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異本 蠣崎新三郎の恋 その十七

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 新三郎はうろたえた。姫さまはどれほど優しさを感じさせようとも、自分の前では凛として、涙など見せたことはない。笑い涙をこぼされるほどに大笑いしたことはあっても、こんなふうに顔を伏せ、身を揉むようにして嗚咽するなど、見たこともなかった。抱き寄せてしまったのを許してくれたときですら、あれほど心をひらきながら、泣いたりはしておられなかった。
 新三郎の目の前で女が泣くことなど、なかった。幼い妹たちを悲しくさせるような真似はしたことがない。
(りくが、泣きよったことがあるな。まるで、その時のような……。)
 やっと思い出した。天才丸のころ、姫さまの猫が欲しくて隠してしまったりくをひそかに説き伏せたとき、どうしたものかあいつは泣き出した。それくらいだ。
(姫さまが、あの下女のように……?)
 新三郎はりくの正体にもう一つ気づいていないから、そんな風に考えてたじろぐ。
「姫さま……?」
 おそるおそる声をかけたものの、さ栄の抑えた嗚咽はやまない。肩が震えている。小さな、細い肩だ。

「あ……?」
 姫さまの漏らした、驚いたような小さい声が新三郎の耳に響いた。
 新三郎は、さ栄の両肩に後ろから手を置いていた。気が付いたときには、そうしていた。さ栄の伏せられていた顔が上がり、躰をよじって、こちらを向いた。
 二人の目があった。新三郎は姫さまの頭を胸に抱き寄せた。再び離し、きれいな額に唇を当てた。さ栄が溜息をもらす。その口元に、自分の唇を押し当てた。
 口吸いという行為は、欧州のそれとは意味あいがやや違うが、男女の愛撫の一つとして、この時代の日本にもあった。新三郎は、看病のときに自分の命を口移しで水や粥を与えてくれたという話を聞いて以来。さ栄の柔らかそうな唇を意識していた。だから思わず、薄く紅を引いた膨らみに自分の口を重ねたのである。不思議な触感が、新三郎の頭を痺れさせた。
 ほどなく、二人の唇は離れた。さ栄の目は、涙に濡れて、しかし輝いている。頬が上気しているのがわかった。
「姫さま。」
 わけもなくつい呼んでみたが、さ栄は恥ずかし気に笑って、はい、と頷いた。
「……また、ご無礼をしてしまいました。」
 さ栄はまた微笑んだ。そして、自分から唇を新三郎のそれに寄せてきた。再び唇が合う。新三郎はまた強く押し当てようとして、驚いた。
 前歯の列を割って、柔らかい生きものが入り込んできた。さ栄の舌がゆっくりと、新三郎の舌を探った。追いかけ、新三郎の口腔で少し暴れた。
(わあ?)
 新三郎も、それに応えようと舌を不器用に動かす。姫さまの舌は、新三郎の舌に絡みついた。
(甘い……?)
 新三郎は、目を閉じてしまう。さ栄姫は先ほどから瞼を固く閉じ、まつげをそよがせていた。新三郎の手に力が入り、女の身体を強く抱きしめる。痛かったのだろうか、姫さまが小さく呻いた。そして、苦し気に息を吐きながら、顔を動かし、濡れた唇を離した。新三郎の突き出した舌が名残惜し気に、空気に触れた。
(姫さまは、やはり齢上じゃ。)
 新三郎は快感にうつろに痺れた頭のなかで、妙に感心している。そうした仕草をさ栄に仕込んだのは誰か、などとはまだついぞ考えられない。女が自分に与えてくれた甘美な感覚に。感心し、感謝していた。
「新三郎……少し、痛いよ?」
 あ、申し訳ございませぬ、と新三郎は強くなりすぎていた羽交いの腕を緩めた。そのとき、傷が痛んだ。忘れていた痛みを、やや昂奮が覚めると、思い出してしまった。さ栄の手が回っているところが、ちょうど傷の上だが、それよりも力を入れたことが原因だろう。
 さ栄にも新三郎の腕の違和感がわかったのだろう。自足したような笑みの浮かんでいた顔が少し曇った。
「まだ、お痛みじゃな?」
「たいしたことはござりませぬ。」
 さ栄姫は、うん、と頷くと、自分が男の脇腹に添えていた両手を下した。
「……新三郎、今日はお帰りなさい。」
 新三郎は、素直に頷いた。躰を離し、また下座に戻る。
 ふくは離れからどこかに外してくれているが、それもほどなく帰ってくるだろう。新三郎がどう考えているかはわからないが、さ栄は、このまま慌ただしく前に進みたくもなかった。喜びに震えるほどだが、まだ考えが整理できていない。
「姫さま、今少し痛みますが、じきに弓も引けるようになります。」
「ご無理はいかぬ。」
「いえ、きっと元に戻りましょう。」
 その時は、……というつもりだった。さすがに言葉にしにくい。この続きを、というのは恥ずかしい。
 さ栄にもわかっていて、やはり恥ずかしい気持ちがあるのだろう。新三郎の目を見て、わかったよ、という風に頷いてみせた。
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