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異本 蠣崎新三郎の恋

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 永禄五年の冬から翌年の初春にかけて、雪に覆われた津軽浪岡城内はひどく血なまぐさかった。
 春、「川原御所の乱」が浪岡宗家を突然襲った。大御所さまとともに御所さまが討たれ、刺し違える形で血縁の川原御所の一族があっという間に滅んだ。
その余波は収まらない。
 父と兄の仇を見事にうち、兄の幼い遺子を御所さまに立てることに成功した西舘さま―左衛門尉の統治は、拙速に過ぎたのかもしれない。浪岡城のそれぞれの廓によった北畠一族が、戦国大名家として宗家に力を集めようとする若い支配者によってかきたれられたのは、不安か、野心か。それとも両方であったというべきか。
 内紛がやまない。それが、しばしば城内外での武力の衝突騒ぎとなった。
 本来ならば、致し方もない深い雪の下で眠りをむさぼるように過ごすべき北畠武士たちは、寒気のなかで刀槍を掲げて駈ける羽目になった。馬の息が真っ白だ。

 この頃、地味だが学ぶことの多い御書庫の仕事から引きはがされるように、蠣崎新三郎は実戦部隊に呼び戻されていた。
 幼い御所さまの直々の備(部隊)である。近習、あるいは後年でいうところの近衛師団であるかのようだが、警察部隊というべきであった。一族間の内紛が小競り合いになったら、そこに介入して両者を分けるのが主な仕事になっていた。
むろん、中立を維持できる場合だけではない。御所さま―宗家―西舘の兵であるから、西舘の命があれば、討伐軍に加わる。治安維持の仲介に入ったはずが、そのまま一方と斬りあう事態も少なくなかった。
 ひどく疲れる。
 仕事の種類が、そうであった。紛争の当事者からは、たいてい最初は邪魔者として憎まれる。双方から罵声や嘲弄を浴びるのだ。そして、もし一方に加担することになれば、血刀を振るうその相手もまた、同じ浪岡武士であった。

「新三郎、長く来ませんでしたな。」
 茶道具の手ほどきの続きを、と言って、随分久しぶりに尋ねてきた新三郎を迎えた姫さまは、つい言ってしまった。半ばはうれしく、そして半ばは新三郎が心配でならない。
 雪が降り、さ栄姫が茶室代わりに使う二間間は灯りがいるほどに暗い。もはや夕が近い。
 なにかいつもよりも畏まった辞儀に終始する蠣崎新三郎は、自分から尋ねてきたくせに、ほぼ無言である。
 さ栄も余計なことは言わないが、知っていた。新三郎は、疲れ切っている。
 絶え間ない出動が、少年期を脱していない若い肉体にひどくこたえるというわけではないのだろう。幼く、ひょろりとしていた天才丸の身体がどんどん伸び、分厚さを増したのを、さ栄はその目で見てきた。武士としての天分にも修練にも欠けるところはない。すでに戦場の経験も積み、頼もしい一人前の若武者だ。だが、
(心の弾みを喪っているのではないか?)
 戦もどきの内紛のなかで、新三郎には身体以上に心に疲労が蓄積しているのが、さ栄の目にはわかる。
つい最近も、この心優しい若者は、親しかった同輩を斬った。
むろん、新三郎は戦国の世の武士である。戦場で敵を殺傷することに倫理的な抵抗をおぼえるわけではない。乱世といえども個人にとって殺人は大ごとだが、それは割り切れる。
 だが、西舘の近習として希望に満ちて勤めだした元服間もない頃、最も親切な先輩だった男を手に掛けたのである。平気ではいられなかった。
戦場で再会するまでの間、しばらくは交流も絶えていた相手だったが、自分の腕のなかで血を噴いて息絶えたとき、涙が溢れ出た。

 最期に北畠氏連枝の庶子だと打ち明けたこの平松新之助という先輩は、おそらく養家か母の実家の名でも名乗らされていたのだろう。
蝦夷侍の少年を妙に気にいってくれたのは、権高い浪岡北畠氏の猶子などになって異郷で一人過ごしているのを気の毒に思ってくれたのか、あるいは、北畠の血を承けながら一族のほんの片隅に放り出されている観もあるわが身に引き比べたのかもしれない。
 近習としての務めのイロハから、武芸のちょっとしたコツまで、ときに手まで取って教えてくれた。酒の飲み方も、しきりに教えたがった。
少年が最初に仕えた姫君を女神のように崇めているのを知ると、何か考えることがあったらしい。ある時からは、しきりに遊び女のいる場所に誘うようになった。
 新三郎はまだ天才丸の気分が抜けないから、そうした場所には怖じるところがある。それをこの先輩は笑ったが、嘲笑したいのではないらしかった。
「おぬしも、早く男になっておけ。でないと……。」
「でないと、なんですか?」
 平松はさすがに直截には言いかねて、少し考えると、
「新ざ、女なんてのは所詮、どれも同じようなものでな。」
とだけ言った。
 その時の新三郎は、わけがわからない。
「それを知るのも、早い方がよろしいのか。」
「左様ともよ。」
 平松は勢い込んだが、余計なことも口にしてしまう。
「あんなことは最初は、一番好いた相手でないほうがよいのじゃ。」
 新三郎は意外なことをこの先輩が言うものだと驚いたが、少し考えて、気づいたらしい。自分のなかにある得体の知れないモヤモヤした思いが、他人に無遠慮に指を差されているという思いに、不機嫌になった。
「やはり左様な場所は結構にござる。唐瘡(性病)が怖い。」
 一礼して立ち去る背中に、平松はまた余計なことを言ってしまった。
「しかしお前、無名館のお方に、女ごの手ほどきいただくわけにもいくまいて?」
「……!」
 新三郎の背中が怒っていた。それを見送りながら、平松は思っていたのだろう。
(新三郎、可哀相だがおぬしの想いなんぞ実りはしない。分際が違う、というのはつらいことよ。このおれとて、母が卑しい生まれのために、北畠の血を貰いながら、一門のうちに数えられぬ。いくら御所さまのご猶子にしていただこうと、蝦夷侍のおぬしと姫さまでは、とても……。)

(親切なひとじゃった。兄上姉上が殺されて、腑抜けになってしまったおれを、見舞うてまでくれた。叱咤してくれた。あの軽口とて、からかうつもりではない。まことにおれが早く女でも知れば、かなわぬ想いなど忘れられるだろうと慮ってくれたのだろう。) 
 余計な心配ではあった、姫さまと自分とは決してそのような浮ついた間柄ではないのに、と、なお新三郎は思ってみせる。
だが平松は、何の憂いも迷いもなく西舘の近習を勤め、御所さまを仰ぎ見てお家に尽くすこと以外考えることもなかった、幸せな時期の回想につながる人間だった。それを、斬ってしまった。戦場での殺人ははじめてではなかったが、平松が血を噴いて崩れるのを受けとめたとき、身のうちに激痛が走った。いまもそれは忘れられない。
すでに迷いがある。平松の死後、かれの父親であるはずの小御所さまにお目通りを願ったとき以来、北畠武士として育てた誇りが曇った。
 むろん、そんなことは、姫さまはおろか、誰にも口に出すつもりもない。
だが、さ栄はもうそれを知っていた。こちらも黙っているが、自分の家のことだけに責任をおぼえ、やりきれぬ苦い思いがある。
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