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異本 蠣崎新三郎の恋 その六の半
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「伊勢の者」の男たちは、迂闊であった。松蔵ほどの立場にあれば、たいていの仲間の女たちを組み敷いたりその尻を抱えたりした経験があるせいか、女という存在をどこかで軽侮する悪い癖がある。彼女たちを甘く見すぎてい た。
女たちには、お頭や直属の幹部たちにすらつかめない、独自の繋がりがあった。
その網の目に、りくもいる。非力な「くの一」としてこき使われる女たちは、敵ばかりか仲間の男たちによってもその身と命を擂り潰されぬように、自立した紐帯を持っていた。ときに男の裏をかき、出し抜くくらいの用意が常に要る。
松蔵が今日手に入れて衝撃を受けた報せなど、りくは一日早く受けとっていた。浪岡に残したこぶえには、松蔵に伝えるのとは別の経路にも、必要な情報を一歩早く流すように言い置いている。
(若旦那が撃たれて、死にかけている?)
それを知らされたとき、りくは眩暈がした。
たしかに松蔵が危惧した通り、浪岡に飛んで帰ろうかと思った。報せを受け取ったのは湊の雑踏のなかだったが、反射的に、北に向かう船をつい探したくらいだ。堺からそんな船はないのに気づいて、敦賀に急行することすら思った。そこからむりやりに船を……と考えたときには、唇を血がでるほどに噛んでいた。
やがて、路上で息を整えた。胸を抑え、いつもの足取りになった。
近頃この街で見知った者に声をかけられたときには、顔の血の気こそ失せているのがわかったが、笑顔を作ることすら、もうできた。
簡単なことだ、と思った。覚悟が決まっている。
(もし若旦那が死んだら、あたしも死ぬ。そればかりのことではないか。)
そう思うと、気が楽になった。
りくは、新三郎がいないこの世に未練はないのだと思っている。自分などが生きている意味がない。だから、すぐに後を追う。実に単純な話であった。
(あの世に行けば、若旦那にまた会えるだろう。二人になれるやもしれぬ。)
そう思うと、いっそうれしいほどであった。
新三郎は、姫さまに懸想している。武家の若者が主筋の女性に対する自分の感情をどのように思っていようが、あれはさ栄姫に要は惚れているのだと、りくのように世の当たり前の秩序感覚から一歩外れた世界の人間にはわかっていた。
(そして、姫さまのほうですら……!)
さ栄にはそれもわかった。周囲はおろか、当の相手にも隠そうとしているに違いない姫さまの恋情も、手に取るようだ。身分も主従の立場を超えて、二人はひそかに心求めあっている。
そんな二人の間に入ることなど、自分にはできないのだとりくは思わざるを得ない。それが哀しかった。
だが新三郎が死んでしまえば、いち早くその後を追うのは自分だと思っている。姫さまは亡きがらのそばで悲嘆にくれるだろうが、そう簡単には死ねまい。侍女のふくのような存在もあるし、新三郎がそれを望まないことにさ栄姫は思い当たるはずだったから、躊躇するだろう。
(あたしは違う。あの世で逢えたら若旦那は、何故お前が、と驚くだろうさ。そうしたら言えるんだ、本当のことを。あたしも、あんたに惚れていたんですよ、と。姫さまがおいでになるまで、二人でお待ちしていましょうよ、とでも言ってやるか?)
そんなことを思うと、りくにはひとり笑みさえこぼれてきたのだ。
(若旦那が死んだ、という報せがくれば、さすがに松蔵は教えてくれよう。……そんな報せは聞きとうはない! じゃが、その報せがくれば、おとっつあんにはくれぐれも礼を言って、そして一人、この世からおさらばする。それだけのことじゃ。)
松蔵は、自分の「娘」がそんな悲壮な決意を固めているとは、ついぞ知らない。
女たちには、お頭や直属の幹部たちにすらつかめない、独自の繋がりがあった。
その網の目に、りくもいる。非力な「くの一」としてこき使われる女たちは、敵ばかりか仲間の男たちによってもその身と命を擂り潰されぬように、自立した紐帯を持っていた。ときに男の裏をかき、出し抜くくらいの用意が常に要る。
松蔵が今日手に入れて衝撃を受けた報せなど、りくは一日早く受けとっていた。浪岡に残したこぶえには、松蔵に伝えるのとは別の経路にも、必要な情報を一歩早く流すように言い置いている。
(若旦那が撃たれて、死にかけている?)
それを知らされたとき、りくは眩暈がした。
たしかに松蔵が危惧した通り、浪岡に飛んで帰ろうかと思った。報せを受け取ったのは湊の雑踏のなかだったが、反射的に、北に向かう船をつい探したくらいだ。堺からそんな船はないのに気づいて、敦賀に急行することすら思った。そこからむりやりに船を……と考えたときには、唇を血がでるほどに噛んでいた。
やがて、路上で息を整えた。胸を抑え、いつもの足取りになった。
近頃この街で見知った者に声をかけられたときには、顔の血の気こそ失せているのがわかったが、笑顔を作ることすら、もうできた。
簡単なことだ、と思った。覚悟が決まっている。
(もし若旦那が死んだら、あたしも死ぬ。そればかりのことではないか。)
そう思うと、気が楽になった。
りくは、新三郎がいないこの世に未練はないのだと思っている。自分などが生きている意味がない。だから、すぐに後を追う。実に単純な話であった。
(あの世に行けば、若旦那にまた会えるだろう。二人になれるやもしれぬ。)
そう思うと、いっそうれしいほどであった。
新三郎は、姫さまに懸想している。武家の若者が主筋の女性に対する自分の感情をどのように思っていようが、あれはさ栄姫に要は惚れているのだと、りくのように世の当たり前の秩序感覚から一歩外れた世界の人間にはわかっていた。
(そして、姫さまのほうですら……!)
さ栄にはそれもわかった。周囲はおろか、当の相手にも隠そうとしているに違いない姫さまの恋情も、手に取るようだ。身分も主従の立場を超えて、二人はひそかに心求めあっている。
そんな二人の間に入ることなど、自分にはできないのだとりくは思わざるを得ない。それが哀しかった。
だが新三郎が死んでしまえば、いち早くその後を追うのは自分だと思っている。姫さまは亡きがらのそばで悲嘆にくれるだろうが、そう簡単には死ねまい。侍女のふくのような存在もあるし、新三郎がそれを望まないことにさ栄姫は思い当たるはずだったから、躊躇するだろう。
(あたしは違う。あの世で逢えたら若旦那は、何故お前が、と驚くだろうさ。そうしたら言えるんだ、本当のことを。あたしも、あんたに惚れていたんですよ、と。姫さまがおいでになるまで、二人でお待ちしていましょうよ、とでも言ってやるか?)
そんなことを思うと、りくにはひとり笑みさえこぼれてきたのだ。
(若旦那が死んだ、という報せがくれば、さすがに松蔵は教えてくれよう。……そんな報せは聞きとうはない! じゃが、その報せがくれば、おとっつあんにはくれぐれも礼を言って、そして一人、この世からおさらばする。それだけのことじゃ。)
松蔵は、自分の「娘」がそんな悲壮な決意を固めているとは、ついぞ知らない。
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