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補遺 やつらの足音がきこえる(二十三)
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「新三郎。新しい“りく”を見たか?」
「新しい?」
この頃にはもう、茶の行儀もなかなかやかましくはなっていた。だが、ひととおりの作法を踏んだあと、会話が弾むことはある。茶の席は、室町風の辞儀からすれば、上下の分際の差の緩い場のようにはなっていた。そうした主客同座に近い考えは、一面では確固としつつある格式や作法とともに、上方渡りの茶の席からここまで伝わってきていた。
蠣崎新三郎などにとっては、それがさ栄姫から茶道具の見方を教わり、お茶をいただくときの最大の楽しみであった。子供ではなくなったから、そう気軽に立ち話のような真似ができるはずもない。隣の母屋に蠣崎家は移ってきたが、だからと言ってお目にかかる機会が、昔、番役だと言って使われていた頃ほど多いわけでもない。
(天才丸を名乗っていた頃が、遠い昔のようじゃ。)
時々、そんな風に思う。今も、「りく」と聞かされて、このお離れの狭い台所を思い出した。
「いえ、今は、お台所にも立ち寄ることがございませんので。」
腹が減って仕方がないので、下女のりくに甘えて、飯を何度融通してもらったことか。
いまも新三郎は成長期にあって腹も減るのだが、その間に栄達もあり、蠣崎家のみ入りも増えた。以前ほどの空腹はない。
だから、もうわざわざ台所でこっそりと粥を炊いて貰ったりはしない。そして、できない。
「……お前も、お忙しいから。」
さ栄は、表情を曇らせた。
そうであろう。新三郎は忙しい。そして、その忙しさは、御所の備え(部隊)としての出動だった。城内で、館の主の間での対立が同士討ちの小競り合いとして頻発している。ときに、建物の一つや二つを焼いてしまうような、「戦」と言ってもいい規模になってしまう。
雪も深くなっているのに、おそろしい寒気の中を走り、ときに返り血を浴びるのだ。
「……新しい下女がいかがいたしましたか? 前の者よりは、ご迷惑をおかけしないかと存じますが……。」
前の者、と新三郎が言うのは、あのりくではなくて、こぶえである。何度ふくが言い聞かせても芯のある飯を炊き、ついにお払い箱になった。
「あれは元気か?」
「はい、何とか飯炊きだけは、まともに。」
新三郎が、母屋の蠣崎家の台所に引き取ってやったのだ。こぶえはりくの妹分だったはずだから、寒空に放り出すのは気が引けた。それはふくも同じだったのだろう。彼女の方から頼まれ、引き受けた。
さ栄は笑った。
「あれも、面白い子であったな。いまは、何と呼んでおる?」
「こぶえと名乗っております。もとの名に戻したそうで。」
「それでよい。親から貰うた名じゃろう。」
「はい。りくとは、お離れの下女の代々の呼び名でございますから。」
「代々、と言うても……。」
さ栄はやや困った顔になる。
新三郎も姫さまの当惑を読み取って、ややつらい気分になる。近頃の悩みを思い出す。
代々、などとはやや権高いふくあたりが言い出したのだろうが、このお離れなどに、それはないだろう。出戻りの姫さまが、腰を落ち着けているだけの場所だ。「代々」もなにも、長く続いたり、続かせたりするようなところではない。では、
(姫さまはこれから、どうなさるおつもりなのだろう?)
新三郎には、懸念が生じている。「川原御所の乱」以来、姫さまは最大の庇護者である御所さまや大御所さまを喪い、変わらず捨扶持をくれているのは、事実上はあの左衛門尉さまである。
姫さまにまた良縁と称する政略結婚―たいていはまあ、そうだ―の話があり、どこぞに嫁に出されてしまうのではないか、という心配は以前より薄れはしている。垣間見てしまった、左衛門尉の妹への異常な執心がある以上、浪岡城の外に手放しはしないだろう。それに安堵する気分があるのを、新三郎は自分では否定できなかった。
(じゃが、それでよいのか?)
よいはずはないのであろう。左衛門尉は、いつまた姫さまに迫るか、知れたものではない。自分が隣の古屋敷を貰い受けたのも、それを考えてのことであった。
ただ、最近の姫さまの様子には、怯えはない。その危険こそは、ある時から遠いようでもある。新三郎は薄々感づいていたが、「川原御所の乱」のあと、忍んできた左衛門尉を姫さまが毅然として厳しくはねつけることがあったのではないか。
(しかし、じゃからと言うて、それでよいのか?)
姫さまはここに、自分のそばに、居続けられる。それを想像すると新三郎はうれしいのだが、それを喜んでいていいのかとも思う。
つまりは、浪岡城の外れで、この女性はひとり、年老いていくのだろうか。この艶やかな黒髪が灰色になり、瑞々しい肌が乾いてしわを刻み、唇の色があせ、美しいかたちの目が小さくなり、まっすぐに伸びた、この長い白い首にたるみができる。豊かなものだろう躰の膨らみが萎み……。
(そう、いまの姫さまのお躰は、きっと柔らかい。お白粉のない肌も、きっと抜けるように白い……。)
新三郎はそれを思うと、邪念を追い払うために頭を振りたい気持ちになった。
(……いや、それでもよい。おれとて、いずれはしわができ、髪も減り、太り、動作ものろくなるのだろう。足腰が痛み、躰も臭くなる。醜くなる。じゃが、そうなったとき、お婆さんになったこの方のそばに変わらずいられれば、よいではないか。もう年上も年下もないじゃろう。)
それは何か、甘美な空想だった。問題は、
(おれは、ここに、つっとこうしているのか? いられるのか?)
であった。
姫さまがこれからどうなるのか、どうするのかどころではない。蠣崎新三郎は、これからどうするのか。この浪岡の武士として、姫さまを守って生きていく。そうしたい。だが、果たして自分は、それでよいのだろうか?
惣領息子が立て続けに怪死し、急に代官家の長子にされてしまった三男坊は、迷いと悩みにとりつかれていた。
(おれは海の向こうに帰らねばならないのではないか? あんなことの起きてしまった、あの松前に……?)
恐怖心、嫌悪感、そして義務感と闘志に似たものが、若者の中でせめぎあっている。その決着を心のなかでつけようとするとき、姫さまの白い顔が浮かぶのだ。
(帰ってしまえば、もう、どんな形でもお会いできない……!)
「新しい?」
この頃にはもう、茶の行儀もなかなかやかましくはなっていた。だが、ひととおりの作法を踏んだあと、会話が弾むことはある。茶の席は、室町風の辞儀からすれば、上下の分際の差の緩い場のようにはなっていた。そうした主客同座に近い考えは、一面では確固としつつある格式や作法とともに、上方渡りの茶の席からここまで伝わってきていた。
蠣崎新三郎などにとっては、それがさ栄姫から茶道具の見方を教わり、お茶をいただくときの最大の楽しみであった。子供ではなくなったから、そう気軽に立ち話のような真似ができるはずもない。隣の母屋に蠣崎家は移ってきたが、だからと言ってお目にかかる機会が、昔、番役だと言って使われていた頃ほど多いわけでもない。
(天才丸を名乗っていた頃が、遠い昔のようじゃ。)
時々、そんな風に思う。今も、「りく」と聞かされて、このお離れの狭い台所を思い出した。
「いえ、今は、お台所にも立ち寄ることがございませんので。」
腹が減って仕方がないので、下女のりくに甘えて、飯を何度融通してもらったことか。
いまも新三郎は成長期にあって腹も減るのだが、その間に栄達もあり、蠣崎家のみ入りも増えた。以前ほどの空腹はない。
だから、もうわざわざ台所でこっそりと粥を炊いて貰ったりはしない。そして、できない。
「……お前も、お忙しいから。」
さ栄は、表情を曇らせた。
そうであろう。新三郎は忙しい。そして、その忙しさは、御所の備え(部隊)としての出動だった。城内で、館の主の間での対立が同士討ちの小競り合いとして頻発している。ときに、建物の一つや二つを焼いてしまうような、「戦」と言ってもいい規模になってしまう。
雪も深くなっているのに、おそろしい寒気の中を走り、ときに返り血を浴びるのだ。
「……新しい下女がいかがいたしましたか? 前の者よりは、ご迷惑をおかけしないかと存じますが……。」
前の者、と新三郎が言うのは、あのりくではなくて、こぶえである。何度ふくが言い聞かせても芯のある飯を炊き、ついにお払い箱になった。
「あれは元気か?」
「はい、何とか飯炊きだけは、まともに。」
新三郎が、母屋の蠣崎家の台所に引き取ってやったのだ。こぶえはりくの妹分だったはずだから、寒空に放り出すのは気が引けた。それはふくも同じだったのだろう。彼女の方から頼まれ、引き受けた。
さ栄は笑った。
「あれも、面白い子であったな。いまは、何と呼んでおる?」
「こぶえと名乗っております。もとの名に戻したそうで。」
「それでよい。親から貰うた名じゃろう。」
「はい。りくとは、お離れの下女の代々の呼び名でございますから。」
「代々、と言うても……。」
さ栄はやや困った顔になる。
新三郎も姫さまの当惑を読み取って、ややつらい気分になる。近頃の悩みを思い出す。
代々、などとはやや権高いふくあたりが言い出したのだろうが、このお離れなどに、それはないだろう。出戻りの姫さまが、腰を落ち着けているだけの場所だ。「代々」もなにも、長く続いたり、続かせたりするようなところではない。では、
(姫さまはこれから、どうなさるおつもりなのだろう?)
新三郎には、懸念が生じている。「川原御所の乱」以来、姫さまは最大の庇護者である御所さまや大御所さまを喪い、変わらず捨扶持をくれているのは、事実上はあの左衛門尉さまである。
姫さまにまた良縁と称する政略結婚―たいていはまあ、そうだ―の話があり、どこぞに嫁に出されてしまうのではないか、という心配は以前より薄れはしている。垣間見てしまった、左衛門尉の妹への異常な執心がある以上、浪岡城の外に手放しはしないだろう。それに安堵する気分があるのを、新三郎は自分では否定できなかった。
(じゃが、それでよいのか?)
よいはずはないのであろう。左衛門尉は、いつまた姫さまに迫るか、知れたものではない。自分が隣の古屋敷を貰い受けたのも、それを考えてのことであった。
ただ、最近の姫さまの様子には、怯えはない。その危険こそは、ある時から遠いようでもある。新三郎は薄々感づいていたが、「川原御所の乱」のあと、忍んできた左衛門尉を姫さまが毅然として厳しくはねつけることがあったのではないか。
(しかし、じゃからと言うて、それでよいのか?)
姫さまはここに、自分のそばに、居続けられる。それを想像すると新三郎はうれしいのだが、それを喜んでいていいのかとも思う。
つまりは、浪岡城の外れで、この女性はひとり、年老いていくのだろうか。この艶やかな黒髪が灰色になり、瑞々しい肌が乾いてしわを刻み、唇の色があせ、美しいかたちの目が小さくなり、まっすぐに伸びた、この長い白い首にたるみができる。豊かなものだろう躰の膨らみが萎み……。
(そう、いまの姫さまのお躰は、きっと柔らかい。お白粉のない肌も、きっと抜けるように白い……。)
新三郎はそれを思うと、邪念を追い払うために頭を振りたい気持ちになった。
(……いや、それでもよい。おれとて、いずれはしわができ、髪も減り、太り、動作ものろくなるのだろう。足腰が痛み、躰も臭くなる。醜くなる。じゃが、そうなったとき、お婆さんになったこの方のそばに変わらずいられれば、よいではないか。もう年上も年下もないじゃろう。)
それは何か、甘美な空想だった。問題は、
(おれは、ここに、つっとこうしているのか? いられるのか?)
であった。
姫さまがこれからどうなるのか、どうするのかどころではない。蠣崎新三郎は、これからどうするのか。この浪岡の武士として、姫さまを守って生きていく。そうしたい。だが、果たして自分は、それでよいのだろうか?
惣領息子が立て続けに怪死し、急に代官家の長子にされてしまった三男坊は、迷いと悩みにとりつかれていた。
(おれは海の向こうに帰らねばならないのではないか? あんなことの起きてしまった、あの松前に……?)
恐怖心、嫌悪感、そして義務感と闘志に似たものが、若者の中でせめぎあっている。その決着を心のなかでつけようとするとき、姫さまの白い顔が浮かぶのだ。
(帰ってしまえば、もう、どんな形でもお会いできない……!)
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