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補遺 やつらの足音がきこえる (二十六 結)
しおりを挟むやがてりくは、なにかに気づいたように、あっけらかんとした口調で言った。
「あっ。一緒に暮らす、とは、しかし、どのみち女房の真似をするんじゃな? では、まぐわっておくほうがようはないか?」
松蔵は絶句した。りくは、さすがに何か気恥ずかしいのか、ぺらぺらと喋り出す。
「あんたが左様にしたければ、するがよい。そのほうが、仕事がうまく行きそうじゃ。夫婦でないのが、ひょんなことで、ばれずに済むかもしれん。あたしもそのほうが、しくじりの心配がない。松蔵さま……などと呼んではならぬからな。あ、名前はどうする? あんた、今度も松蔵かい? あたしはりくで行きたいな。……どうした? ……なんなら、今から……?」
「黙らねえか、あほう。先ほども言うた、たれが、お前なんかと。」
りくの頬が少し紅潮しているのに、松蔵は気づいた。
(「伊勢の者」らしくなろうとでも思いよったか?)
「りく、お前はな。……お前は、おれの娘になるんじゃ、おりく坊。」
「むすめ?」
「そうじゃ、わしら親子は上方から流れてきて、古手(古着)で一儲けを企んでおる。この津軽にくる京や堺の古手は、いまは坂東を抜けてくるか、秋田あたりで船から降ろされるが、わしは、違う道をおもいついたのよ。」
「違う道、とはなんじゃね? だしぬけに……。」
りくも、懸命に上方者らしい言葉を操った。
「お前は、もうこちらが長いでなあ。あちらで生まれたものの、死んだ育ての母親も奥州者じゃったあさかい、そないな程度じゃ。」
「そうじゃのう。……で、違う道とは?」
「戦続きの坂東は物騒じゃし、秋田湊なんぞで荷イを下してしまうことはあらへん。いっそ蝦夷島まで持ってこさせい。そこから、津軽の東西の湊に運ばせるのよ。大浦領と南部領の両方じゃ。」
「蝦夷島? 松前かい?」
りくの顔が輝いた。わけもなく、その名を聞くだけでうれしい。
「左様じゃ。……大浦、南部、そして松前の蠣崎。このあたりの動きイを探るのンが、次のお勤めじゃ。……そやけど、わしは、稼ぐつもりでおるで。お前も、そないな気でおるんじゃぞ。」
「松前。……松前か。」
新三郎の故郷の町だ。
「……若旦那のためになれるかね。」
「表裏のご統領さまと、御所さまのためじゃ。……心得違いしたら、あかんで。」
「何でもないで、お父つぁん。」
「おとっつぁん? 左様なことになりましたかい?」
「そうじゃ。」
りくは笑った。松蔵は黙って後ろ向きで荷をほどいているが、きっと目が苦笑しているだろう、とりくは思った。
「まずは上方の様子を見る。そうじゃな、お父つぁん?」
ああ、と松蔵はうつむいたまま、口の中で返事をした。
「古手の商いじゃからな。京や堺や奈良に渡りをつける。伊勢商人のつても要るから、まずはそのあたりじゃ。」
「あっ、伊勢とはよいのお。羨ましい。」
「上方で仕事が済んだら、敦賀から出る船をつかまえてそこから秋田、そして松前じゃ。」
(松前……!)
「しばらくは浪岡などには戻れぬ。……戻れへんさかい、そのつもりでおるんやで。りくも、それからこぶえもじゃ。」
「こぶえも連れて行ってくれるんですか?」
「留守居の心得じゃ。……左衛門尉も自業自得で忙しくなりよるから、姫さまに滅多なことはなかろうが、こぶえは離れを見張っておけ。戻ったら、話を聴くぞ。」
「へい。しかし、もし万が一のとき、いざとなれば、如何します?……。」
(それじゃ。)
りくは、旅に心弾む一方、不安でもある。離れの新しい下女は、「伊勢の者」などではない。下男は当分雇えないが、これは母屋に陣取った蠣崎家が自分のところから融通してやるのだろう。
「若旦那を頼れ。」
万が一、あまりに無理無体があれば、仕方がないと思った。伊勢の者の正体を明かさせ、母屋の蠣崎新三郎に助力を乞うしかない。新三郎にとっても難しい決断になるかもしれないが、かれが姫さまを見捨てることは断じてあるまい。
「……しかし、その若旦那こそが、狙われるんじゃないかね。こぶえでは、お助けできぬ。」
「できぬわけでは!」
こぶえは地団太を踏んだが、
「加勢など要らぬ。」
松蔵は、言い切った。
「蠣崎新三郎は、本田の者などには負けぬ。……左衛門尉にも、もう一対一なら、勝てよう。」
「……さほどにも?」
「……もう、若旦那は天才丸さまではない。」
りくは、逞しく成長しつつある、背筋の伸びた、蠣崎新三郎の姿を目に浮かべた。
「ああ、……ああ、左様じゃな!」
若旦那にわしらの手助けが要るのは、また別のときとなろう……とまで言いかけて、松蔵はやめておいた。
「伊勢の者」にとって、縁もゆかりもないはずの蝦夷代官家の三男坊の名が、自分たちの行く末に重い意味を持ち始めている。
だが、まだそれはこの娘たちには言うまでもないことだと思っている。
(終)
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