顔は、緊張に血の気が引いている。
婚姻を口にした。勢いからではない、と自分に言い聞かせている。おれは、おれのいいたかったことをそのまま口にしている。だから、ほら、はばかりのないこととて、いえるのだ。
「つっと、一緒にいてくださりませぬか。蠣崎の家にお迎えするなど、おそれも多い。されど、姫さまとつうっと、ともに過ごすためには、そのようにするしかない。さようしたいのでござります。」
黙っているさ栄のからだがぐらりと揺れたので、新三郎は慌てた。だがそれは、飛びつくようにしてさ栄が、この胸に抱きついてきたのである。柔らかい温かみを、新三郎はしっかりと受け止めた。背中を撫で、髪の匂いを嗅いだ。
「まことに? まことに?」
「まことでございます。嘘やその場のいつわりでは、ゆめございませぬ。」
「いまいちど、申されよ。新三郎どの?」
「じゃから、……わがつまになってくだされ、姫さま。姫さまを我が室にお迎えしたい。」
「ありがたい! なんとありがたいお申し出……! 定めしこれは、亡き兄上のご加護……。ああ、ありがたい! うれしい!」
「姫さま! うれしいのは、ありがたいのは、おれのほうでございます。……よろしいのでございますか。」
答える代わりに、さ栄は精いっぱいの力で新三郎にしがみついた。
「ああ、なんということ。ありがたい、ありがたいよ、我が君よ。これほどうれしいことが、この夜のうちに、……?」
(これほども……!)
さ栄は、待ちかねていた、もうこの世でそれしか望まないものになった、力強い抱擁に歓喜しながら、何度も繰り返した。
(このひとは、ああ、これほども、思うてくれるのか?)
「姫さま。お受けいただいたのですね?」
さ栄は夢中で何度も頷いた。若者は安堵したのか、溜息を吐いて、また背中を柔らかく抱きなおしてくれる。
婚姻を口にされることを、さ栄はまるで予期していなかったのが不思議だった。最初からそれをあきらめていたからだろう。だが、若者の口からそれを言ってくれた。
(まさか、そこまで考えてくれたとは……。これほどまでに、離れたくないと思うてくれていたとは!)
その瞬間に、さ栄の心の中の堰も切れたのだ。自分もそれを望んでいた、この若者と夫婦になることに憧れていたのだと、だから、急にわかってしまった。
(これほどにも、このさ栄を大事に思うてくれている! この世で一番愛おしいひとが、このわたくしを、これほども思って、気にかけて、そして一生を賭けようとしてくれる! これほどにも、大事に……!)
気の遠くなるような喜びが、さ栄を、そして人生の最良の決断を下し得たと信じた新三郎を、ともに包んでいた。
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