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異本 蠣崎新三郎の恋 その九

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(あたしは何もできなかった。ただ堺で祈っているだけじゃった。いや、……いっそ若旦那が死んでくれれば、後追いできるくらいに思うていたばかり。それにくらべて、……!)
 りくの目から、涙がとめどもない。
(姫さまだけが、あの人を救えた。)
 すでにりくは、こぶえからの詳しい書状を手にしていた。そのときの胸の痛みが、いまさらながら松蔵の前で蘇った。
(京の医師に若旦那を診せたのは、姫さまじゃったという。それも、あの西舘が妹の自分のために呼び寄せていたのを、頼み込んで足止めさせたというではないか。相手が相手じゃ。道ならぬ執心のために、ここぞとばかりに何を望んでくるやらわからぬというに、よほどのご覚悟であったことよ。)
(それからも三日三晩、眠り続ける若旦那につききりであられたと。浪岡北畠の姫さまが看病なぞをした。ろくに飲み食いも眠りもせず、若旦那の手を握り、汗をぬぐい、水を口移しに飲ませたというのじゃ。)
 そして、こぶえは見たのだという。姫さまが懐剣を隠し持っていたのを。もしも新三郎の息が絶えたと知ったならば、ふくなどに止められる暇を与えず、その場であとを追って自害するつもりだったに違いない。
(それほどまでに、……!)
 自分も同じ覚悟をし、さ栄姫にそこで勝るのだと思い込んでいた。だが、違った。新三郎のいない世に何の未練もないのは同じであった。いや、姫さまのほうがより激しかったともできる。
(かなわぬ。とてもかなわぬ。……あのお方が、若旦那を求めるお気持ちの強さ。若旦那が死の淵から戻った時、あのお方が真っ先に目の前にいた。あのお方の心が、若旦那を包み込んでいた。それにくらべて、何もできなんだ、あたしなんぞは……)
 りくは悔しかった。新三郎の危地にこんなに離れた場所にいるしかなかった自分の不運や、矢も楯もたまらず浪岡を目指さなかった自分の不甲斐なさを嘆かずにはいられなかった。
 もはや、気づいていた。
(若旦那と姫さまは、必ず結ばれる。分際の違いも乗り越えて、あの二人は寄り添わずにいられない。誰もそれを止められない。あたしなんぞが、割り込めるはずもない。)
 新三郎の顔が思い浮かんだ。笑っている。
(あ、……?)
「りく、どうしたんじゃ?」
 問いかけたときには、しかし、松蔵も気づいていた。
(若旦那と姫さまの絆はいっそう深まった。もはや、行くところまで行かねばおさまるまい。……それが悲しいか、りくよ?)
「いえ、いえ、……若旦那には、まことにようございました。姫さまの……おかげでございましょうな、きっと。」
「さであるらしいな。しかし、……。」
「お二人は、屹度お仕合せになる。」
「……。」
「それでよろしい。辛いことが続いたお二人が、……若旦那が、お笑いになればよい。りくもそれで、嬉しうございますよ。……いえ、まことに。それはなにやら、男を盗られたような気がせんでもないが、思うてみれば、あたしと若旦那の仲はもとより、さようのものでもなかった。若旦那がたといどなたさまを搔き抱こうと、あたしと若旦那の間は、お台所でふざけていた頃と変わらぬ。あたしが、お猫を隠したのを見つけられたときと変わらぬ。……ならば、あたしも恩義ある姫さまと一緒に、あの人が楽しく睦まれるは、喜んでさしあげたい。それは、たしかにうれしいことじゃ。」
 りくは涙で頬を光らせながら、しかし、笑っていた。
「よくぞいうた。」
 松蔵は頷いた。りくの心中は、決してさほどに割り切れてはいまい。しかし、そのように振る舞えないようでは、「伊勢の者」どころか、当たり前の堺の町娘としても生きてはいけない。
「りく、お前はこちらでは器量よしで通るらしい。じきに、たれかよい男がつこう。」
「こちらでは、とは何ですか。」
 りくは笑ってみせた。
「……あたしは簡単に男に言い寄らせたりはしませんよ。」
(やはりか?)
「しかしお前、……」
「あたしがさっさと嫁に行ったりしては、おとっつぁんがさびしいでしょう。せっかくお店もうまく回りだしたというに。」
「りく、お前なにをいいよる?」
 松蔵は、自分たちが「伊勢の者」であるのを忘れてしまったかのようなりくの言葉に戸惑った。
「……松蔵さまが、最初に妙なことをおっしゃったからな。」
 立ち上がって背を向けたりくは、からかうようにいった。その声音は、浪岡にいた頃のものに似ていた。
「いずれは、あたしはまた浪岡に参るのじゃな?」
「……行きたいのか、りく?」
「仕事じゃろう?」
 屈託なさげな声とともに、引き戸が閉められた。松蔵は油の火影を見つめている。
 浪岡では使っていなかった、菜種の油の匂いがした。
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