魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

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異本 蠣崎新三郎の恋 その三

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 そしてその後の一族の争いは、都の流れを汲む高貴な血をもった人びとへの、自然な尊敬の念を消していった。
 守るべき浪岡の城と津軽三郡の地の平穏を乱し、高い身分の人らしい振る舞いを忘れて怯えと欲に動かされているさまが、ひどく忌まわしい。
(我が家と変わらぬ。)
 新三郎の兄たちや姉は、何者かの陰謀によってあいついで倒れた。表沙汰にはそうされたように、血を分けたきょうだいで食い合いをしたかにも見えるし、新三郎の思うところ、おそらくは家長である父が裏で糸を引いている。それは、故郷を捨ててしまいたくなるほど、耐えきれぬことだった。
 しかし、身贔屓な願望に過ぎぬかもしれぬが、その陰惨な闘争にすら、おそらくは何か武家らしい大義があってのことだと、いまの新三郎には思える。
 それに比べて、浪岡の貴族たちの振る舞いには、なんの大義もなさそうである。子殺しをあえてしたかもしれぬ父には、おそらく何か見えているものがあり、血族と忠臣を犠牲にしてもそれは追うべきものだった。だが北畠の方々には、ご一族で優位を保つ以外の望みはないのではないか。
 見るところ、津軽一統を目指すと言っていた西舘さまですら、もはやその大義を奉じて動いているのか、疑わしい。私心の濁りのない大望があるのだと、信じてやることすらできにくくなってきたのである。
 だが、と新三郎は思えるのだ。
(おれは、忘れていた。ここに、姫さまがおわす。)
 さ栄姫だけは、本物の貴人であり、天女にも等しい存在なのだと新三郎は確信していた。その姫さまを守ることだけが、浪岡の地で自分がやるべきことで、それで十分ではないか、と。
(迷うことは何もない。この内輪もめの戦沙汰も、ご名代のご野心も、姫さまのご安寧のためになるのなら、そのために働こう。それがおれの生き甲斐ではないか。)
「姫さま。ずっと先に申し上げた通りにございます。……お忘れですか。ここに姫さまがたおやかにおわす。毎日、静かに落ち着いてご本などお読みになられている。……いえ、ご無礼いたしました! いまは父君と兄君を喪われ、深いお悲しみの底で、されどご一心にご成仏を日夜お祈りさしあげていらっしゃいます。とんだご無礼を……。しかし、新三郎は、姫さまがここに斯様におわします、それで十分。いえ、そればかりが我が生き甲斐にございます。」
「新三郎! なにをおっしゃるか。さ栄など、そのように感心な者ではない。お前が命を懸けて守ってくれるような、そんな価値などありはせぬ。じゃから、もう、もう……」
(それゆえ、もう斯様な土地への出仕はやめてしまいなさい!) 
 と、さ栄は今にも叫びだしたい。言ってやりたくて仕方がない。
 こんな家など、もう先はないのだ。さ栄はそう直感していた。
考えてみても、蠣崎新三郎が、この北畠に出仕する必要などもうない。
故郷で長兄次兄を立て続けに失ったせいで、いまや彼は蝦夷代官蠣崎家の家督を継げる立場にある。松前に戻るがいいのだ。さもなければ、後継者の地位を固めるためには、蠣崎家の本来の主君である秋田檜山屋形にでも、出仕先を変えるべきだろう。いやむしろ、浪岡城内が毎日のように戦沙汰のこのありさまでは、現場の下級士官として駆けまわっている若者は、その身が危ういほどである。浪岡から離れるべきだ。
(じゃのに、喉が塞がったように、その正しい言葉が出てこぬ! さ栄の欲が、執心が、この子に言うてやらねばならぬ一言を、いわせぬ!)
 さ栄は内心で頭を抱えるようだ。
(新三郎と、離れたくない……。その欲のあまり、わたくしは、このひとに言うべき一言を、どうしても口に出せぬ。なんというあさましさ。卑怯者よ……!)
「新三郎。」
 呼びかけられて、はい、と若者は答えた。自然に微笑んでいる。
「お前さまは元服前から、よくこの北畠に仕えてくれました。まことに、よく……。礼を申します。」
「姫さま?」
「もう、……もう十分じゃ。十分に……尽くしてくだされた。」
 だからもう浪岡から離れよ、とまで、さ栄は言えない。言葉が途切れてしまう。それを口にした瞬間、つらさのあまり自分の息は止まるだろうと思えた。
「何をおっしゃられます。まだ足りませぬ。新三郎は、姫さまの御身を一生かけてお守りいたします。」
 新三郎!と胸中でさ栄は叫んだ。震えがおこるほどの感情の激流に、声が詰まる。
「……新三郎。引き留めてしもうた。もうお帰りなさい。」
 首をいやいやするように軽く振り、さ栄はうつむいた。視界の片隅に、新三郎の心配げな顔がある。
(ああ、このひとはさ栄の躰の具合などを気遣っているのか?)
「新三郎。さ栄は大過ありませぬよ。さあ、夕餉も待っておろう。お帰りなさい。」
 微笑んでみせると、新三郎もまた、あの透き通るような微笑みを返して一礼した。
 その表情に、さ栄はひどくおそろしい思いをまた抱いた。若者の無事を祈らざるを得ないが、なぜか新三郎がこのまま永久に去ってしまう予感に襲われて、震えが走る。

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