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異本 蠣崎新三郎の恋 その十八

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 弓を引き絞る力が伝わるだけで傷んだ左脇腹の傷跡も、ようやく痛み自体は薄れてきたようだ。
 だが、まだ雪の残るうちは、
 「ご大将、下手じゃな」
 揃って短弓を引くのがうまい蝦夷足軽たちは、屋敷にこしらえた矢場で主人が悪戦苦闘しているのを、囃したものだ。
  新三郎は彼らから心服を得ているが、まだどこか力のない矢がことごとく的を外すのをみると、気の毒な気持ちから、かえってからかいたくもなるらしい。横で心配げに見ている一太郎がたしなめるが、聞かない。
「一太郎、いいのじゃ。その通りよ。」
(まだ戻り切れていない。)
 新三郎は悔しいが、しかしこうして鍛錬の真似事でもできるようになったのだから、焦るまいと自分に言い聞かせた。
(弓が引けるようになれば……。)
 姫さまの身体の暖もりを思い出し、また強く矢を引き絞った。痛みに顔をしかめるが、歯を食いしばる。

 新三郎にはもどかしいながらも期待ばかりがあったが、さ栄はそうはいかなかった。
 今さらながらに、深い悩みに沈み、ときに叫びだしたいほどの荒い昂ぶりを感じていた。
 新三郎の胸にすがり、両腕に包まれて以来、かつて実の兄に女にされてしまったという事実を、あらためて厭わしく、恨めしいと思っている。最初にそれを知ったときの、言葉を喪うほどの衝撃や悲しみを味わったときとは、また違う。愛する者にすまないという思い、罪障意識であった。
 これは死んだ夫に対しては、感じることができなかった。そのときには、あまりのことに心が魚になり切っていた。今では良心の咎めをおぼえるが、しかし夫とは心の繋がりは乏しく、かれも最後まで決してさ栄を愛したわけではないのが救いにはなっていた。
 新三郎は、違うのだ。知らぬこととはいえ転がり落ちた畜生道の底から、救いあげてくれた。いつからか、喪っていた人間らしい気持ちを取り戻せていたような気がするが、その恩人こそは新三郎だったに違いない。
 そのひとを、自分は閨に誘い込もうとしている。魚か何かになってしまったような女の、汚らしい肉体を、まだ穢れのない若者に与えようとしているのだ。そうしたくて、身もだえしているのだ。
(そして、このさ栄の躰を開いた兄こそは、人でなしの謀叛人じゃ。父殺し、兄殺し、あわせて主君殺しの恐ろしい愚か者じゃ。お家を乗っ取った悪党じゃ。そんな者に、さ栄はかつて喜んで抱かれた。涙を流して絡み合った。それだけでも許しがたい。それどころか、そのとき教わった、みだらな悪い真似を夢中で新三郎に教えてしまったではないか、この女は!)
 さ栄は身震いした。新三郎の温かい唇を感じたとき、もう何もわからなくなって、舌を貪った。新三郎は驚いただろうが、いつもさ栄が歌や茶を教えたときと同じように、素直に従ってくれ、……
(恥かわしいっ!)
 頭を抱えてしまうのだが、その悲嘆の底で、何をすべきかはとっくにわかっているのだろう、と呟く声が聞こえる。
(新三郎を汚してしまってはいけない。……己の汚らわしい欲に、あの子を染めてしまってはならない。いまなら、引き返せる。遅くはない……!)

(さに、決めたはずなのに!)
 新三郎が、本当はそれを告げたくて仕方がなかったはずのことをそれとなしに会話に忍び込ませて伝えたのを、聞いた。さ栄の心も、そのとき、たしかに弾んだのである。躰の奥が熱くなったのを確かに感じたのであった。
(おかげ様をもちまして、ようやく、弓を満足に引けるようになりました、と言われたな。とても、嬉しそうに……。)
 さ栄は、それはよかった、と言ってやるだけで精一杯だった。新三郎はもちろん、自分から誘ったりはしない。ただ、二度の抱擁ですでに出来上がっているふたりの間の黙契を、さ栄に思い出してほしいとは思っているだろう。
(わかったよ、新三郎。……なにが、お前様にとって、一番ましなことか。さ栄がしてやれる、一番のことは……。)
 悩みに悩んだ末に、さ栄はひそかに結論を出していた。
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