139 / 177
異本 蠣崎新三郎の恋 その六の半
しおりを挟む
「伊勢の者」の男たちは、迂闊であった。松蔵ほどの立場にあれば、たいていの仲間の女たちを組み敷いたりその尻を抱えたりした経験があるせいか、女という存在をどこかで軽侮する悪い癖がある。彼女たちを甘く見すぎてい た。
女たちには、お頭や直属の幹部たちにすらつかめない、独自の繋がりがあった。
その網の目に、りくもいる。非力な「くの一」としてこき使われる女たちは、敵ばかりか仲間の男たちによってもその身と命を擂り潰されぬように、自立した紐帯を持っていた。ときに男の裏をかき、出し抜くくらいの用意が常に要る。
松蔵が今日手に入れて衝撃を受けた報せなど、りくは一日早く受けとっていた。浪岡に残したこぶえには、松蔵に伝えるのとは別の経路にも、必要な情報を一歩早く流すように言い置いている。
(若旦那が撃たれて、死にかけている?)
それを知らされたとき、りくは眩暈がした。
たしかに松蔵が危惧した通り、浪岡に飛んで帰ろうかと思った。報せを受け取ったのは湊の雑踏のなかだったが、反射的に、北に向かう船をつい探したくらいだ。堺からそんな船はないのに気づいて、敦賀に急行することすら思った。そこからむりやりに船を……と考えたときには、唇を血がでるほどに噛んでいた。
やがて、路上で息を整えた。胸を抑え、いつもの足取りになった。
近頃この街で見知った者に声をかけられたときには、顔の血の気こそ失せているのがわかったが、笑顔を作ることすら、もうできた。
簡単なことだ、と思った。覚悟が決まっている。
(もし若旦那が死んだら、あたしも死ぬ。そればかりのことではないか。)
そう思うと、気が楽になった。
りくは、新三郎がいないこの世に未練はないのだと思っている。自分などが生きている意味がない。だから、すぐに後を追う。実に単純な話であった。
(あの世に行けば、若旦那にまた会えるだろう。二人になれるやもしれぬ。)
そう思うと、いっそうれしいほどであった。
新三郎は、姫さまに懸想している。武家の若者が主筋の女性に対する自分の感情をどのように思っていようが、あれはさ栄姫に要は惚れているのだと、りくのように世の当たり前の秩序感覚から一歩外れた世界の人間にはわかっていた。
(そして、姫さまのほうですら……!)
さ栄にはそれもわかった。周囲はおろか、当の相手にも隠そうとしているに違いない姫さまの恋情も、手に取るようだ。身分も主従の立場を超えて、二人はひそかに心求めあっている。
そんな二人の間に入ることなど、自分にはできないのだとりくは思わざるを得ない。それが哀しかった。
だが新三郎が死んでしまえば、いち早くその後を追うのは自分だと思っている。姫さまは亡きがらのそばで悲嘆にくれるだろうが、そう簡単には死ねまい。侍女のふくのような存在もあるし、新三郎がそれを望まないことにさ栄姫は思い当たるはずだったから、躊躇するだろう。
(あたしは違う。あの世で逢えたら若旦那は、何故お前が、と驚くだろうさ。そうしたら言えるんだ、本当のことを。あたしも、あんたに惚れていたんですよ、と。姫さまがおいでになるまで、二人でお待ちしていましょうよ、とでも言ってやるか?)
そんなことを思うと、りくにはひとり笑みさえこぼれてきたのだ。
(若旦那が死んだ、という報せがくれば、さすがに松蔵は教えてくれよう。……そんな報せは聞きとうはない! じゃが、その報せがくれば、おとっつあんにはくれぐれも礼を言って、そして一人、この世からおさらばする。それだけのことじゃ。)
松蔵は、自分の「娘」がそんな悲壮な決意を固めているとは、ついぞ知らない。
女たちには、お頭や直属の幹部たちにすらつかめない、独自の繋がりがあった。
その網の目に、りくもいる。非力な「くの一」としてこき使われる女たちは、敵ばかりか仲間の男たちによってもその身と命を擂り潰されぬように、自立した紐帯を持っていた。ときに男の裏をかき、出し抜くくらいの用意が常に要る。
松蔵が今日手に入れて衝撃を受けた報せなど、りくは一日早く受けとっていた。浪岡に残したこぶえには、松蔵に伝えるのとは別の経路にも、必要な情報を一歩早く流すように言い置いている。
(若旦那が撃たれて、死にかけている?)
それを知らされたとき、りくは眩暈がした。
たしかに松蔵が危惧した通り、浪岡に飛んで帰ろうかと思った。報せを受け取ったのは湊の雑踏のなかだったが、反射的に、北に向かう船をつい探したくらいだ。堺からそんな船はないのに気づいて、敦賀に急行することすら思った。そこからむりやりに船を……と考えたときには、唇を血がでるほどに噛んでいた。
やがて、路上で息を整えた。胸を抑え、いつもの足取りになった。
近頃この街で見知った者に声をかけられたときには、顔の血の気こそ失せているのがわかったが、笑顔を作ることすら、もうできた。
簡単なことだ、と思った。覚悟が決まっている。
(もし若旦那が死んだら、あたしも死ぬ。そればかりのことではないか。)
そう思うと、気が楽になった。
りくは、新三郎がいないこの世に未練はないのだと思っている。自分などが生きている意味がない。だから、すぐに後を追う。実に単純な話であった。
(あの世に行けば、若旦那にまた会えるだろう。二人になれるやもしれぬ。)
そう思うと、いっそうれしいほどであった。
新三郎は、姫さまに懸想している。武家の若者が主筋の女性に対する自分の感情をどのように思っていようが、あれはさ栄姫に要は惚れているのだと、りくのように世の当たり前の秩序感覚から一歩外れた世界の人間にはわかっていた。
(そして、姫さまのほうですら……!)
さ栄にはそれもわかった。周囲はおろか、当の相手にも隠そうとしているに違いない姫さまの恋情も、手に取るようだ。身分も主従の立場を超えて、二人はひそかに心求めあっている。
そんな二人の間に入ることなど、自分にはできないのだとりくは思わざるを得ない。それが哀しかった。
だが新三郎が死んでしまえば、いち早くその後を追うのは自分だと思っている。姫さまは亡きがらのそばで悲嘆にくれるだろうが、そう簡単には死ねまい。侍女のふくのような存在もあるし、新三郎がそれを望まないことにさ栄姫は思い当たるはずだったから、躊躇するだろう。
(あたしは違う。あの世で逢えたら若旦那は、何故お前が、と驚くだろうさ。そうしたら言えるんだ、本当のことを。あたしも、あんたに惚れていたんですよ、と。姫さまがおいでになるまで、二人でお待ちしていましょうよ、とでも言ってやるか?)
そんなことを思うと、りくにはひとり笑みさえこぼれてきたのだ。
(若旦那が死んだ、という報せがくれば、さすがに松蔵は教えてくれよう。……そんな報せは聞きとうはない! じゃが、その報せがくれば、おとっつあんにはくれぐれも礼を言って、そして一人、この世からおさらばする。それだけのことじゃ。)
松蔵は、自分の「娘」がそんな悲壮な決意を固めているとは、ついぞ知らない。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる